【野球人生を振り返って】川島大誉
22人目は川島大誉(学生コーチ・桐蔭学園)です!

この4年間、なかなかSNSに投稿することができませんでした。将来子どもに「本当にここに所属していたの?」と言われないために、拙いながらも書かせていただきます。
まずは、いろんな人への感謝を伝えたいと思います。
小学校
保育園からの友達・恭平に「野球しようよ」と誘われたのがすべての始まりでした。土日の練習後にはよく恭平の家に遊びに行きました。ある日はお土産に持って行ったみかんを全部食べてしまった「川島みかん事件」、草むらにボールを投げ込みハチに4か所刺された「川島ハチ事件」など、楽しい思い出ばかりです。中高では会う機会が減りましたが、恭平の頑張りを思うと自分も練習を乗り越えることができました。ありがとう。
中学校
初めて強豪校に入り、90人の部員とともに練習漬けの日々が始まりました。その中で宮尾とは下級生の頃から同じチームでプレーし、勝手にライバル視していました。選抜に宮尾だけが選ばれ全国大会で活躍する姿を見て、悔しくて必死に練習したのを覚えています。高校では私はスタンドでしたが、県大会で宮尾が活躍する姿を見て「また負けたな」と感じました。それでも彼を尊敬し、分野は違えど今も目標の一つです。ありがとう。
高校
本当にしんどかったです。下級生の頃は毎日PPPを10本走り、練習前には吐き気が止まらないほどでした。強化期間という名の地獄では、布団に入ると「倒れるだけで腹筋ワンダーコア」の速さで朝が来る日々。周りには怪物のような選手が多く、ほぼ不可能に近い中でも少しの可能性を信じて練習しました。その経験は、これからの人生の自信につながると思います。PPP、一周走ありがとう。
大学
4年間は野球人生の中で一番長く、濃い時間でした。イップスで調子の波が激しく、自主練でバッティングピッチャーをしても半分はボールになることもありましたが、拓斗や中岩は「見逃す練習になる」「実践向きだ」などと笑って励ましてくれました。本当に救われました。最後まで野球を頑張る二人を、同じ指定校組として誇りに思います。本当に頑張ってくれ!
私生活では、人と話す経験の少なさがツケとなり、最初は「ありがとう」「ご馳走様でした」を言えず鶴丸や伊藤に怒られたのを覚えています。その後も谷田、赤間、帯川、みずきなど多くの人に厳しく指摘されました。正直「うるさいな」と思うこともありましたが、今では心から感謝しています。あの日々がなければ本当に危うい人間のままだったと思います。(今も危ういです)これからもよろしくお願いします。

2年の終わりからは、選手から学生コーチになり、これまでとは全く違う立場から野球に触れることになりました。特に印象に残っているのはフレッシュを見たことです。全く野球の分からない私にはとても務まらないと不安でした。全くチームには力になれませんでしたが、野球だけでなく考え方など人として成長していく現2,3年生はすごくかわいく、一緒にやっていた鶴丸とは「本当にかわいいよな」という話をずっとしていました。そんな経験をして、心の底からこれからの法政大学野球部に何か良いものをの起こしていきたいと思い活動することが増えていきました。一緒に野球をやってきた学生コーチでは豊田、河合、近藤、永井。選手では深谷をはじめ上げ出したらきりがありませんが後輩たちにはこの野球部をより良くし、これから何十年と続く法政野球部にいいものを残してほしいです。

家族へ
中学から神奈川の寮生活になり、初日には「食堂が分からない」と泣いた私のために、茨城から2時間かけて来てくれました。オトンは「やりたいことをやれ」と支えてくれ、オカンは送り迎えや弁当で支えてくれました。弟・大知も一生懸命生きていて、少しうるさいけどかわいい存在です。本当にありがとう。
結び
こうして振り返ると、なぜ自分のような下手くそが野球を続けられたのか。それは常に「1ミリの可能性を信じて」きたからだと思います。高校では化け物ぞろいの中でゼロに近い可能性を信じ、大学ではフレッシュのベンチ入りという小さな目標を信じて努力してきました。この経験は大切な財産です。そして、その「1ミリ」を信じるために支えてくれた人たちのおかげで今の自分があります。本当にありがとうございました。

今年の法政大学野球部も「弱い代」「勝てない」と言われてきました。優勝は「1ミリの可能性」かもしれません。それでもその可能性を信じて全力で戦う法政大学野球部を、最後まで応援よろしくお願いします。