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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2026 秋季号外 第5週 2026年10月7日掲載

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東京六大学野球の伝統あるユニフォームに袖を通し、神宮球場で白球を追う現役選手の皆さん。

私は神奈川の県立厚木高校から立教大学へ進学し、この素晴らしい世界に飛び込みました。初めて立教のユニフォームを着て神宮のマウンドに立った時の、あの体の底から湧き上がるような武者震いは、今でも忘れられません。背中に感じる歴史の重みや各校の応援団による地鳴りのような歓声。神宮球場とは選手を極限まで奮い立たせてくれる一方で、少しでも隙を見せると飲み込まれてしまいそうな、独特の厳しさとオーラがあります。

社会人野球やプロ野球、独立リーグ指導者を経験し、様々な球場を渡り歩いてきた今だからこそ、神宮球場と六大学野球へのリスペクトはより一層深くなっているように感じます。世代を超えて夢を託したくなるような、そんな不思議な魅力と格式が神宮球場にはあるのだと思います。

私は4年間で、ありがたいことに通算63試合に登板させていただきました。しかし決して良い思い出ばかりではありません。慢性的な腰痛に悩まされたり大学野球最後の登板となった試合では序盤で大量失点しノックアウトされたり、と本当に悔しい思いもたくさんしました。それでも栄光も挫折もすべてを歴史の一部として優しく包み込んでくれたのが神宮球場でした。

そんな特別な場所で今まさに戦っている皆さんにお伝えしたいことが二つあります。

一つ目は、「常に自分で考え工夫する力」を大切にしてほしいということです。私は高校時代、140キロに満たないストレートで上のレベルと戦うために当時の監督から「かまぼこの板を投げる練習」を薦められました。これでボールに純粋な縦回転をかける感覚を養ったのですが、実はこの練習が自分の投球スタイルを作り上げる大きなヒントになりました。自分の特徴を活かすには何が必要なのか、自分で考える力を養うことができました。この考える力があったからこそ、六大学の強打者たちともなんとか渡り合うことができたのだと思います。指導者から与えられたメニューをただこなすだけではなかなか壁を越えられないものです。「今の自分に何が必要で、どうすればもっと良くなるのか」を考え、ぜひ自分なりの正解を探し続けてみてください。

二つ目は、「入念な準備」を怠らないことです。プロ野球や独立リーグでの指導経験を通じて痛感したのは、勝負を分けるのは結局のところ「ミスの少なさ」であり、それを支えているのは「日々の準備」だということです。どんなに高い身体能力を持っていても準備が足りないとここぞという大舞台でほころびが出てしまいます。試合の日はそれまでの準備の「答え合わせ」をする日です。悔いのない大学野球生活を送るために地味で退屈に感じるかもしれない日々の準備をどうか大切にしてください。

おそらくこの二つはこれまでの野球人生で何度も言われ続けてきたことかもしれません。しかし、これらを「継続できる才能を持つこと」こそが本当に大切なんだ、といろいろな野球を経験してきた今、改めて実感しています。

皆さん一人ひとりには無限の可能性があります。どうかご自身の可能性を信じてください。先人たちが築き上げてきた六大学の伝統や、神宮球場へのリスペクトを胸に抱きながら自分で考え、しっかりと準備をして思い切り自分自身の野球を表現してほしいと願っています。聖地・神宮の杜で躍動する皆さんの姿をこれからも心から応援しています。

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TOKYOROCKS2026 秋季号外 第4週 2026年10月1日掲載

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「神宮36年生」

東京六大学野球の思い出を振り返ろうとしてもなかなか言葉が出てきません。審判員としてまさに今日、明日の試合に関わる私にとって、六大学は「過去」ではなく、「今」そのものの存在であり、落ち着いて振り返ることのできる対象ではないのかもしれません。

あらゆる光景、心情が私にとっての日常です。外苑前駅から球場までの道のり、神宮球場外周のアーケードの佇まい、審判員として出場する直前の緊張感、グラウンドに出た時の高揚感、スタンドの熱気、際どい判定に対する両校の熱狂、グラウンドから見上げる青空、この場に立てる幸せ、秋季リーグ終盤に感じる一抹の寂寥感、試合終了の挨拶とともにわき上がる安堵感、仕事と野球の指導と審判の調整を気にかける自分・・・。

体育の教員、高校野球の指導者、大学野球の審判。ありがたいことに今の私の生活は、自分がやりたいことばかりで構成されています。しかもそのそれぞれが密接に関連し合っており、どの世界に身を置いている時であっても、その他の世界に役立つ知見を得ることができます。

この生活の基礎にあるのが、大学の別なく広がる幾多の貴重な出会いです。その時々の各校選手、指導者の方々、審判員の先輩・同僚の皆さんはもとより、現在の野球指導の礎となった平野裕一監督(東京大学昭和53年卒)、いまだに「できる大人」の見本となっている先輩マネージャー、野球やスポーツ指導の現場で活躍する各校OBの皆さんなど、様々な出会いが私にとっての財産となっています。

そして今思うこと。東京六大学野球はただ強いことだけを求められているのではないこと。強いことに加えて、強さ以外の「何か」も不断に追求し続け、それを大切にする姿勢を持つことが六大学の真髄です。六大学は単なるスポーツ団体の枠を超え、大きな文化的価値を持つ存在であると感じています。現役4年、それに続く審判32年。その文化的価値を維持し高めていく誇りを胸に、「神宮36年生」として責任を全うしたいと思っています。

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TOKYOROCKS2026 秋季号外 第3週 2026年9月24日掲載

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「感謝の思い」

愛知県立大府高校では甲子園に出場することができず、私の高校野球は幕を閉じました。そんな中での進路選択は、野球を中心に地元に残るか、関東へ出るか、あるいは将来を見据えて学業に専念するかという、人生の大きな岐路となりました。 結果として「野球で関東に出る」「東京六大学の明治大学に進学する」という決意ができたのは、今振り返れば無知ゆえの最もチャレンジングな選択だったと思うと同時に、高校の恩師をはじめ、関わっていただいた多くの方々への感謝の思いは、今も尽きることがありません。

同級生の推薦組が入寮してから遅れること約2ヶ月、2002年3月27日に私は明治大学野球部の明和寮に入寮しました。同日に入寮した菅谷剛男、翌日に入寮した下山寛典——のちにレギュラーを獲得し、社会人野球の道へと進んだ一般入試組の2人とは、同じ境遇の中で互いに刺激し合いながら時を過ごしました。

入寮後ほどなくして、4月13日に春季リーグ戦が開幕しました。 初めて目にした東京六大学リーグ戦の光景は、今でも忘れることができません。鮮やかな人工芝の輝きと広大なスタンド、大勢のお客さんとそれを彩る華やかな応援、そしてその中で繰り広げられるレベルの高いプレー。甲子園のスターたちが躍動する中、自分が同じ舞台に立つ姿など到底想像できず、「とんでもない場所に来てしまった」と呆然とするばかりでした。

大きな衝撃を受け、気力を失いかねない状況の中、私に大きな刺激を与えてくれたのが鳴り物入りで入学した同級生の2人でした。私たちの世代で夏の甲子園を制した、日大三高の4番・5番コンビである原島正光と齋藤達則です。私が入寮した時には、すでに原島は4番打者として、齋藤も一軍メンバーとしてチームに帯同していました。 誰もが羨む実績と高い技術を持ちながら、彼らは誰よりも熱心に練習を重ねていました。下級生が唯一自由になれる休日の前夜、多くの同級生が逃げるように寮を外出していく中でも、彼らは当然のこととしてウエイトトレーニングに励んでいました。私からすれば“超一流”の2人が見せるその妥協のない姿勢に接し、一流たる所以を学ぶとともに、「彼ら以上に励まなければ、一生近づくことすらできない」と強く実感し、自分自身の心に激しく火がついたことを覚えています。

初めて神宮の舞台に立てたのは、3年生になった2004年春のリーグ戦でした。初戦で1番打者として打席に向かった際、そこに立っている自分が信じられず、逆に驚くほど冷静だったことを記憶しています。そして、恩師やお世話になった方々への感謝の思いとともに、「大変だったらいつでも帰っておいで」と手紙に書き添えてくれていた両親を少しは安心させられたかなと、ほっと胸を撫で下ろした瞬間でもありました。

この東京六大学野球に身を置いた経験は、私を野球人として、そして社会に出ていく人間として、大きく成長させてくれました。仲間や指導者、ライバルとの出会いには感謝しかありません。今後も東京六大学野球が大学野球界を牽引する存在であり、また多くの若者を育む場として発展し続けることを心より祈念いたします。私もまたアマチュア野球界に携わる者として、その発展に微力ながら貢献できるよう精進してまいります。

末筆ではございますが、このたびは素晴らしい執筆の機会をいただき、誠にありがとうございました。

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TOKYOROCKS2026 秋季号外 第2週 2026年9月17日掲載

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私は1996年に奈良県立畝傍(うねび)高校を卒業し、早稲田大学野球部に入部しました。残念ながらリーグ戦出場は叶いませんでしたが、忘れられない思い出がたくさんあります。

「1年冬のマネージャー投票」
過去の慣例通り、1年の冬に現役部員の中からマネージャーを選出することになりました。同期で深夜まで話し合っても決まらず、投票となり、私が選ばれました。「マネージャーになるために上京したわけじゃない」と、地元の大学を受験し直すことまで真剣に考えました。そんな中、1年春から試合に出場し、甲子園出場経験もある鈴木ケンジがマネージャーに立候補してくれました。本人は恩着せがましいことを一切言いませんが、私は今でもケンジには頭が上がりません。

「2年春の大ケガ」
同期で最も練習する亀井に喰らいつこうと、全体練習の後、毎日一緒に自主練習を続けていました。しかし2年の春、亀井にトスを上げていた際、顔面に打球を受け、脳挫傷と頭蓋骨骨折(ひび)の大ケガを負いました。数週間の入院と約1年間のリハビリを経て完治しましたが、カメとの練習パートナーは自然消滅しました。しかしカメはそのまま練習の虫であり続け、4年時には野村徹監督に認められ、リーグ戦初出場ながら1番打者として10季ぶりの優勝に貢献。春秋連続でベストナインを受賞するという一大サクセスストーリーを体現しました。

「4年春の就職活動」
4年になるとリーグ戦出場が難しいことを自覚し、練習への熱が薄れ、就職活動を優先してグラウンドから足が遠のく時期がありました。そんな私を同期の田原が「テツ、何してるんだ!」と一喝してくれました。コータローがあの時叱ってくれなければ、私は腐ったまま、4年秋のベンチ入りもなかったと思います。言いにくいことをストレートに伝えてくれたことに、今でも感謝しています。

「4年秋のベンチ入り」
4年秋のリーグ戦で優勝の可能性がなくなると、野村監督はBチームの4年生を1名ずつベンチ入りさせてくださり、私も明治3回戦でベンチ入りしました。試合前ノックで、いつも観戦していた2階席を見上げた時の不思議な光景と、イレギュラーのない人工芝での内野ノックの心地よさは、まるで竜宮城にいるようでした。その感覚は今でも鮮明に覚えています。

ここに書ききれなかった同期との思い出もたくさんあります。48年の人生のうちわずか4年ですが、今でも夢に出てくるほど濃密な時間でした。最近、久しぶりに東京勤務となり、時々神宮球場へ足を運んでいます。後輩の皆さんにも、今過ごしている時間が人生のかけがえのない財産になることを忘れず、悔いのない野球部生活を送ってほしいと思います。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。