俺たちのラストシーズン──福岡元翔(佼成学園)
こんばんは。ひっしー(4年・菱川一輝)からバトンが来ました。仮入部ファミリー、ファミ長の福岡です。
このブログを書くことができて良かったです。
スタートはあれだったけど、無事引退することができそうです。とっても真面目に4年間を振り返っていきたいと思っています…。
入部当初、名前も知らない奴が「福岡はやばい」って言ってるらしいよって顔も名前も知らない初対面の奴から言われました。ようやく室内のノックに入らせてもらったかと思えば、中谷さん(R6卒・中谷優斗)のかすれ声の「タッチボール」、「回転で」が2回とも聞き取れず、普通に投げてしまうと監督に「出ろ」と言われたり。明治大学野球部は「出る文化」があるのかと思いながらもどこに出ればいいかも分からなかったのでボール置き場の端っこでとりあえず電気を消して引きこもってたり。何が何だか。その後監督に「ボール回し初めてか笑」と満面の笑みで言われ、さらに何が何だか。
廊下でも、前から歩いてくる人は果たして何年生なのか、挨拶したほうがいいのか、何もかも分からない寮内。衛藤(4年・衛藤晃太)と1階廊下を雑巾で拭いた朝清掃後、とりあえずヤバいやつ扱いされてるらしいから挨拶はきちんとやろうと「おはようございます」と挨拶をしても返事が返ってこないのは果たして「そういう文化」なのか、同級生なのに挨拶して「なんだこいつ」という沈黙のメッセージなのか、それとも「そういう先輩」なのか、当時の自分にとってはどうでもいいことでしたが、互いが互いに「なんだこいつ状態」だったような。
夢で当時の主務から「やっぱ退部だった。」と宣告される夢を見るくらい常に退部との隣りあわせだった時期を沢山の人に支えてもらいました。久野(4年・久野悠斗)を始めとしたスポ薦組から「こいつ絶対すぐ辞めるやん」と思われていたのに、無事4年間のサバイバルゲームを生き残ることができました。
そんな野球人生史上初めて最初の扱いが酷い下っ端だった自分は、「リーグ戦で活躍!」などの過大な期待をすることなく「入寮して練習に参加!」を目標としてスタートすることができたので、野球や寮生活が上手くいかなくても、Cチームになっても、グラウンド敷地内に入れてくれる事が有難くて、4年間感謝しながら練習していたので、他の人達と違って結構受け入れることができてしまいました。なので、過去のブログでよく書かれている苦しくて野球が嫌いになった系の話を同じように今書こうと思ったけど思いつかなかったです…。
そんな時にも優しくしてくれる先輩は沢山いました。一番最初に同部屋になってしまった直井さん(R7卒・直井宏路)は自分が寝てる時にそっと枕にシャトレーゼのシュークリームを置いてくれました。サンタさんみたいでした。
あとは次に同部屋だったガッツ。毎回どこから仕入れたか分からないご飯を大量に持ってきてくれました。サンタさんみたいでした。寮が寝静まった深夜2時頃、勢いよく部屋のドアが開き、部屋の電気を全部付けて入ってくるとスマブラ(大乱闘スマッシュブラザーズ)をやりだし、そのキャラにアドバイス(きつめ)をし、睡眠時間ほぼ0の中、自分より早く朝練に行くあの後ろ姿が今も鮮明に蘇ります。お世話になりました。
今の同部屋は萩(2年・萩宗久)で、高校の先輩である宮田(4年・宮田知弥)から風呂場で「調子乗ってたらきつくしていいよ」とアドバイスされていたのでやる気満々でしたが、毎日ストレッチしたり、手首を骨折しながらも、欠かさず毎日マシンでバッティング練習したりしていて、尊敬する所ばかりの同部屋でした。予定外に1年間も同部屋だったけどありがとうございました。とても快適でした。
入部当初から活躍していた宮田からは、初対面のまたもや風呂場で「俺Aチームにいたりしてるけど皆から嫌われてないかな」と自分と二人きりの時に勇気を出して喋りかけてくれたのを覚えています。彼が全幅の信頼を置いている織原さんに相談していたのも見たことがあります。織原さんはとても嬉しそうでした。今は後輩と気軽に自転車の貸し借りをしている姿を見て、後輩からも慕われる人間になっているので宮田のことをいつも遠くから見ています。
同期が就活中で夏休みの府中キャンプやB戦の4年が自分だけのときもあった中、自分とキャッチボールしてくれたりティーを一緒にしてくれたり、アップ中話しかけてくれたりしたBの後輩の皆さん、ありがとうございました。挨拶されるだけで嬉しかったです。片桐(2年・片桐心)とかありがとう。もうすぐ引退するのに今も寮内で挨拶してくれる人達ありがとう。例年だったら4年は「室内アップ室内ノック室内BT9:30終了」で、B戦で未来ある下級生の打席数を奪うことは考えられない中、自分は規定打席の倍ほど立ってしまい、大変申し訳ありませんでした。そんな中、試合で自分が打ったら喜んでくれてありがとうございました。とても複雑な気持ちでした。Aチームへ推薦してくれた学コの田中(3年・田中陽貴)、こじまじ(3年・小島大地)、本当にありがとうございました。B戦はその2人と、色々頑張り過ぎな三輪(4年・三輪拓未)がいて楽しかったです。
田中はBの中央大戦で自分がエンドランのサインを見逃してランナーの萩が盗塁死してしまっても「いや、サイン出した自分が悪いです。」と何か良く分からないことを言ってミスを揉み消してくれたり、獨協大戦で自分がフライを取れるフリ(フェイク)をした後その打球を後逸してタイムリーエラーで1対0で負けるというとんでもないエラーをしても、試合後のミーティングでそれを指摘することなく忖度してくれました。監督からも何も言われなかったのは逆に怖かったけど、今思えば見ているようで見ていない、ようでグラウンドの全てを見ている監督なのでなにか意図があったのかもしれません…。
とりあえず4年になっても野球ができて楽しかったです。1年生とも一緒に練習ができて、「そういえば寮にいるあの人誰?」状態にならなくて良かったです。府中キャンプと指導者が織原さんしかいないときのランニングの声出しも郷原(4年・郷原怜大)に代わってさせていただきました。ありがとうございました。
しかしながら、留年が確定してB戦メンバーから外れた時期がありました。「今度こそは、野球部から消される。」と確信して自分の2期連続B戦首位打者、(打率0.500)を記録したホーライスイングを明大野球部に継承することを目的として宮崎(4宮崎雄太)、おかじ(4年・岡本藍士)に教えてしまいました。「こうやって打てばよかったのか…。」と衝撃を受けて膝から崩れ落ちた2人を見た時、あの感動を共有できた時は嬉しかったし楽しかったです。蓬莱さん、吉田さん、戸高さん、山辺さん、小西さん、林さん、辻さんのお陰です。自分が予定外に野球にハマってここまで続けてしまったきっかけでもあります。世田谷西の方々ありがとうございました。
おかじのブログにも書いてたけど今は和田(2年・和田壮生)がこの技術を明大野球部から絶やすことなく頑張ってくれています。みんなから笑われながらも、指導者がいなくても朝体操30分前には汗だくで波を打ち続ける姿はちょうど1年前の宮崎と重なるものがあって最近は尊敬しきりです。タケタケ(2年・伊藤丈朗)も頑張れ。宮崎は何故かあの打ち方を信じて1年間やり続けてしまい、バッティングはカンストしてしまいました。府中キャンプの外BTで毎日複数本ホームランを打ったり最速157キロ右腕(ほぼ大谷翔平)のじぇい(4年・大川慈英)のインコースまっすぐを午前練シートでライト前に打っていたので間違いありません。
対するおかじは、B戦前日になったら室内で毎回夜10時近くまで一緒に打っていましたが、初歩の段階である波を打つことがどういうことか分からないまま時間が経ち、毎回強制終了していた気がします。ただ、MTXにしろ常に新しいものを取り入れようとする姿勢は和田同様とても自分は尊敬していました。波を打とうとした経験が、彼を更に哲学のある「厚い人間」へ昇華させた事は言うまでもありません。

図1 波打ちが分からず強制終了直前のおかじ
大学に入り、外部指導者の方々含め合計約5人の方から「なんだそのスイングは」的なことを言われて、アドバイスは納得して聞いていたのですが、治りませんでした。当時Bの打率が14打数1安打(打率0.071)の丸尾さん(R7卒・丸尾快)からも何か言われた気がしますWWWW。
冗談はさておき、あれは究極のインサイドアウトであり振り遅れをすることは絶対にありません。とりあえず最初は高めのボール球を素振りすることから始めてみましょう。教えて欲しかったら全然教えるのでLINEして下さい。待ってます。
宮崎、おかじ、和田の他にも尊敬する人は沢山いました。
なかむ(4年・中村凌輔)を見て自分の弱さと未熟さを知ったりもしました。野球の上手さに関わらず全員に対等に接することができるじぇい、取手シニアのりゅうがさん(R7卒・菊地竜雅)、クリスマスも練習するこじ(4年・小島大河)、打席に立ち続けて全部エンドランなうえちゃん(4年・植田颯斗)、ここでもとてもだらしないりく(4年・本岡里空)、あまりにも多くの苦楽を共にしてしまったりゅうい(3年・河原﨑琉衣)、気付いたら一番前のド真ん中にいるいっさ(3年・岸本一心)、番場(3年・番場大翔)、進藤(2年・進藤正太郎)、同じ匂いがして素で楽しめてしまう奇人守谷(2年・守谷治樹)…。なんか文脈おかしい気がするけど、大変お世話になりました。特になかむ、りく、りゅういのは一生忘れない気がします。「メモ」の一部を抜粋すると、すいすい、抜け駆け、水カモフラージュ、りく邪魔、6L、時止まる、忘れた一点張り、茂み、握力室伏…。あー蘇ってきた。毎週のオフ前を生田図書館で応用化学の実験レポート5000字書いて終わってしまうのが珍しくなかった自分にとって、とっっても楽しい時間でした。
これ言ってももう雑用のりくと奇人守谷くらいしか行かないと思うけど。また「行↑くっしょ~」?
ゴミカスファミリー植田、中薗(4年・中薗遼太郎)、中村もそろそろ「行↑くっしょ~」?
冗談はさておき、これらの人材は現代社会において、あらゆるピラミッドにおける頂点に君臨し続けていける存在だと私は確信しています。言うまでもありません。「厚み」が違います。

図2 マネージャ-業をこなしている?りく(うるさい食堂の中で恐らく何も聞こえていない。)
あとは130キロ投げることができたら気持ちよく引退できます。クーラーの効いたトレルーにずっといる大学最強のピッチャー陣達にアドバイスをもらい続けたら、1か月で+11キロ上がってものすごい勢いで成長してしまいました。特に郷原、じぇい、仁(4年・井上仁)、久野、山内(3年・山内優平)…その辺のトレルーにいるピッチャー全員あと1か月よろしくお願いします。力を貸してください。球速アップのために教えてもらった並進運動や出力、引き込み、宮崎から教えてもらった懸垂などをやり続けます。そういえば、懸垂はベンチプレスのように二頭筋と大胸筋に効くと教えてくれた人がいました。八十です。八十が受かって自分が落ちた理由は何だったのか。八十との「差」は何だったのか。考えれば考えるほど自分の存在の小ささを感じるため、物事が上手くいっている時ほどこの理由を考えるようにしています。八十ありがとう。

図3 自己啓発本の影響から瞑想をトレルーの片隅でしだした八十
野球部と生田キャンパス理工学部は全て真逆に位置する世界だったので、自分自身の切り替えがとても大変でした。生田では「野球部です。」というと「あ~。」と自分と違い、多分理解していないような反応をされ続けました。応用化学実験をリーグ戦の先発隊のため休むので公欠届を教授に丁寧に差し出したら、いつも柔和な教授がその場で約10分間立ったまま、超笑顔のまま、怒られました。理由は分からないし今考えても分かりません。徐々に顔と顔が物凄く近づいてきて自分も近づいたら…なんて思ったり思わなかったり。満面の笑みで野球部を辞めるよう、いつもの授業以上に論理的に優しく丁寧に説得してくれた別の教授も忘れられません。大変な下級生時代でしたが逆に辞めたくなくなりました。「怒ると叱るは違う」と、人間教育者らしいとてもいい言葉を高校時代に仰っていた松岡さんの言葉を思い出しましたが、あの時の教授は完全に怒っていたように見えました。眼鏡越しの2人のあの「熱い視線」はどこかで見たことあるような無いような。
同じ理工学部としては、90分試験で6本のオプトシャーペンを持ち込む(15分に1本壊れる計算)ほど準備周到の番場。3年生なのに実がなるまで3年かかるパイナップルを育て始めてしまった外山(3年・外山稜太郎)がいますが、これらの計算力を武器に一緒に卒業したいです。これからも留年ファミリーに誰も入らないことを願っています。なのこ(3年・平野凪乃香)、まりん(1年・三浦舞鈴)頑張れ。
後輩へ託すものもあります。自分と、ナルシストで後輩からの挨拶をスカしている宮崎が引退し、実はしっかりしていると自分は信じているこじまじと、「呪縛」を爽やかな笑顔で受け入れる強さがある奇人守谷に来シーズンからは「やべぇやつ」と言われてしまっている牧田(1年・牧田健吾)が加入するらしいのでとても不安です。イタルグリーンの右中間や、土まみれの姿をトレルーで発見されることがないように気を付けて欲しいです。よろしくお願いします。そういえばこの前のオフ前に宮崎と作業してたら「悪いことしてんじゃねぇだろうな笑」とまたもや満面の笑みで監督が来ました。何をしているかは見られなかったので多分大丈夫だと思います…。本当は見られていたのかもしれませんが…。

図4 びっくりしている守谷
5時7分に起きて植田宮崎福岡LINEで時々スタンプを押して、乾いてるか分からないユニホームを着て、バックスクリーンの時計と月を見ながらグラウンドへ向かい、首脳陣へ挨拶をしに行って、アップ列の俺の後ろに下級生がいるか心配しながら、山内、いけしょう(1年・池田翔吾)、髙橋(1年・髙橋勇人)がいるのを確認して、うえちゃんとキャッチボール(ほぼ暴投)して、御大と内海先生の銅像を芦硲(1年・芦硲晃太)と磨いて…っていう生活ももう終わりです。上記のうえちゃんに関して言えば、パンツや靴下を「履かない」ではなく「持ってなくて履けない」という危機的状況であり、いわゆる素材は「ホンモノ」なのでいじっていいのか毎回躊躇してしまいます。貸した靴下やパンツが返ってこないのは勿論自分だけではなく、知らない内に寮内から数多くの靴下とパンツが消えていることは心に留めておく必要があるでしょう。芦硲はしっかり者です。神田さん(R7卒・神田航生)、今もこれからも御大は綺麗です。

図5 怒られて不貞腐れた態度を取ってしまううえちゃん
何かに追われて生活して、オフのはずの火曜日には大学の実験室で13時から21時まで野球部と対極にいる人たちと応用化学実験を白衣と実験用ゴーグルを装着して行い、帰り際の京王線で大学生が騒いでいるのを見た時は、「そういえばおれ週休0日で、THE・大学生な生活してないな」と気付いてしまった瞬間もあったけど、ブログを書いていたらしっかり非日常体験ができていて、良かったなって今思います。「奉仕文化」があった時の朝練点呼で返事がなかった時の「あいつ、終わったな。」っていう沈黙と緊迫感とか非日常過ぎた。「日常」の時間割でも貼っときます。

図6 2年時(留年確定した年)の時間割
野球を始めたばっかりの時は22歳まで野球をやるとは思ってなくて、中学で野球なんか辞めるくらいの気持ちでいたので上出来です。小中の同級生にまだ野球やっていると言ったら引かれます。もしかしたら、寮にいて感覚がマヒしているだけで一般的に見れば野球をやり過ぎたのかもしれません。が、ここまで書いてきたものは時間の割合で言えば野球をしていない時に得られた経験がほとんどの中、野球していなければ得られなかった経験でもありました。
そんな野球部を途中で辞めてしまった人、引退して辞める人も野球自体は好きだったのに環境が合わなかったことが理由の人も中にはいました。自分はだいぶ特殊な方だと思いますが、周りの人たちのお陰で何とか野球を好きなまま引退できそうです。よかった。危ない。

図7 レスト中の三輪
ブログ書いている途中で泣いてしまう人が結構いるらしいけど、「7番房の奇跡」を見て何も感情が動かない自分には無理そうです。もう書き終わります。うえちゃんごめん。また一緒に泣ける感動映画見ようネ。
長かった4年間でした。短くはなかった。あまりにも出来過ぎな野球人生でした。
私生活の行いで技術をカバーしてしまい、あえてキャプテンらしさを出さない木本(4年・木本圭一)のセンスで全員がキャプテンみたいになってしまった明治は優勝してしまうでしょう。
改めて戸塚監督、松岡さん、文雄さん、西嶋さん、山口さん、織原さん、高校の藤田監督、両親、いつも時間外労働をさせてしまっている食堂の方々、ここに入るきっかけを作ってくれた方々…沢山の方々ありがとうございました。
書きすぎて変なこと書いたらデジタルタトゥーになりそうだからこの辺で辞めておきます。
次は宮崎です。

図8 レスト中の宮崎