俺たちのラストシーズン──加藤珠海(横浜隼人)
我らがイケメン投手☆もうりくん(4年・毛利海大)からバトンを受け取りました、マネージャーの加藤珠海です。入部してから3年分の先輩方のラストシーズンブログを読んできましたが、ついに自分の番が回ってきたかと感慨深いです。
4年間を振り返るというのはいざやってみるとなかなか難しく、みんなのような感動的な文章は書けなさそうですが、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
初めに、私の今までをお話ししたいと思います。
まず、出身は半分は愛知、半分は中国です。私がお腹にいた母が父の上海転勤についていき、現地で生まれるはずだったのですが、当時伝染病のSARSが流行っていた中国では日本人が出産することができず、母の実家がある愛知県で生まれました。生まれてすぐに中国に戻り、3歳までは中国語と日本語のバイリンガル(?)として過ごしました。日本に帰国すると、愛知、兵庫と転々とし、小学生になるタイミングで神奈川に来ました。
小学生の時はすごくインドアで引っ込み思案な子供だったので、あまり外には出ず本を読むことや絵を描くことが大好きでした。母がバスケットボールやダンス、少年野球チームの見学に連れて行ってくれましたが、とにかく目立つのが嫌いで、結局始められたのは体験がなかった水泳とピアノだけでした。小学3年生のとき、父がニューヨークへ赴任することが決まります。日本に残るかついていくかの選択を迫られ、地元を愛していた私は迷わず残ることを選びました。今思えば7年間もニューヨークにいれば英語がペラペラだっただろうなとか、就活で有利だったかなとか、たらればを考えてしまいますが、渡米していたら明治に来ることはなかったと思うので、結局は残る選択をしてよかったです。

中学校に上がり、体験入部で行ったソフトボール部の先輩方がとても優しくしてくださり、なんのルールも知らないまま、ボールを触ったこともないまま入部を決めました。先輩方の人柄に惹かれたという理由だけで始めたソフトボールでしたが、中学3年間は多分、歯しか見えないくらい黒くなりながら、めちゃめちゃ頑張っていたと思います。3年生の夏の県大会で優勝して、いつの間にかソフトボールというスポーツ自体をすごく好きになっていました。当時の私は大学まで競技を続けたいと思ってたので、「県立高校の中で一番ソフトボールが強い高校に進学する→早○田大学のスポ○ツ科学部に進学してソフトボールを続ける」というビジョンを持っていました。小学生時代はおとなしかったですが、ソフトボールに出会って明るくなった気がします。

中学の頃は、盛りありで塾の成績が上から3番目くらいだったので、高校受験なんて余裕だろうとタカを括っていました。実際に直前の模試でも第一志望の合格率は95%だったのに、本番の社会の自己採点が30点で終わりを悟り、母に泣きながら電話をかけて、家まで遠回りして帰りました。人生初の挫折でした。泣く泣く制服が可愛い(ここ重要です)片道2時間の併願校へ進学しました。当時はそれはそれは落ち込んで、入学1ヶ月で母から桐蔭学園への転校を提案されるくらいには魂が抜けていたのをよく覚えています。
高校に制服以外の楽しさを見出せていなかった私ですが、素晴らしい出会いがありました。隼人の男子野球部のマネージャーはグラウンドに下りられないのはいやだという理由で断念。何か部活はしたいけど…と思っていたところで、女子野球部のマネージャーの方にお話を聞きに行きました。その方は2つ上の先輩で、人として芯があって尊敬できる方で、またもや先輩の人柄を理由に入部を決めてしまいました。毎日始発で朝練習に参加し、帰宅後はそのまま寝落ちする生活を送っていると、同級生800人の中で成績が下から数えた方が早くなるまでに半年もかかりませんでした。思い描いている理想像と現実のギャップに納得できず、自分の中での優先順位はなんだろうと考えた時、最優先は「大学受験でのリベンジ」。この生活を続けていては勉強する時間を確保できないと判断し、1年で退部を決めました。良くしてくださったマネージャーの先輩、同期の選手たちへの申し訳なさと、最後までやりきれなかった自分の不甲斐なさでしばらくは高校へ行くのに気が進まなかったのですが、塾の説明会や体験に行くようになり、受験の準備を始めます。

横浜隼人高校出身ということもあって、高校でも男子野球部のマネージャーをしていたのかとよく聞かれますが、高校の思い出といえば勉強ばかりです。塾には17時からの30分を除いて食事ができないルールがあったため、受験期は半年で8キロの減量に成功しました。塾と家の行き来が生活の全てだったので、同じ塾に通う友達と毎週日曜だけは1本250円のココアを買っていいことにしていたのを思い出します。
公省さん(R7卒・水谷公省/横浜隼人高校野球部水谷監督のご子息)がいらっしゃったこともあり、野球部のSNSをよく見ていて、大学の雰囲気も自分に合っていそうだと思っていたので第一志望を明治に変え、野球部のマネージャーになることを目標にしました。人生でいちばんの集中力と底力、必死の勉強と数打ちゃ当たる戦法でなんとか明治大学商学部の合格を掴み、晴れて野球部のマネージャーとして入部させていただけることになりました。
入ることにも苦労した部活でしたが、この4年間、本当にいろいろなことがありました。3年生以降の出来事が濃すぎて、正直なところ下級生の頃の記憶はあまりありません。特に3年生の春は環境が大きく変わり苦しかった時期で、それまで楽しいと思えていたことを楽しめなくなり、1人になると後ろ向きなことばかりを考えてしまい、その日その日を終えることに必死でした。私は根が真面目で変にプライドが高く、「人からこう思われたい」というイメージがあるので、弱っているところを見せたくない、気を遣われたくないと考えてしまって、どうにか人前では明るく振る舞おうとしていました。これから踏ん張っていかないといけないと思う気持ちと、自分だけがマネージャーから必要とされなくなってしまうんじゃないかという気持ちが混在していて、正直誰にどう頼ればいいのかも分かりませんでした。それでもそばにいてくれる人たちはよく見てくれていて、助けてもらいながら乗り越えていく中で、たくさんの方から優しさや励ましをいただきました。振り返ってみると、私の今までの人生は人に恵まれていて、誰とどういう環境にいるかが自分に大きく影響していました。私の良さを見つけて、必要としてくれたみなさんには本当に感謝しています。あと、性格は4年間でかなり変わったと思います。くよくよすることがなくなり、どれだけ上手くいかないことがあっても「最後はどうにかなる」と思えるようになりました。
いいことも悪いこともたくさんあった4年間でしたが、指導者の方々や先輩、後輩、同期、外部の方々、他大学のマネージャーの同期など、野球部での出会いが1番の宝物です。

ここからは、私の4年間を支えてくださった皆さんに感謝を伝えたいと思います。
戸塚監督、松岡さん、鈴木コーチ、西嶋コーチ、駿台倶楽部の皆様
4年間、本当にありがとうございました。マネージャーとして至らない点ばかりだったと思いますが、マネージャー業以外のことも気にかけてくださり、ありがとうございました。世の大学生が普通にはできない貴重な経験をさせていただいた4年間を、今後の人生に活かしていきたいと思います。楽なことばかりではありませんでしたが、この世界に飛び込まなければ、きっと今も味気ない大学生活を送っていたと思います。改めて、大変お世話になりました。
同期のみんなへ
ほとんどの人が15年くらい野球を続けてきていて、小学校から大学まで一つのことをやり抜いてきたみんなのことを本当に尊敬しています。たくさんの大学や進路がある中で、普通に暮らしていたら知り合うことがなかったはずのみんなと、こういう形で一緒に活動できたことがすごく嬉しいです。あと少し、最後まで頑張ろう!
後輩も、ニヤニヤしながら近づいてくるわかち(3年・若狭遼之助)や田中(3年・田中陽貴)、大変お世話になったはちやくん(3年・八谷晟歩)、中学の後輩のけいたくん(2年・鶴飼恵大)、悪事の片棒を担がされたばんびー(3年・番場大翔)など、みんな「たまみさんこわい」と言いながも人懐っこくて可愛かったです。中学以降後輩ができたことがない私には近況を聞きながらおしゃべりをする時間が地味に楽しくて、それができる時間も残り少ないと思うと本当に寂しいです。今までありがとう!私のこと忘れないでね。
なかむ(4年・中村凌輔)へ
色んな人に信頼されていて、大人の方からも一目置かれているのが私にもよく分かりました。なかむとの最新の思い出はガチャ&ラーメンですが、私と毛利の残飯を大量に処理してくれてありがとう。ラーメンにお酢を10周くらいかけて味覚を麻痺させながら食べているのを見て、すごく申し訳なかったです。特別な日の洋服コーディネートは任せてください。ご家族によろしくね!また遊びに行きます。
こじこじ(4年・小島大河)へ
いつから仲良くなったか覚えてないけど、私の数少ないなんでも言える友達です。野球で成績を残してもそれに驕らず、わがままなところはそのままに、ずっと変わらないのがこじこじだなあと思います。プロに行ったらお揃いのTシャツ着て3人で応援に行くからね。
そういえば、小島くんが侍ジャパンの壮行試合で沖縄へ行ったとき、お土産が欲しいかと聞いてくれたので、私はキティちゃんのグッズが欲しいと言いました。彼は「ほぼキティ」と言って、真っ赤なシーサーのぬいぐるみをくれました。事務室の机に置こうと思いましたが、赤色の持ち物がNGな弊部寮内でシーサーに居場所はなく、まだロッカーに眠っています。ごめんね。
ごーたむ(4年・郷原怜大)へ
せっかく投げ方を伝授していただいたのに、ボール全部無くしてごめんね。次こそはごーたむも最後まで参加で飲みに行ってカラオケ行って、ボーリング行ってなかむの家行こう。LINE上じゃなくてリアルでの年越しもいいですね。茨城で頑張ってね!社会人になるのが遅れるので、次に集まった時は先輩ということで奢りでお願いします。日に日に黒くなってどんどんパンプアップしていくごーたむに負けないよう、私もマッチョになりたいと思います。

岡本(4年・岡本藍士)へ
最初にクラスで自己紹介をした時、一番後ろの席からやたら目つきが悪い男子がこちらを睨みつけていて、なんて怖い人がいるんだと思ったら野球部だというので、一瞬入部を躊躇いました。でも、話してみたらそんなことは全然なくて、おちゃめなおじさんでした。中国語のテストの件、その節は誠に申し訳ございませんでしたけども、電話で文法の授業してあげたこともあったよね、私はよーく覚えてるよ。おあいこだね。「就活を通して俺はまだ見ぬ境地に達することができる」と話していた就活始めたての岡本を見て、只者ではないと思いました。岡本の中でも多分、私の印象が「変わった人」になっていると思うので、そこの認識を修正していただきたいです。
ただ、野球部で真面目な話が真面目にできた人はもしかしたら岡本だけだったかもしれない。何に対しても偏った見方にならないところが「おかもんらしい」です。今まで本当にありがとう!来年の秋、キャンパスで会いましょう。1個くらいなら和泉一緒に行ってあげてもいいかな。(ちなみに、ラストシーズンブログのアップ作業は私が1人でやっていますが、岡本くんだけは文章内の(○年・名前)を全部原稿に入れてくれていました。なんていいやつ。)
毛利へ
野球部で一番毛利への対応が冷たいのは私だった気がするよ^^侍ジャパン選考合宿参加メンバーが決まる前は「合宿行けるかな」とネガティブになり、いざ参加が決まると「ジャパン選ばれるかな」とそわそわし、「女子か」と一蹴していましたが、日本代表に選ばれた時はすごく嬉しかったです。ジャパンから帰ってきた日、「たまちゃん帰ってきたよー!」と代表ユニフォームを事務室に持ってきてくれた毛利を見て、「自分が思う野球がすごい人」と、「実際の野球がすごい人」にはいい意味でギャップがあるんだと思いました。男女分け隔てなく接してくれてありがとう。今後の進路も友達として応援しています。
せち(4年・瀨千皓)&ひでさん(4年・今井英寿)へ
野球部を盛り上げてくれてありがとう!2人のカウントダウン動画を楽しみにしてくれていたファンの方も多かったと思います。人情に熱くて、ホワイトデーにお返しをくれたのも、誕生日にケーキを買ってきてサプライズしてくれたのも2人だけでした(笑)卒アルも私だけで作っていたら、とても見れたもんじゃない駄作が出来上がっていたと思います。(完成遠いけど)気を使わず絡んでくれるのが嬉しかったよありがとう。
いしけん(4年・石田健太朗)へ
最近でこそあんまり機会がなかったけど、何か悩んだときにガチアドバイスが欲しい時はいしけんに相談させてもらってました。私にとっては超重大な出来事だけど、いしけんにとっては超しょーーもないことをいっぱい聞いてくれてありがとう。いしけんに対して多くの人は「客観的に物事を捉えられて、冷静沈着で、感情に左右されない人」というイメージがあるんじゃないかと思いますが、意外に繊細で、お悩みがあるときもあって。なんの助けにもならないかもしれないけど、いしけんにとって私も「まあ話はできるやつ」くらいに思ってくれてたら嬉しいです。ただ皆さん、寄り添って欲しいときの相談相手はいしけんだけはおすすめしません。メンタルズタボロにされます。
マネージャーの先輩方へ
今でも私のことを気にかけてくださり、本当にありがとうございます。自分が一人になったとき、さくらさん(R7卒・岸上さくら)と未稀さん(R7卒・大崎未稀)がOB更衣室で私の頭をぽんぽんしながら「たまみはそのままで大丈夫だ、頑張れ!!!」と言ってくれたのをすごく鮮明に覚えています(笑)入部から引退まで手のかかる後輩で本当にすみません。多大なるご心配をおかけしましたが、お陰様で最後までやりきれそうです。たくさんのご指導、ありがとうございました!

マネージャーのみんなへ
仕事が多くて寮を出るのが遅かった春休み、21時前の駅で、女マネのみんなと「あー、10時間後にはまたここいるやん」と話しながら帰ったり、ありぺい(2年・有川駿佑)にマンマヘルプを求めたり(もちろん私の奢り)、誕生日に菜々花(3年・酒井菜々花)と凪乃香(3年・平野凪乃香)にディズニーをプレゼントしてもらったり、22時半までかかって千羽鶴を完成させたり。同期が1人しかいないので、後輩との思い出がたくさんあります。思い浮かべると多くが事務室での出来事ですが、家よりも長い時間を過ごした寮で、家族よりも長く一緒にいたみんなは本当に大事な仲間です。みんながいなかったら、多分私のマネージャー人生は3年春で終わっていました。私は器用ではないし、要領も良くないのできっと理解できないところがたくさんあったと思いますが、一緒に走り続けてくれてありがとう。みんなの力を借りまくり、なんとかここまでやってくることができました。マネージャーとしてやることを終えたら、それぞれに改めて感謝を伝えたいと思います。あと1ヶ月くらい、お世話になります。

最後に両親へ
今までの22年間、やりたいと言ったことを全部やらせてくれて、応援してくれてありがとう。ママは中学の試合は全部見に来てくれて、いつの間にか父母応援Tシャツまで作ってたし、今では明治の試合はもちろん空き週でも神宮にいるので、アナリスト並みの出席率です。パパは単身赴任で今も一緒に住んでないけど、毎週日曜は電話をかけてきて、1ヶ月に1回は帰ってきてくれるので、なんちゃん(ペットのねこ😸)も嬉しそうです。
ママには同年代の誰よりも色んなことを話しているし、ワンオクのライブは毎回パパと2人です。友達みたいなママ、パパです。私は頭のいい2人から生まれたとは到底思えないので、たまにどこかから拾われてきたんじゃないかと思う時もありますが、パパとママの娘で本当によかったです。素直さと愛嬌はかけらもないので、普段ありがとうを伝えることが適当な誕生日のメッセージカードくらいしかないけど、本当はこれ以上ないくらい感謝しているよ。
海外出張も増えて土日も働いてすごく忙しそうな2人に、部活だけで疲れたとか言ってられません。私の将来に対してはものすごく心配させてしまっているので、本気で頑張ります。思っているだけじゃ頑張らなさそうなので、見えるところに書いておきます。
22年間、本当にありがとう。収入がゲットできるようになったらお返しします。
長文をお読みいただきありがとうございました。
最後に我が家のかわいいなんちゃんをお見せして終わろうと思います。明日引退するかのような文章になってしまいましたが、まだまだチーム木本の活動は続きます。最後までご支援、ご声援のほど、よろしくお願いいたします!

次はなかむと共に内海・島岡寮の風紀保全をしてくれている、笑顔が素敵な吉田匠吾くんです。お楽しみに^^