俺たちのラストシーズン──宮田知弥(横浜)
こんにちは。1週間に1回打撃フォームが変わり、遂には習得に数年かかると言われているホーライ打法にまで手を出した宮崎くん(4年・宮崎雄太)からバトンを受け取りました。ごく一部から化け物などよく分からない事を言われていましたが、4年間で技術はもちろんですが人間的に誰よりも成長し、入部から3年間キャプテン候補だったはずなのに、同級生からの強い意向で無職になった宮田知弥です。
早いもので、1年秋に飯森さん(R7卒・飯森太慈)と神田さん(R7卒・神田航生)と3人で四送会の出し物を必死に取り組んでいたのに、もう自分が送り出される時期になりました。
何を書こうか迷いましたが、これまで自分がどのような野球人生を歩んできたか、そして大学野球生活を振り返ってみようと思います。
自分でもよく分かりませんが、大学に入学してからあまり自分で文章を作る機会が無く、汚い文章になってしまうかもしれませんが最後まで読んで頂けたら嬉しいです。

私は、父親と兄の影響で野球を始めました。始めたというよりは気づいたら野球をやっていました。兄と歳が離れているため、お腹の中にいる時からグラウンドに居たそうです。そんな私に野球以外をやる選択肢は無く、小学校2年生から地元の少年野球チームに入りました。そこで高村監督、山本コーチ、原コーチなど様々な指導者の方から野球の楽しさ、難しさを教わりました。特に原コーチは鬼で、キャッチボールをする際に構えた所に行かなかったらボールを取ってくれず自分で取りに行くという練習がありました。小学校2年生にはあまりにも酷です。素晴らしいコントロールがつくか、イップスになるかという究極の練習だったと思います。みんなで朝、原コーチのバイクが止まっていたら誰が原コーチとキャッチボールをするかジャンケンで決めていました。そんな地元の友達は今でも連絡をとって飲みに行き、朝からキャッチボールをする仲です。
かけがえのない宝物だと思います。

小学校6年の時にはジュニアチームで、あの世界のKojima(4年・小島大河)と出会いました。彼は今のだらしない身体からは想像も出来ないくらい背が小さく細かったです。でも当時からバッティングフォームが変わっていないのはびっくりしました。
中学に入り、硬式野球をやる際にどこのチームにするか悩んでいました。様々なチームに体験に行かせて頂きましたが、中本牧シニアだけはどうしても体験に行きたくなかったのを覚えています。理由はガラが悪くヤンキーが多いと噂だったからです。父親に半ば強制的に連れていかれ、恐る恐るグラウンドに入ったのを今でも思い出します。そこで私の野球人生の中でまた1つ大きな出会いがありました。ミプロのお兄さんこと、瓜田コーチとの出会いです。皆さん、学校に1人はいる運動が出来て眉毛が無くてバチバチのヤンキーを思い浮かべてください。それです。
瓜田コーチはとにかくイカつく、野球の事にはとても厳しい方でした。案の定、体験生の私に物凄い威圧感で指導をしてくれました。恐怖でしかありませんでした。体験が終わり「絶対に中本牧シニアだけは行かない」と強く心に決めて帰宅しました。数日後、父親と銭湯に行った際に「中本牧シニアにしよう」と告げられた時は頭が真っ白になりました。それでも野球ができる環境や、あんなに熱いコーチがいるならと思うようになり入団を決めました。
それからは瓜田コーチに何度シバかれたか分かりません。キャプテンになり、他の人がダラダラしていたら私がシバかれ…チームの子は本当に嫌いでした!笑
それでも皆でジャイアンツカップに出場できたのはとても良い思い出です。光岡、土屋、強く当たってごめんな。
瓜田コーチは毎週のように夜ご飯に連れていってくれて、色々な話をして野球人として1人の人間として育ててくれました。
大学になった今でも連絡を取らせて頂き、帰省の際には必ずご飯にも行かせて頂いています。
私は将来、こんな大人になりたいと中学生ながら思いました。

そして高校を決める際は林吉監督(中本牧シニア監督)に「おめぇは横浜でいいんだろ?」と一言告げられ、進路が決まりました。
中学3年の春に大阪で行われる全国大会に出場し、その空き日にセンバツを観戦しに行きました。慶應が関東代表として戦っていました。
中学3年の私には慶應が凄くかっこよく見え、慶應で野球がやりたいと思った時もあります。
成績表を見てその夢は儚く散りました。しかし横浜高校に進み高校野球を全うすることが出来ました。
高校時代では中学の経験からあまり先頭には立たずに人の影に隠れて行こうと思っていました。
作戦は成功し、初めは矢面に立つことは無く順調に高校生活を送ることが出来ました。しかし1年秋に、横浜高校の軍曹こと、髙山コーチに入寮することを言われ実家からわずか3駅という近さなのに関わらず初めて実家を出ました。
そこからは甲子園で野球をすることを想像しながら必死に練習に取り組みました。
しかし冬に怪我をして投手として限界を感じていました。そんな時に村田監督が横浜高校の監督として来てくださいました。そこで人生が変わったと思います。
怪我で腐りかけていた私を村田監督は野手で勝負してみないかと言ってくださいました。それが野球人生の大きな転機です。
まず、外野から始めることになりました。野手転向後、初の練習試合である浦和学院戦で初回に吉田匠吾くん(4年)の平凡なレフトフライを落とし私の外野手人生は僅か数週間で幕を閉じました。
そんな時にチーム状況からサードがいなかったので、内野手に挑戦することになりました。内野は小学生以来だったので、もちろん高校野球のレベルについていける訳もなく内野手挑戦後の初めての練習試合で見事に2エラーをかましました。
それでも村田監督は私を育ててくれました。
髙山コーチは毎日のように練習後にノックを打ってくれました。自分でもわかるくらい日々成長することが出来ました。
本当にありがとうございました。

そして野手としての日々を過ごしていた時、田中前監督に見ていただける機会があり明治大学に入学させて頂くことになりました。
ここからは大学生活について書いていきたいと思います。
まず大学に入学する際に、響きがカッコイイからという理由で第1志望を商学部にしました。
商学部に決まってから商学部は何を勉強するのかを調べました。野球をしに行くんだから勉強なんてなんとかなるだろうと思っていたら、何とかなりました。
入学してすぐに吉田と瀨(4年・瀨千皓)とAチームで練習をやらせて頂いてレベルの高さに驚きました。
正直、なんて所に来てしまったのだと後悔しました。
リーグ戦で戦う先輩方を見て2、3年後にはこうなりたいと思っていました。
春のリーグ戦が終わり、部屋替えがありました。
私は、岡本伊織さん(R5卒)と同部屋になりました。
岡本さんから指名して頂きました。正直、終わったと思いました。ごめんなさい。同部屋になる前、岡本さんの部屋は大変汚く、なんと言っても怖かったです。しかし実際に同部屋生活が始まると岡本さんは本当に優しく毎日のようにご飯に連れてってくれました。なんで岡本さんは毎日あんなに元気なんだろうとずっと疑問でしたが同部屋になり分かりました。岡本さんは20時には布団に入り、20時半には寝ます。もはや赤ちゃんです。そんな岡本さんの野球に対する姿勢や人間的な部分を一番近くで学ばせて頂いた私は本当に幸せだったと思います。
自分もこんな4年生になりたいと心から思いました。本当に尊敬しています。
4年生が引退して2年生になりましたが、2年生の時は怪我もあり中々思うように野球ができませんでした。そんな中、謙伸さん(R6卒・菅原謙伸)には大変お世話になりました。謙伸さんが散髪する際には必ず私が散髪場所まで行って焼肉を食べさせて頂きました。唯一の楽しみと言っても過言ではありません。謙伸さんとの焼肉が楽しみ過ぎて、早く散髪行かないかなとずっと思ってました。
あっという間に3年生になってしまい、まともな成績は残せていませんでしたが、少しずつ大学野球のレベルに慣れてきました。3年生のシーズンは必ず結果を残したいと思ってました。しかし3年春は打率1割台、秋も2本のホームランを打ちましたが打率は1割台。どこかでは明治のカイル・シュワーバーと言われていました。
この年で田中前監督が勇退されると聞き、ずっと期待して頂いていたのに本当に申し訳無く感じました。監督が戸塚監督に変わり、必ず結果を残してチームの力になりたいと思っていました。しかし監督が戸塚監督になる上で1つ心配な事がありました。それは2年の終わりのオープン戦で今井(4年・今井英寿)と2人でふざけていたところ、当時の戸塚助監督に叱られ「二度と俺の視界に入るな」と言われました。噂ではもう田中前監督の後には戸塚助監督が監督に就任するという話があり、大学野球人生終わったなと思いました。それでも戸塚監督は私を見捨てる事なく、育ててくださいました。
あっという間に春のキャンプが始まり、初めての宮崎キャンプも行われ充実した時間を過ごすことが出来ました。
そして春のリーグ戦が開幕しました。必ず結果を残すと心に決めて挑みましたが、ここで大学生活で一番大きな壁にぶつかったと思います。それは開幕前の最後のオープン戦で右手の有鈎骨が折れたことです。ファールを打った際に衝撃的な痛みが走り病院に行った結果、骨折していました。それでも痛み止めを飲みながら騙し騙しやることにしました。
結果的に力が入らなかったのが良かったのか、打率4割打つことができて、自分の中でも初めて力になれたと思います。ただ優勝できなかったのは本当に悔しかったです。最後に戸塚監督を胴上げして引退します。
なんだかんだでもう4年秋になってしまいました。
私はこれまで本当に素晴らしい指導者の方に出会う事ができ、ここまで野球人として成長できたと心から思います。
ここからは大学生活でお世話になった方に感謝を伝えて行きたいと思います。
まず、戸塚監督。
4年間ご指導頂きありがとうございます。
お陰様で野球の技術、そして何より人として成長することができたと思います。
社会人に進み少しずつ恩返しさせて頂きたいと思っております。
次に、田中前監督。
まず、自分を明治大学に呼んで頂きありがとうございます。田中前監督が居なければ自分は明治大学で野球をすることは無かったと思います。本当にありがとうございます。
次に、文雄さん、福王さん。
バッティングで悩んでいた時、沢山のご指導ありがとうございました。お陰様で自分でも自信が持てるくらいに成長できたと思います。
社会人に進んでも、お二人の教えを守って良いご報告ができるよう頑張ります。
次に、西嶋さん。
ピッチャーと野手という関係でしたが、横浜高校の先輩ということもあってお食事やご指導して頂き本当にありがとうございます。
入学前に入江さん(R3卒・入江大生)と3人でご飯を食べさせて頂いたのは今でも大切な思い出になっています。
また横浜高校の選手が明治大学で活躍する姿を見て頂きたいです。
次に織原さん。
大学生活の多くを怪我で織原さんと過ごしてきたような気がします。その度にメニューを作って頂き、野球以外の話も沢山しました。
ありがとうございました。
次に先輩方。
まず、公家さん(R3卒・公家響)。
公家さんは私の憧れです。横浜高校の先輩であり、公家さん以来5年ぶりに明治大学に来ることが出来ました。
公家さんは関わりもない私が明治大学の練習参加に来る時に、引退していたのにも関わらずグラウンドに来てくださいました。
それから何かあると連絡を取ってくださり、本当にありがとうございます。
入学して4年後は公家さんのようにキャプテンを務めて後輩達に慕われるような人間になりたいと思っていましたが公家さんは偉大過ぎました。
これからも沢山ご相談させてください。
次に、岡本さん。
本当にお世話になりました。もう最後のシーズンだと思うと本当に早かったと思います。
岡本さんと過ごした時間は本当に楽しく、良い経験になりました。こんな4年生になりたいと思いました。2人でパズルをやったのも凄く良い思い出です。今でもご飯に連れてって頂き本当にありがとうございます。これからもずっとよろしくお願いいたします。

次に、山田さん(R5卒・山田陸人)。
山田さんは入学してからずっとサードで背中を見て育って来ました。山田さんの野球に対する姿勢、人柄、本当に尊敬しています。
同じ背番号をつけて野球ができている事が本当に幸せです。多分、背番号を変えたくなくてキャプテンやらなかったのかもしれません。そう思います。
今でも悩んだ時に相談させて頂いています。
本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

次に、藤江さん(R7卒・藤江星河)。
藤江さんは好きな服屋が同じで話すようになりました。2人で買い物行ったりご飯食べたり
本当に楽しかったです。私が進路に悩んでいた時も相談に乗っていただいてありがとうございます。いつでも自分の実家にご飯食べに来てください笑
そして飯森さん(R7卒・飯森太慈)。
飯森さんは入学前からお世話になりました。
推薦組の練習が高3の11月から始まり、毎回憂鬱な時間でしたが、飯森さんがいつも声をかけてくださり一緒に過ごしてくれました。本当にありがとうございます。
入学してからほぼ同じタイミングでAチームにあがり、お互い慰め合いながら耐えた日々も今では良い思い出です。今では雲の上の存在になってしまいましたが、これからも仲良くして欲しいです。よろしくお願いいたします。

そして謙伸さん。
今でも連絡を取らせて頂いてる数少ない先輩です。謙伸さんほど温かみのある先輩は居ないと思います。本当に助けられました。ありがとうございます。またご飯連れてってください。
次に同級生達。
まず、幹部の皆さん。
大変な役割を果たしてくれありがとう。
結構なお荷物だったかもしれませんが、皆さんが幹部を務めてくれたから良いチームになったと思います。
次に、なかむー(4年・中村凌輔)。
初めて凌輔と話した時に鎌学と知って、「夏の大会の3回戦で戦ったよね」と懐かしく話し始めました。しかし何故か上手く会話が噛み合わないと思っていたら、空白の1年があったようです。
年上として接した方がいいのか、同級生として接した方がいいのか最初悩みました。笑
それでも日を重ねていき、仲良くなれて嬉しかったです。君には化け物に見えていたようですが私は数少ない友達として見えていましたよ。
これからもよろしくね。服貸してあげないよ?

次に、おかじ(4年・岡本藍士)。同じ商学部として下級生の時は毎日一緒に過ごして居たと思います。俺のお陰でミクロ経済学取れたこと忘れるなよ。そしておかじはお酒も良く飲みに行きました。本当に楽しい時間でした。一限で終わってそのまま昼飲みしたり、BBQしたり楽しい時間をありがとう。BBQでは、おかじがチームへの熱い想いを2時間くらい話していましたが、同じ内容をひたすら繰り返し話していたのを覚えています。
そして何より衛藤(4年・衛藤晃太)と3人で調布で飲んだ時が1番の思い出ですね。飲み放題で飲み潰れて3人別々で帰ってきたみたいですね。電車の中で正座してるのは多分君だけだよ。また飲み行こうな。
衛藤。
飲んでも駅のホームで寝るなよ。後輩に助けられてなかったら今頃君の右腕は無かったかと思います。そんな衛藤は、このチームで1番練習ができる人だと思います。追い込みすぎて肉離れをしても練習をやり続ける姿は凄いと思う。
ただもう少し休むこと覚えようね。

シャフ田(4年・植田颯斗)。
トイレはトイレでするものだよ。それが出来れば君は世の中に出ても大丈夫だと思う。
あとはもう少しシャワー浴びてね。
遠藤(4年・遠藤雄介)。
君のお陰で、私は4年間監視の中で生活することになったよ。朝練にすれば必ず電話がかかってきたり、勝手に午前中練習になっていたりと。
それでも遠藤が居たから、ここまで来れたとも思います。本当にありがとう。
ひで(今井)。
ひではいつも明るく元気を貰いました。
2人で社会人の練習参加に行って頑張ってアピールしましたね。ひではその日緊張していたのか、シートノック、外野からの送球でイップスを発動しサードを守っていた自分までゴロでボールが来た事は内緒にしておきます。盛りなしで投げて5m地点に着地してました。
それでも持ち前の能力で内定を勝ち取ったのはひでだったね。これからもお互い高めあって行こうね。
しょーご。
まず、メルカリの件はごめんなさい。しょーごは1年生の頃から一緒にAチームで練習してて頑張ってきた思い出があります。しかし2人して伸び悩み、試合開始と共にベンチに戻り横を見ると、常に君の顔があったよ。3年までやったね。笑
それでもサード、ファーストを一緒に守った時は嬉しかったです。次は社会人日本代表で二遊間を組みましょう。
瀨。
俺の母さんと仲良くしてくれてありがとう。
非常に喜んでいます。
これからも仲良くしてあげてください。
仁(4年・井上仁)。
君のお陰で私は今、素晴らしい日々を過ごす事が出来ています。自分には勿体ないくらいですね。こんな時にしか連絡してこないというのは事実だと思います。申し訳ございません。
ただありがとう。
次に後輩達。
まず、八谷(3年・八谷晟歩)。
ハチが同部屋にして欲しいと言ってきた時は嬉しかったです。同じポジションで高めあってきたと思ってる。ハチには迷惑かけた事も多かったと思う。それでも部屋替えの時にまた一緒が良いと言ってくれたのも嬉しかったよ。
多分、移動するの面倒くさいのかもしれないけど笑
それでも何気ない話したり、野球の真剣な話したりご飯食べたり本当に楽しかったよ。
なにより慶應戦、2人で一・二塁間守ったのが嬉しかったよ!
俺はハチが同部屋だったから毎日楽しく過ごせたと思う。本当にありがとう。
ハチには本当に期待してるよ。来年5番つけて試合に出てるところ楽しみにしてる。
また何かあったらいつでも連絡してな。

次に、せいや(3年・福原聖矢)。
なぜ君と仲良くなったか分かりませんが、勝手ながら息の合う後輩だと思っています。
今では毎日のように一緒にいますね。せいやは凄いもの持ってるし今すぐにプロに行っても即レギュラーだと自分は思います。それでも君は社会人野球に進み、自分の跡を追ってくると信じていますよ。

光弘(3年・光弘帆高)。
ミツとも沢山チャーハン食べに行きましたね。学部も同じで良く絡んで貰ったと思います。本当にありがとう。
来年からはミツがチームを引っ張って行かなければならないと思う。俺はチームを引っ張ってないからアドバイスは出来ないけど、ミツなら大丈夫だと思うよ。頑張れ。
ただ俺の元同部屋にはもう少し優しくしてあげてね。彼、ボール投げれなくなっちゃう。
中野(2年・中野竣介)。
光弘にビビるなよ。中野には中野の良さがあるし、あのバッティングは本当に凄いと思う。中野がサードやりたいって言ってきて一緒に練習するために同部屋になったけど同部屋になってすぐに野球やらなくなったからビックリしたよ。
朝練で、少し起きるのが遅れちゃったんだよね。
朝の5時半に君の100キロ近い巨体が2段ベットの上から階段を使わずに飛び降りた時の衝撃は今でも忘れません。本当に揺れました。
その後、君は呼吸が荒くなり、凄い勢いで部屋を出ていったね。その10秒後にマネージャーからの電話でスマホが鳴って、同部屋として胸が痛くなりました。でもあの時間が中野を成長させたと思う。
来年は4番打ってくれよ。
そして恵大(2年・鶴飼恵大)をはじめとする課題を手伝ってくれた後輩達。
本当にありがとう。君達のお陰で私は無事に世の中へ旅立つ事が出来ます。本当にありがとう。
そして最後に家族。
まず、父さん。
ここまで野球をやらせてくれてありがとう。
小学生の頃は誰よりも怖かったです。
それでも父さんは仕事が大変な中でもキャッチボールをしてくれて練習に付き合ってくれて、本当に楽しかったし本当に感謝しかありません。
今も遠いところから必ず試合を見に来てくれて本当に嬉しいです。ずっと憧れの人であり自分も将来、父さんのような父親になれたらと心から思います。
これからもよろしくお願いします。
次に母さん。
母さんもここまで野球をやらせてくれてありがとう。小学校、中学校と朝早くからお弁当であったり色々な準備、そして身体の事であったり様々なサポートをしてもらいました。
母さんが居なければ、ここまで野球が出来ていなかったと思います。高校1年から実家を出て、寂しい思いをさせたかと思います。オフの日に実家に帰り、2人でご飯を食べに行ったり母さんの料理を食べた時にいつも涙が出そうになります。本当にいつもありがとう。
ただ実家に帰る頻度が少なくなった時にあからさまに元気無くなるのやめてください笑。
いつも感謝の気持ちは忘れていません。これからも一番の味方でいてください。

次に祐輔兄ちゃん。
祐輔兄ちゃんは、警察ということもあり仕事が忙しく中々会う機会が少ないです。でもそんな兄ちゃんから貰う一言、2人で過ごす時間は物凄く特別です。母さんが体調悪い時にラーメン食べに行ったり、そのままスポーツショップ買い物行ったり本当に思い出になっています。
お兄ちゃんが、明日から野球の試合だと言って「グローブないから買いに行くぞ」と言った時は正気かと思いました。1日で使えるようになる訳もないのに迷わず買っていましたね。次の日、本当に使ってました。多分、なんでもいいんでしょう。お兄ちゃんは家では本当に警察官なのか疑う時もありますが、家族が今、平和に暮らせてるのもお兄ちゃんのお陰なのでしょう。
本当にありがとう。これからもよろしくね。

次に凌兵兄ちゃん。
凌兵兄ちゃんには本当に頭が上がりません。
自分が怪我をして落ち込んでいたり、悩んでいると横浜から府中まで飛んできてくれて一緒にご飯食べたり励ましてくれます。本当に良い兄ちゃんです。凌兵兄ちゃんから小学校4年になる時に誕生日で貰ったグローブは人生で1番の宝物です。お兄ちゃんはいつも自分のお手本であり先生です。野球を始めたきっかけでもあります。
もしお兄ちゃんが野球以外をやっていたらどうなっていたんだろうと思う時もあります。
それくらい自分にとってお兄ちゃんは影響力がある人です。これからもずっと自慢の兄ちゃんで居てください。


私は野球を通じて、多くの素晴らしい方たちに出会う事ができました。それは私の人生の中で何にも変える事が出来ない大切なものです。
この出会いを大切にこれからの人生を歩んで行きたいと思っています。そしてあと何年野球ができるか分かりませんが、野球ができる間は
野球で恩返しできるよう頑張っていきます。
皆さん、これからもよろしくお願いいたします。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
そろそろバトンを渡したいと思います。
次は、我らのキングこと名実共に世界一のピッチャーとなった毛利様(4年・毛利海大)です。