『僕の野球人生』vol.2 持永 悠介 投手
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.2 持永 悠介 投手(4年/駒場東邦)



実のことを言うと僕の野球人生を書くのは今回が初めてなので、かなり緊張しています。緊張のせいか、アスリートゴリラで電気治療を受けながらスマホに打ち込む腕の震えがとまりません。自分は日本語弱者なので日本語は下手くそですが、温かい目で最後まで読んでいただけると幸いです。
幼少期は野球以外にもサッカー、水泳、そろばんなど様々なおぼっちゃま教育を受けていましたが、小学生になる頃に残っていたのは野球だけだったと記憶しています。
家で祖父がいつも阪神戦を見ていた影響で、鳥谷やマット・マートンと言った往年の名選手が好きになり野球にはまっていきました。
小学校2年生くらいになり、親の転勤の影響でオーストラリアへ引っ越しました。オーストラリアではあまり野球はメジャーではありませんが、アメリカ人も多い影響かそれなりの野球コミュニティはあり、地元の少年野球チームに入りました。
結構自由奔放な野球で、攻撃中足を組んでベンチで座っていたらSam君のお母さんにめっちゃ怒られたり、外野のポジショニングが良くて謎にめっちゃ褒められたり、それなりに少年野球を楽しんでいました。
プロ野球も一応存在していて、選手と観客の距離がかなり近いため、当時修行?をしにきていた秋山拓巳選手らに声をかけて試合後にキャッチボールをしてもらったり、よく分からん選手に折れたバットをもらって宝物にしていたのに母親に「こんなんただのゴミだから」と言われて捨てられたり、日本ではなかなか経験できないことも多く味わえました。
日本に帰ってきてからは少年野球はやらず、塾がない日に友達と公園で野球をするだけでした。ダイヤモンドも収まらないくらいの狭い公園で、ホームラン禁止というなんとも夢のないルールでしたが、ノンパワーな自分にはぴったりの野球でした。
駒場東邦中学に入学すると、家が近かったやつがみんな野球部に入ったのに釣られるように入部しました。下級生の頃はひたすらシートノックでレフト前を後ろにそらし続けて円陣で謝る毎日でした。
3年の最後の大会ではチーム唯一のキャッチャーが直前に怪我をし、外野守備は下手くそだけど肩だけ異様に強かった自分に白羽の矢が立ちました。1週間の急造捕手でしたが、試合であり得ないくらいの補殺を記録し、高校では捕手として野球を続けようと決意しました。
高校にあがってからは、とにかく野球が楽しかったです。下級生時代は松岡さん(R6卒)や永幡さん(や長谷川さん(R7卒))などの偉大な先輩の背中を追いかけ、上級生になってからはひたすら自由で、ノンストレスな練習を楽しんでいました。プラザ練は嫌いだったけど、グラウンド練が週7であればいいのになと本気で思っていて、毎日終礼中に着替えて一番乗りでグラウンドに飛び出していました。多分人生で一番野球が楽しかったと思います。
また、野口先生、内藤先生に考える野球、勝ち切る野球を徹底的に叩き込んでいただきました。東大野球部とは全くカラーが真逆でしたが、その頃の経験は今でもいろんなところで活きていると思います。
最後の大会となる秋の関東大会では決勝点となるピッチャーゴロを放つ活躍を見せましたが、最後の試合では三塁ランナーとして味方の絶妙なセーフティをピッチャーゴロに仕立て上げ、タイブレークの末に負けました。
もちろん勝つために練習をしていたつもりですが、結局は野球がただ楽しくて部活をしていただけなので負けた時は意外にも涙は出てきませんでした。その頃は漠然と硬式野球への憧れがありましたが硬式がある高校に行けばよかったなあと思うだけで、大学野球なんてものは選択肢には浮かんでもいませんでした。むしろ、勉強をしにいく大学で部活に全てを注げるなんて馬鹿げているとまで思っていました。
引退して受験勉強をしてみると結構頭が良かったらしく、みるみる成績が伸びていったので周りに流されて東大を受けることにしました。航空宇宙とかやりたいなあ、なんて思っていました。
同じ頃、同期から松岡さんが大学ですごいらしいと聞きました。長谷川さんもなんやかんややっているらしいと聞きました。調べてみると出てきたのは野球エリート相手に立ち向かう頭脳派集団。なにより神宮で、白と淡青のユニフォームに身を包んでプロの卵を追い詰めていく様がかっこよかった。
かっこいい、ああなりたい。
ただそれだけでしたが、入部を決断するには十分すぎる動機でした。
とはいえ体重も50kg台だった貧弱なガリ勉くんは当時かなりびびっていて、気分はさながらメジャーリーグに挑戦する青柳晃洋でした。
入部してすぐ、家が近い人で練習してくださいとのお達しがあり、青貝くん(4年/内野手/攻玉社)と酒井くん(捷/4年/外野手/仙台二)を誘ってみましたが寝坊して行けませんでした。行っていたら入部をやめていた気もするので行けなくてよかったなと思います。
榎本くん(4年/外野手/渋谷幕張)に誘われて、山崎くん(4年/投手/渋谷幕張)と一緒に神宮の試合を見にいきました。巨人のような黒武者くん(4年/外野手/渋谷幕張)とも遭遇し、一緒に油そばを食べながら神宮で活躍する未来を語り合い、練習へのやる気を高ぶらせました。翌日、家族がコロナにかかり、みんなまとめて自宅待機となりました。
2週間の隔離を経てようやくの思いで入部した東大野球部での毎日は、とても新鮮でした。全面人工芝の綺麗な広いグラウンドがあり、ボールは無限にあって、マシンも何台もあって、先輩たちは一日中野球に没頭していました。練習がしたくなったらいつでも球場に来て何時まででも練習できる、まさに天国のような環境でした。
強打の一年試合では、みんながアホみたいに打っていた流れに乗って50kg台ながら奇跡のアーチを左中間にぶち込みました。その後捷もホームランを打ちましたが、その時に杉浦(4年/捕手/湘南)が「みんなもっと打って(持永のホームランが)かすめ」と言っているのを聞いて、こいつ案外ちいせえなと思ったのを今でも覚えています。
そこからは謎の「9番 DH」で試合に出たりしましたが、捕手としては目立った活躍は見せないままあっという間に秋のフレッシュが終わりました。
同期は捕手が5人で投手が4人だったこと、肩だけは強かったこと、投手をやってみたいという気持ちも強かったことがあり、フレッシュ後に投手に転向しました。
とても練習がきつかった沖縄合宿・とにかく花粉がきつかった鹿児島合宿では、尊敬すべき2個上の先輩方に前鋸筋から肩甲下筋、生物の愛し方や遊び心など、投手としてのイロハを教えていただき順調に成長していきました。また、肩肘の痛みとの長いお付き合いもこの時期から始まりました。
監督に「球威のあるいい真っ直ぐだ」と評価いただいたキレのあるタレ直を投げ続けて抑えてしまった春のフレッシュ後にはAチームにあげていただき、そのまま遠軽、七大戦、双青戦と、かなり贅沢な経験をさせていただきました。この時期は社会人相手にも抑えて悪い意味でかなり調子に乗っていましたが、リーグ戦直前のOP戦で炎上し、門池さん(R7卒)からお叱りの言葉を受けました。当時の自分にはかなり応えましたが、今考えると本当にありがたい言葉でした。その日タコっていた工藤(4年/内野手/市川)らとともに九十九里浜で眺めた星空の美しさは今でも覚えています。
肩が痛かったので、当時の自分は無理に出られるかわからないリーグ戦に向けて調整するよりは、(ほぼ)確実に出られるであろうフレッシュに向けてゆっくり治したほうがいいだろうという決断を下しました。この調子で行けば来春はリーグ戦で投げれているだろう、再来年には主力になれているかもしれないと根拠のない幻想を見てのことでしたが、今振り返るとおそらくこの時が最もリーグ戦に近かったのかなと思います。
ゆっくり調整をしたはずにも関わらず、秋のフレッシュではブルペンで軽く投げただけで激痛が走り絶望しましたが、神宮の大舞台でのアドレナリンで全てを解決しなんとか抑えました。
それと同時に、4年の先輩が引退していきました。その時にもらった、三田村さん(R6卒)の「最後さえよければ大学生活充実していたように感じれるもんだよ」という言葉と、小島さん(R6卒)の「リーグ戦は投げられそうなうちに投げとかないと投げられなくなるかもよ」という言葉はいまだに頭の中をぐるぐる駆け回っています。
ただ自分としては秋フレッシュでも確かに手応えを掴み、来春こそはリーグ戦デビューを果たし、活躍してやろうと思っていました。
「このまま行けば試合に出られる」
このままとは当然このまま意味ある練習を続け、成長し続ければという意味ですが、当時の自分はそんなことはつゆも理解せず、本質的な努力を怠りました。
コントロールという最大の課題を抱えながらも肩の痛みを言い訳にして投げることから逃げ、根本的な課題解決から目を背け続けました。練習が楽しめなくなったのも、この頃からだったのかもしれません。
目的のない形骸的な練習を繰り返した冬を越えて野球が上手くなっているはずもなく、シーズンが始まっても綱渡りのような投球を続けました。普段のOP戦ではそこそこ抑えても、肝心なリーグ戦直前や空き週の試合ではことごとく炎上を重ね、「Aではあるけどリーグ戦には絡まない」立場として3年の間はどんどんリーグ戦に出て活躍していく同期をスタンドから見守るだけでした。
同期のみんなが試合に出て活躍していたことは当然嬉しかったですが、他のピッチャー陣が試合で活躍しても素直に喜べませんでした。自分の実力を棚の上に上げ、自分が投げればもうちょっと上手くはやれるだろうと思いながらも大して努力をすることもありませんでした。正確にいうと、当時の自分に言わせてみればできるだけのことをやっていたつもりだったのでしょう。ただコンフォートゾーンから抜け出せないとはまさにこのことで、努力は大前提のこの部活では自分はスタートラインに突っ立ったままゴールテープが自分に近づいてくるのを願っているだけの人間でした。
ちょっとした転機が訪れたのは遠軽後の名古屋での七大戦でした。最終日の名古屋大Gで、何点かリードした9回に出番が回ってきました。それまでの投手陣がことごとく回の先頭に四球を出し続けていたのもあって、マウンドに上がる際には監督直々に「先頭だぞ、わかってるな」と言われてボールを手渡されました。
結果、ボールが四方八方に飛び散る散弾銃ピッチングで先頭にストレートのフォアボール。その直後にファーストライナーでゲッツーを取り、特大のセンターフライを打たれて見事な三者凡退で試合を締めくくりました。
それまでの自分だったらマウンドが柔らかかっただの、練習ができてなかっただの色々な言い訳が浮かんでくるところでした。ただ、遠征の最終回に登板をさせてもらっているような状況で、応援部が暑い中応援してくれて、尊敬している松岡さんも見ていてという中でこんな結果になったことが惨めで、恥ずかしくて、悔しくて、初めて人前で涙が出てきてしまいました。これがきっかけだったのかはわかりませんが、そこからは次第に自分の実力と向き合うようになりました。リーグ戦で他のピッチャーが活躍することは悔しかったけど、その気持ちを練習にぶつけました。
とはいえようやくスタートを切っても時すでに遅しで、秋もAチームとリーグ戦の差集合という立場は変わりませんでした。
こうして秋も1カードまた1カードと過ぎていき、気がつけば最後の空き週のOP戦を迎えていました。この試合前にちょっとした覚醒を果たした自分は絶対に結果を出してベンチに入るとがんぎまっていました。結果はヒット2本に3つの失策が絡み、3失点。
MAX(最高球速)も更新して、調子が良かっただけにあまりにも悔しくて、西山さん(投手コーチ)と話している時には嗚咽が止まりませんでした。
こうしてリーグ戦デビューの夢は潰えましたが、来年に向けて今までの何よりも確かな手応えを掴みました。
大好きな先輩たちが色々な言葉をかけてくれながら引退し、薫平さん(中村薫平さん/R7卒)宅で投手陣の先輩方の思いを聞き、「半径0メートルの世界を変える!!」と強い気持ちを胸に自分たちの代を迎えました。
野球生活最後の冬は、かなり練習しました。幸い肩肘もかなり元気だったので、いっぱい投げ込んでいっぱいトレーニングして、いっぱいケアしました。年末年始もほとんど実家に帰らず家族には申し訳なかったですが、色々なことを犠牲にした代わりに秋の終わりに得た小さな手応えはどんどん膨らんでいきました。
そうして迎えた年明けのシートではいきなりMAXを大幅に更新し、覚醒を果たしました。周りにも春はリリーフエースで頼むぞと声をかけられ、完全に今季はいけると思い込んでいました。それまでの自分は出力が上がった直後の怪我を繰り返していたので、ビクビクしていましたが肩肘のケアは確立しているし、これでもかというくらい初動負荷や病院に通っていたので、今回は大丈夫だろうと思っていました。
一週間後、脇腹が離れました。
合宿直前にまさかの時差攻撃を喰らい、一時は落ち込みましたが、合宿から帰ってきたらまたすぐ上がれるだろうと当時の自分はかなり楽観的でした。そこから長い長いBチーム生活が始まるとはつゆも知らずに。
怪我が治ったのか治ってないかくらいのタイミングで、調整登板のつもりで芝浦工大戦で投げました。あろうことかかなり気が抜けていたのだと思います。途中からフォアボールが止まらなくなりました。塁審をしていた岩佐(2年/投手/浅野)に、後に「あの時は殺してやろうかと思った」と言われる始末でした。
こんなこともあるか、切り替えよう、と思ったら次の試合もまた次の試合もパッとしない投球を続けました。焦りの気持ちもあったのか肩のケアが疎かになり、試合中に肩痛が再発して春のリーグ戦直前に完全にとどめを刺されてしまいました。そこからのことはあまり覚えていません。多分記憶から消しているのでしょう。
井之口(4年/内野手/ラ・サール)や工藤の初ヒットとか、直人(高橋/2年/投手/日比谷)が活躍していたことは自分のこと以上に嬉しかったです。山崎が出てきてフォアボールを出して帰っていったところは流石に笑いましたが、干されるのではないかとヒヤヒヤしました。そんなことなくてよかったです。
あまり覚えてはいないのですが、当時のLINEや写真アルバムを見返してみると色々と試行錯誤をしていたようで、リーグ戦が終わる頃には次第に調子も元に戻っていきました。
「秋こそは」
何度目なのかはわかりませんが、最後の覚悟を胸にリーグ戦オフを過ごしました。
そこからのことは、多くのことが起こりすぎて自分の人格が崩されてまた新しく組み立てられたような感覚で、すべてのことを鮮明に覚えています。せっかくなので細かく書いてみます。長くなってごめんなさい。
オフ明けのオープン戦でそこそこのピッチングを披露してAチームにあがり、「ここからがオレの”逆襲”ダ!」との思いを胸に、京都に乗り込みました。
双青戦のことは、一生忘れないと思います。先発の渡辺くん(4年/投手/海城)はかなり調子が悪そうで2回くらいで降りてしまいました。大山(2年/捕手/ラ・サール)に急かされながら肩を作り、山崎がいい流れで繋いでくれた登板でした。先頭を三振に取るも四連打を浴び、青貝に「まさかこんなことになるとはな」と捨て台詞を吐いて1/3回2失点で降板しました。
正直にいうと打ち取っていた当たりが多かったし、ついてなかったな、次頑張ればいいだろうと思っていました。
東京に帰ってきた練習で、岡田(4年/学生コーチ/岡崎)にB落ちを告げられました。急いでトイレに駆け込みました。小一時間こもっていたと思います。7月の頭、合宿まで1ヶ月というタイミングでのことでした。遠軽合宿のメンバーから漏れた4年生は強制引退というチームのルール下で、晴天の霹靂の如く引退へのカウントダウンが始まりました。
そこからの1ヶ月は引退の恐怖に毎日怯えながら、最後くらいはと思って毎日野球にのめり込みました。同期が「引退までもう3ヶ月か」と言うのを聞くたびに、遠軽合宿の話をしているのを聞くたびに、最後のシーズンに目を向けた会話を聞くたびに心が締め付けられそうになって部屋に逃げ込みました。毎晩のように泣いていたと思います。悔しすぎて、朝も全然起きられませんでした。
ただ、この頃は情熱の炎に落とした悔し涙は油となって自分のエンジンに火をつけました。
意外とon the verge ofな環境の方が実力を発揮できることにも気づき、野球の調子はどんどん上向いていきました。「点を取られたら引退」と自分にプレッシャーをかけ、毎試合もう投げたくないと思うくらいまで思い詰めましたがその崖っぷち精神が功を奏し、ナイスなピッチングを続けることができました。
合宿メンバーが決まる前最後の試合をパシャリと抑え、助監督にも「いいピッチングができているんじゃないか」と声をかけていただいた時、帰りのバスでは安堵の涙が止まりませんでした。案外ヒットは打たれたけれど、自分史上最もいいピッチングができた1ヶ月だったと思います。
2年捕手陣にはかなりお世話になったし、スタンリー(2年/内野手/早稲田実)は毎回「蹂躙しましょう」と言ってボールを渡してくれたし、毎試合のように同期が試合後に「ないすぴ」と声をかけてくれて、その度にうるうるしていました。本当に嬉しかったです。
ある昼、たいかん(酒井太幹/4年/学生コーチ/筑波大駒場)に呼び出されて遠軽合宿のメンバーには選ばれないことを告げられました。きつい役目を背負って寄り添ってもらった学生コーチ陣には頭が上がりません。「実力的には連れていけないが、ピッチャーは最後まで何があるかわからない。岩手合宿には選手として行って、そこで頑張れ」とのことでした。結果的にスーツケースは使うことになり、首の皮一枚繋がったけど、遠軽にはいけない、、、複雑な心境でした。
その時は自分のことにいっぱいで気づきませんでしたが、同時によしこう(吉田/4年/投手/明善)の引退が決まっていました。
合宿前には紅白戦にも呼ばれ、久しぶりに同期のみんなと一緒に野球ができてとても楽しかったです。いい結果も残し、このまま調子が維持できれば秋も間に合うと思った自分は怪我をしないことを合宿の第一目標に設定しました。
遠軽に行けなかった悔しさを岩手でぶつけようと燃え上がりましたが、先に肩が燃え尽きてしまい、しょんべんピッチングが続きました。
小林さん(理学療法士の方)、横山(3年/投手/新潟)のロキソニンなど色々な力を借りましたが、調子は下向いていくだけでした。
この時期は涙は水となって情熱の炎を鎮火していきました。合宿中はひたすら逃げるように院試の勉強に打ち込んでしまったことを今では後悔しています。
極め付けは合宿後、炎天下の熊谷でまさに大炎上をかましました。この試合ばかりは投げながら「これで最後か」と覚悟しました。最後くらい思い切り投げようと開き直りましたが、肩に力が入りませんでした。
この時期は余計に肩を作らせたり、長時間守らせたりと、後輩のみんなには本当に申し訳なかったです。
なにより、自分の復活に期待してチャンスをたくさん下さった首脳陣に迷惑をかけまくってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
大炎上の数日後に助監督に声をかけられました。「暑かったもんな、肩肘きつそうだから一週間休みをやる、次ラストチャンスあるから頑張れ」とのことでした。うまく返事ができませんでした。本当に頭があがりませんでした。
院試そっちのけ(のつもり)で必死に準備しました。試合当日には高木さん(トレーナー)にも2時間くらいつきっきりで指導してもらって、ありがたい言葉をいただいて奮い立ちました。気持ちに体はうまくついてこずチグハグなピッチングになってしまい、見守ってくれていた高木さんにも顔向けできない投球でしたが、おかげでそこからは徐々に調子も上向いてきました。こうして、いまだに夢を追い続けています。
今までは当たり前に野球ができていたのが、ありがたく続けさせてもらっている立場に変わり、多くのことに気づかされました。
この数ヶ月は特に、本当に色々な人にお世話になって、迷惑をかけてきて、いろんな人の思いに触れて、自分も大きく変わったなと実感しています。
後輩には、こんな情けない先輩にもたくさん声援を送ってもらい、たくさん励ましてもらい、文句一つ言わずに一緒に練習してくれて本当に感謝しかありません。
特にキャッチャーズはブルペンでたくさんプライオをさせてしまって申し訳なかったですが、毎試合真剣に向き合ってくれて嬉しかったです。
夜、Aメンバーが寝静まったロビーでよく黒武者とよしこうの”いつメン”で鉢合わせることが多くなりました。黒武者の「納得はしてないけど、慣れた」と言う何気ない言葉が刺さりました。どれだけ思っているのかはわからないけど、「お前は俺らの希望だよ」と言ってくれました。「絶対に頑張らないと」と思いました。
横山と直人も、本当にこれからというときに怪我をして、自分も直属の先輩として何もしてやれなかった無力感、申し訳なさを感じています。
横山は無理だと決断したその直後にも「頑張ってください」と声をかけてくれて、「絶対に頑張らないと」と思いました。
香川(2年/学生コーチ/開成)、本岡(3年/学生コーチ/基町)にはたくさん気を遣わせて、たくさん迷惑をかけてしまったと思います。本当に、本当にありがとう。これからの東大野球部は安泰だと思います。
今までは「自分さえ良ければ思考」だった自分ですが、今ではお世話になった人達の御恩に報いるために野球をしています。というか、これだけ迷惑をかけておいて、うまくいきませんでしたでは終われないと思っています。自分でもびっくりしますが、みんなと会っていなければこんな風に成長できなかったと思います。本当にありがとう。
ただ、やっぱり何よりもリーグ戦に出てみたいです。スタンドの声援を背に受けながら、他大のエリートを抑えたいです。似合わないけど、ガッツポーズしたいです。
何度も諦めて全てを放り出したくなりましたが、意外と諦めることの方が怖くてできないもんですね。ならやってやるしかないです。
上手くいかないストーリーで終わらせないように、最後まで足掻こうと思います。
後輩へ
こんな先輩でも時には慕ってくれて、アドバイスを聞いてくれて、励ましてくれてありがとう。
辛いことも多かろうと思いますが、たかが部活だし、それでもたかが部活に苦しめられるくらい打ち込めるのはとても幸せなことなんだと思います。
特に持永班のみんなは将来性しかない奴らをかなり作為的にとったつもりなので、勝手にとても期待しています。
みんなが活躍する姿が見られるのを楽しみにしています。
同期へ
みんなと一緒に野球ができて本当によかったです。最後、勝とう。
高木さん、小林さんをはじめ、アスリートゴリラの先生方、マリンの菊地さんなど、本当にさまざまな方にお世話になりました。全身の筋肉が凝り固まっていて常に数箇所痛めている手の焼ける患者だったと思いますが、先生方に救っていただけなければここまで野球を続けることはできませんでした。本当にありがとうございました。
特に高木さん、小林さんには一年の頃からずっと支えていただいて、感謝の念に堪えません。たくさんご迷惑をおかけした分、神宮で活躍して少しでもご恩を返せればと思います。
応援部の皆さんへ
どんなに劣勢でも変わらず応援してくれる姿を見ているからこそ、頑張らなきゃと強く思えました。四年間、一緒に戦ってくれてありがとうございました。
母親へ
女手一つでここまで育ててくれてありがとうございました。こんなことを言うのはマザコンみたいで気が引けますが、日本一の母親だと思っています。最近LINEもまともに返せてなくてごめんなさい。ベンチ入りするのとしつこく聞いてくるのはかなりメンタルに応えましたが、最後くらいはいい報告をしたいです。
増田(4年/投手/城北)
西片で迷惑をたくさんかけて、ごめんなさい。投手長は山崎がいいのではなんて言ってしまって、ごめんなさい。
増田が投手長で本当に良かったなと思います。
色々とたくさん苦労したと思うけど、最後全部ぶつけてやってください。
山崎
前チラッと、「俺はサイドスローに逃げて…」みたいなことを言ってたけどとんでもない。でっかい賭けに出て成功して、流石ギャンブル長だと思います。
夏頑張っていただけに、今こんな状況で納得いかんし辛いと思いますが、最後くらい楽しもう。西片リレーで井沼さん喜ばせられるといいな。
吉田
無限CBマシンとしてたくさんCBに付き合ってくれて、ありがとう。Bでもずっと後輩の面倒見てくれて、ありがとう。いっぱい揉んでくれて、ありがとう。よしこうの分も、勝手に頑張ります。
渡辺
大学四年たっても中身はクソガキのままでしたが、考える力、実現する力はすごいなあと尊敬しています。なんだかんだ色々とお世話になったしね。頑張って完封してね。
大越(R6卒)
大越なき今、やはり我々投手陣は大越あってのものだったのだなと強く思います。お前のことは、忘れない。
かなり長くなってしまいました。
読みにくい文章だったかと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、存在が空気すぎて練習をすっぽかしても誰にもバレなかった山崎くんが書いてくれます。持ち前のギャグセンスを遺憾無く発揮してくれることでしょう。乞うご期待!
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次回は明日9/27(土)、山崎琉投手を予定しております。