『僕の野球人生』vol.7 青貝 尚柾 内野手
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.7 青貝 尚柾 内野手(4年/攻玉社)



⼯藤くん(4年/内野手/市川)からバトンを引き継ぎました、⻘⾙尚柾です。
⼯藤の「マジで」、「これはガチ」に続く内容は⼤抵は嘘、⾔うこと半分が冗談な⼯藤くんですので、向丘イチ騒がしいという⾃分の垂れ込みは「マジで」嘘ですね(笑)。
頑張って書いたので最後まで読んでくれたら嬉しいです!
毎⽇のように⽩球を追いかけて、たまにあるオフに歓喜する、そんな⽇常ももう後1ヶ⽉で終わりです。オフ(部活動がない⽇のこと)という⾔葉がかなり好きな⾃分ですが、そうは⾔っても⾃分はやっぱり野球が⼤好きです。そんな⾃分の16年間の野球⼈⽣をこの機会に振り返ります。
出会いは⼩1の校庭開放だった。
サッカーをやるはずだった⾃分は、たまたま野球ボールが転がってきたことがきっかけで野球と出会った。初めて買ってもらった新しいグローブの⾰の匂いが好きで、ずっと嗅いでいた⿐垂れ⼩僧でした。地元の⼩学校の⼋成少年野球倶楽部に⼊った⾃分にとって、野球は練習中ライトでやっていた砂遊びも含めて、何もかもが新鮮で楽しかった。幸運なことに⼈⽣で初めての試合が神宮球場の外野でできたことや、セカンドゴロを捌いて試合で活躍する⼈がもらえる試合球を初めてもらえたこと、などは今となってはいい思い出です。
⼩2の時に⽗親の仕事の関係でニューヨークに引っ越すことになった。それがきっかけでMLBの存在を知ることになった。⾃分は熱烈なヤンキースファンとなり、毎晩19時から始まる試合中継と翌朝の7時ごろに始まる前⽇の全試合のハイライトを⾷い⼊るように⾒ていた。メジャーリーガーの⾒せる豪快なバッティング、唸る豪速球、めっちゃ曲がる変化球、めちゃくちゃオシャレでカッコいい守備にどんどん魅せられていった。デレク・ジーターのモノマネをして置きティーで遊んだり、両親に頼んで⼿でゴロを投げてもらって、メジャーリーガーを真似したランニングスローをしたりあえて逆シングルでとったり、家の⽊の階段がバキッと⾳がするくらい思い切って投げる壁あてを無限にしてファインプレーの練習ばかりしていた。
⾃分の派⼿好きなプレースタイルの⼟台はこの時に形作られたと思います(笑)。
地元のリトルリーグにも⼊っていたが、⽇本⼈が教えてくれるPPSという野球塾にも通っていて暇さえあれば野球をやっているような少年だった。野球は⾃分を表す代名詞のようになっていった。
⼩5になって⽇本に帰国した⾃分はアメリカでのチームメートが所属していたこともあり、⾚堤ファイターズに⼊って卒業まで軟式野球をやった。ちょうどハマっていたアニメ「メジャー」の清⽔⼤河みたいなプレーを妄想していたものの、硬式から軟式野球に代わり、最初はまともにゴロさえ取れず絶望し、お⺟さんとの公園での⾃主練で泣いたのを覚えている。それでも伸び伸び楽しむチーム⽅針もあり、とても楽しく1年半野球ができた。
中学
中学では中⾼⼀貫校の攻⽟社に⼊学して、実はちょっとバスケと野球で少し迷ったが学校の軟式野球部に⼊った。進学校であったこともあり練習は少なく、それに⽢えて⾃分も環境を⾔い訳に野球にあまり向き合えていなかったと思う。
⾼校
中学で野球を全然やれなかった未練があったので、専⽤グラウンドがあってしっかりと毎⽇野球に向き合える環境がある硬式野球部での⽇々は楽しかった。⾼⼀の夏⼤会で⼆つ上の⽥中先輩(慶應義塾大学/R5卒)が神宮で関東⼀⾼相⼿に圧巻のピッチングをしているのを⾒て、⾃分もいつか神宮球場でプレーしたい!と強く思った。その⽥中先輩が慶應で野球を続けると聞いて、六⼤学野球の存在を知った。その数ヶ⽉後、練習試合に当時東⼤野球部監督だった浜⽥さんがいらっしゃったのをきっかけに東⼤野球部の存在を知ることになる。とはいえ、最初はそういうところがあるんだなぁ程度にしか思っていなかった。
野球の実⼒の⽅は、指導者に恵まれたおかげで上がっていった。守備ではショートバウンドに合わせるなど基本的なことを教わり、打撃では内野の頭もこえなかったのが、次第に外野に⾏くようになり、たまにではあるが越えるようになっていった。2年⽣の時に打った⼈⽣初めての柵越えHRは今でも覚えている。夏の⼤会は⼤した活躍はできなかったが、吹奏楽の演奏やたくさんの応援の中でやる野球の⼼踊る感覚がたまらなく好きになったのはこの頃からだと思う。
最終学年では⽣まれて初めて主将になったけれど、結局思うように野球ができなかった。10⽉の台⾵で河川敷にあった専⽤グラウンドが⽔没して、半年間グラウンドが使えない状況になり、使えるようになったと思ったら新型コロナの影響で部活停⽌、そして夏の⼤会はあっという間に負けてしまい⾼校野球が終わった。
まだ神宮で野球ができていない、まだ野球から離れたくない、もっとやれるかもしれないという⾃分の可能性を信じ、東⼤に⼊って野球をやるんだと決めた。
もし勝っていたら次の試合は神宮だったので、⼤学野球はやっていなかったと思います。
⼤学
⼀年の浪⼈⽣活を経て、合格と同時に東⼤野球部に⼊部した。
まだ全体練習には参加できなかったので、近所に住んでいる新⼊⽣同⼠で練習することになり酒井くん(酒井捷/4年/外野手/仙台二)と持永くん(4年/投手/駒場東邦)と公園で練習することになった。結局⾔い出しっぺの持永くんは寝坊で来なかったので、、、、、すぐると2⼈で練習した。素振りをしようという事になり、すぐるのスイングを⽬の当たりにした。すぐにこいつはうまいと確信し、⾃分のスイングを⾒られるのが恥ずかしくて、絶対に⾒られないようにすぐるが振るのと同じタイミングでバットを振っていました(笑)。
⼤学1年⽣
全体練習が始まり⾃分にとって100⼈を超える⼤所帯で野球をするのが初めてだったので、最初は少し気が張っていた。それでも浪⼈明けで野球をするのが久しぶりで楽しくて、⾅井(4年/学生コーチ/静岡)と⼀緒に深夜の1時とかまで室内でバッティングしていたのも今となっては懐かしいなぁ。先輩や同期が持っている野球に対する熱量や真剣さが⼤好きで、⾃分も頑張ろうと刺激を受けまくりでした。
好きこそものの上⼿なれという⾔葉があるように、⼤好きな野球が思う存分できるのが本当に幸せで楽しかった。その勢いか秋のフレッシュではショートのスタメンで出ることができた。初めて神宮に⽴ったときは、すっごくふわふわして感動したのを覚えている。初打席はしっかり⾃分の名前がアナウンスされるのを聞きたくて、打席にはすぐ⼊らずアナウンスが終わるまで打席の外で素振りっぽいことをしていました。
神宮で野球するだけでもスゴいのに、リーグ戦の⼤声援の中でやったらどんな気持ちになるんだろうと想像するだけでワクワクが⽌まりませんでした。
⼤学2年⽣
2年⽣になると、春リーグ戦からショートのスタメンで出る機会をいただけるようになった。グラウンドに⽴った時の、両校の応援部が繰り広げる圧巻の応援、相⼿するのは⾼校時代テレビや雑誌で⾒たことのあるプロ注⽬の選⼿たち、⼀球⼀球に対する注⽬度、それら全てが⾃分にとっては夢のような空間が広がっていた。
ああ、野球やってて良かった、と⼼から思えました。
⾟いことももちろんあったけど、実⼒を考えると⾃分から⾒ても出来過ぎなんじゃいかと思うほど順⾵満帆な⼤学野球⽣活を送っていたなという風に思います。
⼤学3年⽣
3年春となり、この勢いで不動のレギュラーとしてリーグ戦で⼤暴れしてやろうという風に意気込んでいました。しかし2年⽣の頃から打撃であまり成績を残せておらず、3⽉10⽇のAのオープン戦でついにベンチからも外れました。
そんな中でも意外と(?)負けず嫌いな⾃分は、実⼒がないんだから練習を⼈より少しでも多くやるしかないと思い、その⽇から今でも続いている太幹(酒井太幹/4年/学生コーチ/筑波大駒場)との毎晩のバッティング⽣活が始まりました。
そのおかげで、打撃のレベルが向上し、春のリーグ戦では全試合スタメンで出ることができて確かな成⻑を実感する春となりました。
ここまでの⾃分の野球⼈⽣はちょっとつまずく事こそあれ、どの段階でも試合に出ることありきの順調なものとなっていました。
ここまでが僕の野球⼈⽣の第1章です。
そして、ここからが僕の野球⼈⽣の第2章です。
春が終わり、このまま秋はベストナインを取るくらいに成⻑してやろうという風に思っていましたが、まあなかなかそんな上⼿くは⾏かなくなってきます。
春のリーグ戦途中で⾃分はショートからサードにコンバートされました。ショートはこだわりを持って⾃分が愛着を持っていたポジションだったので、とても悔しかった。
追い討ちをかけるように、次第に夏のOP戦ではベンチを温める機会が多くなり、ショートだったら⾃分より守れる選⼿がいるから、サードだったら⾃分より打てる選⼿がいるからと⾔われている状況の中、どっちつかずの状況となっていた。
今となっては使われないのは当然で、当時の⾃分が客観的に⾃分の実⼒を⾒れていなかったなと思いますが、俺の⽅が打てるもん、守れるもんといった⾝分不相応な気持ちを持ったままでした。
⾃分の代名詞だと思っていた野球、得意なものだと思っていた野球、が上⼿くいかない。その状況を打破する実⼒もなく、秋のリーグ戦では後半のリードしている時の守備固めという役割の中、2勝するチームからどこか気持ちが置いてけぼりになっているなという風に感じていた。もちろんチームが勝った瞬間に⽴ち会えたことは⿃肌が⽴つほど嬉しかったけれど、4年⽣が引退した後、勝ちに⾏くチームに⾃分の気持ちが思うようについていけていなかったと感じ、深く後悔した。
⼤学4年⽣
今年こそは!と意気込んで臨んだラストイヤー。
何とか上⼿くなりたくて社会⼈野球の練習に参加させてもらったり、初動負荷に⾏かせてもらうなど⾝体のケアに今まで以上に時間をかけたり、技術向上のきっかけを探すために必死だった。練習への取り組みは、下級⽣時代と⽐べても⾃分で分かるくらい質・量ともに明らかに良くなっていった。
絶対昔の⾃分より上⼿くなっている。
そう⾔える⾃信はあった。
待ちに待った春が始まった。
⾃分が描いていた神宮で内野を引っ張る⾃分の姿はそこには無かった。
結果が出なかったから当然だ。
⾃分の代わりなんていくらでもいたはずなのに、それでも何かに期待して⾸脳陣がベンチに⼊れてくださっている以上、必死にベンチから声を出すことに徹した。今の⾃分では明るく声を出してチームを盛り上げていくことしか出来ないから、逆にそれが無くなったらもう選⼿としての⾃分は終わりだと思っていた。
平⽇に準備を綿密に⾏って、⼟⽇はいつ来るか分からない⾃分の出番を待ちながら、ベンチで声を出し続ける、それでも出番は来ないのがほとんど、チームも厳しい戦いが続いて中々勝てない。
もうやれるだけやったのかも、これで引退しても3年秋のような後悔はない、そういうことに⾃分の中でしておこう。後悔がないならそれでいいじゃないか、そういう思考になることも多かった。
何気ない⽇常会話の中で昔は⻘⾙出てたもんなみたいな話をされるとき、
周囲に前は出てたけど最近はどうなの?とか聞かれるとき、
まだ神宮に⽴って活躍する機会、権利があるのに、どこか昔いた⼈みたいになってしまっているように感じて寂しかった。それと同時に昔神宮で打った時、ファインプレーをした時などに無意識のうちにすがってしまっている⾃分も嫌だった。
だせえなぁ俺、と⾃分でも思っていた。
野球⼈⽣で⼀番輝きたいと願った時間は4年⽣の今まさにこの瞬間なのに。
そんな春の中でも嬉しいこともあった。
特に同期のリーグ戦での活躍は嬉しかった。
⼯藤のタイムリー、井之⼝(4年/内野手/ラ・サール)のライト前、増⽥(4年/投手/城北)、山崎(4年/投手/渋谷幕張)の初登板。
まるで⾃分ごとのようにドキドキして、嬉しくて、テンションが上がりまくったのを覚えている。
『次はお前の番だな、』そう⾔われている気がするくらい、彼らの活躍は試合に出ることを半ば諦めかけていた⾃分を何度も勇気づけてくれた。
同期の活躍に引っ張られるように⾃分も調⼦が徐々に良くなっていき、久しぶりの出番をいただけた最終カードの⽴教戦でタイムリーを打つことができた。
あの⾼揚感、2塁上から⾒えた盛り上がるベンチ、スタンドの景⾊。
最⾼だった。気づいたらよく分からないガッツポーズをしてしまっているくらいに。
またあの瞬間を味わいたい、
その気持ちを胸にした遠軽合宿、七⼤戦と
春が終わってここまでは紆余曲折こそあれ、あっという間でした。
感情のジェットコースターのような第2章も気づけばフィナーレです。
後は気持ちで、16年間の集⼤成をこの秋にぶつけるだけです。
もうひと暴れと⾔わずに、ひゃく暴れくらいしてやります!
野球⼈⽣での最⼤のモチベーションはただ上⼿くなりたいという純粋な気持ちでした。野球⼈⽣を振り返ると⾃分がいち野球⼈としてどう成⻑したかの軌跡のようになりますが、思い出に残ってるのはそれ以外のことも多い気がします。
記念すべき⼈⽣初打席はデッドボールで即代⾛だったこと、中学時代の初めての練習は忘れ物でいきなり懲罰⾒学スタートだったこと、⾼校時代の冬季強化練で誰かが勝⼿にランで使うコーンの距離感を短くしたのが顧問にばれて⼀切ボールを使わずに無限に⾛るだけになった時の記憶。
⼤学時代の合宿で球場から宿舎まで40分間⼭⼿線ゲームをしながら歩いたこと。1年の頃、オープン戦でやらかしたのにそのまま持永と近くのカラオケに直⾏して熱唱したこと、内⽥(4年/アナリスト/広島学院)、岡⽥(4年/学生コーチ/岡崎)、駒井と滝⾏に⾏ってガチで寒かったこと、⼤学の授業中でも授業そっちのけでYouTube で⾒つけた守備のファインプレー集とかを井之⼝と送り合ったり、榎本(4年/外野手/渋谷幕張)と⽇⽐⾕で映画を⾒て号泣した後にその勢いで深夜にチャリでレインボーブリッジを⽬指してチャリの乗りすぎでケツが痛くなったりしたこと。
チャンスの場⾯で⾃ら監督にグータッチを求め、グータッチして打席に向かうも内野フライを打ち上げ、⾒事に試合後ミーティングの主役となってしまったこと、4春に結果が出ていない同期3⼈と結果が出てたのについてきた増⽥(笑)の4⼈でおもむろに荒川へドライブに⾏き河川敷でただ叫んだこと。
阿部さん(R6卒)、⽯井さん(R6卒)、健さん(R6卒)、別府さん(R6卒)、藤⽥さん(R7卒)、府川さん(R7卒)、⼤原(4年/外野手/県立浦和)、⾨⽥(3年/内野手/松山東)、川⼜(3年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)たちと何度もオフ前⽇の夜にスマブラで熱狂したこと。同期とパワプロしたこと、起きたら寮にどういうわけかみんながいなくて横⽥(2年/マネージャー/湘南)に救われ⾶⾏機に乗れた遠軽合宿出発⽇の朝のこと。ひらがな⼀⽂字の変なあだ名が浸透してしまったこと、他にもここでは数えきれない思い出が僕の⼀度きりの野球⼈⽣を彩ってくれました。
この彩りはただ野球をするだけでは得られるものではなく、本当に素敵な仲間に恵まれたからこそだと思います。
ありがとう。
同期のみんなへ
それぞれの⽴場は違えど、みんなの野球にかける情熱や⼈としてのカッコよさを尊敬しています。最後はやっぱり⾃分達の代での勝ち点を挙げたいです。
4年間ありがとう。
逆襲しよう。
杉浦(4年/捕手/湘南)をはじめとする今年の幹部、部⾨⻑へ
130⼈を超える部員の先頭に⽴って引っ張ってくれてありがとう。
あと⼀か⽉、チーム杉浦を全⼒で盛り⽴てます!
太幹へ
嫌な顔ひとつせずこれまで何千球何万球とバッティング練習で投げてくれてありがとう。
もっと打たないとだよね(笑)。最後は勝ってグータッチしよう。
石井(4年/学生コーチ/仙台二)へ
大切なグラブを俺に託してくれてありがとう。
ファインプレーするからね。
応援部の皆さんへ
どんなに苦しい戦いが続いても全⼒で応援してくれる姿から元気をもらってます、ありがとう。
攻撃中も守備中も鳴り響くみなさんの圧巻の応援のもとで野球をできたことは⼀⽣の宝物です。これからも変わらず最⾼の応援よろしくお願いします!
⼀緒に勝とう。
⾓能(R7卒)、久保へ
まさかこんな形で六⼤学野球という舞台で⼀緒に戦えたことは本当に不思議で嬉しかった。引退したらまた飯いこう。
先輩⽅へ
下級⽣時代は先輩⽅のおかげで⾃由にのびのびとプレーすることが出来ました。
本当にありがとうございました。
引退後も気にかけてくださり嬉しかったです。これからもよろしくお願いします。
後輩のみんなへ
練習内外でも変わらず仲良くしてくれてありがとう。あんま先輩っぽいことはできなかったかなと思います(苦笑)。
⽇々結果を求められる中で野球をするのはとても⼤変でキツイことだと思います。
来たるべき結果にワクワクする時もあれば怖いと思ってしまう時もあると思います。
そんな緊張感を含めた本気の野球の⾯⽩さを存分に味わいつくしてくれたら嬉しいです。
飯⾷いたくなったら気軽に誘ってください!
ずっと応援しています。
ここからは指導者の⽅々と⼩中⾼の仲間、そして家族に向けた感謝の⾔葉です。⻑くなりますがお付き合いください。
⼋成少年野球クラブの⽅々へ
わずかな時間でしたが、僕を野球に出会わせていただきありがとうございました。おかげさまで16年間も野球をやることができました。
PPSの武井コーチへ
もしこの⽂章を読んでいただけていたらとても嬉しいです。野球の基礎、そして楽しんでプレーする姿勢を教えていただきありがとうございました。
⾚堤ファイターズの⽅々へ
⼭本監督、関⼭コーチ、⽥畑コーチをはじめとする⽅々の温かい指導のおかげで、アメリカから帰ってきたばかりで環境がガラッと変わる中で野球を続けることができました。ありがとうございました。
中学野球部の指導者の⽅々へ
勉強もしっかりとやっておくようにと⾔われたおかげで、こうして⼤学まで野球をする機
会を得ることができました。ありがとうございます。
⾼校野球部の指導者の⽅々へ
遠藤先⽣へ、⾃分を六⼤学野球に導いてくださりありがとうございました。神宮は⾼校時代に⾃分が想像した以上に感情を動かしてくる最⾼の空間でした。
澤⽥先⽣へ、冬練で打ってくださったアメリカンノックが記憶にとても残っています。引退後も⾼校のグラウンドに⾏くたび⾃分の野球の動向をいつも気にかけてくださり、ありがとうございました。
⼩室先⽣へ、最後の夏⼤会の試合後、⼤学で野球やれよと励ましてくれありがとうございました。また会いたいです。
享聖先輩へ、享聖先輩がいなかったら、⾃分は到底⼤学野球をしようとするレベルには⾏けませんでした。⾼1の時から毎⽇のように遅くまで⾃分にバッティングを教えてくれてありがとうございました。⼀本でも多くヒットを打っている姿を⾒せられるように残りの試合全⼒でがんばります。引退したらゴルフ連れて⾏ってください!
⼤学野球の指導者の⽅々へ
井⼿前監督へ
わずかな時間でしたがご指導ありがとうございました。Bで練習してる時にチラッと⾔ってくださるアドバイスは⽬から鱗でした。
⼤久保監督へ
本当にお世話になりました。下級⽣の頃から⾃分に期待していただき、たくさんの経験をさせていただきありがとうございました。まだまだ監督に恩を返せてないので、秋結果で恩返しします。
⽯井助監督へ
いつもは少し怖い⽯井さんが、いいプレーをした時に褒めてくれた時は嬉しかったです。ありがとうございました。
トレーナー、医療関係者の⽅々へ
⾼⽊さんへ、いつものトレーニング指導に加えて⾼⽊さんの明るい雰囲気が好きでした。これからも東⼤野球部をよろしくお願いします。
マリントリートメントの菊池さん、⼩林さんをはじめとする新⼩岩の⽅々、b&jの鎌⽥さん、ここでは挙げきれない関わっていただいた全ての医療関係者の⽅々、⾃分が健康にプレーできるように⽀えてくださりありがとうございました。野球を楽しんでる姿を最後までお⾒せします!
⾚堤ファイターズのみんなへ
小5の10⽉からぽっと⼊ってきた⾃分を温かく受け⼊れてくれてありがとう。神宮に応援来てくれた時は嬉しかったです。読んでくれてたら嬉しいな。
中学野球部のみんなへ
いつかみんなで集まりましょう!(笑)
⾼校野球部のみんなへ
練習終わりに翌⽇がオフって聞いてあんなに⼤はしゃぎするのに、結局みんなで公園に集まって野球するくらいみんな野球好きで楽しかったです。⼤学に⼊ってからも神宮に応援来てくれるのは嬉しかったし、たまに⾏く温泉ドライブ、みんなでの飲みは⼼の拠り所でした。4年⽣春のキツイ時に正親と仲⽥が東⼤球場の近くに顔を出してくれて励ましてくれた時は嬉しくて正直泣きそうで、うるうるしてました(笑)。これからもみんなよろしく!
最後になっちゃってごめん!
家族へ
⾃分にとって家族は何よりも⼤切な存在です。個性豊かで楽しい⻘⾙家が⼤好きです。
お⽗さんへ
⾃分が何をするにしてもその判断を尊重してくれて、⽀えてくれてありがとう。⾃分がこうして不⾃由なく思うがままに野球に没頭できる環境に⾝を置けて、こうして16年もの野球⼈⽣を歩めたのはお⽗さんのおかげです。⾃分も親になったらお⽗さんのように⼦どもがやりたいと⾔ったことを⽀えてあげられる親になりたいです。
お⺟さんへ
朝早くから起きてくれて、朝ごはんやお弁当の準備、また洗濯をしてくれて、時にはノックやシャトル投げまでしてくれて本当にありがとう。ずっとお⺟さんの優しさに⽢えてばっかりだったと思います。たまに家に帰った時に開かれる餃⼦パーティーは何よりの楽しみでした。優しいお⺟さんのおかげでここまで元気にすくすくと成⻑できました。
お姉ちゃんへ
いつも⾃分の野球の動向を気にかけてくれて、試合に応援来てくれる時は誰よりも⼤きな声で応援してくれてありがとう。お姉ちゃんが⾃分以外の他のみんなのぼくじんまでも読むくらいぼくじん好きなのは知っています(笑)。家族のLINEグループで今でも定期的に送られる元気いっぱいの近況報告から⾃分も頑張ろうと元気をもらってました。お姉ちゃんの弟で良かったです、これからも仲良くしてね。
3⼈の優しすぎるくらいの優しさにずっと⽀えられてばっかりだったので、今度は⾃分が⼀⽣かけて恩返します。3⼈とも健康第⼀でね!
ここまで読んでくれてありがとうございました。
選⼿としての僕の野球⼈⽣は今⽉いっぱいで終わりです。
⼤好きな野球は僕の⼈⽣に多⼤な影響を与えてくれた、そしてこれからも与え続けてくれる⼤切な存在です。
そんな野球と今まで⾃分の野球⼈⽣に関わってくれた全ての⽅々に改めてお礼を⾔いたいと思います。
ありがとうございました!
明⽇は顔と性格以外は似てるんじゃね?と勝⼿に思っている⾃分の4年間のキャッチボール相棒、九州愛が⽌まらない井之⼝選⼿のぼくじんです!試合中たまに出る⽅⾔は⾒られるのか!?乞うご期待。
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次回は明日10/2(木)、井之口晃治内野手を予定しております。