『僕の野球人生』vol.16 酒井 太幹 学生コーチ
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.16 酒井 太幹 学生コーチ(4年/筑波大駒場)



日に日に勢力を増しつつあるまこつ塾・塾長の岡田(4年/学生コーチ/岡崎)からバトンを受けました、酒井太幹です。昨日の立教戦は塾生たちがヒットにタイムリーに大活躍でした。岡田、ありがとう。
高校2年生の冬にぼくじんを読み先輩方の強い想いに感銘をうけて入部を決意してから、早くも5年近い月日が過ぎようとしています。この野球部に入部して以降、野球のない日常なんて想像もできないくらい濃密な日々を過ごすことができました。僕を東大野球部に導いて下さった全ての先輩方に感謝しつつ、十数年かけて紡いできたこの野球人生をありのままに綴ることが、あの頃の僕のような、悩める後輩の背中を少しでも押せるものであることを願います。長く稚拙な文章ではありますが、最後までお読みいただけると幸いです。
野球に初めて触れたのは5,6歳の頃だろうか。幼稚園の友達とボールを投げ合っていたのが先か、WBCのイチローのヒットになんだかよく分からないまま興奮したのが先かよく覚えていないが、気づいたら毎日野球中継にかじりつきテレビの前で形態模写を繰り返しながら、選手名鑑をボロボロになるまで読み込む子供になっていた。
小学3年生になると、地域の少年野球チームである久我山イーグルスに入団した。
仲間に恵まれそれなりに強いチームだったので、ただボールを打った投げたの楽しさだけでなく、勝つことの楽しさを知ることができた。平日は塾で勉強、土日は野球と今振り返ると我ながらなかなかタフな少年時代だったが、それでも毎週土日にグラウンドで野球をするのが楽しみで仕方が無い、そんな4年間だった。
中学受験を経て筑波大駒場中に入学すると、迷わず軟式野球部に入部した。
ここでは少年野球の貯金もあり1年生の頃から多くの試合に出させてもらったが、進学校特有の緩い雰囲気と自分の勝ちたい、しっかりと野球をしたいという気持ちの折り合いをつけることができず、先輩方に多大なるご迷惑をおかけしたと思う。後々になって笑って許してくれたからこそ、野球を続けることができたと思っています。69期の皆さんがこの文章を読むことはないかもしれませんが、本当に感謝しています。ありがとうございました。
自分が最上級生になってからも、主将として練習メニューを組み立てて練習を動かすことに苦労し、ただ野球をするだけではない、チームをまとめることの難しさを知った3年間だった。
そんな中学時代のモヤモヤを持ちつつ入部した高校硬式野球部で、朝木監督(S60卒)に出会った。フルスイング全力疾走を信条として積極的に仕掛けていく攻撃的な野球の下、青木さん(R6卒)とバッテリーを組んで夏の大会で2回勝つことができ、久しぶりに勝つことの楽しさを思い出した。
また朝木監督には、折に触れてリーダーとはどうあるべきか、チームとはどうあるべきか、さらには日本の将来を担うべき人間として今の日本をどのように捉えるかなど、様々なことを教えていただいた。特に自分が3年生となり主将になってからは、練習だけでなくチーム運営など多くのことを任せてもらった。試合後の遅々として進まないミーティングなど口を出したくなる場面も多々あっただろうと思うが、それでも我々を信じてじっと待っていただいたからこそ、成長出来たのだと思う。「リーダーシップとは、自分のやりたい方向へ他人を巻き込んで向かっていく力。既存の他人の巻き込み方に囚われず、自分なりの方法を見つけなさい」「リーダーはまず自分の間違いを素直に認められる人間でありなさい」「努めて明るく」などの言葉はとても印象的で、今も心に残っている。
部員全員の目的意識の統一やモチベーションの維持、そしてそれを目標達成にまでつなげるという難題に対して、中学から変わらない同期7人で力を合わせてもがきながらも取り組み、中学から確たる成長を感じた3年間だった。
東大野球部への入部を決意したのは高校2年の冬頃だ。それ以前にも、朝木監督に大越さん(S60卒)とのバッテリーの話を聞かされ、お前が東大に入って連敗を止めろと言われたり、青木さんが引退するときに泣きじゃくりながらまた東大でバッテリー組みましょうと言ったりしたが、それでもまだ東大野球部はぼんやりとした存在だった。
そんな高2の冬、一つ上の先輩が文化祭も終わり本格的に受験勉強に向かっていく様子を見る中で、自分も東大に入ったら何をしようかと考えた。せっかく東大に行くんだったら遊んで4年間が終わるのはもったいない、正直自分の野球の伸びしろは自分が一番よく分かっているし、他大ともっと対等に勝負できそうな他のスポーツでもやってみようか、それとも1年の頃から自主ゼミにでも入って学べるだけ学び尽くそうか、そんなことを考えながらも一応東大野球部について調べてみたとき、僕の野球人生に辿り着いた。
自分の存在意義や野球をする意味への苦悩、4年間かけてそれに対する自分なりの答えを見つける姿、勝利への強い渇望。
そこに書かれていた物語は、びっくりするぐらい生々しくて、自分の胸に強く突き刺さった。自分はこんなに強い想いをもって何かに取り組んだことがあるだろうかと自問し、こんなにも悩み苦しみながらも前を向いて進んでいけるほど好きなものは、自分にはやはり野球しかないと確信し、そしてなにより4年間かけて自分なりの答えを見つけた先には、どのような景色がひろがっているのか見てみたいと思った。
大学に入学して勇み足で入部したのはいいものの、最初の1年間は自分の下手くそさを嫌と言うほど認識した。高校時代は一番得意だった投げるという動作が、気づいたら一番の苦手科目になってピッチャーへの返球に苦労したり、室蘭で幾らやってもキャッチャーノックが捕れなかったり、大学とのOP戦にはほとんど出場できなかったり、、、頑張って思い出しても、残念ながらいいプレーをした記憶はあまり出てこない。
それでも、たまに永田さん(R6卒)に上手くなったねと言われることが、室蘭で半泣きでノックを受けていたら俺もやると言って一緒になって受けてくれる同期がいることが、そして試合で上手くいかないことがちゃんと悔しくて、絶対に上手くなってやると思えている自分がいることが嬉しくて、必死に練習した。今思えば亀のような歩みだったかもしれないけど、それでも少しずつ上手くなっていることが感じられた、充実した1年間だった。
そんな中始まった、学コ選出の学年ミーティング。正直、どんな話し合いをしたかはもうよく覚えていない。ただ、学コ選出をただ早く終わらせたい議題と捉えていそうな人と、とても真剣に捉えてくれている人の2種類の人間が存在することが垣間見え、部内の立ち位置的に候補にはなるだろうと思っていた自分は少し複雑な感情になったことだけ覚えている。
そして学年の投票で候補の4人が絞られた。数馬(伊藤数馬/4年/マネージャー/旭丘)、詠介(大田/4年/学生コーチ/都立西)、かつ、そして自分。
4人で時間をかけていろんなことを話した。なぜこの部活に入ったのか、この部活で何を成し遂げたいのか、選手として1年間過ごしてきて今どのように感じているのか、、、無言の時間が永遠に続くかのようにも感じられた。
「高校の頃は全然上手くなくて、全然練習もさせてもらえなくて、悔しくて。大学でちゃんと練習したらどこまで上手くなれるのか、自分の可能性を見てみたかった」
かつが消え入るようなか細い声で言ったこの言葉が、自分の琴線に触れた。
あんなに普段ふざけてばかりのかつが、こんな想いを持っているなんて知らなかった。
あんなに普段周りに引きずり回されてばかりのかつが、渋幕の同期に野球やろうと自分から声をかけて入部してきたなんて知らなかった。
数馬や詠介にも同じように彼らの物語があった。
自分たち4人は実力的に、4年間頑張り続けてその中の誰か1人がギリギリベンチ入りできるかどうか、そんな4人だ。彼らの真摯な話を聞いた今、もはや彼らを蹴落としてでも自分がベンチ入りの最後の一枠を掴みたいとは、どうしても思えなかった。彼らが前へ一歩進もうとするとき、その一歩を支えてあげられるような、そして共に喜べるような人でありたい。思い返せば中学や高校での楽しさや悔しさも、自分が打った投げたよりも、どうにかチームをまとめようとしたことばかりだった気がする。この部に入部したときも、どんなに苦しくても前を向き、自分なりの答えを見つけようと心に決めたはずだ。ならばこの道を歩むことにも意味がある。杉浦(4年/捕手/湘南)にスタメンをとられるのは気にくわないけど、岡田なら、ずっと一緒に練習してきた岡田なら杉浦の相手役を安心して託せる。そう思って学生コーチに転身した。
学コになってからは馬車馬のように働いた。名畑さん(R6卒)や谷保さん(R7卒)に支えてもらい、お前は2年後チーフになるんだから今のうちに学んでおけと、やりたいようにやらせてもらった。かつが気づいたら退部していた想定外の事態こそあったが、これまでと違う景色から見る世界は新鮮で、ただ毎日が楽しかった。
「永田、いい加減現実見ろ」
学コとしての覚悟も、責任も、人を想う心も知らなかった自分にそれを教えてくれたのは、不意に聞こえてきたこの言葉だった。
9月頭、4年学コが4年生のAB入れ替えの話をしていた。どうしても同期を信じたい、どうにかして試合に出られる場面を探したい永田さんに、椎名さん(R6卒)が現実を見ろと諭していた。永田さん、椎名さん、三宅さん(R6卒)、名畑さん、全員が今まで見たこともないような悲痛な表情をしていた。その数分後、永田さんは監督のもとへ悲痛な顔のまま話しにいき、その日、向原さん(R6卒)と平松さん(R6卒)のB降格と引退が決まった。
向原さんと平松さんの2人はその前の週、自分が采配をとったB戦に出場していた。1,2打席でいいよと永田さんだか名畑さんだかに言われたとおり、後ろで出場予定の選手も多かったことから特に深く考えず1打席で交替させた。その1打席が、彼ら二人の大学最後の打席だった。
思い返せば、もともとBだった4年生は夏の岩手合宿が最後の実戦機会になることも知らされていたが、そのときも特段深く考えることなく起用していた。
もっと試合に出るタイミングを早く伝えられていればしっかり準備ができて結果は違ったんじゃないか、このタイミングで選手交代することがどのような意味を持つのか本当に理解していたのか、たとえ結果が出なかったとしても1試合きっちり出してあげていればもっと思い残すことなく引退できたんじゃないか、どんなに今になって思っても、全て後の祭りだった。
人の野球人生を決定的に変える瞬間に携わることの責任を知った。そのために持つべき人を想う心を知った。そして、その決断の責任を一身に背負い、勝つことでその選択が正しかったと証明しなければならないというチーフ学コの覚悟を知った。業ともいうべき、重いものを全て背負い込んだ永田さんの背中は、いつもにまして小さく、孤独に見えた。
その覚悟が試される場面は、案外すぐにやってきた。
同期からもう一人学生コーチを出す話し合いが、なかなか進んでいないことは数馬、優成(石井/4年/学生コーチ/仙台二)、詠介の様子を見れば明らかだった。太幹が選んでくれ、そう言われることになるかもとは薄々覚悟していた。しかし実際にそう言われてから、結論を出すまでの1週間は想像を絶するほど長く、短く、辛く、苦しいものだった。彼らが踏み出すその一歩を支え、共に歩み、共に喜びたいはずだったのに、気づいたらその一歩を奪い取る側になっていた。自分は何のために学コになったのか、意味を見失いそうになるのを懸命に抑え、ただひたすらに考え続けた。彼らの選手としての実力、我々の代の選手層、今の学コ陣や首脳陣を見て思う学コに必要な資質、ない方が良い資質、彼らの性格、自分の性格や能力を補完できうる相性、、、ここでは上げきれないほどのことを考え、悩み、苦しみ、そして数馬を選ぶという結論をだした。
数馬にそれを伝える日、練習ではフレッシュに向けたシートBTが行われていた。数馬はそこで躍動していた。練習後に3人に集まってほしい旨を伝えてあった。自分が指名されてしまうのではないかと、とてつもなく怖かったに違いない。それでも、マウンドにはフレッシュでの登板を勝ち取るべくただ全力で腕を振る数馬の姿があった。輝いてさえ見えたその数馬の姿に、心が揺らぎ、目を背けたくなった。自分の責任を果たすべく、懸命に自分の心を律して、数馬の姿を目に焼き付けた。
自分も一つ、業を背負った。
自分が指揮をとったその後の秋フレでは、なんとか早稲田に勝利することができた。ベンチ入り選手のほとんどを出場させながら、全員で勝つことができた。嬉しかった。数馬も、1イニングを無事に投げきって帰ってきた。試合後、数馬はミーティングで「学コになるのは今まで複雑な気持ちもあったけど、今日みんなで勝って、もっとこのチームで勝ちたいと思った。だから学コとして、これから頑張る」と言っていた。
この日から、自分にとって野球をする意味とは、すなわち数馬になった。数馬にこの部に入ったことを、このメンバーと野球をしたことを、学コになったことを絶対に後悔させない。4年生になったら数馬と一緒にベンチに入り、何がなんでも勝って、今日みたいに一緒に喜びを分かち合いたい。そう思った。
3年生になってからは、より多くの時間を野球と向き合うようになった。寮にも入り、自分の立場でできることを必死に探し、選手を支えた。担当も途中でBからAに変わり、リーグ戦で勝つことの難しさや、今まで知らなかったリーグ戦に関わる選手の努力や苦悩を知った。微力ながらもリーグ戦での勝利に貢献できたような気もして、来年はこの経験を活かして必ず勝ち点をとるんだと意気込んだ。
1年が過ぎるのは、一瞬だった。
3年秋、また学年から学生コーチを出すことになった。学年ミーティングで、学生コーチが監督助監督と相談して決めてくれということになった。
また去年の苦しみがやってくるのか。
正直耐えられる気がしなかった。学年ミーティングで、今まで隠してきた数馬の選出の経緯を初めてみんなに話した。結果は変わらなかった。確かに普段Aで練習している人はBの選手の状況はよく分からないという理屈は分かる。それでも自分にとっては、この苦しみは彼らにとっては他人事で、結局は自分たち学コが背負わなくてはならないものなんだと、改めて突きつけられたような気がした。逃げ出したかった。いや、事実最初は逃げて数馬に背負わせようとしてしまった。数馬に背負わせようとしてしまった罪の意識はそれはそれで凄まじく、最後は心を尽くして向き合った。
監督助監督や数馬と相談して、岡田を選ぶことになった。入部してからずっと一緒に練習してきて、自分の分まで託せると思った岡田を、選ぶことになった。
監督からは選手兼任で、という提案だったが、学生コーチの現状を鑑み、自分たちの判断でほぼ学コ専任に近い形になってもらった。学コになってほしいことを伝えた時の、瞬時に目を真っ赤にするも必死に泣くまいとする岡田の表情は、今も脳裏に張り付いている。
また一つ、背負うものが増えた。
4年生が引退し、新チームが始まった。秋に2勝して、相手が全力でぶつかってくる第3戦の楽しさや厳しさはもう分かった。今年こそその先へ。絶対にこのチームで勝ち点をとるんだ、そう皆思って練習した。
幹部や部門長と相談し、新しい練習メニューをいくつも取り入れた。新しい物事に付きもののチームから出てくる不満には、その都度幹部で出来うる限りの対処をした。
選手の自主練の量が明らかに増え、学コもノックにバッピに奔走した。
年が明けて、長崎合宿に向けて選考のシートBTも予定通り消化できた。期待できる新戦力も何人も出てきた。
順調だ、そう思っていた。愚かにも、そう思っていた。
リーグ戦で勝つことで頭がいっぱいになるが故に、一番大切にしたかった人を、なおざりにしてしまっていることには、このときの自分は気づけていなかった。
忘れもしない、2月15日。
数馬から、学コをやめてマネージャーになりたいと伝えられた。選手も頑張っているし、自分も頑張らなきゃいけないことは頭では分かっている、それでも心がそれに追いつかないと。どうしても球場に行くのが辛くなってきてしまったと。
少し前から、数馬のエンゲージメントが少し下がってきていることには気づいていた。他の学コの中には、数馬をAチームに置いておきたくないと言っている人もいた。
でも、自分は何も出来なかった。
時間をとって、数馬とゆっくり話をすることも出来なかった。数馬の抱えている悩みや苦しみを理解し、軽くしてあげることも出来なかった。他の学コが醸し出す刺々しい雰囲気から数馬を守ることも出来なかった。1年半前、絶対数馬にこの部に入って良かったと、学コになって良かったと思わせたいと、あんなに思っていたのに。その決意を自分は忘れてしまい、数馬を苦しめてしまったのか。
数馬から打ち明けられたとき、混乱した頭に浮かんだものは、後悔しかなかった。
その夜、岡田と優成にこの件を伝えて色々な話をした。
数馬がこのチームを辞めることなんて誰も望んでいないからマネージャー転向を認めよう。いやこれから同期の中にも選手を諦めてもらわないといけない人が何人もいる、その人たちの前で辛いから学コを辞めるなんて選択が許されるのか。やっぱり数馬と一緒に野球がやりたい。でもこの状態の数馬をグラウンドに置いておくことは、チームの勝利に近づくのか。数馬に学コを続けてほしい、一緒にグラウンドで野球をしたいというのはただの自分のエゴなのか。
自分の感情が迷子になっているのが、自分でもよく分かった。
マネ部屋での話し合いが終わった後、寮の自分の部屋に岡田を呼んで二人で酒を飲んだ。そのとき岡田に、たまには自分の気持ちに正直になればいいんじゃないと言われた。
自分の気持ち?
思えば、自分の気持ちや考えを抑えることには慣れっこだった。
学コ内や幹部で沢山議論し、その結論が自分の意見と合っていようがいまいがそれが一番正しいと信じて、監督助監督にどれだけボコボコに言われようと学生の代表として彼らに伝える。監督助監督との議論の結果も、またそれが一番正しいと信じて選手に説明し、俺らを信じてくれと伝える。チーフ学コの仕事なんて、そんなことの繰り返しだ。
そもそも最初に学生だけで話し合うときだって、自分の素の考えを出せることなんてあんまりない。自分の発言には、どうしても学コとしての色がついてしまうし、それに自分は議論の最中に議論の流れをみてこっち側の意見が少ないから少しそっちの視点に立って意見を言っておこうなどと考えてしまうタイプだ。
本当の自分って何なんだろう。今ここに存在しているのが学生コーチとしての酒井太幹なんだとしたら、酒井太幹そのものって何を考えているんだろう。そもそも学生生活の全てを野球に捧げている自分にとっては、学生コーチとしての自分が自分そのものなんだろうか。岡田が自分を支えるために言ってくれたであろうその言葉は、言いようのない自己の分裂感の存在に気づかせてしまった。自分の感情は、より迷路へと進んでいった。
それでも、チームは前に進んでいかなければならない。
自分の気持ちを抑えて、翌日から始まる長崎合宿をなんとか乗り切った。楽しみにしていた学コの4人部屋には、誰も喋らない重苦しい空気が流れていたが、殺人的な忙しさだったのでみんな疲れてるせいだと無理矢理思うことにした。
東京に帰ってきて、数馬がマネージャーになった。喪失感を覚えながらも、それを忘れるくらい練習やOP戦が続く忙しい日々を過ごした。
4月、リーグ戦が始まった。優成の怪我もあって最初の2カードは数馬がベンチ入りした。この時間が永遠に続けば良いのに、そう思ってしまった。何がなんでも勝ちたかったが、勝てなかった。3カード目からは、優成が復帰した。そこからは一瞬で、春のリーグ戦が終わった。
ふと、時の流れがゆっくりになった。
フレッシュ練期間、選手として崖っぷちの同期に学年内での以前の取り決め通り遠軽合宿以降にBチームにいる選手は引退となる、覚悟してほしいと伝えてまわった。
その中で、臼井(4年/学生コーチ/静岡)から選手をやめて学生コーチになりたいと言われた。また一人、その一歩を支えたいと思っていた同期が、引退した。彼らが踏み出すその一歩を支え、共に喜びたいと思って学コになったのに、また何も出来なかった。数馬のことも、頭によぎった。気づいたら、泣いていた。臼井の方が泣きたいだろうに、ただ泣いて泣いて泣き続ける自分に、臼井は優しく声をかけ続けてくれた。翌日、詠介からも同じ話があった。よしこう(吉田/4年/投手/明善)も、サポート役になった。遠軽から帰ってきた後も、黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)に選手を諦めてもらった。もう迷惑はかけまいと、必死に心を無にして話をした。
6月のオフが明け、感情のないままに球場に向かったとき、そこにはにこやかに笑い、懸命に働く詠介の姿があった。詠介は、もう前を向いているように見えた。彼がベンチ入りへの一歩を進むのを支えられなかったと思っていたけど、少し違う方向だっただけで、彼はもう新たな一歩を踏み出しているようだった。マネ部屋を少しのぞけば、笑顔の戻った数馬もいた。マネージャーの一番下っ端だなんて文句を言いながらパソコンをいじり、ひらしほ(平松/2年/アナリスト/洛南)の栄養管理を手伝い、大原(4年/外野手/県立浦和)たちにバッピをしていた。数馬も、自分が気づかないうちに、新たな一歩を、しっかり踏み出していた。
もう、立ち止まっている理由なんてなかった。選手の道を諦めた人たちが、同期へ、次の世代へ、想いを託して動いてくれている。彼らの想いを、絶対に無駄にしない。彼らが自らの野球人生の最後を託すにふさわしいチームでありたいし、人間でありたい。彼らのために全力を尽くそうと、心に決めた。
そして少しだけ、自分のために。あの日、あの決断をした自分を、救うために。どれだけ彼らが前を向いていても、それでも、自分は過去の決断は正しかったのかと、少し考えてしまう。しかしどれだけ後悔しても、過去は変えられない。変えられるのは、未来だけ。勝って、勝ち点をとって、この4年間は間違いじゃなかったんだと、そう思いたい。そして過去の自分に、それでいいんだと、伝えてあげたい。
先日のリーグ戦で、初めて勝った。本当に、嬉しかった。捷(酒井捷/4年/外野手/仙台二)と、晃治(井之口/4年/内野手/ラ・サール)と、工藤(4年/内野手/市川)と、奥畑(4年/マネージャー/智辯和歌山)と、いろんな人と抱き合って喜んだ。青貝(4年/内野手/攻玉社)と念願の勝利のグータッチもできた。でも何より、ベンチ裏に戻って岡田と抱き合ったとき、神宮の出口で笑顔の数馬を見つけたとき、翌日の神宮BTでニコニコの詠介たちと会ったとき、心の底から、頑張って良かったと思った。
その次の勝ち点がかかった試合は、連敗した。とても悔いの残る負け方だった。昨日の立教戦も、勝ちきれなかった。1試合勝った、でも勝ち点は取れなかった。そんなんで終わっていいチームじゃない。残る数試合、死力を尽くして戦いたい。
学生コーチにとっての野球とは、他人の野球を通じてでしか存在し得ない。だからこそ、こんなにも深く悩み、苦しんだ。でもだからこそ、日々誠実に向き合い続けることができた。支え、支えられる仲間の大切さを知ることが出来た。決して一人では知り得なかった感情を知ることが出来た。真摯に野球に向き合い、ただ一つの勝利を目指して懸命に努力する東大野球部は、全員が想いを受け取り、そして託すに足る存在だ。多くの人の想いを背負い、それを力にして選手と向き合い、時に覚悟をもって決断し、最後は選手に自らの想いを託してグラウンドに送りだす。素晴らしい仲間に恵まれながら、このような学生コーチという営みを経験することができて、幸せだった。
ここからは、みんなに少しメッセージを。長いので自分のところだけ読んでください。
選手のみんな
結果が出ても出なくても、日々弛まず努力し続けるみんなのことを、心から尊敬しています。みんなが頑張っているその姿を一番近くから見てきたからこそ、その頑張りに自分も応えたくて、自分も頑張ることが出来ました。みんなを支えていたつもりが、実は支えられていたのは自分だったのかもしれません。本当にありがとう。神宮のベンチから見えるみんなは、最高に頼もしいです。残るリーグ戦、絶対勝とう。
俺のバッピを打ちまくった3人へ
まず捷。この2年間、捷の努力を誰よりも近くから見てきました。長く辛いリハビリ、夏の実戦復帰、プロ志望を公言して自分にプレッシャーをかけつつも、誰もがそれにふさわしいと認める努力をする姿。ただひたすらに格好良かったし、そんな捷を一番近くで支えられて幸せです。このチームは捷が道なき道を切り開き、みんなに自分たちの可能性を教えてくれたからこそ、ここまでやってくることができたと思います。本当にありがとう。ここ1年、結果がなかなか出なくて辛い日々が続いていると思います。春、練習後に室内でうずくまる捷に、上手く声をかけられなかったことを鮮明に覚えています。力になれなくてごめん。必ず最後、捷の力が必要になるときが来ます。この1年間の悔しさ、全部ぶつけてきて下さい。俺たちでも勝ち点が取れるんだと、もう一度、俺たちに可能性を教えて下さい。捷のことを、誰よりも信じています。引退したら家来てね。ボールが最近垂れ気味なの、どうにか修正するので許して下さい。
次に青貝。青貝へのバッピは、ゾーンは狭いし構えるのに時間かかるし打てないとムニャムニャ何か言ってるしで、最初は大変でした。でも日々青貝が上手くなっているのが肌で感じられて、先輩になるにつれて後輩たちに懸命に何かを伝えようとしてるのを知れて、帰り道にいろんな話ができて、青貝の練習パートナーに選んでもらえて良かったです。ヒット打った試合のあと、ニヤニヤしながら青貝が近づいてきてグータッチするの、嬉しかったな。慶應戦で、勝ってしたグータッチは格別でした。もう1回したいので、まずは元気になってくれ。
最後に大原。大原は前の二人とは対照的に投げやすくて大好きです。1年間、打撃長として自分のバッティングだけでなくチームの課題についてもずっと考えてくれてありがとう。ちゃらんぽらんで適当に見えて、実はめちゃくちゃしっかりしてるところも、大好きです。もう落ち込む元気もない、さっき君はそう言いました。君らしくないですね。君は去年の秋、1度地獄を見ました。それでも、最後にはチームを救うヒットを打ちました。今年の春も、リーグ戦やり直したいなんて言いながら、骨が折れててもヒットを打ち続けました。もっと自分を信じて下さい。君なら大丈夫です。大丈夫になるまで俺も投げ続けるから。まずは今津(慶應義塾大学/3年)の打率追い抜くところから始めよっか。もうバット忘れないでね。
学生コーチのみんな
1年間ついてきてくれてありがとう。君たちの野球への熱意、選手への想いは野球界随一です。あと2週間、最後の最後まで最高のチームを全員で追い求めましょう。
まず岡田。2年生の春、ずっと二人で練習していたのが懐かしいです。岡田が一生懸命練習してくれていたから、自分も学コになろうと思えたし、もし自分が選手だったらとか、そんなことも一切思う余地なく学コとしての日々を過ごすことが出来ました。僕に東大野球部で学コをするという素晴らしい経験をさせてくれて、ありがとう。そして学コになってくれて、ありがとう。選手兼任という話をほぼ無かったことにしてしまい、ごめんなさい。学コとして、投手であれ野手であれ選手の感覚を理解し技術的にアドバイスを送るその姿は、とても頼りになりました。岡田に札幌ドームでノックを打ってもらえて嬉しかったな。東大野球部に入って良かった、学コとしてラスト1年やってよかったと、そう岡田に思ってもらえるように頑張ってきたつもりです。楽しかった、その言葉が返ってくるよう、最後の2週間全力で頑張ります。
次に、石井。何から何まで細かいこと全部任せてごめんなさい。チームの最後の最後を突き詰める作業は、石井じゃないとできません。ありがとう。最後まで頑張ろうな。
次に、川又(3年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)と本岡(3年/学生コーチ/基町)。二人のことは全く心配してません。この1年で、君たちは本当に成長したと思います。覚悟と、責任と、それに見合うだけの人を想う心をもって、自分の信じる道を進んで下さい。きっと良いチームになると思います。二人の作り上げるチームが、今から楽しみです。
最後に、香川(2年/学生コーチ/開成)。僕たちの代は誰から見ても杉浦のチームであるように、君の代は誰が主将になろうと、誰がエースになろうと、それは香川の代としてみんなから見られるでしょう。学コとして入部してたった2年でそれだけの信頼を積み重ねてきた君のことを、とても尊敬します。そして香川には、少し自分と似た匂いを感じます。気楽にやろう、そんなことは言いません。いろんな人の想いを背負い、自分の立場に苦しみ、でもそれを乗り越え、強くなって下さい。その先には、素晴らしい景色が待ってます。キツくなったら、いつでも連絡してな。どこにいても、すぐ駆けつけます。永田さんとの三世代会、絶対実現しましょう。
マネージャーのみんな
学コになって、こんなにも君たちにこのチームは支えられているのかと初めて知りました。そして全員が安心して野球を出来るように君たちが懸命に繋いでくれたバトンを、僕も大切に選手に繋ごうと思いました。色々な案件が自分を経由していく分、そしてマネ部屋に居座ってお菓子を食べながら無駄話をしている分、君たちの頑張りは選手たちよりちょっとだけ多く知っているつもりです。代表して御礼を言わせてください。ありがとう。勝って恩返し出来るように頑張るので、もう少し、待ってて下さい。
まず、奥畑。4年間お疲れ様。大変なことも多かったと思うけど、間違いなくこの部はあなたの野球部への愛でまわっています。そこは誇りに思って下さい。ありがとう。慶應に勝ったとき、フレッシュで早稲田に勝ったとき、どちらも奥畑は試合後にロッカーに来たとき、みんなおめでとう、と言いました。でも奥畑もこのチームをここまで引っ張ってきた一員で、立派な勝利の立役者の一人です。ちゃんと言えてなかったので、言わせて下さい。奥畑も、おめでとう。勝手に内田(4年/アナリスト/広島学院)・中島(4年/アナリスト/開成)と奥畑はいつメンだと思ってるので、卒業しても仲良くしてね。
次に由芽ちゃん(番匠/4年/富山中部)。2年生の一番辛いとき、話聞いてくれてありがとう。あのとき思ってること全部話して、感情整理できて、前を向くことができました。感謝してもしきれません。ありがとう。4年生になってからも、由芽ちゃんにはなぜか悩んでることとかを素直に吐露できて、その優しさに甘えてしまいました。ありがとう。まだ由芽ちゃんのこと勝ちアナに出来てないのが心残りなので、法政戦みんなで頑張ります。ぼくじん当日提出になってごめんなさい。
最後に考(山本考/4年/海城)。まず入部してくれてありがとう。2年の岩手合宿一緒に行って楽しかったな。慶應にも秋フレ早稲田にも考ベンチ入りで勝って幸運の置物感が出てきてるので、法政戦も御利益そのままでお願いします。
アナリストのみんな
アナリストも、自分の頑張りが可視化できず、選手の頑張りとのかけ算の形でしか成果を見ることができないという点で、学コと同じような悩みがあると思います。その中でもモチベーション高く日々新しいことに挑戦し続ける姿は素直に尊敬してます。いつも色んな相談に乗ってくれてありがとう。あとちょっと、力を貸してください。
まず倖太郎。倖太郎とは一緒に色んなことを考え、実行してきました。みんなが倖太郎の提案を信頼して聞くのは君がただアナリストだからではなくて、君のこれまでの4年間の真摯な取り組みを全員が見ていて、倖太郎になら任せられる、そう思ってるから聞いてるんです。倖太郎が歩んできた4年間に、誇りと自信を持って下さい。対篠木(法政大学/R7卒)の乾坤一擲の大勝負、悔しかったね。夜な夜な二人で考えた打順や継投が当たったとき、嬉しかったな。今日の倖太郎の声出し、めっちゃ良かったよ。残る法政戦、二人で頭絞れるまで絞りきって、勝ちましょう。あと遊びに行くので早く次の家教えて下さい。
次に、なかじ。なかじとは、もしかしたらこの2年間誰よりも一緒にいたかもしれません。なかじは人のことを本当によく見ていて、欲しいときに欲しい言葉をくれました。人を心底馬鹿にしたあだ名をつけ、常人には理解出来ない理論で中島ワールドを展開したと思えば、次の一歩に悩んでる人に状況を的確に整理し、何気ないけど心にしみるアドバイスをくれる。そんななかじとずっと喋っていたくて、ついつい君の部屋に入り浸ってしまいました。仕事の邪魔してごめんなさい。最近部屋に入れてくれなくて寂しいです。あと2週間、もうちょっと午前中の球場来てくれると嬉しいな。
最後に、後輩アナリストたちへ。アナリストが立てる戦術や選手に示唆する彼らが目指すべき方向は、他人の野球人生を大きく左右しうるものです。それに関わるという覚悟をもち、その覚悟を持っていることを行動で、言動で、成果で示し、選手とともに駆け抜けてください。アナリストWAR1.0、君たちならできると本気で思ってます。アナリスト創成期のメンバーが卒業して、これから始まる東大野球部アナリストの第二章、とても楽しみにしています。
応援部のみんな
どんなときも、僕らの勝利を信じて応援し続けてくれてありがとう。試合中ベンチからブルペンに走って行く途中に、青く染まった満員の応援席を見上げ、応援が織りなすその圧を感じ、縣や高橋、及川と目を合わせてうなずくたびに、勇気が湧いてきます。不死鳥の如く、僕らも何度だって諦めずに戦い続けます。あと少し、力を貸して下さい。
大久保監督、石井助監督
4年間、大変お世話になりました。特にこの1年間は、生意気にも様々なことを言いましたが、それらを寛容に受け止めて下さったこと、大変感謝しています。ありがとうございました。なかなか監督助監督のご期待に沿えるチームを作れなくて申し訳ありません。来年以降も、後輩たちのことを、どうかよろしくお願いいたします。
朝木監督
辛抱強く僕らのことを見守っていただき、ありがとうございました。高校野球の3年間では、野球だけでなく、人生において大切なことを沢山学ばせていただいた、かけがえのない時間でした。また自分に東大野球部への道を開いて下さり、ありがとうございました。チーム筑駒、今では8人の東大野球部最大派閥です。可愛い後輩たちの今後の活躍に、ご期待下さい。
永田さん
突然出てきてびっくりしましたか?笑
永田さんは学コになりたての自分に、言葉で、背中で、様々なことを教えてくれました。卒業した後も、自分が辛くなる度にご飯に連れて行っていただき、また前を向けるような言葉をかけてくださいました。永田さんのその小さな背中は、とても大きく、格好良く見えて、いつだって自分の憧れであり、目標でした。慶應に勝ったあと、ロッカーに戻って真っ先に永田さんに連絡しました。永田さんにあの報告ができて、嬉しかったな。全部終わったら、またゆっくり4年間の感想聞いて下さい。
家族へ
いつも自分の一番の味方でいてくれてありがとう。母さん。今年の正月、寮に帰る前の自分を捕まえて、今年の目標を教えてくれたね。太幹の野球を、全力で応援する。その想いで埋め尽くされた言葉は、とんでもなく恥ずかしかったけど、心から嬉しかったし、母さんの息子で良かったと思った。神宮では毎試合、挨拶するときについ母さんのことを探してしまいます。あと数試合、全力で応援して下さい。父さん。俺に野球を教えてくれてありがとう。思えば小さいとき、東大と早稲田の試合を神宮に見に行ったような気がします。実は最初に東大野球部を教えてくれたのは父さんだったのかもしれません。ありがとう。将来について考えるときも、父さんの仕事する姿に大きく影響されました。面と向かって言うのは恥ずかしいけど、尊敬してるし、信頼してます。
最後に、数馬へ。
いざ数馬に書こうと思うと、いろんな思い出が次々とよみがえってきて、全然まとまりません。キャッチャーみんな嫌いやって言ってた1年生のあの頃、沖縄期間の二人での自主練、ウェ大戦のナイスピッチ、学コを選ぶ前に球場のスタンドで二人で1時間くらい語り合った時に見上げた夜空、秋フレで緊張してる数馬のマウンドに行って、任せたよって言って笑って帰ったら、ゲッツー打たせて無事に帰ってきたこと、全部、鮮明に覚えています。選手を続けたい数馬の気持ちは知っていたけど、それでも自分なりに考えて考えて考えて、数馬を選びました。辛い思いをさせてしまって、ごめん。複雑な感情もあったと思うけど、学コとして頑張るって言ってくれて、ありがとう。
学コになってくれた後、春はB戦を二人で沢山やったね。同期と入るベンチは新鮮で、頼りがいがあって、とても楽しかったです。自分がA担当になったあとも、川又を教育しながら、Bにいる3年生たちが腐らないよう頑張ってくれました。彼らが最後まで野球に食らいつけたのは、数馬と林(4年/学生コーチ/西大和学園)のお陰です。本当にありがとう。
それだけに、新チームになってから、何も数馬の力になれなくてごめん。数馬に何もしてやれなかった自分を悔やんでも悔やみきれないし、数馬一人に辛い思いをさせてしまって本当にごめんなさい。
それでも、数馬がマネージャーになったあと、マネ部屋で笑っている数馬を見ると、救われるような気分になる自分がいます。思い悩んでる数馬なんてもう見たくないです。どうか、ずっと笑っていてください。
数馬は一体この4年間をどのように捉えているんでしょうか。それがどんなものであれ、受け止める覚悟はできました。卒業したら、全部聞かせてください。そしていつか、二人で全てを笑って語り合える日がくることを、願っています。
大変長くなってしまいましたが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。明日のぼくじんは、圧倒的なカリスマ性で己の道を突き進む男、林です。どうぞご期待下さい。
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次回は明日10/15(水)、林拓海学生コーチを予定しております。