『僕の野球人生』vol.17 林 拓海 学生コーチ
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.17 林 拓海 学生コーチ(4年/西大和学園)



「打てんかった」「多分引退やわ」「少なくとも合宿はもれた」「悔しくて涙止まらんわ」。
まだ冬の寒さが残る2/1、シートバッティングのあと、
4年部屋で泣きながら母に送ったラインです。
この日、僕の野球人生の幕が閉じました。
初めまして、林拓海です。
せっかくの機会なので、引退に至るまでの野球人生を、前途洋々な自分の未来へ宛てた手紙として残そうと思います。
野球を始めたのは小学校4年生のときです。それまではサッカーをしていましたが、リフティングが3回しかできない壊滅的なセンスで、人生でただ一度公式戦でゴールを決めた日には、お父さんがケーキを買ってきてくれました。
下級生の控えに回る屈辱にも嫌気がさしていた僕は、地域で一番人数が少ないチームを血眼で探し、今は亡き東大阪南ボーイズに入団します。全部で10人、2人休むと試合にならないチームで、交代という概念はありませんでした。
勝った記憶はほとんどありません。それでも気になりませんでした。僕には、野球そのものより胸が高鳴る時間があったからです。
比較的やんちゃな地域で、裕福な家庭に育った僕は私立小学校に通い、私服はキャップから靴下までラルフローレンという、れっきとしたボンボンとして育ちました。
そんな僕が、やんちゃな友達と自転車を二ケツして公園に行き、コンビニの駐車場の車止めに座ってブタメンを食べる——「悪」になれたような高揚感が忘れられず、気づけばラルフローレンを脱ぎ捨てキャップから靴までアンダーアーマーに変わってしまうほどに当時は地元の野球チームの友達といるのが楽しくてたまりませんでした。(大学生になって原宿のラルフローレンで値札を見たときには、びっくりしました)。
半分が受験、残りは内部進学という私立小学校にいた僕は、プライドの高さもあって中学受験を決意し、6年生のゴールデンウィークで休部します。
受験が終わって戻ると、人数不足でチームは解散していました。あのときは腹が立ちましたが、受験が終わるまで黙っていてくれた母には、いまでは感謝しています。
中学入試を経て西大和学園に入学し、軟式野球部に入ろうかと思いながらも、なんとなく
“俺はボーイズ”というプライドで、また地域で一番試合に出られそうな弥刀東ボーイズに入団しました。
とはいえ中学に入ると、チームメイトは「野球で高校に入る」ことを目指し、熱量が段違いでした。同級生に日本代表もいて、簡単には試合に出られません。
ここで僕は、“ベンチ”“ベンチ外”“干される”“イップス”という、のちに大学でも苦しむ概念と出会います。もともとプレッシャーに弱かった僕は、「27個連続でアウトを取るまで終われない」という練習で26個目、27個目に暴投を重ね、180センチはある巨漢の先輩に「お前、次やったら覚えとけよ」と言われ、アンダーアーマーに包まれたボンボン根性の僕は”イップス”に出会います。
とにかく理不尽に思うことが多い3年間でした。10か11番目あたりの序列だった僕は、怪我人が出たところへ当て込まれる形で、ピッチャー以外の全ポジションを経験します。
イップスに苦しんでいた僕にとってキャッチャーは最悪でしたが、この経験は高校で生きました。
母は試合に出られない僕のために、毎日バドミントンの羽を投げてくれました。僕がベンチにいる日でも朝4時に起きて奈良、和歌山、滋賀、兵庫、それぞれの山奥の球場まで車を出してくれました。
自分が親になったとき、同じことができるのかと考えさせられるほど、手厚いサポートをしてくれました。
辛い中学野球でしたが、いま振り返れば、地元と思える最高の仲間に出会えた時間で、入ってよかったと心から思います。
高校では硬式野球部に入部します。ボーイズ出身ということもあり、かなり期待されていました。
小学校以来の「絶対に試合に出られる」レギュラー、そしてキャプテンを任され、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。週3回しか練習できず、試合も月2回、2年秋で引退という学校の規則で満足な環境ではないのに、それでも大学で好きなだけ野球ができた時間より、この時期のほうが野球を好きでいられたのかもしれません。
人生で最も尊敬する指導者であり人格者の吉田卓郎監督のもと、あのメンバーで一度きりの高校野球を過ごせたことに、いまも感謝しています。また早く集まりたいな。
創設以来初の奈良県ベスト8という実績を残して2年秋で引退した僕は、
中1からの目標だった東大野球部を目指して猛勉強を始めました。学年220人中190番ほどの成績から、朝7時から夜10時までひたすら勉強し、東大模試はE判定でも成績が急上昇して「ワンチャンいける」と思えるところまで来ます。
しかし1点差で不合格。信じられないほど声を上げて泣き、ここでまた1年、野球から遠のきました。
浪人生活は、僕のターニングポイントになりました。
悔しさをバネに東大模試は余裕のA判定。コロナで留学はできず、時間を持て余した僕はドラマ『Friends』を一日中シャドーイングし、週5回英会話に通って英語を話せるようになります。文学、歴史、経済の本を100冊以上読み、知的好奇心が人生最大級に膨らみました。先に東大野球部に入部した芳野(R7卒)や府川さん(R7卒)から話を聞いても、当時は正直、心は動きませんでした。
価値観が大きく変わった僕は、合格後すぐに休学して世界旅行に出るつもりでしたが、コロナの制限で断念しました。東京に家を借りておらず、1ヶ月ほど芳野の家に居候することになります。そこで怪我に苦しむ芳野がチームへの不満を口にするのを聞くのと同時に、
本気で「日本一」を目指すアメフト部の熱い新歓を受け、次第に惹かれていきました。
現役で受かっていたら僕は、合格発表の翌日から練習に参加していたと思います。
人生何があるかわかりません。
野球かアメフトかで悩む中、入試会場で隣の席だった高身長・身体能力抜群・イケメンの林新太郎と体験練習で再会します。運命だと思い、その日にアメフト部への入部を決めました。
野球経験者ということもあって、唯一ボールを投げるポジションであるクォーターバックをやることになりました。入部当初は体重60キロ、ベンチプレスはバーも上がらない体でしたが、徹底的な指導と食トレで身体はみるみる大きくなりました。
経験者か相当の見込みがない限り、1年生はユニフォームも着られず先輩とは別メニューといった環境で、乾燥肌で手が小さい僕は、大きいボールを綺麗なスパイラルで投げることができずにかなり苦戦します。それでも、毎日のトレーニングで成長を実感し、日本一というビジョンを掲げ熱狂的な組織をつくるアメフト部のカルチャーに惹かれていました。
一方で、同じポジションの林新太郎と「ダブル林」と呼ばれながらも、圧倒的な実力差を痛感し、1人しか出られないQBというポジションで「4年間真剣にやればこいつよりうまくなんのかな」と半ば逃げるように野球部への転部を考え始め、最終的には「このままだと、お前は次の春に入ってくる1年生として野球部に入ることになるぞ」と芳野に言われ、2月にアメフト部を退部、3月中に転部しました。
野球部に入って最初の印象は、ただひたすら「うますぎる」でした。
初めてみた春のリーグ戦で2年生ながら大活躍するすぐる(酒井捷/4年/外野手/仙台二)、青貝(4年/内野手/攻玉社)を見て、完全に度肝を抜かれます。芳野には、「お前は内野手で入っても無理だからキャッチャーで入れ」と散々忠告を受けていましたが、ここまでかと驚いたのを覚えています。
アメフトで鍛えたウエイトには少し自信がありましたが、工藤(4年/内野手/市川)のベンチプレスを見て一気に自信をなくしました。
その矢先、部活の帰り道で自転車で交通事故に遭い、東大病院に搬送されます。意識を失って救急車に揺られ、目を覚ますと医師から
「右腕は折れているけど、それ以外は大丈夫」と告げられました。
僕は思わず
「先生、部活はいつからできますか?」と尋ねます。
「手術してから8ヶ月くらい。年明けくらいかな」と言われ、涙がこぼれました。
やっと野球に慣れてきたタイミングで、夏休みは安静、秋フレッシュ絶望宣言は流石にこたえました。
かなり落ち込みましたが、落ち込んでも腕はくっつかないので、浪人中のように本を読み、ひたすらスクワットに励む8ヶ月を過ごしました。骨が完全にくっついたとき、残された時間はあと1年半しかありませんでした。
さすがに焦りましたが、どこかで「俺はまだ実質3ヶ月しか野球をしていない」と言い訳もしていました。春合宿をかけたシートBTで打席をもらえただけでも成長だと自分に言い聞かせ、「勝負は3秋」だと今思えば実力不相応な目標を掲げます。
この時期の生活は野球一色でした。朝はジム、昼からB練、夜は芳野と室内BT。少しずつ試合でもヒットが出始め、レフトが間違えて前進するほど伸びのあるレフトオーバーを打った日は、「これはきた」と母に動画を送りました。
ただ、守備は嫌いでした。取って当たり前というハイリスク・ローリターンの苦行にしか思えません。サードからの送球でリリースの瞬間に「あかん」と力が抜けて宇宙に飛んでいくあの感覚、普通のサードゴロを大暴投してベンチの監督が俯く顔、助監督のノートに刻まれるであろう「林大暴投 送球G」(推測)の文字に怯え、その怯えが次のプレーにも響きます。アノマリーを信じない僕でも、「エラーした次のボールがまた自分に飛んでくる」は当たっていると感じました。
失敗に目が向きがちな評価構造で、萎縮して野球を楽しめません。
正直、僕も楽しくはありませんでした。エラーしたら終わり。ヒットを打ってもBだから打てたみたいな悲観的な気持ちで野球をしていました。
また、エラーのたびに飛ぶ罵声や心のない発言に内心腹を立てていた時期でもありました。
僕は無意味に不機嫌な奴、一ミリも前に進まない発言をする奴が嫌いです。
俯いているだけで、悩んでいるだけでなんか真面目にやってる奴ポジションになるのは、おかしい。
真に知性的で、評価されるべきなのは、チームがどんな状況にあっても笑顔で、打開策を考える。周りを前向きな気持ちにさせる人間であるべきだと思います。そんな思いを抱いて悶々としていました。
転機は3年の夏でした。伊藤数馬(4年/マネージャー/旭丘)率いるhobbious岩手合宿が敢行され、数馬の指名で合宿キャプテンに選ばれます。「hobbious(hobby×serious)」という標語を掲げ、岩手サマーベースボールリーグに臨みました。
この合宿中の野球が、一番楽しかった。みんなが伸び伸びと野球を楽しんでいました。ヒットもそこそこ出て、Bの中では打率上位に入り、「このままいけばリーグ戦に出られなくてもいつかAには入れるのでは」と希望を抱くようになります。
しかし好調はそう長く続かず秋のリーグ期間もBで過ごし、大好きなかいちくん(内田開智さん/R7卒)や芳野の引退をスタンドから見届けることになりました。
毎夜BTしていた芳野が最後のカードでベンチ入りしたことは、僕にとって大きな励みになりました。最終戦前日、「勝ったら月曜もベンチ入りするかもしれない」とBTに誘ってきた芳野の姿勢に尊敬を覚え、これが最後の室内BTになると思うと、帰り道で涙がこぼれました。
新チームの発足に伴い、学生コーチ決めや4年の引退時期をめぐる議論が始まります。当然学生コーチがBチームから選ばれることを考えると自分になる可能性もかなり高いなと感じ、「学生コーチになっても野球を続けるのかな」と悩んでいました。いま思えば自分勝手でした。
4年は春合宿に行けなければ、一芸特化(BT・守備・走塁に絞る)という話で、黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)と「ほなモノマネだな」とか冗談を交わしつつも、正直めちゃくちゃ焦っていました。
高校2年生の秋に、過去にそのタイミングで190番のやつが東大に受かった事例はあったのか先生に確認した時と同じ気持ちです。
3年生の秋にBにいる自分、実戦経験も少なく特に秀でた部分もない僕が半年後にリーグ戦の舞台に立つことはできるのだろうかと、自分を疑うこともありました。
しかしその時Bにいた同期の頑張る姿勢をみて奮い立たされたのを覚えています。本当にありがとう。
一方で助監督と数馬との面談では、起業やビジネスに興味があり、この冬全力で取り組んだ上で、それでも春合宿に行けなければ引退すると伝えました。決意は固まっていました。
冬も充実していました。振り返ると自主練でBTしていた記憶ばかりですが、スイングスピードやスイング時間といった定量的な数字は見違えて向上し「なんとなく良くなっている」という一縷の希望に賭け、運命のシートBTを迎えます。
本来は二日間の予定でしたが、僕は1日で全打席を行うことになりました。1打席目の内容はよかったもののサードゴロ、2打席目は江口(3年/投手/海城)の高めのストレートに空振り三振。その後の記憶はありません。気づけばベンチで号泣していました。
打てなければ合宿に行けない、つまり僕の野球人生が終わるとわかっていたからです。
その日、僕の野球人生は終わりました。中1からの夢だった神宮の舞台で野球する姿を親に見せられないことが、悔しくて仕方ありませんでした。
それでも、自分で決めた道です。悩んでも前には進めません。僕はいま、次のゴールに向けて全力で走っています。
『スリッパの法則 プロの投資家が教える「伸びる会社・ダメな会社」の見分け方』(PHP研究所)という本をご存じでしょうか。著者で投資家の藤野英人氏は、投資先候補の社長に会ったとき、まず「この社長はどんなコンプレックスに突き動かされているのか」を分析するそうです。
藤野氏によれば、リーダーを目指す人にはたいてい過去のコンプレックスがあるそうです。
そう。神宮の舞台に立つことができなかった。
このコンプレックスを解消するのである。
僕の人生を振り返っても、友達全員が東大に合格し、自分だけが大阪にいたあの一年間が一番成長したと思います。
東大野球部よ。最高のコンプレックスをくれてありがとう。
最後にみんなへの感謝と激励で終わろうと思います。
4年生学生コーチのみんなへ。
タイミングの差はあれど、自分の野球を捨ててチームにコミットする。
簡単なことではありません。心から尊敬しています。本当にありがとう。
Hobbiousのみんなへ。
みんなでふざけ合いながら真剣に野球に打ち込んだ時間が大学野球で一番楽しかった。
工藤、増田(4年/投手/城北)、YAMAZAKI(山崎/4年/投手/渋谷幕張) 神宮で活躍する姿を見せてください。
みんなの希望です。
後輩たちへ。
ゆうご(鈴木/3年/外野手/浅野)、がんばれ。はるさん(春山/3年/内野手/昭和学院秀英)も
今泉(2年/内野手/甲陽学院)、こうた(荒井孝太/2年/内野手/西大和学園) がんばれ。
YATAGAI(矢田貝/2年/内野手/日比谷) がんばれ。
いまBにいるみんなの逆転ストーリーを、僕は本気で見たいです。
1人でもそういう先輩がいるだけで後輩にとっては大きな希望になります。
自分がその1人になるつもりで、頑張ってほしい。
楽しみにしています。
野球をしているとネガティブになることも多いと思います。
ポジティブな人間と話したくなったら、ラインしてください。
ご飯に行きましょう。
同期へ
勝ち点とって記憶に残る代にしましょう。
そして80年後、「僕の人生」を執筆する時に、「僕の野球人生」が最高到達点にならないような、ワクワクと挑戦に満ちた人生を歩もう。
両親へ。
お母さんとお父さん、最高です。
母の無条件の愛を受けながら、父が自慢したくなるような息子でありたいと思ってここまで来ました。
子は親を選べないといいますが、
選べない両親がこの2人でよかったと思う毎日です。
神宮で野球する姿は見せられなかった分、もっとすごい景色を見せます。
準備しといてください。
最後に、野球というスポーツが引き寄せてくれた、僕の周りの素晴らしい人たちに、心から感謝します。
次は最近、野球部というより休日のジャニーズにしか見えない伊藤数馬に向かって、いっちょくせんーーーーーーーーーーー! てことで、お楽しみに!
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次回は明日10/16(木)、伊藤数馬マネージャーを予定しております。