『僕の野球人生』vol.19 番匠 由芽 マネージャー
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.19 番匠 由芽 マネージャー(4年/富山中部)



「勝利の女神」の肩書きをいただきましたが、1年秋の慶應戦で祈っている姿がBIG6TVに抜かれてしまって以来、スタンドで変に目立たないよう静かに試合を見るようにしております。4年マネージャーの番匠由芽です。
ここまでの「僕の野球人生」は選手経験がある部員のストーリーだったので、スタッフ経験しかない私は少し違ったストーリーをお届けすることになります。野球人生と呼べるほどの壮大な物語はありませんが、少しばかり私の人生に寄り添っていただけますと幸いです。
努力は報われる。
私の人生はその言葉通りのものでした。
頑張れば頑張っただけ、良い結果がついてくる。自分にも他人にも負けたくなくて、常に自分が満足の行くまで最大限の努力を重ね、自分の願った結果を掴みとってきました。
しかし、見方を変えれば、努力すれば報われるものばかりを選んできた、と言った方が正しいのかもしれません。
私にとって、スポーツの世界は才能がものを言う世界でした。幼い頃から運動は苦手な方ではありませんでしたが、競技としてスポーツをやるとなると、才能を持って生まれた人間には勝てっこない。私のような努力タイプの人間には太刀打ちできない、手の届かない世界だと思っていました。
一方で、それが私が野球に惹き込まれた一つの要因とも言えるかもしれません。
当時小学生だった私は、夏休みに祖父母の家のテレビに映る高校球児に目を奪われました。文字通り泥まみれになって白球を追う球児たちはあまりに輝いて見え、私にとって憧れの存在となりました。でもそれは憧れにすぎず、自分がその世界に関わろうとは微塵も思っていませんでした。そこは才能のある人間が集まる世界だから。
高校生になり、私は県内随一の進学校に入学しました。制服も可愛くないし、入学直後に勉強合宿に行かされるし、全校生徒が集まって変な歌や踊りをさせられるし、頭が狂った集団の中で勉強漬けの3年間を過ごすのだろうと、青春というものを諦めきっていました。
しかし、転機は案外すぐに訪れました。
クラスの自己紹介で何気なく「高校野球を見ることが好きです」と言ったところ、帰り際坊主頭の男が話しかけてきました。坊主に誘われるがままにグラウンドに行ってみると、そこにはテレビで見ていたキラキラの「高校球児」がいました。体ががっちりとした坊主頭の男たちが目の前にいるというだけでただひたすらに感動し、気づけば入部を決めていました。
これだけではなんとも不純な動機で野球の世界に飛び込んだように見えますが、重要だったのは体が大きいとか坊主がかっこいいとかそんなものではなく、才能のない人達が本気で野球に向き合い、努力で強い相手に立ち向かおうとしている、その姿勢でした。正直進学校の野球部なんて所詮お遊び程度で、体もヒョロヒョロでコールド負けが当たり前の世界だと思っていました。しかし現実は、勉強の合間を縫って食事をとり体を鍛え、試合で勝つためにがむしゃらに練習に励んでいました。今まで才能に勝てっこないと最初から諦めきっていた自分が恥ずかしくなり、この選手たちを全力で支えたい、自分の全てを捧げたいと強く思いました。
そこからの3年間は、人生で最も濃い(であろう)3年間でした。授業中はその日の「やることリスト」をノートに書き出し、授業を聞いているフリをしながら千羽鶴を折り、たまに疲れて爆睡して先生に起こされ、まさに部活バカの生活を送っていました。試合に負けて家に帰るとご飯が喉を通らないくらい咽び泣き、翌日の授業中も膝の上にタオルを敷いて流れる涙をそのままに先生の話を聞いていました。高校時代一度も彼氏ができなかったのは、私があまりに部活一直線で、坊主しか受けつけていないと思われていたからだと思います(ということにしておきます)。
選手も私も3年間がむしゃらに頑張ったけれど、結果は残酷でした。自分たちの代になってから秋の大会は初戦コールド負け、春は延長タイブレークの末2回戦敗退、最後の夏も初戦敗退に終わりました。誰よりもみんなの努力を見ていたし、誰よりもみんなの力を信じていたから、それが結果に結びつかないのが悔しくて悔しくてたまりませんでした。
私はいつも試合に負けたとき、傲慢ながらその責任を自分に押しつけていました。あの時チームのためにこう言っておけばよかったとか、あの時落ち込む選手にこんな声をかけていれば力になれたかもしれないとか、自分ができなかったことへの後悔で埋めつくされていました。
でもそれ以上に感じていたのは、自分の無力感でした。私が試合後に抱く後悔は全て練習中の出来事であり、試合中私はベンチの中でスコアを書いているだけ。最後の夏も、投じた球がことごとく外野の間に飛んでいき、マウンドで呆然とするエースを私はただ見つめることしかできませんでした。試合が雨で中断している間、途中からライトの守備に回っていたエースはたまたま私の隣に座っていました。回を追うごとに点差を着実に詰めていたし、絶対に逆転できると私は信じていましたが、ぼうっとグラウンドを見つめる彼に何も言ってあげることができませんでした。「まだ試合は終わってないよ」と背中を叩いてあげたかったのに、その一言で少しでも彼は報われたかもしれないのに、ヒットを打って点を入れることも守備でスーパープレーを見せてチームを盛り立てることもできない私が、無責任に声をかけられないと思ってしまいました。3年間あれだけ頑張って、みんなのそばで支え続けたのに、最後の最後に自分の無力感に対する引け目が勝ってしまいました。
正直、もうこんな思いはしたくありませんでした。マネージャーはもう十分。大学ではもっと別のことに挑戦しよう。そう思っていました。
しかし、高校3年間であまりに野球に取り憑かれた私は他のものに興味が持てず、マネージャーが無理なら自分がプレーする側になろうと思いました。プレー面では全くの初心者でしたが、プレイヤーになれば自分の力で試合を変えられる、選手の気持ちを味わってみたいと思いました。
しかし入学後、「東大」という場所の現実を思い知ります。女子が主体の野球系の部活・サークルは1つもありませんでした。男子主体のサークルも、女子選手の受け入れを明示しているところは1つのみ。その1つに賭けて練習に行ってみましたが、女子は他の大学のマネージャー2人だけ、うち1人はソフトボール経験者で選手も兼任しているものの、ほぼ練習には参加していないという状況でした。それでもプレイヤーという夢を捨てきれなかった私は、何度か練習に参加しました。サークルの皆さんは本当に優しく、私が投げられる距離でキャッチボールをしたり、軽くトスを上げて打たせてくれたりしました。しかし、そこで私は自分に壊滅的に野球センスがないことを実感します。才能がないどころか、この実力である程度野球経験のある人たちの中に混じってプレーするのは危険だと悟りました。実際、そのサークルは中山くん(4年/外野手/宇都宮)が野球部入部までの半年間を過ごしたサークルでした。私が練習に行っていた時期に中山くんもいたのかは全く覚えていませんが、もし一緒にプレーしていた未来があったとすれば、私は一瞬で中山くんの凄まじい打球に当たって骨折していたと思うので、プレイヤーを諦めた私は英断だったと思います。
マネージャーをする気はないと言いながら、いち野球ファンとして神宮球場に興味はあったので、春季リーグ開幕戦を見に行くことにしました。慶應相手に敗戦した試合でしたが、先発の井澤投手(R5卒)がレフトスタンドにホームランを放っていたのがあまりに鮮烈な記憶として残っています。それまで大学野球には全く興味がありませんでしたが、実際に見ると感動してしまうもので、その後毎週こっそり神宮に通っていました。1番バッターの阿久津さん(R5卒)、二遊間を組む遼平さん(林遼平さん/R5卒)と中井さん(R5卒)など、気づけば先輩方の名前を覚え、心惹かれるようになっていきました。
私がマネージャーをしないと決めていたもう1つの理由には、留学があります。小学生の頃から漠然と「留学がしたい」という夢があり、大学では必ず長期留学に行くと決めていました。野球に関わらず、体育会系の部活に入ったら長期留学なんて行かせてもらえる訳がないと思っていたので、それも野球部への足を遠のかせる一因でした。
ある日、東大球場に練習見学に行かせてもらい、帰りにマネージャーの先輩である永田さん(R6卒)と菜月さん(德田菜月さん/R7卒)にご飯に連れて行っていただきました。そこで野球部のお話をたくさん聞くと同時に、自分の悩んでいる理由も相談しました。そこで永田さんがくださったのは
「東大野球部は自分のやりたいことになんでも挑戦できる場所だよ」
という言葉でした。マネージャーの仕事面において今まで先輩たちがしてこなかったことにも挑戦できるし、留学も先輩たちとしっかり相談した上で挑戦できる環境だと伝えてくださりました。永田さんは新歓なのに1人お酒を飲んでいたので覚えていないと思いますが、私にとってとても心強い言葉として胸に刻まれています。ありがとうございます。
先輩にそのような言葉をいただき、それでも約1ヶ月悩んだ末、私はマネージャーとしての入部を決めました。そこからの3年間はただただ楽しくて、本当にあっという間でした。
「挑戦」の一環として、高校野球のマネージャーのようにノックの球出しをさせてもらいました。大学野球のマネージャーはデスクワークが主で、グラウンドを見ることはほとんどないため、選手が練習に励む様子を真近で見られることが幸せでした。しかし、高校野球の理不尽なほどの厳しさに慣れていた私は、練習中に垣間見える緩い雰囲気に違和感を感じるようになりました。同期の選手にちらっと言ってみたこともありましたが、あまり共感は得られず、そんな一部分だけを見てそう言われても、という反応でした。確かに、1日の練習のうちほんの30分程度しか見ていない私が言えることなんて何もない、と妙に腑に落ちました。そこで、「グラウンドのことは選手と学生コーチに任せよう。私は裏方に徹しよう。」と心を決めました。
私にとっては大きな心の変化でした。高校時代はチームの一員として選手と共に戦っている感覚で、練習態度に対して意見することもあったし、試合に負けた時は自分にも責任を感じていました。大学では、もちろんチームの一員であることに変わりはありませんが、マネージャーとして選手が十分に練習でき、試合に臨める環境を整えることに徹し、普段の取組や試合の勝敗は完全に選手に委ねようという考え方に変えました。それにより、無駄に悩むことはなくなったし、ある意味純粋な気持ちでマネージャー業に徹することができました。
大好きな先輩方が次々と引退し、気づけば自分たちの代になっていました。ここからの1年は私にとって辛く苦しく、長い長い1年でした。
ひかりん(奥畑/4年/マネージャー/智辯和歌山)が主務になり、私は山本(4年/マネージャー/海城)と2人で会計業務を担当することになりました。先輩方が引退した直後、早速次年度の予算を組み始めました。私が留学で1年部を離れていたこともあり、ほとんど会計のイロハを教われていない状態だったため、過去の資料をいろいろ読み込むところから始めました。私の頭の中は部のお金のことでいっぱいになり、夜ベッドに入ってもそのことばかりが頭を駆け巡ってなかなか眠れない日々が続きました。気づけば、クリスマスイブの夜も、年越しの瞬間も、私は会計資料とにらめっこしていました。
この頃はまだ、最高学年としての責任感とやる気に満ちていたため、そこまで苦には感じていませんでした。
会計の仕事と同時に、部の新グッズの企画も進めていました。売上が寄付となり部の収入に直結するため、なんとか結果を出せるよう様々な会社の方とのミーティングを重ねました。また、下級生の頃から担当していたEngate(ギフティングサービス)と連携したSNS企画など、広報活動にも力を入れていきました。
ふと気づくと、自分の「やることリスト」が何十件も溜まっていました。
その中で、選手から頼まれた物品の購入や球場設備の修理が滞ってしまうことがありました。私たちのやっている仕事は、ボタン1つで購入完了するようなものではなく、業者の方に連絡し、見積もりをもらい、納品や修理に来てもらう日時を相談し、そんなやりとりを経てやっとゴールに到達します。その連絡の中で時間が発生してしまうことはよくあるし、特に大きなお金がかかる際は大学やOBの方との相談が必要なため時間がかかります。
でも、事情を知らない選手にとってはただの仕事が遅いマネージャーにしか映りません。2週に1回の頻度で行われる幹部ミーティングは、私たちの粗探しをして何かあれば問い詰められるような地獄の時間でした。ミーティングは幹部の選手と4年の学生コーチ・アナリスト・マネージャーが集まって、チームへの意見を集約しよりよいチーム運営を行うためのものでした。もちろん有意義な議論もたくさん行われたけれど、理不尽に責め立てられることも多々ありました。こちらの事情を説明しても、次のミーティングでまた同じことを聞かれたりして、こちらの話を聞く気はないのだなと諦めを感じるようになりました。
選手に見える部分しか評価されず、少しでも上手くいっていない部分があればマネージャーとしての全てを否定される。私でもさすがに堪えました。
リーグ戦やOP戦、合宿などいわゆる選手の目に見える仕事はほとんどひかりんが担ってくれていたため、私の仕事のうち選手に見えるものは物品購入や球場設備の修理くらいでした。でもそれは私の仕事のほんの一端にすぎず、選手の目に見えない仕事ばかり担っていました。
選手に評価されたくてやっている訳ではないけれど、全く理解しようともせずに否定され、尊敬の気持ちを持って対等に接されていないと感じるようになりました。そして、選手全員がそのような人間ではないけれど、そのような人がいるチームを支えようという気にはなれませんでした。夜遅くまで自主練するほどみんなが努力していることも知っていたけれど、嫌になればなるほど悪い部分ばかり目に入り、プラスの感情ではまかないきれなくなっていきました。
下がり続けるモチベーションに対して、仕事は増える一方で、休日に仕事に関する通知が来ていないか携帯を開くことも、メールを確認することも、怖くなっていきました。
それでも私が辞めなかったのは、私が急に辞めたらマネージャーの同期や後輩たちに迷惑をかける、だから辞める訳にはいかないという一心だけでした。マネージャーを続ける積極的理由は1つも残っていませんでした。
春季リーグ戦直前は、1番仕事に追い込まれていたと思います。リーグ戦前日は仕事が終わらず意識が朦朧としながら夜遅くまで作業し、無事リーグ戦が開幕したときには解放感さえ覚えました。
気づいたら春が終わっていました。私たちは1勝もできませんでした。
仕事量が増えると同時に、体の不調も感じるようになりました。高校時代は無遅刻・無欠勤の健康体が取り柄だったのに、明らかに体調を崩すことが多くなりました。元気な日でも、朝は頭痛とともに目覚める日々でした。毎日「大丈夫」と自分に言い聞かせてから家のドアを開けました。「引退まであと〇ヶ月」と後ろ向きなカウントダウンをし、あとは気持ちでなんとか乗り切れると毎日自分に言い聞かせました。
先日の慶應戦後、また体調を崩しました。ただの風邪のはずなのに、精神的にも体力的にも限界が来てしまったような気がしました。気合いでなんとか最後まで駆け抜けようと思っていたのに、体がもう限界だと言っている気がしました。部活自体が嫌いな訳ではないのに、部活のことを考えると体はしんどくなるばかりで、もう戻れないかもしれないとさえ思いました。
でも、私が行けなかった立教戦、みんなは熱い試合を見せてくれました。最後、勝ち点獲得の瞬間をこの目で見届けたいともう一度思わせてくれました。正直、無理をしないともう部活には行けないです。でも、無理をできるのもあと1週間。もう少し踏ん張りたいと思います。
最後の最後まで隠し通せばよかったものを、ここで赤裸々に書くことに決めたのは、マネージャーの後輩たちに自分のありのままを伝えたいと思ったからです。こう見えて私も、いろいろ悩んで苦しんで部活をしていました。一見元気そうな人も、実はいろんな思いを抱えていたりします。悩んでいるのはあなた一人じゃない。周りに話してみると、気づけることがあるかもしれません。私のように1人で抱え込もうとするのはあまりおすすめしません(笑)。この1年は自分のことに手いっぱいで、みんなのことをあまり見てあげられなかったなと後悔しています。今からでも、何かあればいつでも力になるので、遠慮せず頼ってください。
また、選手の後輩たちに言いたいのは、もちろん選手として自分のことを1番に考えるのは間違っていないと思います。でも、少しでもスタッフの話を聞いてあげることで、救われるマネージャーやアナリスト、学生コーチ、学生トレーナーがいるかもしれないということを、頭の片隅に置いておいてほしいです。スタッフは選手に迷惑をかけたくないと思ってしまうので、自分からはなかなか相談できません。スタッフをスタッフだけの世界に閉じ込めないよう、引っ張りあげてほしいです。
さて、最後くらい、明るい話をして終わろうと思います。
10月4日の慶應義塾大学戦、私たちはTEAM2025初勝利を掴みとりました。自分たちの代で勝てなかったらどうしようという不安や焦りから解放され、喜び以上に安堵に包まれました。この1年一度も目標へのチャンスを掴めずにいた中で、やっと「勝ち点」に挑む切符が手に入ったと感じました。
試合後の帰り道。最終回に守備固めとして登場し、2つのセカンドゴロを捌いた井之口くん(4年/内野手/ラ・サール)は、「頑張ってきてよかったわ」と言いました。際どいサードゴロをいくつも捌き、死球で最初の1点をもぎとった青貝くん(4年/内野手/攻玉社)は、その日の夜も遅くまでバッティング練習をし、「明日は俺がヒーローになるよ」と言いました。私たちの代になった時にはこの2人が二遊間を守るのだろうと思っていたし、本人たちもそう願っていたと思います。現実はそう甘くはなかったかもしれないけれど、それぞれの場所で輝くあなたたちは、私にとっては既に立派なヒーローです。
他のみんなも、なべ(渡辺/4年/投手/海城)がマウンドに走っていく度に、捷(酒井捷/4年/外野手/仙台二)が調子が上がらない中でもベンチから必死に声を出すのを見る度に、大原くん(4年/外野手/県立浦和)にチャンスで打席が回ってくる度に、えの(榎本/4年/外野手/渋谷幕張)や工藤くん(4年/内野手/市川)がネクストバッターズサークルに立っているのを見る度に、「どうか、どうか彼らの努力が報われますように」と願って止みません。後輩たちの活躍ももちろん嬉しいけれど、やっぱり同期の存在は格別です。
みんなと出会えてよかった。最後、勝ち点とろうね。
私が飛び込んだ野球の世界は、努力が簡単には報われない世界でした。むしろ、報われないことの方が多い世界でした。それでも、「努力が報われるとは限らない。しかし、努力しなければ報われることはない。」この言葉を信じて、諦めずに努力を重ねる泥臭くも美しい世界でした。この世界を選んだことに後悔はありません。
最後に、お世話になった方々に感謝の気持ちを伝えたいと思います。
高校野球部で出会った方々
私の人生を変えてくれた3年間でした。皆さんには感謝しかありません。
特に、中川監督。監督はいろいろ考えていながらもなかなか全体に意見を言えない私の性格を汲み取り、監督の言葉として選手に伝えたり、選手へ意見を言う後押しをしてくださったりしました。私が部活にかける思いは、監督が1番受けとめてくださっていたと思います。高3春の志望校調査で「第1志望:甲子園出場」と書くような問題児を「お前大丈夫か」と言いながら笑い飛ばしてくださいました。夏の大会で負けた翌日も授業をサボって保健室で泣いていたのがバレてしまい、心配をおかけしました。部活バカのくせに東大に受かってしまうような変なやつですみません。卒業のとき、「お前は十分人のために頑張ったから、今度は自分が輝く側になってほしい」と言ってくださったこと、強く心に残っています。これからはもっと自分を大切に頑張っていきます。
そして、同期の7人。私が入部した時に甲子園に行きたいと言ったから、今でもLINEグループの名前が「甲子園出場選手一覧」なのは本当にバカみたいです。一度部室に怒鳴りこみに行ってしまったので怖いイメージだけが残っているらしいのが気に食わないですが、一生大切にしたいと思える仲間に出会えて本当に良かったです。これからもよろしくね。結婚ダービーは負けません。
大久保監督、石井助監督、鈴木部長
マネージャー業務に関しては優しく見守るスタンスでいてくださり、私たちはのびのびと活動ができました。特に、マネージャーが作成する書類は基本的に部長に確認をいただいていたので、鈴木部長にはたくさんお世話になりました。双青戦の行きのバス内で渡辺と2人で山本のことをバカにして笑っていたのを聞かれていたのは恥ずかしかったです。今後も後輩たちをよろしくお願いいたします。
一誠会(OB会)の皆さま
マネージャーとして長期的な視点で野球部を考える中で、経験と知識が豊富な先輩方の助けは必要不可欠なものでした。マネージャーの仕事をよく理解し、「よく頑張ってるよ」と言ってくださるお言葉は、正解が見えないマネージャー業の中で心の支えとなりました。今後も東大野球部をよろしくお願いいたします。
保護者の皆さま(特に4年生の保護者の皆さま)
神宮球場等でお会いする度に笑顔で声をかけてくださるのが嬉しかったです。きっと息子さんが小さい頃から休日を返上して練習や試合に付き合い、今も毎週のように神宮球場に足を運んでくださっていることと思います。誰目線だという感じですが、1人の女性としてお母様方を尊敬しています。皆さまにとっても、息子さんを追う野球人生の終わりが近づいていることと思います。ぜひ一緒に最後まで戦いましょう。
8名のマネージャーの先輩方
大好きです!!まずはこの一言に尽きます。私たちが最高学年になってからも、先輩方とのグループLINEで質問を投げかけると一瞬で既読がつき、長文で丁寧に回答してくださって、こんなにもありがたいことは当たり前ではないと感じています。平祐さん(R5卒)、石井さん(R6卒)、岩瀬さん(R7卒)の代にはそれぞれの色があって、皆さんのもとで一緒に働けたことを誇りに思います。最高学年になってから背負う仕事の量や責任の重さを実感し、さらに先輩方のすごさを感じました。私は「先輩」でいるよりも皆さんの「後輩」としている自分の方が好きなので、またご飯に連れて行ってください!
六大学のマネージャー同期のみんな
私はみんなと一緒に仕事をすることは少なかったけれど、違うチームで同じように頑張っているみんなの存在がどこか心の支えになっていました。1年の冬、初めてみんなで打ち上げをしたとき、片付けになると全員が一斉に動いて一瞬で片付けが終わって、当たり前だけどみんなマネージャーだなぁって思ったのがすごく懐かしいです(笑)。最後、みんなが笑って終えられますように。
ひかりん
同期がひかりんじゃなかったら、私はここまで続けられなかったかもしれません。性格は正反対で、2人ともAB型の変わり者で、でもなぜか相性がバッチリで仲間としても友人としても大切な存在です。「東大史上初の女性主務」肩書きはかっこいいですがその分背負うものはたくさんあったと思います。1年初期の学年ミーティングでひかりんが主務になりたいと言ったとき、ある選手が言い放った「女は喋りにくいから嫌だ(ニュアンス)」という言葉、笑いを呼びましたが女子である私たちの悩みの核心をついていました。ひかりんはみんなが話しやすく意見を言いやすい主務を目指して頑張ってくれ、部内で定着した“いじられキャラ”はその努力の賜物です。私以上に多方面からの攻撃を受けながら、最後まで愛を持って仕事に取り組んできた強さは本当に尊敬します。最後、勝ち点とって抱き合おうね。
両親
高校で野球部に入る時も、東大に入る時も、留学に行く時も、何も相談せず勝手に決めて事後報告をするような娘でした。文句一つ言わずにサポートしてくれたこと、本当に感謝しています。昔から悩み事を口にするようなタイプではないし、苦しいときに素直に頼れないことが多いです。でも、たまに帰省したときに美味しいごはんを食べられるだけで救われている部分がたくさんあります。留学のおかげで学生生活が1年延びてしまったのは本当に申し訳ないですが、甘えられるうちは甘えさせてください(笑)。これからもよろしくね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
明日は私のもう1人の相棒、「考える」こと山本考くんの担当です。会計のことで決断に迷ったとき、いつもとりあえず「考える」に相談し、GOサインをもらっていました。悩んでいると言いつつ実は自分の中で答えは決まっているという女子の”あるある”にいつも華麗に対応してくれていたので、きっといい彼氏になれると思います。世の中の女性の皆さんにおすすめしておきます。私とひかりん以外の女子とも喋れるようになってね。
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次回は明日10/18(土)、山本考マネージャーを予定しております。