『僕の野球人生』vol.20 山本 考 マネージャー
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『僕の野球人生』vol.20 山本 考 マネージャー(4年/海城)



皆さんこんにちは

4年マネージャーの山本考です。
4年生になってからベンチ入りの機会も多くなり、たまにX(Twitter)で僕の写真があがっているのを目にします。いつもベンチ入り後は「山本考」「山本マネージャー」「東大 山本」とエゴサーチをして、醜い自己顕示欲にあふれた検索履歴を残しています。このように、とても嬉しいのでいくらでも写真を撮ってSNSにアップしてください。「#山本考」「#山本マネージャー」などのタグをつけて、みなさんの写真フォルダとX(Twitter)を僕色に染め上げましょう。
さて、前回の最後に番匠マネージャー(4年/富山中部)から投げやりな褒めを賜りましたが今回は予告通り山本考の野球人生について読んでいただきます。
次の段落を読んでいただければわかると思いますが、僕は他の人たちに比べて野球に対する思い入れが著しく低いと思います。そのため、今回は肩の力を抜いて読んでいただけると幸いです。
僕は野球に興味がなかった。
プロ野球は全く興味がなくアマチュア野球などもってのほかだった。
選手としてプレーした8歳から18歳までの10年間で野球のことが純粋に楽しいと感じたのは1回もないと思う。
小学2年生の時、兄が入っていた少年野球チームに体験入部したのが初めての野球である。つまらない訳でもないが、楽しくもなかった。しかし、この時親にさえ正直にものを言えないほど臆病だった僕は楽しいと嘘をついた。
しかし、小学生の頃は比較的野球を楽しんでいた気がする。足が速かったため、盗塁やバントなどの小技を好んでいたのを覚えている。
そして昔から野球の坊主にする文化が好きだった。
小学生の頃、親に駄々をこねて無理矢理坊主頭にした記憶がある。
そのため、最近よく見る「子供はすべからく坊主にしたくないんだから坊主強制は辞めるべき」といった意見には唾を吐きかけてやりたい気分だ。(当然全員に強制するのは良くないと思ってます)
ただ、野球よりも勉強の方が楽しかった。
乳幼児の頃に数字を見ると興奮する性格(数が大きい程大きく興奮したらしい)を見抜いた母のファインプレーにより、僕は3歳から公文式に通っていた。
その結果、小学一年生の時には因数分解をたしなんでいた。
問題を解いているだけで褒められ神童扱いされるなんて経験を幼少期にしたら、勉強が好きになるのはごく自然である。
勉強という逃げ道があったからこそ、一層野球が好きになれなかったのもあると思う。
(ちなみに、日能研の全国模試のランキングにしょっちゅう黒武者外野手(4年/渋谷幕張)の名前が載っていた。その名字の珍しさから日能研赤羽校の生徒たちの間では、自分たちの順位に加えて「クロムシャテツタ」君が何位だったのかが必ず話題に挙がった。)
中学受験を経て海城中学に入学した僕は、何故か野球部に入部した。
部活勧誘の時には、「やる気のない人はいりません」などと大して強くもないくせに偉そうなことをほざいていた野球部になぜ入ろうと思ったのか、真相は藪の中である。
思えば、渡辺投手(4年/海城)を認識したのもこの時である。
当時、渡辺と同じクラスだった野球部の選手(吉田投手(4年/明善)に非常に似ている)が、学校に提出する書類の保護者欄に「渡辺俊介」と書かれていたのを見て元プロ野球選手の息子がいると話題になっていた。(今考えるとプライバシー的に良くない)
ただ、BチームにいたりAチームだとしても2番手捕手だったりしたので中学時代に話したことはほぼ無かったと思う。
Bチームの選手は、グラウンドの横にあるテニスコートに押し込められ、練習試合にはそもそも連れていかれないため試合経験はほぼゼロ、公式戦はネットの横で数時間立ちっぱなしで応援させられる。選手が多すぎて監督が練習を見切れないからこのような制度になっているが、なかなかなルールである。
新チーム始動以外でBチームから這い上がるには監督の目に留まり引き上げてもらうしかないため、たまにあるAB合同練習でアピールしたりBチームのボール回しでデカイ声を出し遠くにいる監督に聞かせたりする。
僕もBチームだった時にはこんな環境では楽しくないと思い、すぐにAチームに上がるために外から苦情が出るレベルで声を出した、というか叫んだ。
そして僕は、その声のデカさと練習に向き合う姿勢を監督に評価されBチームの副キャプテンになった。なぜ?
ただ、監督は本当に好感を持ってくれたようで、僕にだけ特殊なバッティングフォームを教えてくれるなどBチームにしては待遇が良かった。
待遇が良かったとはいえ、野球は依然楽しいとは思わなかった。Bチームで受けた仕打ちでむしろ嫌いになった。試合も出られないでほぼ基礎練なんてつまらなくなるに決まっている。
最終戦ではみんな泣いていたが、僕は目がカラカラだった。むしろ早く終われとすら思っていた。
ここまで野球が嫌いになっても、何故か僕は高校野球部に入った。
理由は親の期待である。兄の高校野球の応援に熱狂した後で当然野球を続けるよねといった雰囲気があった。多分入らなかったらすごい圧をかけられていたと思う。
下手くそで試合経験がない上に、野球への情熱が皆無な選手がまともに活躍出来る訳ないだろと思いながら高校野球の門を叩いた。
幸い高校野球部の練習環境はしっかりしていて、下手くそでも広々と練習ができるし最低限の出場機会が与えられた。
しかし、練習環境が良くなろうと下手は下手だった。
やる気がないため自主練もしないし、コロナなどでどんどん太っていき守備範囲が狭く、守備位置をファースト、キャッチャー、レフトと転々とし完全にチームのお荷物だった。
だが、太ったおかげでパワーがつきバッティングに関してはそこそこ良かった。
監督が僕の守備位置に困っていることが容易に伝わってきた。
転機は高校2年生の秋に訪れた。
練習試合で代打で二塁打、公式戦の代打で二塁打、その直後の練習試合で6打席6安打と8打席連続安打を放った。
これで完全に4番レフトに定着した。監督は非常に嬉しそうだった。
だが、打てるようになった理由は全く分からない。別に情熱がないため、人一倍練習熱心だった訳でもない。最高学年になっても変わらず、全体練習後の自主練はほぼ参加せず家に帰っていた。
その時ハマっていたオンライン麻雀でありえない数の役満をあがっていたので、多分この時期の僕の運勢が良かっただけだと思う。宝くじを買っていたら100万くらいは当たっていたかもしれない。
そのため運は収束し、4番にしてはやや物足りないくらいの打撃になった。
さらに高校3年生の春になると、どんどん打撃の調子が悪くなった。流石に焦りを覚えYouTubeで打撃の動画を見たりバッティングセンターに行ったりした。人生で一番野球を頑張った時期かもしれない。
しかし、元々やる気ゼロの奴が急に頑張っても上手くいくはずがない。
ついに、春大会が終わった後全体ミーティングで監督に「山本は何をやりたいのか分からない」と言われてしまった。
翌日の練習試合で奮起させるように言ったんだと周りの選手たちが慰めてくれた。
しかし、コロナの再流行でその翌日の練習試合が無くなった。
完全に天から見放されたんだなと感じた。
その後しれっとスタメンからフェードアウトし代打としての起用になってからは野球の記憶はほとんどない。
完全に自業自得で納得の起用なので、中学とは違い全力で応援やサポートをした。
しかし、最後の試合後はまたも涙は流れなかった。高校3年間大した努力もしなかった人間に泣く資格などない。
僕の選手としての野球人生はさんざんなもので終わった。
結局野球と仲直りすることは叶わなかった。
8連続安打の時は結構楽しかった気がするが、それは打って褒められるのが嬉しいだけで野球そのものが好きになった訳ではないと思う。
ちなみに、渡辺投手とつるむようになったのは高校になってからである。
高校2,3年の時に同じクラスになり、同じ東大志望としてよく話すようになった。
引退後、受験勉強が始まった。野球に比べて勉強の何と楽しいことか。
野球の練習を楽しそうにやってる奴と同じような気持ちで毎日机に向かった。
好きな科目(数学、理科)だけをたくさん勉強して、東大に合格した。
高校野球を引退した時にもう野球に関わるのは辞めようと思っていたため、野球部に入ることは全く考えていなかった。
新歓では、ラグビー部やアメフト部の前を素通りさせてくれなかった。逆にテニスサークルやバドミントンサークルは、こちらから話しかけないとチラシを貰えないくらいだった。
腹が立ったので、僕はバドミントンサークルに入ってやった。
バドミントンは少なくとも野球よりは楽しかった。人生でスポーツをやってた時間で最も楽しい時間だったと思う。夏には友達が全員欠席している合宿に行くなど、なかなかない経験をした。
ただ、なにか閉塞感のようなものは感じていた。
初めは一緒にサークルに行っていた友達も来なくなり、単身体育館に通っていた。
そこに渡辺向輝から電話がかかってきた。
硬式野球部に男子マネージャーがいないのでマネージャーとして入部しないかという旨だった。
この電話が来た時点で、ほぼ入部するのを決めていた。
理由は、就職に有利そうだったり楽な授業を教えて貰えてもらえそうだったり、メリットが沢山考えられるからである。野球が好きになった訳ではない。
入部前、神宮の試合に招待してもらったが、コンタクトを忘れてしまい試合はほぼ見えてなかった。
試合なんて見なくても入部するつもりだったため、コンタクトを忘れたということにしておく。
その試合直後に、入部することを伝えて神宮にいた同期たちに迎えられたが、コンタクトをしていないので何が何だか分からなかったのを覚えている。
マネージャーとして日々を漫然と過ごし大学3年生になった。
海城高校野球部から2人が東大に合格したと聞いた。樋口内野手(2年/海城)と小田内野手(2年/海城)である。
樋口は既に野球部入部を決めていたが小田は初め迷っている様子だったため、渡辺と2人で勧誘した。
その時は軽い気持ちで勧誘していたが、後からだんだんと部への勧誘というのは責任重大なことだと感じ始めた。
野球部で何も為すことができなかったために部活選択を少し後悔した自分からすると、部活勧誘というのは人の人生を変えてしまう行為かもしれないと樋口と小田が野球部に入った後から考えるようになった。
樋口もそうだが、特に僕らの勧誘によって入部した可能性のある小田には、東大野球部に入ったことを後悔して欲しくなかった。
結果を出したから後悔しないとは限らないが、入部させたからには頭角を現してほしいと祈っていた。
そのため、練習試合の結果を見て一喜一憂していた。
そして皆さんご存知のように今年のリーグ戦で、樋口はショートとして大車輪の活躍、小田も10/13の立教戦でついに初出場を果たした。
小田が大学でも神宮でプレーすることが出来たという安堵と喜びからか、この立教戦は僕が今まで見てきた野球の試合で最も感動した試合だと思う。
僕はこの日野球の試合を見て始めて涙を流した。
同期である渡辺、後輩の江口投手(3年/海城)、樋口の出場に加えて、小田も初出場を果たした。
結果を残せなかった僕の野球人生も、こんな素晴らしい選手たちと高校時代に一緒にプレーし大学でもサポートすることが出来たという事実で、少しは報われた気がした。
今は野球とちょっと仲直りできた気がする。
ご覧いただきありがとうございました。
僕のまずい文をここまで読めた方は、僕の関係者か、次回の部員の紹介だけを読むために本文を読み飛ばした人くらいでしょう。そのどちらでもないという人は変わり者です。
次回は内田倖太郎アナリスト(4年/広島学院)です。
アナリストとしてすばらしい実力を持ち、東大野球部を支えてきた影の立役者です。
進振りで僕と同じ工学部物理工学科に進んだり、会計作業に使うエクセルでなぜか彼の欄がバグの温床になったりと、何かと僕と因縁のある彼ですが、どのような野球人生を送ってきたのか気になります。
最後まで読んでいただいた根気強い人たちのために珠玉の「内田倖太郎あるある」を披露します。
【内田倖太郎あるある】
「倖」の字が変換で出てこないので、「倖田來未(こうだくみ)」と打ち込んでから「田來未」を消す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次回は明日10/19(日)、内田倖太郎アナリストを予定しております。