『僕の野球人生』vol.24 中山 太陽 副将
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.24 中山 太陽 副将(4年/外野手/宇都宮)



我らが切り込み隊長、酒井捷くん(4年/外野手/仙台二)からバトンを受け取りました、中山太陽です。名は体を表すとは言いますが、初めて捷という名前とプレーを見たとき、しっくりくるなぁと思いました。それにしても捷って名前、かっこいいですね。その名を遥かに上回って、隣で見てきた「酒井捷」の生き様はかっこいいです。将来息子ができたら、名付けるかもしれないし名付けないかもしれないです。
さて、こんな機会もそうないので今までの野球人生を振り返って思い出を長々と書いてしまいました。拙文ですが、どうぞお付き合いください。
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僕にとって東大野球部は“last resort”です。
野球との出会いは父の影響でした。僕の名前の由来のひとつにも、父が好きだった大洋(たいよう)ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)があるらしいです。よちよち歩きを始めた頃から、公園ではプラスチックバットとボールを持って家族で遊んでいました。父は、左利きの僕が初めてボールを投げようとしたとき、将来守れるポジションが増えるからと「ボールは右で投げるんだぞ」と教えてくれました。
母もまた、僕を野球に引き込ませました。母の買い物に付き合った時間と同じだけバント遊びをしてもらえる、という不思議な取り決めをしてくれたのです。1時間買い物に付き合えば1時間のバント。リビングは幼い僕にとっての野球場であり、多いときは1日3時間も、弟と交代で母が投げたクッションボールをひたすらバントしていました。家族の中心にはいつも野球がありました。
小学校に入ると、イナズマイレブンにハマり、野球とサッカーのどちらをするか迷っていました。父に相談すると、「俺は野球なら教えられるが、サッカーは知らん」と言われたので、父が大好きだった僕は迷わず野球を選びました。ちなみに、野球部に入った最初の練習で、イナイレ仕込みの通称エイリア走りで盗塁したところ、苦笑いを浮かべられながら監督に指導されたのはいい思い出です。(当時は本気でこの走り方が一番速いと思っていました。)
こうして、父の指導と母との遊びの二つに後押しされて、自然と野球の道を歩き始めました。
入団した豊郷中央クラブは、いち公立小のチームでありながら、総勢7人の日替わりコーチがいて、毎日が新鮮でした。土日には父と居残り練習を繰り返し、母の支えとコーチ陣の指導に恵まれて、この頃から野球が生活のど真ん中になりました。コーチからはショートの頭に打つ練習を教え込まれました。父とは右足の前にレンガを積み、足が開かないようにした素振りや、左手で押し込むためにサンドバックをバットで叩く練習をひたすらしました。今でもこれらの指導内容は自分のバッティングの基本となっています。また、母との遊びのおかげでバントだけは誰よりも上手かった僕は、大半のヒットをセーフティバントで稼ぎ、3年生のころには上級生に混じってレギュラーになれました。
田島コーチには、ある日の練習中に「お前は栃木県で一番のバッターになれる」と言われました。何気なく言われた言葉だったはずですが、期待してもらえるのが嬉しかった僕はその言葉を真に受け、やる気に火が付きました。
小堀監督は厳格な方でした。試合後のグラウンド整備の時に監督の指示を部員にうまく伝えられず、監督を怒らせてしまい、一人で全て整備したこともありました。監督は「太陽は不器用だから人の3倍努力して当たり前だ」と言って厳しくしてくれました。今でもこの言葉は家族の会話に出てくる大切な言葉です。先日お二人にお会いした時はとても丸くなっていてびっくりしましたが、あの時の厳しさが僕を成長させてくれたと断言できます。
最終学年になるとキャプテンとなり、創部初の県大会優勝、関東大会準優勝を果たしました。とても中身の濃い1年でした。その中で、野球人生を映した走馬灯があるとすればどうしても省くことのできない場面があります。
1つ目は秋の宇都宮市大会。なんとかベスト4まで駒を進めると、準決勝と決勝はダブルヘッダーでした。それまでエースの幹大頼りだったし、それまで僕はまともにピッチャーをやったことがなかったので、当然幹大が投げるだろうと思っていました。
が、準々決勝の試合後に監督に呼ばれると、「来週の決勝は太陽が投げる。いいな。」と言われました。状況が呑み込めませんでしたが「はい。分かりました。」というほかありませんでした。どうやらダブルヘッダーには投球回数の制限があったようです。
翌朝から、まだ薄暗い公園が僕のマウンドになりました。登校前の短い時間、自宅から少し離れた大きな公園で朝練をしました。ランドセルを車の後部座席に置き、時間ギリギリまで母の構えるグローブにひたすら投げ込み、そのまま小学校に送ってもらう生活を続けました。そして翌週、準決勝は幹大が投げて勝ち、直後の決勝戦で僕が投げ、野手にも助けられて優勝できました。優勝したことも嬉しかったですが、それ以上に頑張りが結果に直結した経験ができたことが、その後の野球人生にとって良い財産となりました。
2つ目は春の市大会の1回戦。主力2人をインフルエンザで欠き、戦力は半分そがれたも同然でした。打席に立てど、相手投手の緩急に翻弄され、スコアボードには虚しく「0」が並び続けました。気がつけば最終回、ツーアウト、点差は3。そんな絶体絶命の状況の中、普段は控えだった睦生が土壇場で白球を弾き返しました。続いてもう一人の控えだったクロ(黒川)も快音を響かせました。「首の皮一枚つながった」とはまさにこのことでした。その後何とか延長戦で勝利しました。この一戦から、怒涛の10勝で続く市・県大会を勝ち進み、関東大会の決勝まで上り詰めました。いつもはランナーコーチをしてくれていた2人でしたが、大事なところでチームを救ってくれました。この日の2人は僕にとってスーパーヒーローでした。なんだか文章にすると伝えきれない気がしますが、同級生11人の団結力を感じた、人生で一番感動した試合でした。
中学時代は、今思うと一番苦しかった時期でした。少年野球はみんなでワイワイしながらやっていましたが、中学校に入ると先輩たちは常にピリピリしていました。いつも周囲の目を気にしながら野球をしていた気がします。加えてエースの幹大が転校し、最終学年にはエースを任されるようになりました。当時は責任を一心に抱え込み、キャプテンでエースで4番という重圧を勝手に一人で感じ、春の大会ではイップスになってしまいました。あの時は壊れた羅針盤を握りしめて航海しているような気持ちで、思った通りに舵取りできるカーブだけが細い道標になっていましたが、両親や理学療法士の方のおかげでなんとか最後の夏には治り、仲間の活躍もあり県ベスト4まで進むことができました。
あとはなんといっても冬の北山でしょう。あれは大学までやってきたどんなトレーニングよりも群を抜いてキツいです。坂道が意思を持って僕たちを拒絶していると感じるくらいには。何回も吐きました。あのトレーニングだけはもう二度とやりたくないです。中学の野球部で集まると必ず一回は話題に上がります。でも、その経験のおかげでどんなに苦しいことがあっても「あの練習に比べればマシだ」と思えるようになりました。
どんなに情けない姿を見せようと、顧問も同級生も後輩も僕を頼ってくれて、任せてくれました。本当にありがたいことです。特に顧問の関先生のおかげで身も心も強い人間になれた気がします。とても感謝しています。
高校時代は、篠崎監督と森田部長の指導のもと、人間力を伸ばしていただきました。常日頃から先生方がおっしゃっていたのは「相手の心を感じられる人間になること」で、試合の勝ち負け以上に、今後の人生の指針となる指導をたくさんしていただきました。篠崎先生は生徒の主体性を伸ばしてくださる偉大な監督です。森田先生は人生の先輩です。いつも勉強させていただいています。お二人に出会えて本当に良かったと思います。将来もっと立派になって、成長した姿を見せられるように頑張ります。今後ともよろしくお願いします。
数多の試合の中で今なお胸を熱くさせるのは、2年秋の宇都宮商業戦です。
観客席には野球が大好きな祖父の姿がありました。祖父は脚の具合が悪く、これがプレーを直接見せる最後の機会になるかもしれないという試合でした。だからこそ「絶対おじいちゃんのために打つ」と思って臨みました。始まった試合は初回に動き、その後は投手戦の様相で膠着状態のまま2点ビハインドの9回を迎えました。この回の打席が最後になるかもしれないということは分かっていました。極限の集中状態の中、相手エースの投じたインローに食い込むストレートに反応した渾身の一振りは、同点の2ランホームランとなりました。
さらに、1点をリードした延長14回裏、2死満塁。相手は前の試合でホームランを打っている3番打者。カウント2-3。まさに手に汗握る攻防、球場全体が固唾を呑んで見守る状況でした。ライトにいた僕はファーストを遠くから呼び、ライトに打球が飛んだら中継プレーではなく一塁ベースに入るように叫びました。そうしたら次の球で本当に目の前に痛烈な打球が飛んできました。2塁走者もオートスタートを切っていることから、一二塁間を抜けた瞬間、相手バッターはサヨナラ勝利を確信し、ガッツポーズをしていました。僕は無我夢中で一塁に投げました。ファーストのミットに球が収まったその刹那、審判の右手は高々と上がりました。ライトゴロ、ゲームセット。僕を含め、その場にいた人全員が何が起こったか分からない様子でした。
しかしスタンドにいた祖父だけは、まるでこうなることを見通していたかのような、淡々とした様子でした。何か不思議な力が働いているような気がしました。絶対おじいちゃんのおかげです。ピッチャーの風間も天才的な投球で2回から14回まで13イニングを0点に抑えてくれました。さすがにすごすぎて怖かったです。
そんなこともあり、春の選抜甲子園の21世紀枠の候補に選んでいただき、最終候補まで残りました。甲子園を眼前にしてワクワクする一方、まだまだ自分の器に「甲子園」というものは大きすぎるなとも感じていました。結局選考には漏れてしまいましたが、夢のような2か月の練習期間でした。
その直後、コロナウイルスが大流行し、春と夏の大会は中止となりました。
甲子園はなくなってしまい悔しかったけれど、夏の代替大会が開催されたことには救われました。関係者の方々の尽力にはとても感謝しています。
その他にも県選抜の選考会の際に緊張のあまり気持ち悪くて涙目でノックを受けていたのもいい思い出です。そのときに作新学院の小針監督に目をかけていただき、練習試合ではバットをいただいたり、東大入学後は激励の手紙をいただいたり、その後作新に入学した弟を通じてアドバイスをいただいたり、本当に良くしていただきました。
高校時代で一番の転機となったのは 1 年の冬でした。東大野球部と東京で合宿させてもらえる機会がありました。それまでは東大自体遥か雲の上の存在に感じていたし、野球部も六大学リーグで中々勝てていないことも知っていたので大して興味も湧かず、自分には他人事の世界でした。しかし、実際に東大の人と練習してみると、体つきや飛ばす打球が自分とは全然違い、何より1勝に対する熱意を強く感じました。「東大で野球がやりたい」この合宿を経て、そう思うようになりました。
こうして東大野球部に入ろうと思ったのも、あの合宿があったから、阿久津さん(R5卒)が前を走ってくださったからだと思います。宇高でなければ東大を目指すことはなかったし、ましてや野球部になんて入ろうと思わなかったと思います。OBの皆さんや先生方が作ってくださったこの環境には非常に感謝しています。特に早坂さんには本当に良くしていただきました。常に部員を気にかけてくださる温かい方でした。大学で活躍する姿を早く見てもらいたいと思っていましたが、私が2年生のころに旅立たれました。私も早坂さんのように、無償の愛で人に尽くせる人になりたいと思います。
それからというもの、とことん勉強しましたが及ばず、浪人を余儀なくされました。勉強の休憩時間には「不死鳥の如く」を聴きながら素振りをしてモチベーションを保っていました。
1年間勉強し、晴れて東大合格を果たしたものの、大学入学直後は、まさかの野球部に入りませんでした。持病が浪人中に悪化し、ハードな練習は厳しいだろうと思ったからです。苦渋の決断でした。合格直後に各所に報告に行ったときには「あれだけ東大で野球をやりたがっていたのに、、、」と驚かれました。そのときは「東大で何か専門的なことを学びたいと思うようになりました。」などと、おおよそ何も言っていないことと同義な、何とも曖昧な理由をつけてごまかしていました。入学後も「あれ、何のために東大に入ったんだっけ」と思うことが何度もありました。今は持病もほとんど治っているので安心してください。なんだかんだ半年間は楽しかったです。サークルでほどほどに野球をしながら勉強を頑張っていました。
でも、抑え込んだ野球への未練はすぐに再燃してきました。阿久津さんの最後の勇姿を見ようと秋のリーグ戦を観戦に行ったとき、鳴り響く応援のかっこよさと、神宮球場でプレーする選手の輝きに圧倒されました。そして、もう一度本気で野球に挑戦したい、期待してくれていた父や祖父に六大学でプレーする姿を見せて喜んでもらいたいと思いました。一度溢れ出したその気持ちは抑えきれず、次の日には阿久津さんに連絡をしていました。
東大野球部は想像通りの熱量で、想像以上に己と向き合っている最高の環境でした。そこでの日々は苦楽が織り交ざった一枚の絨毯のようなものでした。普通の大学生としての生活を半年間送っていた僕から言わせてもらうと、質感はペルシャ絨毯とフロアマットくらい違います。そんな日々は入部5日目で盗塁の際に手首を骨折したことから始まり、それが尾を引いて1年生が終わりました。2年生では代打としてリーグ戦に出場させていただき、秋の法政戦ではレフトでウィニングボールを掴むことができ、貴重な経験ができた1年でした。その中で、志半ばで選手を諦めてサポートに回ったり、スタンドで必死に応援してくださったりする先輩方を見て、東大野球部の代表として神宮のグラウンドに立つ重みを知りました。130名を超える部員の中、半年遅れで入ってきた僕が下級生のうちから試合に出させてもらう意味を自問自答し、必死に一日一日を過ごしました。一心不乱でした。
3年春には、捷が怪我をしてしまったことで、榎本(4年/外野手/渋谷幕張)と「二人で捷の穴を埋めよう」と誓い合いました。走攻守すべての調子が良く、捷の代わりとして入ったセンターの守備も慣れてきて、リーグ戦も行けそうだと思っていた矢先、忘れもしない3月10日の学習院大戦、フルスイングしたところ右肩に激痛が走りました。今まで感じたことのない痛みで、「あ、これやばいな」と直感的に分かりました。この日から、現在に至るまでの長い長い肩痛との闘いが始まります。
リーグ戦まであと1か月。捷が抜けた穴は自分が埋めなければいけない、チームで掲げた優勝のために貢献したい、と本気で思いなんとか騙し騙し試合に出続けました。春リーグ中にも再び肩痛が悪化し、6・7月はリハビリに専念しました。8月の遠軽合宿は肩の調子も良好でバッティングは絶好調だったので「秋こそはいける」と思いました。しかし、直後の七大戦で再びスイングで肩を痛めました。
それでも今までお世話になった先輩たちのラストシーズン、自分のできる限り力になりたいと思い、試合に出続けました。月火水はノースロー、木金でキャッチボールをして土日のリーグ戦に出る。前日に鍼治療をしてもらい、当日は痛み止めを飲んでテーピングを巻き、サポーターをして試合に出る。そんな毎日でした。自分が投げられないことで多くの迷惑をかけていたと思います。打撃面は調子が良く、なんとかベストナインをいただくことができましたが、本当に周りに支えられました。
リーグ戦終了直後、右肩を手術するか否かという決断に迫られました。本当に悩みました。手術をすると完全に競技復帰できるのは来年の7月で、それは次の春リーグの出場を諦めることを意味しました。このままの状態で試合に出続けるべきか、万全な状態で秋リーグにすべてを懸けるか。新チームの目標であった勝ち点獲得のためにはどうするのが正解か。いろんな人に相談し、決断しました。
そして、新体制開始直前のチームのDLチャンネルにこう記しました。
「右肩前後の関節唇損傷 12月に手術して8-9か月で戻ります。秋に命かけます。本当に申し訳ございません。できることやります。」
術後は、執刀してくださった慶友病院の船越先生とチームトレーナーの高木さんのサポートの下で取り憑かれたかのようにリハビリを続け、なんと3月末には試合に出られるようになりました。春の開幕にも間に合いました。前例のない早さのようです。正直奇跡としか言いようがないです。
お二方には本当に感謝しています。船越先生はスーパードクターですし、高木さんはスーパートレーナーです。絶対に足を向けて寝られません。
あともう一人感謝しなければいけない人がいます。工藤(4年/内野手/市川)です。
僕のリハビリが順調であることを知ると、工藤は僕のファースト転向案を高木さんに提案したそうです。当時の僕は、バッティングはなんとかいけそうだけど、さすがに外野を守れるほど回復しておらず、代打で出られるだけでも御の字だと思っていました。高校では少しやっていたものの、大学に入ってからファーストを守るなんて考えたこともなく、ましてや内野→外野のコンバートの関係は不可逆だと思っていたので、目から鱗でした。
工藤は春リーグ開幕直前までファーストを守っていました。僕がファーストで出るということは、工藤は同じポジションで争うか、違うポジションで新たに他のメンバーと争うということになります。工藤のこれまでの努力は近くにいてたくさん見てきました。苦悩もよく知っています。
ほどなくして、工藤は外野手に転向することを決めました。
「工藤、急な外野転向で大丈夫なの?」
「いや、ファーストはお前が守ったほうがいいから。俺は外野で頑張る」
3年間もがいてやっと掴みかけたレギュラーの座よりもチームの勝利を優先できる。漢の中の漢です。絶対に勝ち点を取ってその想いに報いると誓いました。
本当は出られるはずのなかったリーグ戦に出られている。
春リーグはひたすら感謝の思いでグラウンドに立っていました。
100%みなさんのおかげさまで再びベストナインを取ることができましたが、チームは全敗でした。なんとかしなきゃいけないという思いで6月を迎えました。
そこからの2か月半はあっという間でした。長打を増やそうとフォームを変えて1か月ヒットが出なかったり、ありえない送球難に陥ったりしました。それでも健康な体で野球ができる喜びを噛み締めていました。
去る8月20日、大阪経済大戦。
第1打席、無死2塁、1-1からの3球目。
監督のジェスチャーから引っ張り意識のサインを悟り、外角のストレートを引っ張ろうとしたその瞬間、2つの「やべっ」がよぎりました。
1つ目は引っ張ったつもりが、打球はレフト前方にふらふらと上がったフライだったこと。
2つ目は右肩に再び激痛が走ったこと。
関節唇は完治したのに今度は肉離れでした。神様は何個試練を与えるんだと思いました。やっと痛みなく野球ができて、野球人生を締めくくれると思っていたのに。
が、それと同時に仲間もそれぞれいろんな苦しみを乗り越えてきているんだから、このくらいの試練を与えられて当然だとも思いました。試合に出られる程度の怪我で幸いだと思い、ありがたく受け入れて乗り越えようと思いました。
良いことがあると「慢心するなよ」と神様が試練を与えてくれ、またそのおかげで謙虚になれて、努力してさらに成長できる。僕の野球人生はこのサイクルの繰り返しだったと思います。
その日からまたリハビリ生活が始まりました。やるしかないと覚悟を決めました。3日前までノースローだったものの何とか滑り込みで開幕に間に合いました。杉浦(4年/捕手/湘南)も開幕戦の怪我で離脱してしまいました。やるしかないと覚悟を決めました。明治戦では左脚も肉離れしました。やるしかないと覚悟を決めました。
力いっぱい投げたいのに、肩は錆びれた蝶番のように軋み、放たれたボールは風に逆らえぬ枯葉のように力なく空を漂う。
それでも、やるしかない。この体で戦うしかない。この出力で、この軋みの中で、今できる最高のパフォーマンスを出すしかない。
なんだかいかにも苦しかった日々みたいに書いてしまいましたが、全くそんなことなかったです。痛いことはもちろん辛いですが、こんな環境で野球をさせてもらえていること、たくさん応援してくれている方たちがいること、そのありがたさを考えたら苦しいなんて罰当たりです。何より、みんなと練習する時間は痛みを忘れるほど楽しかったし、試合中は楽しすぎていつもニコニコしてました。みんなのおかげで、自分ができる限りのプレーをしようと思って常にポジティブな気持ちで野球と向き合えました。
こんなに怪我がちな自分を辛抱強く使ってくださった大久保監督には感謝しています。最後に監督の下でなんとしても勝ち点を取ります。
副将として何を残せたかは分かりません。
同じ幹部として、杉浦と捷のことは心から尊敬しています。
杉浦はキャプテンシーの塊です。なんで高校までキャプテンをやってこなかったのかわからないくらいです。今年のチームは全部杉浦のチームだと形容できるほど、みんな信頼していたと思います。ありがとう。
捷は背中で引っ張る男です。すでにみんな知ってると思いますが、半端ない努力家です。いつでも自分の芯を持っていて、本当に頼りになります。ありがとう。
2人に比べたら自分がチームに残せたものなんてこれっぽっちだと思います。
ただ次の2つは常に意識していました。
一つは「心に保険をかけないこと」を体現すること。新体制がスタートした時、僕はみんなに「自分自身に保険をかけることはやめよう」と伝えました。それは、チームとしてどんな状況でも勝つことを諦めない、個人としても目の前の目標から逃げないということです。東大野球部というチームの歴史や性質上、大学野球における成功体験が少なく、例えば「そりゃ勝ちたいけど、相手は野球エリートの集まりで持ってるものが違うもんなぁ」とか、「部員が多くて与えられる出場機会も少ないから、下級生のうちはAチームに上がれなくてもしょうがないか」というように、自分自身で納得しやすい理由をつけて保険をかけやすい環境にいると思います。メンバーに漏れてしまったときや怪我をしてしまったときなど、そういう気持ちが沈みそうな時にこそ真価が問われる。だからこそ自分が諦めない、逃げない姿を見せることが必要だし、自分にとってのいい勉強だと思って行動してきました。
もう一つは勝ち点を取るチームを作るためにチームのバランスを取ること。これは杉浦と捷というとても頼りになる二人がいるからこそ、強く意識したことでした。3年の春に副将に決まった際は、小中高でそうしてきたように先頭に立ってチームを引っ張る姿を想像していました。しかし過去の東大野球部の文献や、先輩たちの姿や話を参考にする過程で、今の体制で自分が担うべきポジションはここだと思いました。もっとも、先頭に立ってチームをまとめていくのは自分より杉浦や捷の方が適任だとも思いました。バランスといってもいろんな関係があり、言語化が難しいので割愛しますが、結果だけでなく定量化できないそういう面でチームの力になろうとしてきたつもりです。
でもそれは「つもり」だっただけなのかもしれません。勝ち点を取ることを至上命題とすることは大前提の上で、大半の部員の野球人生の集大成になるであろうこの野球部で、望んだ形にはならないかもしれないけれどスタッフも含めた全員が清々しい形で引退できるようにするということは、僕の願ってきたもう一つのチーム像でした。今振り返ると、見えていなかった部分もあったのだと感じています。
僕の言動なんて改善点ばかりだったはずです。来年以降のみんなは僕を踏み台にしてもっといいチーム作りをしていってください。
スタッフのみんなには本当に頭が上がりません。
まずは学生コーチ。何百回も学コのみんなを呼びつけて何千、何万球もの練習に付き合ってもらいました。どんな状況でも嫌な顔一つせずにチームのために尽くせる姿は人として本当に尊敬しています。学コのみんなのために結果を出す。それがかなり僕の原動力になっていました。ありがとう。
次にマネージャー。由機さん(松岡由機さん/R6卒)の言葉を借りるならば、「有り難い」環境を「当たり前」であるかのように感じさせてくれるすごい人たちです。最後は自分の手を離れてしまう局面でもなお選手を信頼し、力を尽くしてくれること、本当に感謝しています。ありがとう。
そしてアナリスト。僕がリーグ戦で打てたのは間違いなく彼らのおかげです。リーグ戦の方が好投手が多いのに、オープン戦よりリーグ戦の方が打ちやすく感じたのはつまりそういうことです。個人的にいろんなデータを知りたくていろんな要望を出しましたが、それらすべてに対応してくれました。ありがとう。
新しく創設された学生トレーナーの半谷(1年/桜台)にも期待しています。リトル高木として、蒼衣軍団
の進化を支えていってください。ありがとう。
応援部の方々。
上にも書いた通り、僕は大学入学当初、野球部には入っていませんでした。しかし3年前のあの日、僕の心を突き動かしたのは間違いなくみなさんの応援でした。
そして入部後も、グラウンドで幾度となく勇気をもらいました。
試合前、打てばベストナインが近づく一戦での「がんばれ中山」コール。
昨秋の早稲田戦、レフトで立て続けにエラーした時に、応援席からレフトの一番近くに駆け寄って「なかやまぁ!あきらめんじゃねぇぞ!!!」と叫んでくださった菊竹さんの声。
他にも応援のおかげで何度奮い立ったか分かりません。なぜか自分の力以上のものを神宮球場で出せた気がするのはみなさんのおかげです。ありがとうございました。
東大野球部を応援してくださるすべての方々。
私の野球人生のエピローグが鮮やかに彩られたのはみなさまのおかげだと思います。多くの方々が私たちと同じ1球に一喜一憂し、勝利を望んでくれている。そして勝ったときには涙を流して喜んでくれる。こんなに幸せな瞬間はありません。私も生来、誰かを応援するのは大好きです。早々にそちら側へ参りたいと思います。ありがとうございました。
弟の湧水。
小さい頃、朝早くに起こして野球に付き合わせてごめんなさい。いつもありがとうね。
あなたはセンスの塊です。リフティングも旅館での卓球も、もちろん野球でも、勝負するとことごとく僕が負けます。勝てるのは勉強だけです。でも一番尊敬するのは努力する姿です。高校野球の大半を怪我で過ごしながらも、大学で野球をやると聞いた時は驚きました。あの時、弱音も吐かず黙々とリハビリに打ち込む湧水を見てきたから、今僕も頑張れています。もう少し辛抱すれば突き抜けられるはずだから頑張れ。頑張ってると思うけど頑張れ。困ったら何でも言ってな。
最後に両親。
もう本当に本当にお世話になりました。僕が一番尊敬する人は間違いなく両親です。ときにはピッチングコーチとなり、ときにはバッティングコーチとなり、ときにはメンタルコーチとなり、支えられっぱなしでした。僕を産んでくれて、育ててくれて、野球を教えてくれてありがとう。書いていたらこみあげてきちゃったので一旦筆を止めます。これからも必ず2人を幸せにします。
他にもたくさん感謝を伝えなければいけない方々がいますが、後ほど直接伝えさせていただこうと思います。
野球とは切っても切れない縁を感じます。小学生の時は長距離走がとても得意で、中学校に入ったら陸上部に入って、将来は箱根駅伝に出て柏原竜二さんのようになりたいと本気で思っていました。でも小6の時に喘息の発作が起きて急激に体力が落ちたことで中学で陸上をやるのは諦めました。中学受験をしたときも、そこに受かっていたら野球部はなかったのでバドミントン部に入ろうと思っていましたが、幸運なことに落ちました。中学野球を引退した時も、「もう野球はやめてクイズ研究会にでも入ろうかな」と友達を誘っていました。しかし受験勉強で野球から離れると、無性に野球がやりたくなり、休憩中に素振りやキャッチボールを始め、受験直前には「第100回大会の節目に宇高を甲子園に連れて行くんだ!」などと生意気に意気込んでいました。大学に入るときも前述の通り最初は入部しませんでした。それでも神宮の雰囲気と選手の輝きに魅せられ、再び本気で野球をやることを決意しました。なんとも不思議です。野球が心底好きなのでしょう。これらのことから帰納的に推測できるのは、結局これからも野球とともに生きていくんだろうなということです。
こうやって野球人生を振り返ってみると、人や環境に恵まれてきたなとつくづく思います。齢23にしてすでに返しきれないほどの恩をたくさんの人から受けてきました。そしてそれらは間違いなく自分の頑張る原動力となっていました。これからの人生はお世話になった方々に少しずつ恩返ししていけるように頑張ります。
僕にとって東大野球部は“last resort”です。英語のそれが示すネガティブなニュアンスは一切ありません。東大野球部は、今まで支えてくれた人への感謝を学生として体現する最後の手段(resort)であり、一人の野球選手としての生涯を全うするために最後に辿り着いた理想郷(resort)でした。
いやぁ、やり切ったな
楽しかったな
紛うことなく最高の野球人生でした。
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次回は、東大野球部史上初の女性主務という肩書きなのでいかにも革新的そうだが実はかなり保守的、「ひかりんって呼んでほしい!」と同期に言って回るもほとんど浸透しなかった我らが大主務、奥畑(4年/マネージャー/智辯和歌山)のぼくじんです。お楽しみに。
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次回は明日10/23(木)、奥畑ひかり主務を予定しております。