『僕の野球人生』vol.3 山崎 琉 投手
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.3 山崎 琉 投手(4年/渋谷幕張)



東大野球部で一番何を考えているか分からない男、持永(4年/投手/駒場東邦)からバトンを受け取りました。硬式釣り部船長こと、山崎琉です。
彼とはシェアハウスで暮らし、共に釣り糸を垂らし、ぶりしゃぶを囲む仲です。そんな風に多くの時間を共にしてきた持永ですが、昨日公開された彼の素晴らしい「僕人」を読み、思わず目頭が熱くなったのはここだけの話です。
持ち前のギャグセンスを発揮しようと思っていたのですが、僕はさぼらず、真摯に野球に取り組んできたので少し固い文章になってしまいました。長く、読みにくいかもしれませんが、どうぞお付き合いください。
僕の野球人生の始まりは、決して輝かしい場面からではありませんでした。
僕が小学校3年生の時、母が僕と弟を少年野球の体験に連れて行ってくれました。弟が保育園の卒園式でなぜか「プロ野球選手になる」と宣言したこと、そして僕自身がソフトボール投げで8メートルしか投げられないことを母が危惧したからでした。
体験の当日、監督に無理を言って体験の身ながら練習試合で人生初の打席に立ちました。不思議なことに、プレー経験もないのに「打てるだろう」と自信だけはありました。「ここでホームランを打って、みんなを驚かせてやる」。そんな高揚感で胸は膨らんでいました。しかし、僕に待っていたのは残酷な現実でした。ピッチャーが投げた最初のボールは、僕のバットではなく、顔面に吸い込まれていったのです。一瞬の衝撃と痛み。僕のデビュー戦はそこで強制終了となり、残りの時間はベンチから、ただ試合を眺めていることしかできませんでした。今思うと野球の神様が「お前の道は甘くないぞ」と、宣告してくれたのかもしれません。
周りの誰もが入団しないと思っていたらしいですが、そのまま小岩オリオンズに入団しました。朝、眠い目をこすりながら母に起こされる毎日でしたが、グラウンドに出ればそんな辛さは吹き飛びました。野球の実力もどんどん向上し、人生初ホームラン(ランニングホームラン)を打ったり、6年生のソフトボール投げでは10点を取れました。練習も試合も、ただひたすらに楽しかったです。この楽しいという純粋な気持ちが、僕が野球を続ける原動力になりました。
渋谷幕張中学に入学し、同じ塾で有名だった高橋克幸がいたのもあり、野球部に入部することを決めました。先輩や榎本(4年/外野手/渋谷幕張)、黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)のプレーに圧倒されながらも、負けたくない一心で練習に打ち込み、2年生になる頃には少しずつ試合に出る機会も増えていきました。
そんな成長の先に待っていたのは、中学2年の夏の大会での苦い経験でした。セカンドの先輩のエラーによる懲罰交代で、突然僕に出番が回ってきたのです。そして、ビハインドでの最終回2アウト。今までの野球人生で最大の緊張をし、足の震えも止まらず、まともにバットを振ることすらできないまま、僕は最後のバッターになりました。試合後には泣いている先輩もいました。あの時の悔しさ、不甲斐なさは、今でも鮮明に思い出せます。
その悔しさを胸に、僕は新チームのキャプテンになりました。個性的なメンバーが多く、まとめるのは本当に大変でした。休憩が短い、ランニングが速いといった不満の声も聞こえてきましたが、去年の夏のような思いは二度としたくない。その一心で練習に励みました。
そして最後の夏の大会、エース佐伯(3年/投手/渋谷幕張)の好投にも支えられ、チームは一丸となって市内大会を勝ち進みました。そして決勝戦では、2年生の時に僕が最後の打者となり負けた中学に勝ち、数年ぶりとなる県大会出場を決めることができました。試合後、前年のキャプテンだった先輩から「お前に任せて良かった」と言われた時、張り詰めていたものが、すっと溶けていくのを感じました。キャプテンとしての重圧、あの三振への負い目。そのすべてが報われた瞬間でした。
高校にあがってすぐの8月からアメリカに留学に行きました。
僕の留学先のMyrtle Beach High Schoolでは野球の授業があったので、平日は野球の練習をして、土日は地元のクラブチームで試合をするという感じでした。アメリカの野球では僕は俊足好打で、小技が得意なユーティリティープレイヤーといういわゆるアメリカ人が想像する日本人選手という感じでした。しかし、ある日の練習試合で2番セカンドでスタメン出場するも、2打席連続バント失敗し、いつの間にかベンチスタートの試合が増えました。
それでも、リーグ戦初戦は8番レフトでスタメンで出ることが出来て、初打席初ヒットを打つことが出来て嬉しかったです。しかし、コロナでシーズンが終わってしまい、出場した試合は結局その1試合のみでした。プチ自慢ですが、チームメイトには昨年ドラフトでエンゼルスに行ったAustin Gordon選手がいました。
2年生の5月に日本に帰ってきて、そのまま野球部に復帰しました。久々に会った同期はみんな守備もバッティングも上手くなっていて、驚きました。そして、元々内野守備が下手だったが、肩はそこそこ強かった僕は外野に転向しました。広大な外野で交わす黒武者や坂本との「声出し」、ダイビングキャッチに成功したときの興奮など、外野守備の楽しさを味わい尽くした気がします。
そして、高3の春からチーム事情のため練習試合の2試合目のピッチャーをやり始めました。ちなみに高校初マウンドではプレートを外してサインを見ていたため、毎球ボークをしました。その後、当時からYouTubeで発信していたバウアー選手の動画で投げ方を勉強しながら試行錯誤を重ねました。ピッチャーをしていく中で、グラウンドの主役として注目を浴びる緊張感。抑えた時にチーム全員と喜びを共有できる快感。僕はピッチャーというポジションに完全に引き込まれました。
夏の大会では、エース佐伯の熱投と、打撃のおかげで、多古高校に勝つことが出来ました。今までの人生で一番熱く、楽しかった試合でした。次の試合では惜しくも負けてしまい、僕の高校野球は幕を閉じました。不思議と負けたことへの悔しさはなく、やりきったという清々しい気持ちでした。しかし、引退式ではもうみんなと野球ができないことの悲しさで涙が止まりませんでした。
高校野球をやりきった僕の心は六大学野球には全く向いていませんでした。合格した東大では、サッカーサークルで大学生活を謳歌しようと思っていました。
しかし、合格した翌日くらいに高橋克幸が、榎本、黒武者そして僕を誘ってくれて、みんながやるなら僕もやろうと思い、入部することを決めました。
大学では新しいことに挑戦したい。マウンドで投げる方が楽しそうだ。そんな、今思えばあまりにも浅はかで、軽い気持ちからの選択でした。しかし、その軽い気持ちとは裏腹に、僕を待っていたのは想像を絶する苦節の連続でした。
1年生の時は、ピッチングに慣れるのに精一杯でした。入部してすぐに渡辺(4年/投手/海城)と増田(4年/投手/城北)とのキャッチボールで、2人のボールは今まで見たことないくらい速く、伸びがあり、凄いところに来てしまったと感じました。ナックルボーラーになるか真剣に悩んだほど、圧倒されました。永田さん(R6卒)には、投球の間合い、牽制のタイミング、そして打ち込まれた後の心の持ちようまで、技術と精神の両面で、つきっきりで指導をして頂きました。試合中に自分の不甲出なさから泣きたくなったことは、一度や二度ではありませんでした。それでも、永田さんの教えを必死に守っていたら少しずつ成長する感覚がありました。そんな永田さんに褒められた時はすごい嬉しかったのを今でも覚えています。
夏の横浜国立大学戦、2アウトを取った後、2-3のカウントで府川さん(R7卒)のカーブのサインに首を振りました。思い切り投げ込んだ自己中ストレートは無情にも大暴投となり、そこからなんと3失点。自分の独りよがりなプレーが、失点につながる。野球はストライクゾーンで勝負して初めて始まるのだと、この3失点で痛感しました。
この失敗を機に意識を変え、ストライクゾーンで勝負するようにしました。その結果、少しずつですが投球は安定し、秋のフレッシュでベンチ入りを掴むことができました。しかし、神宮の舞台は僕に再び現実を突きつけました。明治戦の接戦で任されたマウンド。1人目を三振に打ち取るも、その後一つのアウトも奪えずに6失点。六大学野球のレベルの高さを身をもって知らされました。
質の低いボールでは、ストライクを入れても打たれてしまう。そう考えた僕は、ボールの質、つまり球速やキレを過剰に意識し始めました。しかし、これが大きな罠だったのです。質を求めれば求めるほど、ボールはストライクゾーンから逸れていく。僕はその事実から目を背け、ボール球でも、質が良ければいいと自分に言い聞かせるようになりました。コントロールという投手の生命線を、自ら手放し始めていました。
そんな悪循環の先に待っていたのが、2年生の春のフレッシュの明治戦でした。4-1とリードした場面で任されたマウンド。しかし、四球を連発し、結局2回で3失点。チームのリードを僕一人の手で消し去ってしまいました。
「勝ち試合を潰した」
その事実は、これまでのどんな敗北よりも重く、僕の心にのしかかりました。
春のフレッシュが終わると、僕は夏に向けて気持ちを新たにしました。しかし、そんな僕を待っていたのは、あまりにも残酷な現実でした。夏の横浜国立大学戦で肩を痛め、そこから僕の、長く暗いトンネルのような日々が始まったのです。
1週間ノースローにしたら投げられるかもしれないという僅かな希望を抱いては、15mの距離で走る痛みに打ち砕かれる。そんな日々を繰り返し、次第にフォームはどんどん崩れていきました。この期間はかなり辛い時期でしたが、不思議なことに僕の心は折れませんでした。「いつか必ず治る」。何の根拠もないその確信だけを胸に、僕は前向きに練習に取り組むことができていました。
その秋のリーグ戦では、一緒に釣りに行ったり、「運試し」にいった三田村さん(R6卒)、青木さん(R6卒)がリーグ戦で活躍していました。スタンドから見る2人の姿は、僕にとって憧れであり、目標であり続けました。そんな尊敬する先輩方と、最後に一緒に練習できなかったことだけが、今でも心残りです。
尊敬する先輩方が引退され、新チームが始動しても、僕の肩はまだ痛みを訴え続けていました。そんな暗闇の中で、花村(3年/投手/開成)が紹介してくれた岩松さん(もじゃさん)との出会いが、一筋の光となります。岩松さんの指導のおかげで、僕を苦しめた肩の痛みは徐々に和らぎ、少しずつですが、確かに調子は上向いていきました。
しかし、夏に再び肩を故障し、参加した遠軽合宿ではボールを投げることすらままならない。この時、僕の心は完全に折れました。もう、ピッチャーは辞めよう。こんなに痛くて辛い思いを繰り返すくらいなら、いっそ野手に転向しよう。本気でそう考えました。
そんな絶望の中、僕を救ってくれたのは、同じ肩の怪我に苦しんでいた横山(3年/投手/新潟)の励ましでした。投手であることを諦めずに済んだのは、彼のおかげです。リハビリ中に見た神宮のマウンドに立つ横山の姿が僕に「もう一度頑張ってみよう」と強く思わせてくれました。
先輩方が引退して自分たちの代になりました。肩の痛みも消え、万全の状態で迎えるはずのラストシーズン。その始まりは、ハムの肉離れという最悪の形でした。長崎合宿に行けない焦りがありながらも、肉離れが治ればすぐに結果は出せると高を括っていました。しかし、3月のオープン戦で全くパッとせず、Bチームのままでした。
「このまま何もできずに引退するのだけは嫌だ」
焦りと絶望の中で、僕を救ってくれたのは、工藤(4年/内野手/市川)からのアドバイスでした。そして4月1日、僕は野球人生最大の賭けに出ます。サイドスローへの転向。それは、プライドを捨て、最後の可能性にすがる、必死の選択でした。
その賭けは、驚くほどうまくいきました。すぐに結果が出始め、Aチームに昇格。そして、5月10日のリーグ戦、ついに神宮のマウンドに立つチャンスが巡ってきたのです。
結果はバッター松下(法政大学/4年)のところにワンポイントで出場するも、結果はフォアボール。即、交代。フォアボールの直後は恥ずかしさのあまり、早くベンチに戻りたかったです。
春のリーグ戦が終わり、僕の心は秋に向けて燃えていました。秋は三田村さんのように抑えてやる。その一心で、僕は野球人生最後の夏に臨みました。
その夏、僕は間違いなく好調でした。面白いように打者を打ち取り、回途中のピンチで登板すれば、全ての火消しに成功する。6月から8月の途中まで続いたオープン戦での無失点記録。それは、僕の野球人生で最も輝かしく、そして何よりも、心の底から試合が楽しいと思えた時間でした。
そんな僕の姿を見て、西山コーチが声をかけてくれました。「首脳陣に、左打者を抑えられるところをアピールしろ」。最後の関門。これを乗り越えれば、神宮のマウンドが見えてくる。そう思いました。
迎えた筑波大戦。左打者を抑えようと、力みすぎたのかもしれません。左打者の弱い当たりがヒットになり、気づけば2アウト満塁。そして、僕は左打者へ2球連続で死球を与えてしまい、そのまま4失点。完璧だったはずの夏が、たった一日で、たった数球で、黒く塗りつぶされていくようでした。
リーグ戦直前でのあの炎上は、かなり応えました。その後の投球もパッとせず、リーグ戦のメンバーに僕の名前はありませんでした。予感はありました。心のどこかで覚悟していたはずなのに、現実は想像以上に重く、ショックで言葉も出ませんでした。
ただ、その苦しみの中で、僕の視野は少しだけ広がりました。この感情は、僕が初めて味わうものではない。チームの仲間たちは、とっくにこの悔しさを何度も経験し、それでも戦い続けていたのだ、と。
チャンスの数は平等ではないかもしれない。それでも、その一度を掴み続けることの尊さ。野球が最後に教えてくれた、大切な学びでした。
この文章が公開される翌日、僕にはまたオープン戦というチャンスがあります。引退まで、もう一つも無駄にはしない。そう固く誓い、僕はまたマウンドに向かいます。
長くなりましたが、自分語りはここまでにしようと思います。
岩松さんへ
岩松さん、本当にありがとうございました。正直、岩松さんに出会っていなければ僕はここまで来られませんでした。感謝してもしきれません。引退してからもお邪魔するかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。
鎌田さん、アスリートゴリラの先生方へ
僕の肩などをケアして頂き、ありがとうございました。4年生まで野球を続けられたのは鎌田さんとアスリートゴリラのお陰です。今後も、東大野球部の後輩たちのリハビリなどよろしくお願いします。
山崎班のみんなへ
辛いことの方が多いと思うけど頑張ってください。特に岩佐(2年/投手/浅野)さぼんなよ。引退してもみんなの活躍を一番楽しみにしてます。
応援部の皆さんへ
神宮のマウンドで聞いた応援を一生忘れないと思います。いつも本当にありがとうございました。
家族へ
いつも部活を優先してくれて、ありがとう。怪我とかで心配させちゃったけど、最後のリーグ戦は結果で恩返しできるように頑張ります。引退したらまたみんなで一緒にご飯食べるのが楽しみです。
野球に出会えて本当に幸せでした。
次回は、いつもニコニコしすぎて逆に怖いよしこう(吉田/4年/投手/明善)が書いてくれます。彼の僕人は僕らもニコニコにしてくれるでしょう。ご期待ください!
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次回は明日9/28(日)、吉田晃輝投手を予定しております。