『僕の野球人生』vol.6 工藤 雄大 内野手
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.6 工藤 雄大 内野手(4年/市川)



チーム1の努力家、カラオケのビブラートが気持ち悪い渡辺向輝(4年/投手/海城)からバトンを受け取りました。
外野手→投手→内野手と紆余曲折を経て再び外野へと舞い戻った工藤雄大です。
野球を始めたのは6歳の時に遡る。4歳上の兄の影響を受けて始めた。後に早実の5番となる兄は地域でもかなり有名で、その弟の僕は工藤ジュニア、のちに工藤が消えて、ジュニアと呼ばれていた。幸いジュニアも少年野球ではそこそこ上手く、毎日が楽しくて仕方なかった。練習後は、暗闇の中川公園で金属バットを片手に自転車を乗り回し、すれ違いざまにお互いの自転車を本気で壊しにいく、通称”戦争”と呼ばれる遊びも流行した。この遊びが、チーム屈指のスイングスピードの根幹を担っていると言われても過言ではない。しかし、さすがにこの街(足立区)はヤバいと小学生ながらに思ったのか、中学受験をして市川中に入学した。
市川中では、そのまま野球部に入部した。練習時間は1日3時間、ミーティングもなぜか3時間近くある部活だった。最初の半年ほどはボールを触った記憶がほぼなく、部伝統の謎挨拶「おぅす!」の練習が主だった。「え、何これ笑」みたいな感じで声を出していると、「お前のおぅすには重みがねぇんだよ」と当時のキャプテンに怒られたのを今でも思い出す。また、顧問が考案したトレーニングで、先輩が頭頂部を火傷したり、差し入れのガリガリ君を顧問から手渡される時に「ほら、デブデブ君!」と言われたりと、昨今のSNSの普及を考えると炎上していてもおかしくないような事案が多発していた。このように、中学ではちゃんと野球をした記憶はないものの、千葉県準優勝といった快挙も果たし、順調なのかわからないまま3年間を終えた。
高校はそのまま市川高校に進学し、野球部に入部した。中学とは打って変わって練習は厳しかった。毎日、2時間以上あるトレーニング、1000スイングがノルマの連ティー。秋元(2年/内野手/市川)、思い出しますか。JRの路線図で、グラウンドの最寄り駅である市川大野という文字を見るだけであの日々がフラッシュバックし吐き気を催すほどである。ただ、その厳しい練習のおかげもあり、高校2年時にはシード校を次々と撃破。千葉県ベスト8という結果を残した。しかし、自分の代では4番になったものの、なかなかチームに貢献することができず、秋は早々に敗退した。逆襲に燃え、バットを振り込み、いつも以上にトレーニングをしていた矢先、あの忌々しいコロナ。最初は「よっしゃー!1週間オフかー」程度に思っていたら、春大会はおろか夏大会も潰れた。代替大会が開催されたが、一回戦で負けた。失意の中、もう野球はやめようと思い家に帰ると電話が鳴った。2つ上で明治大学で野球を続けていた小倉さん(明治大学/R5卒)からだった。
お前はこんなとこで終わっちゃだめだ。今はダメでもいつかは咲く。六大で待ってるから。
今考えるとだいぶくさい言葉だが、当時は愛犬のモコに顔を埋めて泣きながらその言葉を聞いた。
長い夏が終わり、受験勉強に取り掛かった。当時はかなりのバカで、学年で下から1桁に入るほどだった。小倉さんの言葉を胸に受験まで必死になって勉強した。しかし私立文系コースだった自分は、早稲田と慶應の学部を片っ端から受けるも、全て不合格。
勉強も野球も全部兄の劣化版なのか。
甲子園にも行けるような学校に一般入試で入り、野球部のレギュラーを勝ち取った兄。兄の学校には受からず、野球部では1回戦ですら勝てない自分。兄に会うたびコンプレックスを刺激されて自己嫌悪に陥り、卒業式までの1週間部屋に閉じこもった。卒業式当日、進路の決まった友人たちが大学生活の展望を語る中、無表情で席に座っていた。
気にした親友が
「お前どうすんの?東大受けんの?」
と聞いてきた。
さすがにどこかしら受かるだろうと思っていた自分は、受験前「早慶落ちたら東大受けるわ」という冗談を言い回っていた。そいつは律儀にそれを覚えていたのである。職員室で今までお世話になった先生に挨拶に行く時も、「こいつ東大受けるらしいです笑」と言いながら付いてくる始末だった。このやりとりを10回ほど続けるうちに、自分自身もヤケになり「どうせ浪人するなら東大受けるか」と思うに至った。
母にこの事を伝えると「雄大が決めた事なら」と予備校探しに付き合ってくれた。私文出身の自分を相手にする予備校などなく、幾度となく門前払いをくらった。その時の、息子の為になんとかしようと必死になってくれた母親の顔は今でも覚えている。そして、縁あって河合塾に入る事となった。その1年間はあっという間だった。好きな野球を続ける為に、自分は兄の劣化版ではないのだと証明する為に、寝る間も惜しんで勉強した。体重も10kg以上減った。予備校では、東大野球部に入ることを志す友達もできた。空き時間を見つけては、一緒にBIG6TVを見て先輩たちが神宮で戦う姿を目に焼き付けた。しかし、現実は残酷で試験の直前までE判定がほとんど。不安と戦いながら毎日を送った。実際に本番も散々で、さすがに落ちただろうと思い合格発表を迎えた。
合格
奇跡とはこのことか。宝くじを当てた気分だった。その一報は市川高校職員室にも届き、先生らは歓声、悲鳴をあげた。自分もこの前知ったのだが、この日東大球場の横にある地震研では、千葉県市川市本北方2丁目付近を震源とする微細な振動を観測したという。
4月になり、晴れて大学生になった。もちろん、野球部に入部した。球場の近くで一人暮らしも始めた。一年生の時は、順調な滑り出しだったと言えるだろう。春のフレッシュではヒットを放ち、6月にはAチーム入り。しかし、物事はそう簡単にはいかない。直後の練習で肉離れを起こし、その後完治しないまま練習に参加しては1回、2回、3回と再発を繰り返した。極め付けは8月の上智大学戦。ホームランを打った直後、右腿裏に鈍い痛みを感じ4回目の肉離れを再発した。痛みを抑えながらゆっくりダイヤモンドを一周していると、相手チームから「煽ってんじゃねえぞ!」と怒号が飛んでくるほどだった。その後は走るのはおろかバットを振るのも怖くなった。そこでふと思いつく。
ピッチャーなら走らなくていい。
今でもなぜこんな発想に至ったのかわからない。野球をしているならどのポジションだろうが肉離れのリスクは大差ない。というかむしろファーストの方が走らないと思う。そんなこんなでピッチャーを始めることにした。意外にも実戦機会はすぐに回ってきた。2つ上の小島さん(R6卒)が「じゃ、行ってきまーす」と自分の前のピッチャーとしてマウンドに向かっていく。その時の背中は大きく見えた。ピッチャー初心者の自分には殊更に。しかし、そのわずか10分後ノーアウト満塁でマウンドを明け渡されることとなった。初登板には荷が重すぎるだろと思ったが、ビギナーズラックでこのピンチを無失点で乗り切り、華々しいデビューを飾った。しかし、その後は投げては炎上を繰り返し、半年後に永田学生コーチ(R6卒)から寮の屋上でクビ宣告をくらった。しかし、偶然の産物か、野手に戻ってからというもの、スイングは以前に増して強くなった。また、「俺もストライクいれるのに苦労したから、こいつもそうだろう」と相手投手の上に立つ思考を確立した。背水の陣で臨んだフレッシュでは、当時リーグ戦で台頭していた明治投手陣からヒットを量産し、続く夏のオープン戦ではホームランを連発した。しかし、その後全くと言っていいほど打てなくなり、結局秋のリーグ戦には出られずに終わった。
残り4シーズン。来年こそは。
冬は今まで以上に練習を頑張った。オフの日も少しでも上手くなろうと外部指導に通ったりもした。
迎えた3年春。開幕のベンチ入りメンバーに自分の名前はなかった。幸い代打で数打席リーグ戦を経験したものの、その後も代打枠、メンバー外を行き来した。ファーストで怪我人が多発し、空き週のオープン戦でホームランを打つといった、自分にとってはこの上ないチャンスもあった。しかし、一度もスタメンになることはなかった。その後のオープン戦でも、何時間もアップや準備をしては代打1打席で1日を終える日々が続いた。
俺は何をしてるんだろう。
気付いたら6月にはBチームにいた。寮生である以上、自分がBチームにいる現実を毎日受け入れなければならなかった。寮に帰るAメンバーとすれ違いながら球場へと向かい、夕食の最中にリーグ戦の話題が聞こえてくると、憂鬱な気分になった。「秋は出られそう?」と心配する親にも合わせる顔がなく、実家に帰る足も遠のいた。リーグ戦で東大が勝利した日には、神宮にすらおらず、東大球場で貸出対応をしていた。そんな中、腐りかけていた自分を救ってくれたのは、苦楽を共にしたBチームのメンバーだった。底なしに明るい林(4年/学生コーチ/西大和学園)、一日中一緒にいる黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)、Bチーム不動のエース増田(4年/投手/城北)、何百球もバッピしてくれた数馬(伊藤数馬/4年/マネージャー/旭丘)、(キモカワの石井(4年/学生コーチ/仙台二))。その他にも、笑顔で話しかけてくれた後輩たち。本当に感謝しています。ありがとう。
そんな日々もあっという間に過ぎていき、3年の冬、つまり野球人生最後の冬を迎えることとなった。残り2シーズンこそはレギュラーをとって悔いなく終わろう。そう意気込んで臨んだこの3ヶ月は今まで以上に練習した。学科も一緒、部屋も隣、半径3メートル以内にいる時間は1日20時間を超える榎本(4年/外野手/渋谷幕張)と共に、冬のオフも練習を続け、新年も寮で迎えた(年越し寸前に金銭トラブルで不穏な空気になったが)。その成果もあってか、オフ明けの実戦では好調なスタートを切った。ファーストの守備も上手くなっている実感があり、このまま行けばレギュラーも取れるかもしれないと思っていた。しかし、その後チーム事情によって、あっけなく外野へとコンバート。3年ぶりの外野。不安が付き纏った。少しでも上手くなろうと自主練でノックを受け続けた。
そして、開幕まで2週間に迫ったあの日。いつも通り守備練習をしていた。塁線へと飛んだ取れるかギリギリの打球。すかさず飛び込んだ。守れるところを見せてやろうという気持ちもあったのかもしれない。直後、膝にとてつもない衝撃が走り、これはやってしまったと直感で悟った。
歩けない。
足を引きずりながら、寮へと帰り自室に戻った。痛みは徐々に悪化していき、病院に行った結果膝の靱帯を損傷していることがわかった。
6月の終わりには復帰できるでしょうね。
医者のこの宣告は、春シーズンを棒に振ることを意味した。今までの実績が皆無に等しい自分にとって、この春結果を残す事がどんなに大事か。春出場できないなら選手を諦めなければならない。そう思った。
こんなとこで終われない。
最後は足掻くだけ足掻こう。
何としても出場するため、最後の頼みの綱としてチームトレーナーの高木さんに連絡した。
そのわずか3週間後、自分はリーグ戦のバッターボックスに立っていた。ガチガチに巻いたテーピングとともに。その3週間は、高木さん監修のリハビリメニューを敢行。多忙なスケジュールの中、わざわざ自分のために時間を作ってくださった。感謝してもしきれない。本当にありがとうございました。そんなこんなで、春は代打として出場することが出来た。法政大学戦では、荒井打撃コーチから貰った1kgもする極太バットを持ち、落合博満を真似た即興のフォームでリーグ戦初ヒットを放った。
その後、ホーチミン旅行という小休憩(物議を醸した)を挟み、4年夏、つまり野球人生最後の夏を迎えた。
この夏は、野球人生最後を彩るには相応しい好調ぶりだった。試合を重ねるごとにヒットを打ち続けた。不幸な3年間が清算されるかのように。しかし、その幸せな時間も束の間のものだった。8月の最初に守備のミスをしたのを皮切りに、定位置の代打へと逆戻り。合宿に行っていたため、約15年連れ添った愛犬の死に立ち会うこともできなかった。心不全だった。中高の時、試合でタコっては愛犬の姿を見て癒されていた。野球部に入ったせいで、最後の3年間はほとんど時間をともにすることが出来ず、申し訳ない気持ちだけが残った。その後は、思い出しては嗚咽し、夜も眠れない日々が続いた。謎の首痛も発症し、高校の同期や親が札幌に来ている中、七大戦への出場も途中で辞退した。
この頃、合宿で同部屋だった竹山(3年/外野手/修道)をあだ名で連呼し、門田(3年/内野手/松山東)にボケることで自らの精神を安定させていた。2人とも俺のせいで不調になってしまったのかもしれない。すまん。
榎本は2週間に渡り俺の話し相手になってくれた。ありがとう。
身も心もズタボロになり、最後の合宿を終えた俺は、東京に帰るとすぐ実家へと向かった。多感な時期を愛犬とともに過ごした実家。母親のマッサージを受ける中、自然と涙が溢れた。「きっとどこかで見てるよ。」この一言を胸に、再び寮へと戻った。そこからリーグ戦まで、なんとか調子を立て直し、アピールを続けた。
迎えたラストシーズン。
野球ができる最後の機会。
井之口(4年/内野手/ラ・サール)と横浜までチャリを漕いだこと。青貝(4年/内野手/攻玉社)と荒川の河川敷で発狂したこと。持永(4年/投手/駒場東邦)と九十九里浜で黄昏れたこと。大原(4年/外野手/県立浦和)と夜の渋谷を徘徊したこと。杉浦(4年/捕手/湘南)と「世界は善に満ちている」の講義を受けたこと。中山(4年/外野手/宇都宮)たちとぶどう狩りに行ったこと。山崎(4年/投手/渋谷幕張)とタイに行ったこと。
4年間の思い出が甦る。
今はリーグ戦の真っ只中。まだこの代で一勝もする事はできていない。
野球を始めて17年、特に最後の4年間は、喜びも悔しさも、いろんな感情を経験した。自分が下手なことも嫌というほど思い知った。
だからこそ、どんな醜態を晒そうと全力でプレーする。
その姿を見ていて欲しい。
ここからはお世話になった人への感謝の言葉を書きます。
応援部の皆さんへ
なかなか野球が上手くいかない時、あなたたちの応援を見に行くのが楽しみでした。ありがとうございました。特に、松崎君と岡田君、君たちの応援スタイルが好きでした。残り試合少ないですが、これからも応援よろしくお願いします。
高木さんへ
トレ長として高木さんと中々親交を深めることが出来なかったのが心残りです。怪我をした際、お忙しい中自分に時間を割いていただきありがとうございました。高木さんのおかげでヒットを打てました。
お世話になった先輩へ
入学時から面倒を見てくださった大井さん(R6卒)、内田さん(R7卒)、橋元卍さん(R7卒)、西前さん(R7卒)、ありがとうございました。残り数試合悔いが残らないよう頑張ります。
後輩へ
中々思うようにいかず、悩んでいる人も多いと思います。そんな時は筋トレして下さい。自信がついて、悩みが吹き飛びます。
竹山君へ すすきのでの一件は出世払いな。
同期へ
勝とう。みんなで逆襲しよう。
兄へ
おそらく読んでいないと思いますが、ありがとう。いい道標でした。
父へ
何不自由なく野球を続けさせてくれてありがとう。小さい頃、たくさん東京ドームに連れて行ってくれたおかげで、反抗期を境に阪神ファンになることが出来ました。ありがとう。
母へ
感謝してもしきれないです。良き相談相手であり、家に帰るといつもマッサージしてくれました。仕事の合間に試合も観に来てくれてありがとう。最後恩返しできるように頑張ります。
明日は、向丘で一番騒がしい男・青貝尚柾です。乞うご期待を。
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次回は明日10/1(水)、青貝尚柾内野手を予定しております。