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『僕の野球人生』vol.10 大原 海輝 外野手

4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.10 大原 海輝 外野手(4年/県立浦和)


 一誠寮で1番頼りになる男、我らが榎本寮長(4年/外野手/渋谷幕張)からバトンを受け取りました、一誠寮で1番だらしがない男、大原海輝です。ちなみに青貝(4年/内野手/攻玉社)とツートップだと勝手に思っています。

 僕の座右の銘がバズってしまい、1ヶ月後に控える就職活動生活に暗雲が立ち込めてしまいましたが、とりあえず野球をしている間はバットのように忘れようと思います。

 何はともあれ、バットは忘れてしまいましたが(早瀨(2年/投手/藤島)本当にありがとう)、僕人を書くのは忘れなかったみたいです。

 とか書いていたら、たった今、東大球場にバットを忘れたことに気がつきました。榎本ありがとう。

 急いで取りに行ってきます。それでは、ごきげんよう。


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次回は10/7(火)、黒武者外野手を予定しております。





 自己評価としてお世話になった人への感謝を綴りながら、うまくまとめることが出来たのではないかと思います。

 しかしながら上記の文章は全体で282字しかありません。このままでは同期で1番短くなってしまうので、そろそろ真面目に僕の野球人生を振り返ってみようと思います。書き始めたら過集中な性格のせいか、柄にも無く長々と自分語りをしてしまいました。最後まで読んでいただけると幸いです。




 2024年10月13日、法政2回戦のこの日は僕にとって一生忘れることのない日となった。

 僕の力を借りることなく東大は7年ぶりの2勝目をあげた。

 生き生きとした顔でプレーする仲間の顔を、前日までスタメンだった春のベストナインは、ベンチから眺めていた。

 サヨナラの瞬間、ホームで抱き合う仲間の側で、秋の東大野球部はもはや春のベストナインを必要としていないことを悟ってしまった。




 三兄弟の末っ子として生まれた僕は、スポーツという言葉を知るよりもずっと前に野球と出会った。

 僕が生まれた時には既に野球少年であった兄2人がいる家は、バットとボールで溢れかえっており、巨人ファンの父によって占拠された夜のテレビは、毎日のように野球中継を映していた。物心つく前にバットとボールを手に取ることは、もはや定められた運命だった。

 全国の野球一家の父親同様、息子をプロ野球選手に育て上げたかった父から英才教育を受けた僕は、早々に野球人生におけるピークを迎えた。自分の身長の半分ほどのバットで投げられたボールを百発百中で打ち返し、今よりも遥かにスムーズな投球動作でキャッチャーにストライクを投げ込む。日本代表にU-3のカテゴリーがあったら4番でエース間違いなしのスーパーキッズは、自分が選ばれしものだと信じていた。自分は野球と相思相愛でプロ野球選手になるべくして生まれた存在だと勘違いしていた。

 父との野球ごっこはいつしか練習へと変わっていった。平日はバッティングセンターで打撃練習をして、休日は公園で真剣勝負をしたり、ノックをしたり、スピードガンコンテストをしたりした。父と2人の世界で野球の練習をする日々が最初は好きだった。



 そんな野球少年が小学生になり、当然のように兄の背中を追いかけて少年野球チームに入る、ということはなかった。小3までの少年野球を球遊びだと考えていた父は、僕を少年野球チームに入れなかった。

 チームに入らない代わりに毎日の練習は厳しくなり、野球をするのが次第に嫌になった。ただ、幼き日の僕に逃げるほどの勇気はなかった。


 僕は臆病な人間だった。


 小4になった僕を父はリトルリーグのチームに入れようとしていたらしいが、そんな父の期待をよそに僕は友達が1番多い地元の少年野球チームに入った。父には多分それっぽい理由を伝えたが、本音は知らない人と野球をするのが怖かったからであった。

 強豪高校野球部を意識した声出しのランニングから始まる日本全国にありふれた少年野球の練習風景は、父との2人の練習に嫌気がさしていた僕にとって新鮮で楽しかった。友達と野球ができる土日が待ち遠しくなった。

 同時に現実も突きつけられた。少年野球で野球をするうちに自分は選ばれしものでも何でも無いことに気が付きつつあった。自分より打球が飛び、球も速く投げられる同級生もいたし、自分より野球の才能に溢れているとすぐにわかる対戦相手も珍しくなかった。



 地元の中学に入り、軟式野球部に入部した。臆病な僕に、硬式でやる覚悟はなかった。

 前任校で弱小野球部を全国大会へと導いた名顧問の下での野球は、これまでの野球人生で1番厳しかったが、野球の技術や勝つための考え方だけでなく生活態度や学業の大切さも学ぶことができた。

 1年生からスタメンで試合に出ていたが、夏に腰椎分離症になって半年以上野球が出来なくなった間に、同級生がどんどん成長して僕を追い抜いていった。物分かりだけは良かった僕は、自分はただ野球を始めるのが人よりちょっとだけ早かった凡人であることを完全に悟った。

 こうしてプロ野球選手になるのを諦めた時から、どうせ才能がないなら自分のやりたいことをやる野球をしようと思った。


 僕は身勝手な人間だった。


 投手不足にかこつけてやりたかったピッチャーを始めた最初の試合で、そこそこ速いジャイロボールと大きく曲がるスライダーを武器に打者を次々と三振に取った。ピッチャーの気持ちよさを知った。やりたいことをやってみる野球は楽しかった。

 中学最後の試合、僕は投手としてマウンドに立っていた。結果は格下相手にまさかの敗戦。同級生が涙する姿を見て、悔しさと申し訳なさでいっぱいになった。高校はもっと本格的に投手をやろう。悔しさを晴らすべく新たな決意が胸に生まれた。申し訳なさは数日寝たら過去のものになっていた。

 中学を卒業する頃には、両親すらも、僕が野球においてトップになることを期待しなくなった。アイデンティティを完全に失ったことは思春期の僕にはかなり応えたが、どこか解放感の方が大きかった。



 高校の野球部は、割と部員数が多く、24時間閉まることのない校門のおかげで夜遅くまで練習に励んでいたため、公立校にしてはそこそこ強かった。21世紀枠を勝ち取りやすい公立進学校に特有である、秋大会への異常な執着心を発揮して、高2の秋、県ベスト16まで進んだ。

 ベスト8をかけた試合、味方のミスから失点した。気づいたらコールドで負けていた。試合後のミーティングでミスをした味方にキレ散らかし、敗戦を人のせいにして、ピッチャーとしての責任を果たせなかった自分から目を逸らした。


 僕は無責任な人間だった。


 コロナ禍による締まりのない独自大会を終えて、僕の高校野球生活は幕を下ろした。

 そのまま、野球人生にも幕を下ろすつもりだった。ピッチャーとして調子が良かった時期は東大野球部を志すこともあったが、引退時には高2の冬に痛めた肩肘の痛みが残り続けマウンドに立つ事はもう出来なくなっていた。何より誰にも大きな期待をされずに好きなようにやりきった高校野球に少なからず満足感を感じていた。僕にとって高校同期との日々は、最高の青春の日々で、自分に野球が好きなことを気付かせてくれた野球人生のフィナーレを飾るのに十分過ぎる日々だった。

 引退後東大にも受かりそうなくらいまで成績は伸びたが、惜しくも不合格となった。不合格となった日、

「海輝がしたいなら浪人していいよ。神宮で野球している姿が見たいな。」

母にそんな感じのことを言われた。

 思い返せば、母には中学、高校と毎回のように応援に来てくれていたのに大きな舞台で野球をする姿を見せられていなかった。父もいつでもバッティング練習に付き合ってくれたりと、なんだかんだ応援してくれていた。両親への恩返しがまだ済んでいなかったことに気づき、野球を辞めようと思っていた心が揺らぎ始めた。

 結局、浪人生活の間に野球を続けるかどうかという迷いは親に神宮で恩返しをしようという決意に変わり、東大に合格した僕は野球部に入部することにした。

 高校では投手兼外野手だったが、足も遅いし外野より内野の方がかっこいいし、大学ではサードとあわよくば投手の二刀流(その年は大谷が覚醒した年でかなり憧れていた)に挑戦してみることにした。どうせ人生最後だし、恩返しのついでにやりたいことをやってみようと思った。



 1年生になった。

 コロナの影響で4月中旬からの入部となった。

 初日の練習、久しぶりにしたキャッチボールは今でも覚えている。

 右肩に激痛が走り、ボールを握る感覚もない。訳もわからないフォームで投じたボールは四方八方にちらばり、二つ隣でキャッチボールをする榎本の頭をゆうにこえ、球場を囲うフェンスすらこえていく。

 キャッチボール相手の捷(酒井捷/4年/外野手/仙台二)には「まだ初日だからね!無理しないで大丈夫だよ!」と言われた。彼の傍若無人ぶりからは想像もつかない慰めを貰うほどの惨状であった。

 大谷になることは初日で諦めた。

 1週間後、初めて神宮で見た東大の試合は、早稲田相手に2-2の引き分けに終わった。衝撃だった。試合に出ている先輩たち全員が輝いて見えた。

 入部時には4年生でスタメンで試合に出たいなぐらいにしか考えていなかったのに、試合が終わる頃にはいち早く神宮のグラウンドに立ちたいという思いで頭はいっぱいだった。

 神宮のグラウンドに立つ為にはスローイングの改善が急務だった。

 高校同期に勧められて通い始めたアスリートゴリラの治療のおかげで2年に及ぶ肩の痛みに終止符が打たれつつあったが、未だに投じたボールはあさっての方向に飛んでいくばかりだった。

 完全にイップスになったことを自覚した。

 自転車の乗り方よりも先に覚えたはずの動きは無情にも体から失われていた。危機感を覚え、高校で投げ込みによってコントロールを改善した自分は、夜の球場でひたすらネットに向かってボールを投げ続けた。(今思えば高校まで3球で肩が出来上がり、常に全力投球だった僕は生まれながらのイップスだった。)

 バッティングの調子は良かったため、春フレッシュでは代打出場し、そのままシートBTでも打ち続け、遠軽合宿にも連れて行っていただいた。合宿後もAチームだったものの、A戦にもほとんど呼ばれることなくリーグ戦が始まった。


 僕はいまだに無責任な人間であった。


 公式戦メンバーに名前が入ることなどないと思っていた僕はリーグ戦に向けた緊張感など皆無で、寝坊や遅刻を繰り返していた。

 Bチームに落とされた。当然だった。

 リーグ戦を目指しながらも野球を続けることが叶わなかった4年生の思いを踏みにじっていた。

 Bチームに落ちて初めてそのことに気づいた。その時期の学年ミーティングでは選手からマネージャーを出す話し合いも行われた。

 大学野球で野球を続ける者には相応の責任が伴うことを自覚した。

 反省の意を込めて坊主にしたが、あまり効果はなく、翌週また寝坊した。

 秋フレッシュは春と変わらずベンチで代打要員だった。スタメンで出ていた捷や青貝、杉浦(4年/捕手/湘南)が神宮で活躍し慶應にコールド勝ちする景色は、このままでは置いていかれる焦りを感じるには十分だった。

 神宮のグラウンドに立つ為には未だスローイングの改善が必須だった。

 投球の外部指導の存在を知らなかった、いや、知ろうとしなかった僕は、春と変わらず夜にボールを投げ続けていた。 

 この頃の努力は行き当たりばったりだった。



 2年生になった。

 春の鹿児島合宿から代打で結果を残し続け、明治2回戦で初めてベンチ入りを果たした。

 リーグ戦の初打席は同点で迎えた5回ツーアウト満塁だった。急に永田さん(R6卒)に呼ばれ、ネクストバッターズサークルで球場の景色を噛み締める余裕もないまま打席へと向かい、気づいたらフルカウントになっていた。がむしゃらに振り回したバットは、フルボルテージの応援のおかげかボールを捉え、センター方向にぐんぐん伸びていった。味方スタンドから大歓声が湧き上がった。一塁ベースを回ったところで、今度は相手スタンドからの大歓声が聞こえた。

 試合は、そのまま同点で進み、最終回に決勝打を打たれて負けた。初めてのリーグ戦で、神宮で試合をする興奮とそれ以上の悔しさを味わった。

 リーグ戦初打席のインパクトだけでその後の全試合に代打で出場し続けた。ヒットは出なかった。打球は正面に飛び続けた。チャンスも潰した。申し訳なさはあったがこの頃は寝たら翌日には忘れていた。

 1年間ひたすら受け続けたノックと冬の間の送球練習によってギャンブル性を担保するまでには改善された守備力で、春フレッシュはサードを守ることができた。

 2年生の前半は順調に進んでいた。調子に乗って、秋のスタメンを意識し始めた。

 6月の筑波大学とのオープン戦、地獄の後半が始まった。競った展開で後半に出場した僕は、3暴投をして試合を1人でぶち壊した。スタメンだった翌日の試合はベンチスタートに変更となった。帰って1人で部屋で泣いた。翌日の試合は僕だけが試合に出ることなく終わった。試合後すぐにトイレに篭って前日以上に泣いた。

 根拠のない自信が一瞬にして失われると、1年生の時を超えるイップスが僕を待っていた。サード守備は、かろうじて成立していたギャンブル性を失い、入部したての頃に後戻りしていた。

 暴投を恐れる気持ちとは裏腹に、ボールが相手の取れる範囲に行くことはなくなった。練習では常に周りに気を遣わせていた。現実から目を背けるように無心でネットにボールを投げ続けた。


 僕はいまだに臆病な人間だった。


 Aの試合に呼ばれることもなくなった。バッティングもわからなくなり、ヒットも出なくなった。毎週Bチームに落ちるのではないかと怯えていた。

 リーグ戦初打席のインパクトだけでAチームに残り続けて迎えた秋のリーグ戦は、春以上に同期が戦力となって戦っていた。Aチームで後退していたのは自分だけだった。同期の活躍を素直に喜べなくなっていた。

 何故かベンチ入りした法政2回戦、東大野球部は一年ぶりに勝利した。ベンチにいた僕は、傍観者だった。勝利に自分が関わっていないと満足出来ないことを知った。


 僕はいまだに身勝手な人間だった。


 立教戦を前にしてバッティングの調子が上向いた僕は、それまでの不調など忘れ、自分をベンチから外した首脳陣に腹を立てていた。最終戦を眺めるスタンドでは、来春スタメンを取って活躍して監督を見返すことしか考えていなかった。

 リーグ戦を終え、捷がベストナインに選ばれた。閉会式後に神宮に残る背中はかっこよくて羨ましかった。

 この日から引退までにリーグ戦で3割打つことが目標になった。

 代が変わり、行き当たりばったりだった自主練は目標を意識した練習へと変わった。

 佑太郎さん(高橋佑太郎さん/R4卒)の協力のもと、バッティングフォームの改善に取り組み、学生コーチとなった太幹(酒井太幹/4年/筑波大駒場)に毎日のようにバッティング練習を手伝ってもらった。投げるのが上手な青貝だったり、同じく苦手な投げと戦っていた井之口(4年/内野手/ラ・サール)や開智さん(内田開智さん/R7卒)からのアドバイスを参考に肩が壊れるのも辞さない覚悟でひたすら投げ続けた結果、格段に良くなり、守備に自信を持てるようになった。

 春までに行った努力は全て良い方向に向かっているのが自分でも分かった。



 3年生になった。

 春先には、冬の取り組みが功を奏し、バッティングも守備も自分の中で確かな手応えを感じていた。

 迎えた春のオープン戦、DHで毎試合のように打ち続けた僕は、リーグ戦まであと1ヶ月ほどとなった頃外野手に転向した。首脳陣からの提案だったが、僕の内野守備の実力と信頼が、リーグ戦を守るレベルに達していないことは自分でも気づきつつあった。

 リーグ戦直前に、バッティングの良い3年生内野手が外野手に転向する。外野手の4年生はそのことの意味を痛いほど理解しているはずなのに、誰も嫌な顔をせず、僕に外野守備を教えてくれた。


 人生で一番短く感じた春が始まった。


 明治1回戦。代打で立った打席でようやくヒットが出た。初打席から17打席目だった。無我夢中でたどり着いた一塁ベースから見える神宮の景色はそれまでとは比べ物にならないほど鮮やかだった。ボロ負けだったのにベンチの仲間は喜んでくれた。

 試合後のバスの雰囲気は最悪だったが、そんな空気をよそに帰りのバスの僕の心は晴れやかだった。

 一年以上止まっていた時計が動き出した音がした。もう怖いものはなかった。

 5番ライトで迎えた翌日の1打席目、無敵の僕が握るバットはボールを完璧に捉え、上がった打球はそのままスタンドに飛び込んだ。

 勢いそのままに4安打、5打点。

 覚醒を果たした僕は、その後も快音を響かせ続けた。最終打率は3割を超えていた。

 閉会式、帰っていくみんなと別れ、ベストナインに選ばれた僕はグラウンドに残り記者からの質問に答えていた。半年前に憧れた景色がそこには広がっていた。

 寮に帰り、自分の名前が載った記事を読みながら、満足してしまっていた。つい半年前に決めた達成不可能だと思われた目標はあっけなく破られ、入部の目的だった両親への恩返しはもう済んだ気になった。野球をやる理由を見失い、自分に満足し立ち止まってしまった。


 僕はまだ臆病で身勝手で無責任だった。


 リーグ戦を振り返ってみると、自分の為にしか試合に臨んでいなかった。打てなかったらすぐに落ち込んで守備中も下を向き、試合後も弱音を吐いていたし、試合中は自分の打席のことしか考えられず、味方の鼓舞は先輩に任せてヒットを打って歓声を浴びることで満足していたし、チームが大敗したら打たれた投手が悪いと思っていた。

 そんな自分に頭では危機感を持ったつもりになっていた僕は、これからはチームを勝たせる選手になろうと決めた。オープン戦で当たりが止まることは無かった。春の感覚は一生消えないものと勘違いしていた。まだこの時には、東大の選手がリーグ戦でベストナインを取ったことの意味を理解していなかった。

 遠軽合宿の中盤、軽い肉離れをした。すぐに治りそうだし、七大戦は出られないけどリーグ戦には影響ないだろう。そう思い球場の裏で休んでいると、通りかかった府川さん(R7卒)に説教を受けた。自分が健康でないことの責任をもっと重く受けとめろと語る副将は、僕の甘えた心を見透かしていた。危機感を持ったつもりになっていただけだった。練習への取り組みも、冬より甘えていた。

 自分を変える必要があった。


 全ての部員の思いと全ての応援してくれる人達の期待を背負って打席に立ち、ここぞの場面で必ずヒットを打ち、自分の結果に関わらずチームを盛り上げ、守備でも全力プレーでチームに貢献する。そして、東大野球部を勝利に導く。

 ベストナインを取った東大の選手が果たすべき責任は想像よりはるかに重いものであることを自覚した。


 人生で一番長く感じた秋が始まった。

 開幕戦の早稲田戦は2試合とも大差で敗れた。打たれたピッチャーより、3回もあったチャンスでことごとく凡退した自分を責めた。けど、まだ前を向いていた。試合後のバスで流れた4年生の涙に応えるべく、そして次こそはチャンスで打つために、寮に着くとすぐに球場へと自転車を走らせた。

 明治1回戦、8回まで0-0の同点だった。1打席でも自分が打っていれば勝てたかもしれない試合だった。1点が入ることを期待して応援してくれた人への罪悪感を背負い、翌日は自分が打ってチームを勝たせるぞと意気込んだ。

 明治2回戦、自分を奮い立たせ臨んだ打席は全て三振だった。帰りのバスの重苦しい雰囲気は自分を責めているように感じられた。寮に着くと逃げるようにして部屋に駆け込み、時間を忘れるようにして自分を責めた。気付いた時には、既に涙は枯れていた。

 もはや、寝ても忘れることは出来なかった。

 憧れたはずのベストナインという称号は決して外すことのできない足枷となり、周囲からの期待と重圧という名の檻に僕を閉じ込めた。

 春の感覚は既に消え失せていたが、府川さんが自主練中にお前なら出来ると励ましてくれたことで何とか自信を保っていた。

 慶應1回戦、守備でミスを犯した。試合中ずっと下を向いていた。

 限界は近かった。打席に向かうのが怖くなっていた。仲間の顔すら見られなくなっていた。


 僕はいまだに臆病なままだった。


 慶應2回戦、チャンスで打てなかったのにチームは勝った。

 もう限界だった。

 チームが勝ったのに喜びきれない自分がいた。


 僕はいまだに身勝手なままだった。


 慶應3回戦、最終回にみんなが繋いでくれたチャンスで三振した。

 とっくに限界を超えていた。他の人が出た方が良い結果が出ると考えていた。


 僕はいまだに無責任なままだった。


 何も変わっていなかった。責任は何一つ果たせていなかった。部屋に戻っても、もはや涙すら流れなかった。抜け殻になった僕の心の中は真っ暗闇だった。

 外野手の先輩の『僕人』に記された後悔を読んだときだけ、感情を思い出したかのようにひたすら泣いた。


 法政1回戦、気づけばチャンスで打席に立つことに、何も感じなくなっていた。重圧に押しつぶされた僕は緊張すら感じなくなった。帰りのバスで発表された翌日のスタメンに僕の名前はなかった。

 いざその瞬間が訪れると、望んでいたはずなのに頭の中は悔しさでいっぱいになり、部屋に入ると堪えていたものが溢れ出した。涙は枯れることなく流れ続けた。




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 2024年10月13日、法政2回戦のこの日は僕にとって忘れることのない日となった。

 僕の力を借りることなく東大は7年ぶりの2勝目をあげた。

 生き生きとした顔でプレーする仲間の顔を、前日までスタメンだった僕はベンチから眺めていた。

 サヨナラの瞬間、ホームで抱き合う仲間の側で、秋の東大野球部はもはや春のベストナインを必要としていないことを悟ってしまった。




 救われた気分だった。

 一度も試合に出ることは無かったが今までの勝利で1番嬉しかった。

 真っ暗闇だった心に一筋の光が差した。

 もう、東大野球部を勝たせるという責任に目を向けなくていい気がした。

 曇りのない笑顔で前を向いて戦う仲間は、ただただかっこよかった。楽しそうにプレーする仲間にただただ憧れた。

 楽しむことを1番に打席に立とうと思った。


 法政3回戦、代打で打席に立った僕は、どこか吹っ切れていた。求めていたヒットは呆気なく出た。ベンチで盛り上がる仲間が見えた。

 立教1回戦、一点差の9回2アウトランナー無しから中山(4年/外野手/宇都宮)と開智さんが繋いで僕に回してくれた。僕は、久々に感じた緊張を楽しんでいた。打ったらヒーローになれるとワクワクした。2球目を捉えた打球は外野の頭を超えていった。大歓声の中、無我夢中で走った。セカンドベース上でスタンドを見ると、仲間は潤んだ目でただ一つを歌っていた。

 楽しさとワクワクを噛み締めながら打った一打は、一度目を背けた責任をちょっとだけ果たしたかのように感じられた。


 周囲からの期待や重圧を正面から受け止めてプレーすることは出来なくても、自分が楽しんだ先にチームの勝利があればそれでいい。

 秋のリーグ戦を終えた僕はそう考えるようになっていた。

 ベストナインの負うべき責務から逃げ出したと言われればそれまでだ。
 けど、そうしないと真っ暗闇の中にいた自分に戻ってしまう気がした。

 やはり僕はどうしようもなく臆病で身勝手で無責任であった。



 大好きな先輩たちは引退していった。
 最高学年になった。

 打撃長になりバッティング練習を大きく変えた。

 小村(3年/内野手/私立武蔵)と何時間も自主練した。

 オンリーベースボールと宣言してなるべく野球と向き合い続けた。

 気づけば就活もやめていた。

 オフも外出することが減った。

 今思えばこれらは全て、負うべき責務から逃れたことへの贖罪だったのかもしれない。



 4年生になった。

 違和感を感じながらもバットを振り続けた僕の左手首は、リーグ戦2週間前に一度限界を迎えた。痛み止めとテーピングで我慢してリーグ戦に臨もうと思ったのは、ただ自分が打席に立ちたかったからであった。


 最後の春のリーグ戦が始まった。

 ひたすら自分が楽しむためにプレーした。チームを引っ張ることは他の4年生に任せてしまっていたが、心のどこかでそれでいいと思っていた。グラウンド外ではなるべくチームが勝つ為に自分に出来ることをやるようにしていたけど、試合になると自分の為に打席に立った。

 法政戦の前日に左手首は再び限界を迎えた。骨が折れたことはなんとなく自分で分かった。けど立ち止まる理由にはならなかった。もはやバットをしっかりと握れず、練習すらも出来なかったけど、身勝手にも自分が楽しめる限りはリーグ戦に出続けた。

 結局春は一勝も出来なかった。悔しさはあったが自分の為の野球を貫いた僕に、チームを勝たせられなかった自分を責めるほどの責任感はもはや持ち合わせていなかった。

 春が終わり、有鈎骨の骨折と診断され手術をした僕は、1ヶ月ほど野球ができなかった。その期間にオープン戦で僕の代わりに活躍する後輩や同期の姿を見るのは楽しかった。今までだったら見に行くことすらしていなかった。人の活躍を喜べるようになっていた自分にちょっと驚いた。

 合宿から帰ってくると、同じ少人数班の黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)が学生コーチになった。早すぎると思ったけど、自分の為にプレーする僕に、常にチームを1番に考える幹部に意見することは出来なかった。

 最後の夏は一瞬にして過ぎていった。


 最後の秋のリーグ戦が始まった。


 結局、最後までイップスが治ることは無かった。

 結局、最後まで臆病で身勝手で無責任なままだった。

 それでいいと思っていた。

 早稲田戦でキャプテンの重責を真正面から背負い、それでもなお結果を残し、チームを引っ張り続けた杉浦が怪我をした。チームが失ったものは計り知れなかった。

 最後の最後に、逃げ出した責務と向き合う時が来たのかもしれない。チームを引っ張って行くことが求められる時が来たのかもしれない。まだどうすればいいのかは分からない。

 とりあえず、グラウンド上では自分が楽しむ為に身勝手なプレーを突き通したいと思う。それがチームの為になることを願って。いつ訪れるか分からない勝利に繋がると信じて。






 こんなことを書いていた10月4日、慶應1回戦、東大野球部は約1年ぶりに勝ちました。

 1年前と全く同じように、チャンスで打つことはできず、最後に守備固めを出されました。

 けど、死ぬほど嬉しかったです。

 打てなかったことなんてどうでも良く、ただひたすら嬉しかったです。

 自分の為にやっていた筈なのに、勝った瞬間は安堵でいっぱいでした。

 最後にちょっとでも変われてよかったです。


 そして10月5日、慶應2回戦、勝ち点はまだ取れていません。

 淡青に染まり、今まで見たことがないほど人が入ったスタンドは最高の景色でした。

 1年前の下を向いていた僕は、そこにはもういませんでした。


 この文章が上がる10月6日の今日、慶應3回戦、8年越しのに勝ち点に挑みます。もう、自分の結果なんてどうでもいいです。とにかく勝ちたいです。絶対に勝って笑おう。




 最後に感謝の言葉を述べて終わろうと思います。

応援部の皆さんへ
 自分の為にプレーするこんな僕を一生懸命に応援してくれて、本当に感謝しかないです。他人の活躍を応援し続けるみなさんを尊敬しています。あと数試合、勝ちまくって一緒に笑おう。

アスリートゴリラの皆さんへ
 皆さんがいなかったら僕の大学野球人生は始まりもしませんでした。ありがとうございました。

メディカルベース新小岩の皆さんへ
 皆さんがいなかったら4年生を走り切ることは出来ませんでした。リハビリから手術と何から何までありがとうございました。
 特に三輪さん、春のリーグ戦、心も折れそうになる僕を支え続けて頂いたおかげで最後まで打席に立てました。ありがとうございました。

所沢コスモナインの皆さんへ
 クソガキに野球の面白さを教えてくださりありがとうございました。いつか顔を出したいなと思っているので呼んでくれたら嬉しいです。

郡司先生へ
 多分中学の時が1番考えて野球をしていました。郡司先生の熱意あってのものだと思います。期待してくださったのに、申し訳ない思い出しか残ってないですが、郡司先生の元で野球をしていなかったら、大学まで野球を続けられてなかったと思います。ありがとうございました。

中学野球部のみんなへ
 僕のうどんをめっちゃ食べたり、急にラップバトルを仕掛けてきたり、他にもしょうもない楽しかった思い出がたくさんあります。最強世代と言われたけどあっさり負けたのは僕のせいです。
 3年生以降野球に集中し始めてからあまり会えていないので、野球が終わったらまた遊ぼう。

藁谷先生へ
 ノーコンの僕を信じてピッチャーとして使ってくれてありがとうございます。自由に野球をやらせて貰えたので、自分がやっぱり野球が好きなことに気付けました。ありがとうございました。

高校野球部のみんなへ
 みんなと野球ができて最高に楽しかったです。
 高校時代はマウンドから味方のエラーで機嫌を悪くしていましたが、大学野球をやって守備の難しさを実感しました。長野ごめんな。沖縄旅行を楽しみにして頑張ります。

監督、助監督へ
 打つことしか取り柄がない僕は使いづらい選手だったなと自覚しています。それなのにどんな時も信じて使ってくださりありがとうございます。あと数試合、恩返しできるように頑張ります。

先輩へ
 自分語りを書くにあたっていろんな先輩の僕人を読み、勝手にテイストやワードチョイスが似てしまいました。お詫び申し上げます。
 遅刻、忘れ物と本当にだらしがない僕を最後まで見捨てないでくれてありがとうございます。最後は諦められていたかも知れませんが、4年生になって昔よりは成長したと勝手に思っています。先輩方のおかげです。
 バスの前でどんな時も励ましてくれるのは本当に力になります。ありがとうございます。
 絶対に勝ち点取ります。歴史変えます。

後輩へ
 こんな適当な先輩を慕ってくれてありがとう。あと数試合、力を貸してください。
 みんな3年生までは先輩に甘えて楽しんで、4年生になったら大学野球人生最後の一年を噛み締めて楽しんでください。
 苦しくても上を向いて頑張れ。

少人数班のかわいい後輩たちへ
 ゆうご(鈴木/3年/外野手/浅野)、君は天才バッターです。早く自信を取り戻してね。自信を持てば絶対打てるから。来年神宮を駆け回るのを期待しています。
 けいと(荒井慶斗/2年/内野手/宇都宮)、君はチームで誰よりも才能に溢れています。本気を出せばプロも夢じゃないと勝手に思ってます。プレッシャーに負けず、楽しさを忘れず、そして調子に乗らず頑張れ。
 こみの(小美野/1年/外野手/早稲田)、1年生のリーグ戦初打席でフォアボールを勝ち取れる君も紛れもなく天才です。いずれ東大野球部を背負うことになると思うけど、多分僕より大人なので心配はしてないです。こみのらしく頑張れ。
 かとう(加藤/1年/外野手/早稲田)、君はこの1年で確実に大きく成長しています。さっき見せてくれた置きティーめっちゃよかったぞ。優しい笑顔をいつまでも絶やさずに自信を持って頑張れ。

こむらへ
 いっぱい慕ってくれてありがとう。甘えん坊な君も来月にはもう最上級生です。普段は調子に乗るから言わないようにしてるけど、君は入部した時よりはるか大人になっていると思います。自信を持って、けど気負いすぎずチームを引っ張れ。お前ならできる。


 もっといっぱい書きたいけど、半日以上締切をオーバーしていてそろそろゆめちゃん(番匠/4年/マネージャー/富山中部)に怒られそうなのでここらへんでやめときます。

 みんな誘ってくれたら嬉しいのでいつでもご飯誘ってください。


同期へ
 バットを忘れたり、グローブを忘れたり、バッグを間違えて持ち帰ったりと色々迷惑をかけたと思う。最後まで笑って見てくれてありがとう。
 今年は例年よりも多くの4年生が、例年よりも早く学生コーチになることになったから、納得できないまま大学野球が終わる人も多かったと思う。それでも、不貞腐れず最後までチームの事を考えて行動する姿は最高にかっこいいです。
 特に数馬(伊藤数馬/4年/マネージャー/旭丘)と太幹にはイップスで練習相手が見つからない僕に数え切れないほど投げてもらいました。打って恩返しします。本当にありがとう。

捷、中山
 ベストナインを取って、捷はプロを目指していて、中山は2回も取って、さらには副将で、2人は僕より遥かに大きな責任から逃げ出さず向き合い続けていて、本当に頭が上がりません。逃げ出した身でめっちゃ勝手なこと言いますが、もう責任は十分果たしていると思います。もっと勝手なこと言いますが、最近、気負い過ぎに見えます。最後にもっともっと勝手なこと言います。責任なんて忘れて最後の神宮楽しんじゃおう。

杉浦
 勝手に君は僕側の人間だと思っています。なのに、主将という僕には到底背負うことができない重圧を背負ってプレーで引っ張り、さらに前を向き続けてチームを言葉で引っ張ってくれて、スーパーマンすぎます。怪我をしたことに責任を感じていると思います。けどみんな杉浦イズムは引き継いでいると思うから心配しないでください。最高のキャプテンです。もっとツンデレなとこが見たいので、もっと勝ちます。

 最高の同期、最高の幹部と野球ができて幸せです。絶対勝ち点取ろう。


 感謝まで長くなってしまいました。最後です。

両親へ
 普段は恥ずかしくて言えないので、この場で感謝を伝えたいと思います。幼少期からずっと野球しかしていない自分を常に応援してくれてありがとう。浪人することも、文学部に行くことも、留年することも許してくれて頭が上がりません。今はプレーで恩返ししたいと思います。

母へ
 言われた事をずっと出来るようにならず、かなり迷惑をかけたと思います。少年野球、中学、高校、大学と毎試合のように応援に来てくれてありがとう。中学までは恥ずかしかったけど、高校からは力にしかなってないです。

父へ
 なんだかんだ言って、僕にとって最初で最高の指導者です。試合には見に来ないけど、中継を見て応援LINEを送ってくれるとーちゃんは最高にツンデレで大好きな父です。僕を野球と出会わせてくれてありがとう。僕に野球を教えてくれてありがとう。


 他にも沢山の人の支えで僕の野球人生が成り立っていたことに今更ようやく気づきました。僕の野球人生に関わってくださり、本当にありがとうございました。

 最初のボケからは想像できないほど長々と書いてしまい、ついには今の所1番長くなってしまいました。そろそろバトンを渡そうと思います。

 次は、4年生の面白い人ランキングで堂々の一位を獲得した「く」さんこと黒武者です。

 笑いあり、涙ありの僕人に乞うご期待!


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次回は10/7(火)、黒武者哲太外野手を予定しております。