『僕の野球人生』vol.11 黒武者 哲太 外野手
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.11 黒武者 哲太 外野手(4年/渋谷幕張)



天才的な頭脳と打撃、そして適当なコミュニケーションが売りの大原(4年/外野手/県立浦和)からバトンをもらいました、外野手の黒武者哲太です。あまり感情を出さないタイプですが、とりあえず思ったことを書いたら長くなってしまいました。臼井(4年/学生コーチ/静岡)に「バカ長え」と怒られそうですが、最後まで読んでくださると嬉しいです。
野球との出会いは覚えていませんが、気づいたら某オレンジ色のチームを応援していました。そして兄と同じチームに入り、左投げのセカンドとしてキャリアをスタートさせることになります。チームの末っ子で、超早熟型の俊足だった私はかなり可愛がってもらいました。とはいえ覚えていることといえば、練習後に惜しくも自宅ドアの目前でパンツを汚してしまったあの事件くらいです。
訳あってすぐソフトボールに転向しました。東京ではあまりない少年ソフトボールですが、レベルは高かったです。父と夜に公園でピッチングをしたり、家のカーテンに向かってバッティングをしたり、とにかく練習した記憶があります。そのおかげか、チームの主力、いつしかエースとして活躍するようになりました。試合前には行きたくないと文句を言うかなりの小心者でしたが、「打たせるぞって言え」と叫んでくる昭和監督のことは無視し続けました。普通に打たせたくないし、声を出すのも嫌だったからです。生意気な気もしますが、少年野球界に蔓延る根性論に異議を唱えた功績は我ながら大きいと思います。
確かソフトボールをやめたとき、気に入ってくれていたコーチが「夢であってくれ」的なことを言ってくれました。たかが少年スポーツですが、自分を必要としてくれる人がいるというのは子どもながらに幸せなことでした。
甲子園に出ると意気込んでいたはずが、野球への執着は特に無かったようで、気づけば偏差値を上げることに必死になっていました。将来の夢は宇宙飛行士に変わっており、BUMPみたいなことや、宇宙兄弟みたいなことをして楽しんでいました。ただガリ勉街道まっしぐらだった当時の私も一応野球のことは覚えていたようで、戦国武将で打順を組むという気持ち悪い遊びをしていました。お気に入りは一番ショート真田幸村です。めちゃくちゃ出塁率が高そうだからです。野球への興味がほとんど無くなったのは青峰大輝の影響で、憧れのアレン・アイバーソンに近づくため、放課後はクロスオーバーとシュートフェイクの練習に明け暮れました。
保守的な私は憧れよりも得意を選び、長い付き合いになる榎本(4年/外野手/渋谷幕張)や山崎(4年/投手/渋谷幕張)、高橋(4年/元外野手/渋谷幕張)と出会いました。途中から来た顧問は野球未経験のボクシング経験者、筋トレはしないが水泳はする(もちろんクイックターンも)という珍しい部活でした。水泳に関しては結構スパルタで、習ってもいないバタフライをやらされた同期は水没しかけていた記憶があります。野球に関して言うとコントロールが悪くピッチャーはすぐに辞めましたが、途中からファーストのスタメンとして使っていただくようになりました。そして野球初心者も多い弱小チームは、山崎主将のもと奇跡的に4回勝ち、かなり久しぶりの県大会に出場しました。朝練でメジャーリーガーのモノマネばかりしていた私は、体が大きく当たれば飛ぶキャラとして、打たなくても不動の四番として使い続けてもらいました。自分は強かった年の四番バッターである。その事実だけでそれなりに満たされていたと思います。
1年生のスタメンとして鮮烈なデビューを飾りました。自分の打席で自分のために応援歌が演奏される、憧れのシーンです。夏祭りの最初にある「きーみーがーいたーなーつーはー」で打ってしまったことは少し後悔していますが、試合後、高校が同じだった当時の主務の方に誘っていただきました。絶対活躍できるからと熱心に声を掛けてくださったのを覚えています。弱小校なのに練習試合もさせてもらい、自分の中で進路はもはや神宮に確定したようなものでした。
勉強と野球をちょうどよく両立する毎日には充実感がありました。勉強で疲れても放課後には大好きな同期と談笑し、外野で山崎やサカモトとふざけながらも真面目に練習する。興味を失った時期はあれど、野球は楽しいスポーツです。これからも続けて、いずれは神宮でホームランを打つんだと、忙しい日々のモチベーションにしていました。
大好きだったチームは、エース佐伯(3年/投手/渋谷幕張)を中心として格上相手に勝利を収めました。みんなで死ぬほど声を出してもぎとった、集大成ともいえる勝利の瞬間は今でも忘れられません。でも、勝利の感動と同じぐらい、もしかするとそれ以上に、嫌な気持ちと向き合わされました。薄々気づいていましたが、副キャプテンでいつも四番、聞こえのいい肩書きとは裏腹に、自分のおかげで勝てた試合などほとんど見当たりませんでした。もちろん毎試合活躍できる人なんていません。ただ明らかに自分の立場と実力にはギャップがあり、最後までそれを埋めることはできませんでした。最高なチームメイトと喜びを分かち合いながらも、心には少し傷がついたような感覚。それはあっさり引退を決めた次の試合で少し大きくなり、楽しかった野球との距離は次第に離れていきました。
英語数学国語世界史地理英単語古文単語。自分が何部だったか忘れてしまいました。
色のない日々を経て手に入れた学歴。人生の夏休み。暇すぎる毎日。時間を持て余していた私は、ある日父と野球を見に行くことにしました。そこで目にしたのは、熱気に溢れる球場とかっこいい淡青色のユニフォーム、名門を相手にしても手に汗握るような試合展開。などではなく、見ていられないほど悲惨な試合でした。一つのアウトを取るのもままならず、打ちそうな気配も無い。普通ならもう見に来ないと言いそうですが、当時の私はなぜか燃えてしまいました。これを変えるために来たんだ。時間が解決したのか、野球と無関係な実績のおかげか、一度心に負った傷もすっかり元通りになっていたようです。
野球には不要だと信じてやまないランニングがあったのは想定外でしたが、悪くないスタートでした。日本一かっこいい苗字のおかげで井手前監督に覚えてもらえたし、体が大きいだけでバッティングを少し評価されました。高校生相手にヒットを重ね、シートBTでどん詰まり内野安打を打ったことで遠軽合宿にも行きました。相変わらずの小心者は先輩に暴投するのが嫌で伸び伸びプレーできませんでしたが、光栄なことだったし、緊張感のある良い経験ができたと思います。
少し前までパラレルワールドにいたはずのピッチャーから神宮初ヒットを打ちました。とても嬉しかったし、希望に溢れていました。でも、少しだけ後悔していることがあります。当時の打席でのファッションです。amazonの一番上にあった安いバット、貰い物のバッティンググローブ、リストバンドやガードは無しというかなりのプチプラコーデでした。パジャマでパリを歩くみたいでかっこいいと私は思いますが、もっと普通にかっこつけておけば良かったです。プチプラコーデの写真が自分のハイライトのメインだなんて、何だかちょっと寂しい気がします。
そこからしばらく記憶がありません。多分元気だったんでしょう。
気づいたら続々とリーグ戦デビューする同期を応援するようになりました。でも、素直に応援なんてできません。大敗しているチームのメンバー外としてスタンドから健気に応援歌を歌う、憧れのシーンとは真逆です。あの人よりは打てそうだなとか、どうせ負けるんだろうなとか、偉そうなことばかり考えていたと思います。普通に見ているだけでは気が安まらなかったので、ふざけた応援をしたり、馬鹿騒ぎしたりして、気を紛らわせました。応援から寮に戻ると、試合メンバーが楽しそうに談笑していました。この時期の野球は、本当につまらないスポーツでした。
同じ境遇にいた榎本、工藤(4年/内野手/市川)と男磨き軍団を結成しました。出家した僧侶のように毎日を過ごそうという変な軍団でしたが、拠り所としてはとても楽しかったです。3人で毎日夜遅くまでバッティングをし、割と健康に悪そうだったのも含めて楽しかったです。これがきっかけで3人の仲が深まったことを考えると、大切な時間でした。ただ、ここにも一つだけ心残りがあります。遠軽の冷水に圧倒され、コールドシャワーを数日サボってしまったことです。シティボーイの私は耐えられませんでした。
破門されました。まさかこんなスパルタ軍団になろうとは、結成時思いもしませんでした。
2回目のフレッシュ、明治の投手陣には歯が立ちませんでした。工藤や中山(4年/外野手/宇都宮)が完璧に打っていたので、流石に少しショックでした。バッティングフォームはどんどん変わり、メジャーリーガーみたいな打ち方になりました。いつぞやの朝練でのモノマネ以来です。正解に向かっていたかはともかく、同期のリーグ戦デビューを黙って見続けるのだけは嫌でした。監督にはいつかの面談で「バッティング変わっちゃったよね」と軽く笑われましたが、盛大な苦笑いで返した記憶があります。ただ2試合をスタメンとして出られたので、悪い立ち位置ではなかったと思うし、あと2年で何とかなる気はしていました。まあ結果だけ見れば大分雲行きは怪しかったわけですが、特に重くは考えていませんでした。
AとBの狭間にいる選手はいつお呼びが掛かるかわかりません。左の代打としてリーグ戦に絡めるチャンスが到来しました。と思ったのも束の間、久々のA練、フェンスに足首を強打したことで可能性は消えました。惜しかったけど怪我なら仕方ない、来年頑張ればいけそうだなと思いました。このとき私と入れ替わった4年生は、事実上の引退になっていました。頑張っていたのに引退なんて可哀想だなと思っていた気がします。
鹿児島合宿のメンバーから漏れました。それまではずっとA合宿に参加していたのに。さすがによく意味がわかりませんでした。メンバーが発表されたとき胸に湧いてきたのは、リーグ戦を見ているときに湧いてきたのと同じ、あの感情です。あの人よりは活躍できるはず、何で自分じゃないんだ。もう少しでリーグ戦だったじゃないか。嫉妬やら苛立ちやらで気が狂いそうでした。そこからしばらく理由について考えました。
最悪な事実に気づいてしまいました。それは、知らないうちに過去と全く同じ沼にハマっていたことです。イメージで少し評価されていたけど、そのイメージに実力は伴っていない。伴っていたのは無駄なプライドや自尊心ばかり。成長なんてしていませんでした。唯一過去と違う点があるとすれば、実力も成長も無い選手に期待してくれる人なんてここにはいなかったということだけです。現実から目を逸らしていただけでした。惜しくも怪我をしちゃったとか思っていたけど、そもそも惜しくなんかなかったんだと思います。
そんなことを考え出してから、何だか急激に劣等感が押し寄せてきました。その劣等感は日に日に大きくなり、共に暮らす寮生と自分の差を過剰に意識するようになりました。みんなが寮食を食べながら合宿の話をしていたとき。合宿に向かうメンバーの楽しそうなインスタを見たとき。合宿中の静かな寮で一人ご飯を食べたとき。合宿前いつもスーツケースを持ってきてくれる親に、今回は持ってこなくて大丈夫だよと言ったとき。一つ一つの瞬間が情けなくて、恥ずかしくて堪りませんでした。過去に似たような傷を少し負いましたが、二度目は深すぎてもはや修復不可能になってしまいました。合宿メンバーが帰ってきたとき、一人でスマホをいじっている醜態を隠すため部屋に逃げ込んだことを鮮明に覚えています。
すっかりBの常連になっていたメンバー外は、努力しても結果が出ないことを怖がるようになりました。そして弱い心を守るため、自分に一切の期待をしないことにしました。俺を出せと気を張っていた姿からは想像もつかない、虚無な自分。野球なんてただの暇つぶしだから何でもいいや、と半分投げやり状態です。適当極まりないですが、この精神状態でいると気楽だし、なぜか少し結果が出るようになりました。シートBTでは毎週ヒットを放つ好調ぶりで、自分に必要なのはこの適当メンタルだったんだとまで思いました。このまま適当に楽しみながらやろう、リーグ戦には出られたらラッキー。プレッシャーから解放された気がして、清々しささえありました。
共に戦っていた工藤が、自分に期待しなくなったら終わりだ、的なことを言っていたとき、必死に受け流しました。確か同時期に行われた学生コーチに関するミーティングでは、選ばれてもまあ仕方ないか、とか思っていた気がします。
最後までリーグ戦を目指して努力する先輩方がいました。チャンスに恵まれなくても明るく練習し、地道にアピールする姿。空き週のオープン戦やリーグ戦裏のシートBTに全てを賭ける姿。引退したときの、やり切った表情。自分と入れ替わりで選手を引退した先輩の記憶。今の自分。ああ、やっぱり比べてしまいました。このまま引退して、後悔は無いだろうか。
自分なりに正当化されていた適当メンタルには、二つの問題点がありました。日々の活力が湧かないこと、そしてそのまま引退する未来を想像したらなんかダサいことです。多少結果が出ていたとはいえ、この二つ、特に後者は看過しがたい問題でした。とはいえいまさら壮大な目標を掲げる気も起きないし、結果に一喜一憂するような目標はやっぱり怖いです。そこで私は、ラストイヤーに向けてかなり自己満足な目標を掲げました。過去の先輩たちのように、最後まで諦めず努力するかっこいい姿を周りに見せること、です。何ともアバウトで結果から逃げている感も否めませんが、自分みたいに心が折れそうな人は他にもいるだろうし、そんな人の憧れではありたい。妄想かもしれませんが、再び努力を重ねるには十分な動機となりました。
そんな妄想に神様は微笑んでくれたのか、長崎合宿で幸先の良いスタートを切りました。偶然も相まって一瞬だけスタメンにもなりました。ラストイヤーに向けて少し生まれた希望。ある試合では監督が、ここにいるメンバーはベンチ入り確実、的なことを言っていました。でも私は既に学んでいます。これは自分の実力じゃなくて運だ。長くは続かないだろう。
当たりました。いや、当たりすぎました。味わったことのない絶不調の始まりです。遅い球にも当たらなくなり、刷り込まれていくのは三振のイメージだけ。バッティングは大好きなのに、打席に立つのが怖くなりました。それだけならまだマシです。守備でも簡単なフライを落としました。元々守備が下手だった自分のエラーは、スタメンを諦めさせるには十分でした。ああ、ダサい。結局こうなるのか。ベンチで青貝(4年/内野手/攻玉社)や増田(4年/投手/城北)にバレないよう涙を拭くことしかできなかったあの試合は、脳裏に焼き付いて離れません。
それからしばらくは、試合に出ることが怖くて仕方ありませんでした。そのまま何も変わらず、這い上がるどころかズルズル下がりながら、ラストイヤーの半分が終わりました。
流石にもう無理か。臼井や大田(4年/学生コーチ/都立西)がサポートに回って、試合に出ていない野手は自分だけ。引退した方が良いのかな。以前の私なら、こうして諦めていたかもしれません。でも、そのときの私にそんな選択肢はありませんでした。勝手に背負った大事な役目があったからです。試合に出られなかったとしても、努力することならできる。そんな自分は、きっと過去の自分が憧れたかっこいい姿だ。そう信じていました。
というのは半分本当ですが、半分嘘です。本当はもっと大きな理由がありました。やっぱり憧れのリーグ戦に出たい。頑張った人だけで終わりたくない。最も私を奮い立たせてくれたのは、リトル黒武者の叫び声です。目標が少し変わりました。最後まで諦めず、”リーグ戦まで這い上がる” かっこいい姿を見せること。代打の一打席を掴み取ると決意しました。
下級生頼りで一勝もできていないチーム。求められる4年生の意地。自分はそんな存在になる。都合の良いストーリーを頭に描きながら、最後の足掻きが始まりました。
代打を目指す以上は、一打席で結果を残さねばなりません。肝心のバッティングに関しては急にスイングスピードが上がるなど、以前と打って変わって復調の兆しを見せていました。ただ良くなっている感覚とは裏腹に、チャンスをモノにできず、焦りばかり募っていきます。明日死ぬかもしれないと思い毎日ヒヤヒヤしていました。
何とか滑り込んだ最後の遠軽は複雑な感情でした。出発数日前にフェンスで2年ぶり2度目の怪我を負い、手首を痛めていたからです。打つことも投げることもできませんでした。一番頑張らなくちゃいけないのに、一番頑張っていない。そんな気持ちを鎮めるため、守備なんてつかないのにノックを受けまくり、工藤や慶斗(荒井慶斗/2年/内野手/宇都宮)と陸上部ぐらい走り、毎日のようにジムで筋トレをしました。ついでにデッドリフトで腰を痛めました。何しに来たんだと笑われることもありましたが、良かったこともあります。苦手な動きのドリルをやりまくったおかげで、過去に無いくらいスイングが良くなっていました。こんな成長の実感が得られたのは、久しぶりです。実戦に入ったらいつでも結果を出せる状態に向けて一週間以上準備を重ねました。そして長い準備期間を経て入れてもらった、最終日のシートBT。痛みを我慢して打ったツーベースヒットの感覚。大した打球ではありませんでしたが、シートでこんなに嬉しかったのは初めてでした。首の皮一枚繋がった気がして、来てよかったと心から思えました。みんながナイスバッティングと言ってくれたあのときの嬉しさは、一生忘れないと思います。
当然七大戦には出るはずもないので、東京で患部をゆっくり休め、七大戦メンバーが帰ってきた後の練習から完全復帰することにしました。なかなか痛みは引きませんでしたが、バッティングの調子は良く、下克上物語の本編、怒涛のオープン戦ラッシュに向けての準備は万端でした。
たった一打席へのわずかな希望だけが、バットを振り続ける理由でした。練習で大きな声を出す理由でした。そして毎日を元気に生きる理由でした。わずかな希望が無くなる日。それは最終戦の前日までバットを振り続けて初めて訪れるものだと信じていました。
だからこそ、突然夢から覚めたときはしばらく前を向けませんでした。何もやる気が起きず、人とまともに言葉を交わしたのも、似たような立場のよしこう(吉田/4年/投手/明善)と一緒に観戦していたときぐらいです。必死にオープン戦を戦う同期に対し、最近調子いいじゃんとか、今日ナイバッチとか言うだけでも心がすり減ったし、実際あまり言えてなかったと思います。あんなに一緒に過ごした榎本や工藤にも言えてない日があったかもしれません。ごめんね。それでも話を聞いてくれた二人、話し相手になってくれたよしこう、本当にありがとう。助かりました。おかげで少しずつ前を向けるようになったと思います。
Bチームで一緒にもがいてきた同期や後輩に、かっこいい姿を見せることは叶いませんでした。憧れてきた神宮には、結局最後まで辿り着けませんでした。幾度となく腐りかけた過去の私は、そんな姿を見たらやっぱりかと失望するかもしれません。かつてのように可哀想だなと哀れむかもしれません。いつからか肥大化した劣等感も、最後まで消えることはありませんでした。
でもこんなに苦しまなかったら、たまたま結果が出てしまっていたら、私の弱さは一生変わらなかったと思います。打たれ弱い心を守るのに必死だった自分としっかり向き合えたこと。それだけでも、この4年間に価値はあったんだと思います。
引退が近づくにつれて、よく過去のことを振り返ります。ハイライトを作るとしたらフレッシュでのヒットがメインだろうと書きました。でも違いました。たくさんの思い出があるはずなのに、不思議と湧き出てくるのは、周りに励まされ辛い時期を乗り越えたシーンばかりです。
応援席が嫌になったとき、男磨き軍団で帰り道の坂を爆走したこと。鹿児島合宿に行けないとわかったとき、榎本が一緒に巣鴨湯に行ってくれたこと。野球なんてつまらないと感じていたとき、林(4年/学生コーチ/西大和学園)がその楽しさを教えてくれたこと。遠軽で全然練習できなかった自分に引け目を感じていたとき、青貝が一番きついのはお前だよと言ってくれたこと。ついに目標が叶わなかったとき、増田が真っ先にバー行こうと言ってくれたこと。堀部(3年/内野手/県立船橋)がムシャさんのバッティングをもっと見たかったですと言ってくれたこと。岡林(3年/外野手/土佐)が最後まで一緒にやりたかったですと言ってくれたこと。
他にもたくさんあります。私は陰キャで友達も少ないですが、戦友たちがいなければここまで来られませんでした。みんな本当にありがとう。
最近嬉しいことが多いです。バッピのスライダーが練習になると言ってくれたり、リーグ戦のピッチャーみたいだと言ってくれたり、試合前には自分の球で調整してくれたり、投げるたびにありがとうと言ってくれたり、何の実績もない自分にバッティングを聞いてくれたり、教えた練習メニューを実践してくれたり。
選手時代には気づきませんでした。立場はどうであれ、自分を少しでも必要としてくれる人がいるというのは、やっぱりとっても幸せなことですね。
ああ、どこまで行っても悔しいなあ。でもこんなに悔しがれるなんて、すっかり野球の虜になっていたみたいです。野球はやっぱり楽しいスポーツでした。最後はみんなで喜んで、笑って終わりたいです。特に野手のみんな、私の肩を心配してくれる優しい選手が多いですが、優しすぎです。心配いらないので、黙って打ち続けてください。いくらでも投げます。そして最後にホームランでも打って、勝利に導いてください。お願いします。
最後に少しメッセージを書きます。
大久保監督
何だかんだ期待してくれてありがとうございました。毎回ミーティングで名指しされたのが懐かしいです。
石井助監督
最後まで粘り強く使ってくださりありがとうございました。ダイビングキャッチさせてしまいごめんなさい。
栗山コーチ
バッティング良くなってるよと言われるのが励みになりました。岡林をよろしくお願いします。
応援部のみなさん
いつもありがとうございます。そして、ふざけた応援ばかりしてごめんなさい(笑)。みなさんのように人のために全力を出せる人間になりたいです。去年松崎くんが、「来年は応援させてください」って言ってくれたの、めっちゃ嬉しかったです。
同期
みんな野球に対してストイックで本当に凄い。だからこそ俺も成長できました。一緒にやってこれて楽しかったよ。残り2カード、絶対に勝ち点取って終わろう。
渋幕からの戦友
いつも変わらない適当で真面目な感じ、安心するね。まだまだこれからもよろしく。
Hobbies
ホビーーー!!!
工藤の昨日の長打、最高にかっこよかったぞ。
大原班のみんな
慶斗、小美野(1年/外野手/早稲田)
2人は本当に凄い。バッティングえぐいのに謙虚だし、雰囲気も緩めで最高。このまま頑張って、いっぱいホームラン見せてね。
加藤(1年/外野手/早稲田)
いつも勝手にアドバイスしてるけど聞いてくれてありがとう(笑)。その素直さで色んなことを吸収して大きくなってね。期待してるよ。
宥悟(鈴木/3年/外野手/浅野)
お前は昔の自分を見てるみたいで何か心配(笑)。持ってるものは凄いんだから絶対活躍してね。もう病むなよ。応援してる。
Bで一緒にやってきたみんな
勝手にみんなのお手本を目指したけど、無理でした(笑)。人数が多くてチャンスも少ないのに、ほぼ全員が努力していて本当に凄いと思う。東大が強くなるにはみんなの力が絶対必要です。特に3年生、頼んだよ。
中高野球部の同期
異常に東大野球部に詳しいお前らはどうせ読んでると思うので一応書きます(笑)。引退したら暇なので、いっぱい遊ぼう。とりあえずしゃぶ葉でも行くか。
そして最後に家族
挙げればキリがないけど、今までありがとう。大学では途中から野球の話もあまりしなくなって、黒武者の名を神宮に響かせられなくて申し訳なかったです。一緒にご飯行ったときはリフレッシュできたし、会う度に頑張ってて偉いって肯定してくれて嬉しかった。野球に勉強に、たくさん世話を焼いてもらいました。これからは恩返しできるように頑張ります。
やっと書き終わりました。いやー長いですね。ここまで辿り着いた人は粘り強いと思います。夜も遅いので私はもうそろそろ寝ようと思います。おやすみなさい。
あ、言うの忘れてました。明日のぼくじんは石井(4年/学生コーチ/仙台二)です。ジャマイカに生まれていたら間違いなくオリンピアン。走り方を気にしすぎて若干足が遅くなっていた石井のぼくじん、みなさん爆速で読みましょう。いや、内容は飛ばさないでください。それではお楽しみに。
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次回は10/8(水)、石井優成学生コーチを予定しております。