『僕の野球人生』vol.15 岡田 諒 学生コーチ
4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.15 岡田 諒 学生コーチ(4年/岡崎)



野球場にいるとき以外の生態が、スーパーでのアルバイトしか判明していない大田(4年/学生コーチ/都立西)からバトンを受け取りました。
僕の人生に大きく影響した野球に出会わせてくれた方々、のめり込ませてくれた方々に、ある種のラブレターを送りたいと思います。
兄(たっちゃん)へ
野球を始めるきっかけが何かと聞かれると、特定の出来事を思い出すことはできません。しかし、たっちゃんがいなければ野球はやっていなかったと思います。思い出せる一番古い記憶は、たっちゃんがおもいっきり直上投げしたボールを追いかけたことです。僕はたっちゃんの通った道を辿るように同じ選択をする弟で、小学校の部活はソフトボール部を選び、中学校は軟式野球をやり、ポジションも同じ捕手であり、同じようにキャプテンの役職をやりました。部活以外にも、生徒会長をやったり、勉強に真面目に取り組んだりしたのは、ただ、たっちゃんがそうしていたからというところもあるかもしれません。そんな主体性のあるようで実はなかった僕の甘さを指摘してくれたことが、僕の人生を大きく変えてくれました。中学3年生になったときくらいに、たっちゃんと同じ高校に進学し高校野球を続けるつもりであった僕に、「お前はそこで高校野球をやらない方がいい。プロ野球を見ない、道具の手入れも甘い、自主練も三日坊主なやつには無理。」ときっぱり言ってくれたと思います。その言葉にすんなり納得してしまいました。たっちゃんは、小学校の時は野球の試合を見るためにおじいさんの家に行ってCS放送を見ていたし、駐車場のスペースでバッティング練習ができるように、園芸用品を駆使して防球ネットを作成して、中学、高校の時には、グラブを毎日磨き、スパイクも週一回手入れをしていました。高校に進学してからは、朝練で早く家を出て、夜遅くまで練習して帰ってくる生活をしていました。僕は、そのような野球に真摯な姿勢を見たうえで、特に自分の行動を省みることなく、なんとなく自分にも同じことができると勘違いしていました。だから、あの時同じ道を選ぼうとしたことを止めてくれたことにとても感謝しています。止めてくれなかったら、高校野球を途中で辞めていたか、やり切っても野球をどちらかと言えば嫌いになって大学生になったと思います。そして多くの学びをくれた東大野球部に入ることもなかったはずです。野球に出会わせてくれて、野球を教えてくれて、軟弱者に野球の厳しさを教えてくれて、本当にありがとうございます。まだまだたっちゃんからしたら甘さに満ちた人間ですが、これからもよろしくお願いします。
谷口和大(慶應義塾大学/3年)へ
兄の指摘に図星を突かれ、野球はほどほどにやって、勉強を頑張って東大を目指すことにした僕は岡崎高校に進学しました。岡崎高校野球部で野球人生を終えるはずだった僕が、大学野球をやることになった大きなきっかけは和大です。僕らが高校1年生の時の夏の大会が終わり3年生と2年生1人が引退して、選手は2年生2人、1年生16人という、1年生主体チームができました。そんなチームは、和大の豪速球と、大竹先輩のイチローばりの打撃と、けんとの熱量と、浅山のお笑いに支えられたチームでした。対照的に僕は、2番手捕手で、チームに大きな影響を与えることはなく、練習もただ言われたメニューをこなす選手でした。そんな僕には、週末はエースとして豪快なピッチングを見せ、平日は全体練習を外れて、筋トレとランメニューを1人で黙々とやる和大の姿はとても新鮮でした。僕はチームの熱意、特に和大の取り組みに引っ張られて、始業前にトレーニングルームを開けてもらって筋トレをしたり、母親に大きいお弁当箱を買ってもらってプチ食トレをしたりしました。そんなこんなで3年生の春にはスタメン捕手として和大と試合に出ることができるようになりました。こんなにいい投手をリードできるのかという喜びは今でも覚えています。最後の夏、くじ運にも恵まれ2回戦からスタート。2回戦は和大の5回ノーヒットピッチングでコールド勝ちし、3回戦のシード校である栄徳高校と対戦することになりました。この試合が僕の野球人生を大きく変えた試合でした。初回エラー絡みで5失点するも、2回以降の和大の圧巻のピッチングで0を並べました。チームは5対0で負けたものの、12奪三振を奪った和大のピッチングと、今ではドラフト候補に上がる中京大の髙木快大選手(4年)からセンター前を打ったことに対する満足感で負けた悔しさはありませんでした。しかし整列後、僕は、ブルペンで号泣して悔しがる和大を見ました。自分とのギャップに驚きました。そしてダウンのキャッチボールを無言でやりました。一球、一球、ゆっくり、山なりの球が重くミットに収まる。チームの熱意に引っ張られ頑張ってきたつもりだった。和大とバッテリーを組むに値する捕手になったつもりだった。それでも、試合に負けて喜ぶ自分と、悔しがる和大。もしそんな気持ちのズレがなかったら、もし自分がもっと打者を分析する力があったら、自分がもっと打てたら。まだ終われない。シード校にいるような、自分とは別世界だと思っていた人たちに勝ちたい。試合後みんなと写真撮影を終えた頃にはそんな気持ちになっていました。その後、東大野球部がそんな自分の気持ちを全てぶつけられる場所であると知り、東大志望から東大野球部志望となりました。最後に、和大のおかげで大学野球の面白さにたどり着くことができました。本当にありがとう。春の早慶戦ナイスピッチングだったよ。来年は敵ではなく、ただのファンとして楽しみにします。
杉浦(4年/捕手/湘南)へ
東大入試も全てがうまく噛み合い、合格最低点+0.5667と現役でギリギリ受かることができました。ただ入部してから1年ほどは、贅沢にも、現役で受からなければよかったなと思いました。杉浦がいたからです。1年春のフレッシュ、メンバーに入れず駒場で授業を受けていた僕とは対照的にスタメンを任された杉浦は慶應戦でホームランを打ちました。授業中に六大HPの速報を見て2度見しました。練習では先輩に物怖じせず発言したり、1年生のミーティングの時から4年生になった時にどう勝つかという長期的なビジョンを話したりする姿に、自分の甘さを知らされました。僕はチームを勝たせたいと気持ちは立派ながら、無策な自分、視野の狭い自分を段々と自覚しました。こいつには勝てないかもしれないという気持ちを晴らせないまま、どうやったら追いつけるのかと考えるが、答えは出ず、まだスイング軌道に弱点があった杉浦のサードゴロを見て安心しました。情けないです。8月、遠軽合宿メンバーに選ばれていた杉浦が合宿出発前日にコロナに罹り、合宿に行けなくなりました。その代役が自分でした。杉浦の代わりなんて務まらないとは感じながら、チャンスを逃すわけにはいかないと合宿に行きました。いっぱいミスをしました。プレッシャーノックでは、暴投しみんなを走らせ、OP戦では送りバントができませんでした。自分なんかが来て良い場所だったのか、杉浦なら上手くやったのかなと情けない気持ちになりながら、合宿に来られていない人がいる以上、それを表に出さないようにしました。そんな情けない自分を隠すために、杉浦とはあまり話せなくなりました。2年生になり、杉浦はずっとA戦に帯同していました。帯同してブルペン捕手をして試合に出られずに帰ってくることへの文句を杉浦が他のAチームの人に話すのを、Bチームの僕は横から聞きながら、チームの3人目の捕手であることを羨みました。3年生になるとスタメン捕手は府川さん(R7卒)と杉浦の争いになり、第三捕手は後輩の明石(3年/捕手/渋谷幕張)が務めました。1年経っても、自分の立ち位置は変わりませんでした。この頃には、本心ではスタメンを取ることは諦めていました。代打で出られたらそれでいいやと思っていました。リーグ戦のベンチには入れず、3年生で結果を残せなかったらやばいと思いながら杉浦の活躍をスタンドから見ました。リーグ戦が進むにつれて、杉浦に力が及ばないことが腑に落ちてしまい、なんとか反骨心に変えていた劣等感が、ただの足枷になりました。秋のリーグ戦期間は惰性で練習しました。リーグ戦が終わり、学生コーチになることが決まりました。自分はどこまで行けたのかなと途絶えた可能性を脳裏に浮かべながら、一度折れた心を折れてないように見せかける必要がなくなった安堵感を感じました。捕手から学生コーチに肩書きが変わっただけなのに、杉浦に対する感情は大きく変わりました。広い視野を持ち、熱い心を持ち、チームを引っ張る姿がただただかっこいいと、そして杉浦キャプテンのこのチームで勝てたら嬉しいだろうなと思うようになりました。2025年10月4日、慶應に勝ちました。杉浦は怪我でベンチにはいませんでしたが、この1年間、杉浦が引っ張ってきたチームだから、あの試合を勝つことができたと思います。4年間、情熱を持って、チームを強くしようと色々働きかけて、勝利に導いてくれてありがとう。杉浦と同じ代で、この代のキャプテンが杉浦で、本当によかったと思っています。最後もう一度勝とう。
府川さんへ
府川さんの包容力に甘えた3年間でした。入部当初に舐めたメッセージを送って申し訳ありませんでした。僕が3年生の時、本心ではスタメンを取ることは諦めていたのに、スタメン取るとか虚勢を張って、具体的なビジョンがない自分を鋭く指摘してくださってありがとうございました。そしてその指摘から目を背けてしまってすみません。遠軽合宿のOP戦で初回に2暴投して交代させられた自分に送球のコツを、時間をかけて教えていただいてありがとうございました。肩の怪我で捕手として出られなくなった後、代打の切り札としてチームに貢献する姿にとても憧れました。心の折れかけていた自分にとって、ああなりたいと最後に希望を持つことができました。
永田さん(R6卒)へ
永田さんからしたら、僕が杉浦を超えてスタメンをとることなんてないと、はじめからわかっていたと思います。それなのに、未熟な自分に捕手たるものを、時間をかけて教えていただいてありがとうございます。最近人の悪口を言えるようになったので、またご飯連れて行ってください。
たいかん(酒井太幹/4年/学生コーチ/筑波大駒場)へ
2年の春、学生コーチを1人出すことになった時、それが自分の役目であると、自分の選手としての未来を切り捨て、勝つために、学生コーチになる決断をしてくれてありがとう。僕はあのとき、4年間やり切れるものだと思っていた大学野球は実はそうではないことにカルチャーショックを受け、ただ自分が候補に上がらなかったことに安心していました。この段階で、覚悟を持って、チームのブレインを背負うことを決めてくれたことに感謝しています。選手を辞める時、杉浦に負けるなよと言ってくれたと思います。結局勝てなかったです。選手としての自分が生み出せるものと、学生コーチとして自分が生み出せるものを比較し、後者が上回ったら、選手を辞めることを考えなければならないと言っていたと思います。たいかんが学生コーチになった時から、自分にもその時が来たら、覚悟を持たなければならないと思っていました。その代わり、選手であるうちは勝つために自分の実力を向上させ、励む責任があると、自らを奮い立たせることができました。2年の秋フレッシュのたいかんの采配のもと、ベンチ入り総出場で勝ててよかった。3年の春のOP戦期間、たくさんの実戦機会をいただきました。杉浦に負けるなよという期待をかけて使ってくれたのだと思っています。それなのに、1ヶ月打席内容の成長が見られなかったことで、がっかりさせてしまったと思います。結果を残せなくて本当にごめん。3年のリーグ戦が終わり新チームになるタイミングで、新しく学生コーチを2人出すことになりました。石井(4年/学生コーチ/仙台二)が立候補して、後1人誰がやるのかという時、Bチームを見ていた数馬(伊藤数馬/4年/マネージャー/旭丘)が責任を持って、その1人に僕を選びました。スタンドの貴賓室でたいかんと数馬と3人で話していた時、学生コーチとして自分が生み出せるものが上回ったのだと周りが判断したのだから、覚悟を持たなければならないと思いました。2年の春にたいかんがそうであったようにです。ラストイヤーは同じ立場に立ち、たいかんがチームの最善手をとるためにこんなに頑張っているのかとそこで初めて知ることができました。時に、その覚悟ゆえに、リーグ戦で勝てないストレスを抱え、攻撃的な発言を耳にすることがあったものの、一緒に頑張ってきてよかったです。最高のチーフ学生コーチだと思います。本当にありがとう。
数馬へ
2年の秋に数馬が学生コーチになることになりました。秋フレッシュでの引退試合のバッテリーを組めてよかったです。ピンチでマウンドに行った時、数馬は何か吹っ切れた顔をしていて、それはなぜか今でも覚えています。3年秋に学生コーチの打診をされた時に、僕が泣きそうになりながら話をしていて、数馬も少し泣きそうな顔をしていたとき、その試合の時の数馬の顔を思い出しながら、涙をグッと堪えて一緒に頑張ろうと言いました。数馬はマネージャーになって立場は変わったものの、チームを支える仲間として一緒に頑張ることができてよかったです。ありがとう。
石井へ
3年の秋リーグが終わって、石井は自己推薦で学生コーチになりました。選手としての自分が生み出せるものと、学生コーチとして自分が生み出せるものを比較し、後者が上回ったら、選手を辞めることを考えなければならない。僕はこの判断を自分ですることはできませんでした。周りが見てそう思うまで選手にしがみつきました。でも石井は自分でその判断をシビアに行っていて本当にすごいなって思いました。4年の春リーグが終わって、石井は詰めの甘さを後悔していること話してくれました。そして自分にも後悔する前に思っていることは強く主張した方がよいと言ってくれました。その指摘の通り、春リーグまでは、特に選手起用に関して、ずっとチームを見てきてくれたたいかんの判断に従うことが普通になっていて、僕自身の考えを主張する機会はほとんどなかったです。しかし、石井に言われた通り、僕が思ったことをなるべく主張するように努力しました。今では、しっかり意見を伝えることがこんなに大切なのだと身をもって感じています。ラスト一年間学生コーチとして共に頑張れてよかった。ありがとう。
明石へ
明石が一年の途中でキャッチャーにコンバートされてから、よく話すようになりました。最初は、キャッチャー不足とはいえ、大学からキャッチャーなんて大変だろうなと思っていました。しかし、明石は身体能力の高さと頭の良さで、キャッチャーとしての経験不足をすぐに補い、夏の盛岡合宿を終えた頃には、守備を卒なくこなしていて、すごいなと思っていました。その年の秋のフレッシュの早稲田戦では、DHで出場していた明石の打点で勝つことができました。そして気づけば、明石は自分より高い評価をされていました。杉浦に追いつきたいと思っている中、明石に追い抜かれ、停滞している自分が悔しかったです。来年の春までに3人目のキャッチャーになりたいと思い一冬を過ごしました。しかし、次の年の春合宿の選考で僕はヒットを一本打ち、アピールはしたものの明石が3人目として選ばれ、合宿には行けませんでした。ただ、何で自分ではないんだという気持ちではなく、明石に勝てている部分がないという事実をはっきり認識し、少し悲しかったです。明石は僕のことをずっと慕ってくれていましたが、僕が3年の時は、僕はあんまり明石と深く関わろうとはしてなかったです。多分杉浦にそうしてしまったように、自分の実力不足を触れられたくないと思い、自分を守るために避けていたのだと思います。そして僕は学生コーチになりました。学生コーチになったとき、大久保監督には杉浦のあとを任せられるキャッチャーをしっかり育ててほしいと言われました。ただ、その時は、実力が足りなくて学生コーチになった自分が今更、技術的に明石に教えることはないと思うから杉浦に任せようと、責任から逃れようとする考えを持っていました。その代わり、投手担当として投手とピッチング談義を積極的にするようになりました。2月に入ったとき明石が、肩が痛いので投げ方を見てほしいと声をかけてくれました。僕は、結果を残せなかった選手に野球を教わろうという明石の謙虚な姿勢に感心しました。僕はそんな姿勢にきっちり応えたいと思いました。肩が痛くなる原因を、動画を見ながら話し合い、機能面の改善を図ると、少しずつ肩の痛みを感じなくなったようで、そこから明石は僕を頼ってくれるようになりました。とても嬉しかったです。この時に一度逃れた責任にもう一度向き合う覚悟を持ちました。春合宿からは打撃についても一緒に取り組みました。姿勢の作り方から始め、スイングの課題を一つ一つ克服していきました。しかし春は結果が出ず、春リーグの打席もほとんどないまま終わってしまいました。僕は、体の機能やメカニクスに関しては素人に毛が生えた程度ではあるものの得意であったのですが、試合の中で確率の高い打撃をするための動作という視点が抜け落ちていました。そこがとても申し訳なかったです。春のリーグ戦オフが明けてからは、秋に向けて、試合の中で調整できる能力を育てようと思いました。夏の間、タイミングの取り方や投球間の姿勢の崩れを直す方法などを試行錯誤しながら、実践機会を積むことができました。秋のリーグ戦、杉浦の怪我によって明石がスタメンで出ることになりました。早稲田、明治では、ヒットは出なかったものの、タイミングの取り方について明石は何かを掴んだみたいで、慶應戦では見事に発揮してくれました。1回戦は、3安打4打点の活躍でチームを勝利に導いてくれました。泣きました。同じ明石の打点で勝ったフレッシュ早稲田戦も勝ったことはとても嬉しかったです。しかし、明石が打って、自分は打てなかったことに焦りを感じ、完璧には喜べなかったです。それに対して、慶應戦の勝ちは明石が打って勝ったことが自分事のように嬉しかったです。僕を頼ってくれて本当にありがとう。チームを勝利に導いてくれてありがとう。
渡辺(4年/投手/海城)へ
投手が少なかった僕らの代で渡辺は一年の時からエースにならねばならない存在として周りから求められていたと思います。そしてそれが渡辺にものすごい責任とプレッシャーを与えていたと思います。2年の夏、アンダースローを完成させるべくBチームに落ちてきた時、毎日200球投げ込みをしていて、尋常ではない覚悟を持ってBチームに来たのだなと思いました。そして捕手としてそれを何とか支えたいと思い、投げるイメージや、スライダーの使い方を含めた抑え方についてよく話し合ったと思います。僕が4年になってからピッチング談義を積極的にできたのもこの時の経験があったからだと思います。一緒に夏に頑張って迎えた秋のフレッシュで、渡辺とバッテリーを組んで最後の2イニングを締めて勝った時にすごい報われた気がしました。最後の前田健伸(早稲田大学/4年)から奪った三振のラストボールに選んだスライダーの意図が完璧に伝わっていて鳥肌が立ちました。最高でした。話は4年生まで飛びます。4秋の明治、早稲田と思うように結果が出なかった時、渡辺が、自分が投げるより他の人が投げた方が勝ちに繋がるのではと考え、弱気になっていました。しかし、学生コーチ、アナリスト、渡辺を交えたミーティングで話し合ったあと、やっぱり俺が抑えないとチームは勝てないとはっきりと言ってくれたこと、慶應戦の闘志むき出しの3連投はエースっぽくてよかったです。最後に、チームの勝ちも負けも全て背負って投げ続けてくれたこと、東大のエースとしての責任を背負ってくれたことに感謝しています。ありがとう。
青貝(4年/内野手/攻玉社)へ
1年の春のリーグ戦オフに一緒に滝行に行きましたね。めっちゃ冷たくて震えてる僕に、「昨日サウナの水風呂入ったから余裕だったわ」と言うところに始まり、教育学部の同じコースに進んで、4年間の深い付き合いになった青貝との日々はとても楽しいものになりました。日常を彩るムードメーカーとしてチームの雰囲気をポジティブに保ってくれてありがとう。
井之口(4年/内野手/ラ・サール)へ
イップス界隈として共に送球の悩みを共有し、克服する仲間として心強かったです。今秋の慶應に勝った試合の最終回に2回セカンドゴロが飛んで、どちらも完璧に処理したところを見て、泣きそうになりました。守備固めとしてチームに貢献してくれてありがとう。
増田(4年/投手/城北)へ
投手長として、ピッチャー全体のレベルを引き上げてくれてありがとう。四死球が明らかに減り、試合を作れる投手が増えたのは増田の取り組みのおかげです。大学院でも一緒に研鑽して、未来の野球界を盛り上げていきましょう。
すぐる(酒井捷/4年/外野手/仙台二)へ
4年間、僕の人としての甘さを指摘してくれてありがとう。すぐるの取り組みを通して、野球に真剣に取り組むとはどういうことかを教えてくれてありがとう。膝の怪我の後、地獄のようなリハビリをしていたすぐる、プロ志望を明言して、鬼のように練習するすぐる、全部かっこよかったです。最後の1年間は朝すき家仲間として朝食を共にできて嬉しかったです。
内田(4年/アナリスト/広島学院)へ
1年生の5月に入部してきた内田に最初に話しかけたのが僕だったらしいですね。全く覚えていなかったです。内田とはプライベートの付き合いもあり、1年生の時は、内田宅でM-1を見たり、笹塚の日高屋に行ったり、代々木上原の銭湯に行ったりしました。同じ夜型の人間として、夜間の自主練に2時間くらい付き合ってくれてありがとう。ヒットが出ていない時期に、スイングの強さはあるからとデータを使って励ましてくれてありがとう。とんでもないだる絡みを程よく処理してくれてありがとう。色々お世話になりました。本郷大学院組としてこれからも仲良くしてください。
他の4年生同期へ
ここには書けませんでしたが、4年生のみんなと一緒にやり切れたことにとても感謝しています。みんなじゃなかったらこんなにいいチームにはできなかったと思います。僕をいい感じにいじってくれ、まこつてぃーという斬新なあだ名くれた、林(4年/学生コーチ/西大和学園)、黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)、工藤(4年/内野手/市川)、榎本(4年/外野手/渋谷幕張)へ、ありがとう。一緒にピッチング談義をしてくれた、山崎(4年/投手/渋谷幕張)、持永(4年/投手/駒場東邦)、よしこう(吉田/4年/投手/明善)へ、ありがとう。チームの打撃を引っ張ってくれた、大原(4年/外野手/県立浦和)、中山(4年/外野手/宇都宮)へ、ありがとう。神宮を目指し、自分のやれるところまで闘志を燃やし、その後チームのサポートに回ってくれた大田、臼井(4年/学生コーチ/静岡)へ、ありがとう。選手評価がしやすいようにデータサイトを構築してくれた中島(4年/アナリスト/開成)へ、ありがとう。チームの運営を担ってくれた山本(山本考/4年/マネージャー/海城)、ゆめ(番匠/4年/マネージャー/富山中部)、ひかり(奥畑/4年/マネージャー/智辯和歌山)へ、ありがとう。
小村(3年/内野手/私立武蔵)、鈴木(3年/外野手/浅野)、安田(2年/外野手/名古屋)、深見(2年/捕手/サレジオ学院)へ
塾生として選手としての実績のない僕の指導を真剣に聞いてくれてありがとう。引退後も呼ばれたら行きます。みんなの神宮での活躍を楽しみにしてます。
矢田貝(2年/内野手/日比谷)、堀端(2年/外野手/向陽)へ
3年生の秋リーグの時に、不眠傾向になっていた僕の相談に乗ってくれて、色々面白い話とかして、励ましてくれてとても助かりました。2人とも実力はあるので自信持って頑張ってね。来年のブレイクを期待しています。
川又(3年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)へ
学生コーチになったばかりの時、色々と相談に乗ってくれてありがとう。嫌なことがあった時に川又のアドバイスのおかげで切り替えられました。来年はチーフ川又の姿を神宮に見に来ます。頑張れよ。(酒には気をつけてください。)
両親へ
高校野球すらやらなかったかもしれなかった僕が、大学野球までやることになって色々驚かせてしまったかもしれません。それでも野球を続けることを応援してくれて本当にありがとうございました。選手としての活躍は見せられなかったけど、東大の勝利を届けることができて本当によかったです。お母さん、高校3年間、お弁当を作ってくれてありがとうございました。あの時言いそびれてしまったので、4年越しにここで言いました。お父さん、こっそり愛知から神宮球場に来てくれて、引っ越しの手伝いに来てくれて、ありがとうございました。
野球へ
楽しさ、嬉しさ、悲しさ、悔しさ、苦しさ、色々な感情全てをぶつけられる存在に出会えて本当に嬉しいです。これからも楽しませてください。
次回は、あだ名の「たいかん」が浸透しすぎて、本名がたいかんと勘違いされている、太幹(たいき)くんのぼくじんです!
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次回は明日10/14(火)、酒井太幹学生コーチを予定しております。