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『僕の野球人生』vol.18 伊藤 数馬 マネージャー

4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.18 伊藤 数馬 マネージャー(4年/旭丘)

hobbious(hobby×serious)軍団の長、林(4年/学生コーチ/西大和学園)からバトンをもらいました、伊藤数馬です。自分のことをここまで活字にする機会もそうそうないので思うことを書いていたら長くなってしまいました。読んでいただけたら幸いです。







野球が好きになったのは小学校3年生の夏。夏休みの宿題を早々に終わらせてしまい暇を持て余した数馬少年はひたすらテレビで甲子園を見ていた。魔球シンカーを操り打者を翻弄する吉永健太郎投手に魅了されたのかは知らないが、将来の夢の欄にサッカー選手と書き、サッカークラブに所属していた数馬少年は突如として「甲子園に行きたい」と強く思うようになった。

小学校4年生からクラブチームに所属した。近所の公園で父とキャッチボールをしていたらそこで練習していたチームの関係者に声をかけていただき、入ることにした。

初日に「どのポジションがやりたい?」と聞かれ「ピッチャー」と即答した。理由は単純。一番かっこよくて楽しいから。まだ純粋無垢な少年だった。

少年野球はとにかく真面目に頑張った。すごくたくさん泣いた記憶がある。泣いた記憶しかないかもしれない。エラーした時、ボールが当たった時、監督に叱られた時、試合に負けた時、、、、とにかく泣いた。でも涙が出るのは一生懸命だった証拠なのだと思う。

指導者の方々にもすごく恵まれた。小学生には勿体無いくらいの深いところまで戦術や技術を教わった。そのおかげで野球がいかに頭を使うスポーツで、それがいかに奥深く楽しいことなのかを教わることができた。

6年生から捕手にコンバートされた。キャプテンも任せてもらった。責任感からか練習は手を抜かない、サボっている奴にはすぐに注意する、そしてその言葉にはトゲがある、周りからしたらかなり嫌なキャプテンだったと思う。でも一生懸命やっていた甲斐あってか、捕手兼投手兼三塁手として、個人としては打者としても投手としても悪くない成績を収めることができた。野球に対してある程度の自信もあった。中学でもクラブチームに進んでもっと上のレベルで自分を試したい気持ちはあったが、中学生になったら勉強もしようと思っていたし、家族にもっと負担がかかると思って中学の軟式野球部に進むことにした。そして僕の短い短い野球エリートとしての人生は終わった。



中学野球は初めは順調だった。投手不足だったこともあり、入学したばかりの1年生だったが3年生の試合に登板させてもらったこともあった。周りから期待もしてもらい、野球を思いっきり楽しんでいた。

しかし、すぐに肩を壊した。自分は身体の成長が遅かったので、中学生の練習の量と強度に身体が追いつかず、壊れた。走ることしかできなかったので、真夏のクソ暑い中、全体練習から外れ、ひたすら校舎の外周を走っていた。代走のチャンスを掴もうと人をおしのけて走塁練習をしたけれど、それも長くは続かなかった。同期で最初に試合に出たのに、どんどん追い抜かれていくのが寂しかった。

結局半年以上まともにボールが投げられなかった。そんな時期に思春期が重なった。数馬少年は遊ぶこととサボることを覚えてしまった。一生懸命練習するのはダサい、女子が見ている時だけ頑張る、先生には反抗する。絵に描いたような反抗的で生意気な中学生になった。中一の冬。人生で一番クソな冬を過ごした。

肩が治ってからはショートのスタメンとして使ってもらっていたが、態度の悪さからそれも外された。試合前のノックで中継プレーをテキトーにやってサボっていたら外された。一度メンバー表に書かれた自分の名前の欄には二重戦が引かれ、その試合以来、一つ上の先輩方が引退するまでスタメンで出ることはなかった。今思うとチームの仲間や先生に本当に申し訳ないことをしていたが、当時の数馬少年にはそんなことは分からずベンチで仲間と談笑していた。どうしようもないクソガキだった。


中2の秋頃だったか、当時同じクラスにAくんという仲の良い友人がいた。Aくんは小学校からリトルリーグでバリバリやっているゴツい奴だった。そんなAくんにどういう流れだったかは完全に忘れたが「一緒に旭丘高校で甲子園を目指そう」と言われた。旭丘高校は、県立、進学校、伝統校、専用グラウンドなし。21世紀枠で春の選抜を目指すには十分過ぎるほどの要素がそろっていた。甲子園。一度は現実を見て諦めたけど、まだチャンスがあるかもしれないと思わせてくれた。そこから、自分が野球を始めるきっかけであった「甲子園に行きたい」という思いが再燃した。

練習も頑張るようになった。高校野球を見据えて冬には左打席にも挑戦した。全体練習後、家に帰ってバットを振りまくった。箸も左手で持った。3月の大会では、ダブルヘッダーで二試合合わせて一人で6個か7個くらい三振する惨状だった(守備力を買われてキャッチャーに再びコンバートされていなければ絶対にスタメン落ちしていた)が、5月の大会ではクリーンヒットも出て、その後の練習試合ではランニングホームランも打った。また野球が楽しいと思えた。野球少年に戻ったようだった。

中学野球は周りにたくさんの迷惑をかけてしまったが、最後だけは充実していた。高校受験も無事突破し、Aくんとともに旭丘高校野球部に入部した。




高校野球は野球人生の中で一番楽しく充実した3年間だった。

最初は硬式球にとまどった。捉えたはずの打球がなぜかボテボテの内野ゴロになる。打撃とは、ビヨンドのゴムの部分にうまく当てるゲームではなく力で弾き返すものだと知った。左打席は諦め、懸命な食トレ、筋トレ、冬トレの成果から、2年の春には身体も少し大きくなり打てるようになってきた。高校には試合ができるグラウンドがなかったため、ほぼ毎週末遠征で練習試合だった。先輩の人数が少なかったこともありたくさん出してもらった。試合をして、ノートに振り返りをして、平日に試行錯誤して、週末にまた試合で試して、という日々はただひたすらに楽しかった。ヒットを打った時の喜びは何にも変え難いものがあった。

一番思い出に残っている試合は2年の春大の市工芸戦。当時セカンドを守っていた自分のエラーから逆転負けを喫して県大会出場を逃した。先輩たちの、県大会へのチャンスを自分が潰した。情けなかった。

内野手として試合でエラーを重ねた結果、自分たちの代になるとキャッチャーへ三たびコンバートされた。ノックではそこそこ守れるものの、試合で打球が来ると緊張して身体が固まる自分にとっては、内野よりも、ずっとボールに触れているキャッチャーの方が合っていたのだろう。何より、自分だけ違う方向を向いてゲームメイクしていくことが楽しかった。

目標にしていた選抜をかけてのぞんだ秋大。勝てば県大会という試合に敗れ、目標は叶わなかった。甲子園はやはり遠すぎた。悔しかったが、私学と互角に渡り合ったあの時間はすごく楽しいものだった。

甲子園という目標は失ったわけだが、数馬少年の野球の熱は冷めなかった。毎週末やってくる試合がただひたすら楽しかった。それだけで練習を頑張るのには十分すぎる理由だった。冬のトレーニングも、春になればまた試合ができる、上手くなった方が試合は楽しい。それだけで頑張れた。

しかし、いざシーズン開幕という高3に上がる春、コロナが蔓延した。春大はなくなった。なんとか夏大はできることになった。

一回戦の二週間前、夏大前の最後の練習試合中、顎にボールが当たり骨折した。そのまま入院し手術することになった。医者には、ベンチには入れるかもしれないが試合には出られないと思っておけと言われた。

恵みの雨が降り、一週間の順延があったことで途中出場だったが出ることはできた。親を説得し、医者にはもう痛くないですと嘘をつき出場を認めてもらった。

結果は、秋にコールド勝ちした相手にコールド負け。自分も退院明けで当然満足のいくプレーなどできず高校野球はあっけなく終わった。

それでも3年間を振り返ると、練習後のサッカー、冬練のパシュート、夏合宿の夜のリレー、サッカー事件、自転車旅、島での鬼ごっこ、、、、、いい仲間に恵まれた楽しい三年間だった。

野球は高校で終えるつもりだった。浪人前提の東大志望ではあったが、大学ではテニスサークルにでも入って東京で遊びまくろうとか考えていた。しかし、浪人中に勉強ばかりしているとやっぱりもう一度野球がやりたくなった。やるからには本気でやりたかった。高校最後の大会を怪我で迎えてしまった心残りもあった。そこからは東大野球部を目指して勉強した。




一浪を経て東大に合格すると迷わず入部届を出した。

捕手として入部したが最初は思うようなプレーができなかった。浪人中全く運動をしていなかったから、早く感覚が戻らないかななんて考えていた。春のフレッシュで杉浦(4年/捕手/湘南)がたしか神宮初スイングでレフトスタンドに放り込んだ。こいつは住んでいる世界が違うなと思った。

自分は一人で黙々とやるよりみんなでワイワイやる方が向いていたので、自主練メインの東大の練習はあまり好きではなかったが、夜に、バンメンと呼ばれる、球場近くに住んでいる同期たちとよく練習した。

その成果は夏の室蘭合宿で出た。シートBTで打ちまくった。やっと高校の頃のいい感覚が戻ってきたな、そんな気持ちだった。しかし、東京に戻ってきたオフにコロナにかかった。10日ほど全くバットが振れなかった。復帰してからは打ち方を完全に忘れてしまい、マシンのボールがバットに当たらなくなった。

そんな中、一年生の秋に門池さん(R7卒)から投手転向の誘いを受けた。自分の打撃の惨状、同期の投手不足からだった。その場で決断はできなかったが、後日、投手になる決断をした。ブルペン捕手としてベンチ入りするより、敗戦処理での登板機会を求めた結果の選択だった。そしてこの頃はまだ、ピッチャーが一番楽しいしまたやってみようという甘い気持ちもあった。悪い意味でまだ野球少年だった。


2年の春、学生コーチを出す話し合いをした。候補に上がったのは太幹(酒井太幹/4年/学生コーチ/筑波大駒場)、かつゆき、詠介(大田/4年/学生コーチ/都立西)、自分だった。候補に入ったことを知った時はショックだったが、春のオープン戦でワンアウトしか取れずに7失点くらいして、野手である大友さん(R7卒)と江口さん(R7卒)にバックアップしてもらうほどの大炎上をかましてしまっていたのでしょうがない気持ちもあった。

4人での重苦しい話し合いを重ねた結果、太幹が学コになると言ってくれた。自分なりに東大で野球をやる意義を探すという観点は学コも変わらない、チーム運営に興味があると言ってくれたが、本心は自分たちへの優しさだった。到底自分にはできない選択だった。太幹には申し訳なさと感謝でいっぱいだった。


秋にまたもう一人学コを出さなければならなかった。候補は石井(4年/学生コーチ/仙台二)、詠介、自分だった。正直にいうと、今回は自分は入ると思っていなかった。夏のB戦ではそこそこ結果が出ていたという自負があったからだ。しかし現実は甘くはなく周りから見たらリーグ戦で自分が通用する未来が見えなかったのだろう。

話し合い、と言っても話し合いにはならなかった。スタンドの一番上に集まって、順番にまだ選手を続けたいという今の気持ちを話す。そのあとはどうすることもできず、ただ無言の気まずい時間が流れた。秋の少し肌寒い夕方、シーンとした3人の空間でグラウンドの自主練の音がやたらと大きく聞こえてきた。地獄のような話し合いを経験せず、いま自主練しているみんなはいいなあ、そんなことまで考えてしまっている自分もいた。

自分は選手を続けたかった。自分は、東大野球部で勝つ意味とか、そういうものにはあまり興味がなくて、ただ本気で野球をするのが好きだった。試合をして、反省をして、また試合をして、その繰り返しが楽しかった。そして、試合は勝った方が100倍楽しい。だから勝ちたかったし上手くなりたかった。自分が野球をやる意味は、このようなとても東大生とは思えないほどに単純なものだった。

だから本当はもし学コになるか部をやめるかだったら、辞めたいと思っていた。

話し合いは平行線で、太幹に指名してもらうことにした。いつもそばにいてくれた太幹に選んでもらうのが3人とも一番納得できる、という判断だった。

これが太幹をすごく苦しめてしまった、本当に申し訳ない。でもそうでもしないと決まらない状況だった。



学コの候補に入ってからは、自分の登板が怖くて仕方なかった。とてつもなく出場機会を欲していたはずなのに、もし炎上したら自分の選手人生が終わる、そう思うとマウンドに行くのが怖かった。もはや野球少年のように野球を楽しむ余裕はなかった。

登板前日は不安で眠れなかった。無理やり眠ろうとお酒を飲んだ。それでも眠れない日は名古屋の実家にいる母親に電話をした。何を話すわけでもない、ただ明日の登板が怖いと弱音を吐くだけだった。情けない息子に母は深夜でも次の日が早くても付き合ってくれた。そして、登板当日には集合前に神社に行って、いい当たりが野手の正面に飛びますように、と五円で足りるかどうか絶妙なラインのお願いをして、登板直前にエナジードリンクを飲んで身体と心を奮い立たせて、カフェインで身体の疲労を誤魔化してマウンドに向かった。

限界野球人のルーティンだった。でも不思議と結果はそこそこついてきた。ランナーは出すものの無失点投球が続いた気がする。毎度毎度、これで首の皮一枚繋がったという思いだった。


学コ発表の日。太幹が選んだのは自分だった。太幹も書いてくれていたがその日のシートBTで自分は抑えた。自分でも納得のいくいいピッチングをした。でも遅すぎた。

結局、自分に足りなかったのは覚悟だった。他のことを捨てて野球に全振りするオンリーベースボールができるかどうかだった。自分がオンリーベースボールできたのは本当に追い込まれた最後の期間だけだった。もし春からずっとこのくらいの気持ちで投げていたら、、、、もし冬場のトレーニングもう少し追い込めていたら、、、、もっと言えばもし室蘭合宿の後、渋谷に遊びに行かずコロナになっていなかったら、、、、、、、、後悔は尽きなかった。

太幹は自分の学コとしての適性や太幹との相性を考えて自分を選んでくれた。でもまだ複雑な感情だった。





秋フレッシュ。同期が自分に最後の登板機会をくれた。

11/3の早稲田戦。5回表3点リードの場面で出番はきた。いつも通りの限界ルーティンで行った。緊張から投球練習で一球もストライクが入らなかった。自分の身体が自分のものではないのでないかと思うくらいぎこちなくしか動かせなかった。そのまま先頭から二者連続四球。タイムがかかってベンチから太幹が出てきた。ピッチャー交代だと思った。でも太幹はマウンドに来て笑いながら「来ちゃった。頑張れ。任せたよ。」と言って帰って行った。嬉しかった。前に太幹と投手陣数人で、投手はマウンドで集まった時なんて言われたら嬉しいかという雑談をしていた。みんなそれぞれの意見を言う中で自分は「シンプルに頑張れって言われたら嬉しい」と言った。きっと太幹はそれを覚えてくれていた。

嬉しかった。

大事な勝ち試合なのに、自分を信じてくれた。腹を括って腕を振った。ベンチ、スタンド全員が自分のストライク一つに湧いてくれた。応援してくれた。これ以上ない幸せだった。

ゲッツーをとった。打球速度は156キロだった。セカンド真正面に行った。神に祈っていた甲斐があった。カットボールだった。沖縄合宿居残り組として太幹に16メートルの距離からひたすら投げ込んだあのカットボールだった。

その後一本タイムリーは打たれたけれど、最後のアウトをとった。

登板前、キャッチャーの岡田(4年/学生コーチ/岡崎)には「良くても悪くてもこれが最後。だったら自分のアイデンティティであるナックルで勝負したい。」と言っていた。周りから見たら90キロ代のよくわからないスローボールを多投する東大のヘボピッチャーに見えたかもしれない。それでも、自分にとってナックルは大した取り柄もない投手だった自分の唯一の長所だったし、一番自信のある、まさに自分を自分たらしめる球であった。だから最後はこのボールを投げたかった。

三つ目のアウトはナックルで打ち取ったセカンドゴロだった。嬉しかった。自分のナックルは早稲田の打者にも通用する、傲慢な解釈だがこのことは自分のこれまでの取り組みを肯定してくれて、気持ちの整理をするのを後押ししてくれた。

ベンチでみんなが笑顔で出迎えてくれたのも嬉しかった。でもハイタッチをした後すぐにベンチ裏に行った。色々なものが込み上げてきた。



そしてリーグ戦オフ明けから学コになった。みんなが早稲田戦を最高の試合にしてくれたおかげで自分の気持ちに整理をつけることができた。

辞めたいという感情も無くなっていた。このチームで勝ちたいと思ったのもあるが、実際はもう少し後ろ向きな理由だった。もし自分が辞めたらその役割は石井か詠介がやらなければならない。それはつまりどちらかの選手人生を奪うことになる。自分も選手へのこだわりが強かったからこそ、それはできないと感じたし、太幹にもう一度選ばせるなんてことはできなかった。辞めたい、がなくなったというより辞められないという感じだった。

2年の冬からは就活で部活を休ませてもらうことも増えた。その穴を埋めてくれた先輩の学コの方々、太幹には感謝の気持ちでいっぱいです。

3年の春になると、香川(2年/学生コーチ/開成)深見(2年/捕手/サレジオ学院)(当時は学コ)が後輩として入ってきて、春リーグ後には川又(3年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)が学コになって、太幹がAに上がり自分はBチームのチーフ学コのような立ち位置になった。就活は思っていたよりも大変で、相変わらず部活を休ませてもらうことも多かったが、自分にできることをして、後輩に教えられることは頑張って伝えていた。

夏の岩手合宿はBの学コの一番先輩としてとても大変だったが、当時Bチームにいたみんなのおかげで自分史上一番楽しい合宿になった。

重すぎて坂道を登らないバン、春山(3年/内野手/昭和学院秀英)のサイン無視、死を覚悟した考える(山本考/4年/マネージャー/海城)の急ハンドル、バスケ大会、、、、、、、全ていい思い出です。

後輩に厳しいことを言ってしまったこともあったけどみんなついてきてくれてありがとう。

秋のリーグ戦終わりまでBチームでやっていたけど、この時期は楽しく頑張れた。林を中心にメリハリのある、効率のいい練習ができたと思うし、ホビアスという概念は自分を再び野球少年に戻してくれたようだった。合宿キャプテンに林を選んで正解だった。「B戦ダンジョン」もみんな楽しく頑張ってくれてありがとう。選手が活躍してAチームに昇格するのは嬉しいはずなのに、少し寂しかったです。

数馬のおかげでBチームでも腐らなかったと言ってくれる人がいるけれど、逆です。みんなが楽しくついて来てくれたから自分も頑張れました。ありがとう。


新チームになる前に同期から学コを新たに二人出す必要があった。石井は自分から立候補してくれた。もう一人は自分が中心となって選ぶことになった。

難しかった。

当時Bチームにいた人たち、つまり選ばれる可能性が高い人たちが数馬に選んで欲しいと言ってくれたのは嬉しかったが、果たして自分はそれほどの人間なのかと思った。太幹が自分を選んだ時のように、いつだって野球に真摯に取り組んでいる太幹のように、自分はできるのか。自分が選ぶことは本当に納得のいく決め方なのか。

私情を挟んではいけない、そう思うほど何が客観的な意見で何が私情なのかわからなくなってきた。情なんて全員にある。できることなら全員最後まで選手として頑張ってほしい。自分の意見は持ちつつも、太幹に相談し、最後は監督助監督、主に助監督と相談して、岡田を選んだ。学コとしての適性、その観点で選んでしまったところが大きい。自分が選ばれた時、みんな選手を続けたいのは同じなのに学コの適性があるという理由でその人が選手を諦めなければいけないのはおかしい。そう思っていた。でも、自分も同じことを岡田にしてしまった。

難しかった。

やっぱり情なんて全員にある。できることなら全員最後まで選手として頑張ってほしい。

岡田には申し訳ないことをした。でも他に選び方が分からなかった。太幹や助監督に相談したのも相談と言えば聞こえはいいのかもしれないが、実際は誰かの選手人生を奪う責任を一人で背負うのが怖かっただけだ。

岡田には申し訳ないことをした。そして、自分を選ぶ時、その責任を一人で背負い、逃げずにまっすぐに向き合ってくれた太幹にも本当に申し訳なかった。





新チームになった。

上の代が抜けたことで自分の学コとしての序列は繰り上げ式に上がっていた。順当にいけば三塁コーチャーとしてベンチ入りする予定だった。

でも、この頃から自分の学コとしての存在意義のようなものを考え始めてしまう自分がいた。太幹はチーフとして各部門長と連携して練習を回してくれている。石井は走塁長として走塁練の管理からフィードバックまでやってくれているし、内野出身ということで内野守備も見てくれる。岡田はバッテリーコーチとして投手陣の練習管理からピッチング談義までしてくれている。みんなチームに欠かせない存在だった。杉浦をはじめとする幹部もすごく効率的だし、「しごでき」しかいなかった。チームには新たに打撃コーチも加わり、リーグ戦の勝利に向けて活気が溢れていた。

チームはうまく回っていた。このチームは自分がいなくてもうまく回ると思った。

みんな頼もしかった。熱量もすごかった。自分だけ学コとして何もしていない気がした。




部活を辞めたいと思った。

年末年始オフ、母親に野球部をやめようと思っていると電話で伝えた。母親はびっくりしていたが「なんで?」とだけ言った。しばらく話したあと、最後は自分の好きなようにしたらいいと辞めてほしくなさそうな声で言ってくれた。



間島さん(R7卒)とご飯に行った。やめようと思っています、と伝えた。猛反対された。

辛い時期なんて誰にでもある。お前は黙って三塁コーチャーやれと言ってくれた。

それでも最後には、自分で悩んで1番自分が幸せになれる選択をしてくれと言ってくれた。間島さんの優しさで心は少し軽くなったがまた自分の気持ちが分からなくなった。


やめるならこのオフの期間だ、そう思っていたけれど結局答えは出ずに年明けの練習に自分は行った。やめる勇気は出なかった。


また練習の日々が始まった。また自分の存在意義を考えるようになってしまった。朝集合してノックを打ってバッピをしてBTの球拾いをする毎日。この日々は自分の人生にプラスになっているのかと、自己投資が好きな自分は考えてしまうようになった。今自分がやっている仕事は誰かがやらなくてはいけないが、それは自分でなくてもいいと考えてしまうようになった。

朝15分前に来よう、学コとして信頼してもらえる行動をしよう、頭では分かっていたが心が追いつかず自分だけそれができなくなっていた。

どこかで聞いた「ここは野球部。野球をするなら他でもできる。勝利に向かって全てを野球に捧げることができる人が集まる場所だ」というような言葉が自分の心にずっとあった。何も間違っていない。自分が相応しくないのは明らかだった。

太幹、石井、岡田はみんなすごかった。しっかり者だし熱量も高いし技術や知識もあるように感じた。それも苦しかった。

石井の「ぼくじん」にあったように、学コの存在意義や価値というものは自分で作り出すしかないのに、当時の自分にはそれが分からなかった。

どうしたいかなんて分からなかったけど、合宿に行く前になんとかしなければと感じた。長崎合宿の直前、太幹に学コをやめてマネージャーになりたいと伝えた。学コから逃げたい、でも部をやめる勇気がない。後ろ向きで卑怯な選択だった。学コ、マネージャー、チームのみんなに申し訳ないです。

長崎合宿の学コ4人部屋で夜、話し合った。合宿中、東京に残っていて同じく自分の立ち位置について考えていた林にも相談した。その後、学年ミーティングでみんなが自分のマネージャー転向を認めてくれた。同期の優しさには感謝しかありません。

気恥ずかしさと気まずさできちんと挨拶できずに申し訳ございませんでした。

怪我をした石井の代役で、春のリーグ戦の2カード三塁コーチャーとしてベンチ入りすることになった。再び期間限定で学コになった。自分でいいのかという思いはあったが、学コで話し合って指名されたのだから頑張ろうと思えた。太幹とまた神宮で野球ができた。楽しかった。明治2回戦、これが最後かもと思いながら打ったシートノックでライナーばっかり打ってごめんなさい。9回、学コになった時に憧れていたリーグ戦で腕を回すという夢を叶えさせてくれてありがとう。

明治とのカードが終わって再び自分はマネージャーになった。

シートノックを打つ姿もコーチャーズボックスに立つ姿も石井はやっぱりかっこよかった。



こうして、東大野球部に入部してからの、捕手→投手→学コ→マネージャー→学コ→マネージャーという異色の経歴が出来上がりました。

野球を始めて13年。選手としては11年。投手も捕手も内野も右打席も左打席も選手もスタッフも経験させてもらえた贅沢な野球人生でした。

高校野球を楽しかった3年間とするなら、この大学の4年間は苦しいことの方が多い4年間でした。でも、新しい世界が見えた4年間でした。選手ではなく支える立場として学んだことを必ず今後の人生の糧にしていきます。そして、自分の今後の活躍を、責務から逃げたことへの償いとさせてください。



同期へ

自分勝手な自分を受け入れてくれてありがとう。同ポジションの人のことを嫌いだとか言い続けて来ましたが、同期の活躍は特段嬉しいです。どうしようもないツンデレです。工藤(4年/内野手/市川)のフェン直も、青貝(4年/内野手/攻玉社)のセンター前も、井之口(4年/内野手/ラ・サール)のタイムリーも震えるほど嬉しかったです。もはやマネージャーでもなくファンです。終わり良ければ全て良し。最後、勝ち点とろう。



マネージャーのみんな

4年から転身した自分をマネ部屋に受け入れてくれてありがとう。ろくに仕事もできない、8時にはいない、嫌な上級生でしたがみんなとざっくばらんな話をする時間が好きでした。マネージャーをしてみるまで仕事がこんなにも大変だとは知りませんでした。これからもチームを支え続けてください。



奥畑(4年/マネージャー/智辯和歌山)ゆめちゃん(番匠/4年/マネージャー/富山中部)、考える

4年マネに加えてくれてありがとう。奥畑にはマネージャーになりたいと言った時にたくさん相談に乗ってもらった。ありがとう。髪長くてごめんなさい。慶應に勝った時、ゆめちゃんと一緒に喜べてよかった。不仲説あったけどもう解消されたと信じてます。「ぼくじん」の執筆遅れまくってごめんなさい。考えるの運転で一度死にかけました。でかい背中を丸めてXを見てるイメージが強いけど、岩手合宿の時は本当に色々助けられた。ありがとう。



川又、本岡(3年/学生コーチ/基町)、香川

だらしない先輩でごめんなさい。みんななら何も心配いりません。Bチームで一緒だった時たくさんたくさん助けられました。ありがとう。

川又、選手交代忘れないようにね。



間島さん

熱い言葉をかけてくださりありがとうございました。一年後に笑っていられる選択をと言ってくださいました。笑って引退できるようあと少し頑張ります。全然連絡してなくてすみません。またご飯連れて行ってください。



大原(4年/外野手/県立浦和)

自分にいっぱいバッピを頼んでくれてありがとう。プライベートでたくさん遊んでくれてありがとう。大原にバッピをしている時、自分はこのチームにいてもいいのかなと思えました。大原とお酒を飲んでいる時、辛いことを忘れることができました。今は苦しい時かもしれない。大原にかかる重圧は自分には到底わかるはずもないし、軽くしてやれるわけもない。でもこの前の苦しみながらもチームのために四球をもぎ取る姿、最高にかっこよかった。やっぱり大原のヒットが俺にとっては一番嬉しいです。引退したらまた潰れるまで酒飲もう。



石井

だらしない学コでごめんなさい。長崎合宿の夜の話し合い、去年の夏はBチームにいて精神的に辛かったけど数馬がいたからBチームの同期たちは頑張れたと言ってくれてありがとう。石井はいつだって冷静で客観的でチームのためになることを体現してた。その姿を本当に尊敬しています。三塁コーチャー、最高にかっこいいです。残り1カード、石井の走塁の力で得点して、勝ち点とろう。



岡田

岡田がチームにもたらしているプラスは計り知れません。岡田を指名したのに自分がそのあと逃げてごめんなさい。長崎合宿でまこつ塾を開校していたとき、岡田が「学コ楽しい」と言っているのを聞いてすごく救われたような気持ちになれました。慶應に勝った時一緒にガッツポーズできてよかった。ブルペンに岡田がいるだけできっと投手陣はリラックスしてマウンドに向かえます。岡田を超える打監はいません。ラスト勝ってまたガッツポーズしよう。



太幹

太幹の「ぼくじん」しっかり読みました。太幹とは入学以来本当にずっと一緒だった気がする。学コをやめてから、申し訳なさと気まずさで俺が少し距離をとってしまった部分があった。太幹がいなければ今年のチームは間違いなくありませんでした。ありがとう。

そして、自分を学コに選んでくれてありがとう。学コを経験できたから、きっと今後の自分の人生はもっと豊かになる。そして、太幹が学コにしてくれたから俺は次の夢を見つけることができた。自分が就活でいない時、太幹がその穴を埋めてくれたから俺は夢を追うことができた。太幹が応援してくれたから、叶えることができそうです。本当にありがとう。ラストカード、勝って抱き合おう。あともう少し、チームの核として支えてください。引退して落ち着いたら、お洒落なバーとか行ってゆっくり語り合おう。






最後に、秋のリーグ戦を見ながら、今グラウンドに立っている選手はどんな気持ちなんだろうとよく思います。チームメイトやファンの期待をマウンドで一人で背負って腕を振る渡辺(4年/投手/海城)。逆転を期待するチャンステーマが流れる中で打席に向かう大原。きっとみんなそれぞれ思うところがあるのだろうけれど、僕らにはそれは想像することしかできません。この「ぼくじん」の執筆が感情的に大変な作業であるように、グラウンドの彼らにとってもその感情を言葉にすることはきっと容易なことではないでしょう。

一部のプロフェッショナルしか体験できない世界を、言葉で共有し、本来体験できない世界まで擬似体験することができたら、人生はもっと豊かになるのではないかと思います。

自分はその共有の仲介者となれるような伝え手を目指します。








明日は東大野球部の勝利の女神こと僕と誕生日が同じゆめちゃんです!お楽しみに!



〜あとがきにかえて〜
執筆完了が投稿30分前となってしまいました。「ぼくじん」担当のゆめちゃんへの謝罪と、30分でこの長い文章の確認とリンク付けを行ってくれた敏腕マネージャー堂埜(3年/マネージャー/湘南)への感謝をここに記させていただきます。

それでは!

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次回は明日10/17(金)、番匠由芽マネージャーを予定しております。