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『僕の野球人生』vol.23 酒井 捷 副将

4年生特集『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.23 酒井 捷 副将(4年/外野手/仙台二)


僕の野球人生



 野球を始めたのは小学2年生の初め、3つ上の兄のいた寺岡ブラザーズに入団した。ずっと親に付いてグラウンドに行っていた私が入団するのは自然な流れで、特に自分の意志はなかった気がする。始めた頃はいつもビクビクしていて、周りが紺のアンダーシャツで練習する中、父にいわゆる“練習着”(高校球児が着るような真っ白のもの)を着せられるのが嫌だった。

 同学年では1番最初に入団したから、ひたすら仲間探しをした。「平泳ぎまでは水泳を頑張る」と言うタカトを口説き落としたのは流石に強引だったかもしれない。吉成に勝って優勝した3年生のキッズ大会は、私の人生最初で最後のサヨナラ打で決した(ティーボールだけど)。同じ頃、小6の兄のAチームはマックの県大会で準優勝した。兄は金のVコングで柵越えを打った。


 夢は野球選手だった。
 野球少年が皆したように僕もプロ野球の世界に憧れた。
 震災後の東北に元気を与えた楽天の選手はヒーローそのものだった。


 4年生になりAチームに上がると、川村さん、佐々木さんのもとで野球がさらに楽しくなった。「フルスイング野球」を掲げ、練習は8割打撃、ストライクは必ずフルスイングのノーサイン野球。川村さんは高めのクソボールを振って三振しても、甲高く笑って手荒く頭を撫でてくれた。佐々木さんは僕たちに礼儀を教えてくれた。僕たちのプレーを微笑みながら眺めている顔が好きだった。(あと、酔っ払うと抱き付いて酒くさい息をかけてくるところも。)

 毎日夕方、遊びから帰ったら100回素振りをした。だいたい6時過ぎになるとぱんだクリーニングの配達が来て、川村さんが褒めてくれた。たしかこの頃に実家の駐車場にティーネットが設置されて、僕の自主練は加速するわけなのだが、自分の意志で練習はしていない。正直なところ、素振りは義務感(と、周りからの褒め)でやっていたし、野球は好きだったけど、必要以上に上手くなろうみたいな考えはなかった。
 だから、ティーをしようとなる時は大抵父に主導されてのことだった。必然的に兄と3人での練習になる。
 兄と練習すると、だいたい僕の方が球数が多くなった。多分、僕の方がのみこみが悪くて、父も思い通りにならずに少しピリピリしていた。実沢のバッセンに行くと、半分くらいは父と喧嘩した。

 父に指導された時の僕の口癖は「頭では理解してるんだけど」だった。父が教える打撃フォームの理屈は理解してたけど、体がそうはいかないから、自分は運動ではなく脳みその人間なんだなーとか思い始めたのがこの頃だった。
 同時に兄との差を感じ始めるのもこの頃、小学校高学年のことである。兄は地元で有名な「怪童」だったから、「酒井の弟」としての野球人生が始まった。



 どうやら自分は野球選手になるような器ではなかったらしい。小6のマセガキなりに導いた結論だった。
 野球選手への憧れは急速に失われていった。



 とはいえ、寺ブラでの野球はあいかわらず楽しかった。
 勝てない春を越えて、10点打線(10失点ディフェンス)が1−0勝負をするようになったのはよくわからなかったけど、最後の市長杯シェルコムで優勝したのが一番の思い出だ。「10点取られたら11点取れ」の教えの通り、宮城方式でスクイズされた2点をレイマがセンターオーバーで一瞬で弾き返して勝った準決勝。タカトの決勝打と完封で勝った決勝。ピッチャーに頼り切りの練習0センス守備もロースコアの中で成長を見せ、仙台市優勝にまでこぎつけた。

 (個人的には、小5秋学童新人戦佐藤颯大のいる金剛沢戦と、小6秋スポ少庄子光翼のいる栗生戦も思い出です、どっちも負けたけど。みんなずっと俺のライバル。)


 中3の兄は宮城の軟式野球でナンバーワンプレイヤーの立場を欲しいがままにしていた。(弟目線だけどそんなに過大評価ではないと思う。) そんな兄との比較を恐れて出来上がったのが私の俊足巧打のスタイルで、投げれば剛球打てば豪打の兄と一線を画すものだった。



 中学校に上がり、寺ブラのみんなと一緒に寺岡中野球部に入る。寺中野球部は自分が属した中でおそらく1番強いチームだった。フルスイングしか能のない自分たちに正弥先生は戦略的な野球を授けてくださり、僕の野球はゲームとしての色合いを強める。


 中学野球で1番の転換点といえば、中1冬に左打者に転向したことである。もともと小学校の時からやった方がいいのはわかっていたけど、右で打てている中どうしても踏ん切りがつかないできていた。そんな中で練習が冬練に差し掛かった12月に、正弥先生と若生さんから転向を助言された。右でも秋から1番打者としてチームを引っ張っていたし、正直本当に驚いたのは覚えている。

 あの時正弥先生と若生さんがどういうビジョンを描いていたのかはわからないけれど、本当にお二方のおかげで自分の野球選手としての選択肢が広がりました。本当にありがとうございます。
 (素直に聞き入れた俺、ファインプレー。)

 左になってからはとにかく練習するようになった。自分の中で、能動的に自主練をした記憶はこれが初めてである。年末年始は山形でもバットを振って、試合では打てないのをセーフティバントで濁しながら、練習ではひたすらにスイングを繰り返した。地味に効いたのが、小学校の頃父と喧嘩しながら得た打撃理論が、右では再現できず頭でっかちになっていたのを、クセのない左では上手く身につけられたことである。父と毎朝朝練でフォームを改善し、前田健のバッティングメカニズムブックを読んで理解を深め(父の指導の根拠もその本なので)、その繰り返しで身につけたのが今の左の打撃フォームである。今思えば、研究して改善するという、現在に通ずる練習姿勢を身につけたのは間違いなくこの時期である。


 それからは少しずつ自分の野球の世界が拡がっていった。中2では県選抜に選ばれて、光翼やゆっきーと出会った。東北大会はたしか岩手県選抜で明治の菱川(4年)が投げていて、「決勝でこいつを打たなきゃなのか、きちいな」とか思っていたら初戦で負けた。


 さてこの頃の夢は「官僚」だった。やっぱり脳みそで生きていく気が満々で、県選抜のセレクションの集団面接では財務省に行きたいと答えた。たしかキヨトが自衛隊(消防士?)って答えて、それ以外の3人はプロ野球選手って言ってた。野球は大好きだし、練習もたくさんしていたけど、心のどこかでは冷めた感情で野球と接していて、本気にならないようにしていた。

 兄がしたように自分も市選抜、県選抜と選ばれていったから、肩書き上は兄に追いついたようだったけど(というか兄は県選抜を蹴っている。アホすぎ。肩書き上は俺の方が上である。)、それは同時に兄が教わった先生方に僕も教わることを意味して、もしくは兄がプレーしたレベルに自らの身を置くこととなり、むしろ兄には遠く及ばないことを直視させられることになった。


 中2秋になり、チームのキャプテンに就いた。正弥先生はあいかわらずあり得ないくらい怖くて、毎日めちゃくちゃ怒られていたけど、チームは負け知らずで楽しかった。あんなに怖いのに正弥先生は毎回秀光中と同じ側の山を引いてきて、毎回準決勝で当たるから東北大会には行けなかった。(しらかし台が1個辞退したおかげで出た東北大会は初回のサード酒井捷2エラーによりあっけなく初戦敗退。ひろやの父ちゃんにマイクロバス運転してもらってみんなでパンパンで行ったのに。本当にすみません。) 秋全軟の秀光戦はヨシダの2アウト満塁Pゴロ暴投で負けた。

 秀光戦はエラーで負けたけど、予想以上に善戦することができ、みんなの気持ちに火がついたと思う。冬は階段ダッシュやサーキット(雑巾掛け)にみんなで取り組み、一段と強くなった。迎えた春は秋よりも負け知らずで、中総体は負ける気がしなかった。区大会を順当に勝ち進み(天江ありがとう)、県大会も毎試合自分たちらしい野球で勝ち進めた。迎えた準決勝秀光戦は伊藤樹(早稲田大学/4年)をはじめとする投手陣に歯が立たず0−6で負けた。僕の中学最終打席は古川翼(法政大学/3年)にデッドボールを当てられた。みんな泣いていたけど、僕だけ泣かなかった。


 中学野球は野球人生で1番楽しかった時期だ。チームメイトのことが大好きだったし、練習後の帰り道とか全てが思い出である。

 (ちなみに中学時代に東大野球部を知ることになりますが、高校受験も終わっていない田舎の中学生が東大に行こうなんて思えるわけもなく、知ってる止まりです。でも、魅力的な場所であることを直感的に思ったのは覚えています。)


 高校受験では兄のいた仙台二高を志望した。野球は特に進路選択に関わることはなかった。


 二高での高校野球は私立校への「下克上」を図るもので、非常にユニークであった。限られた練習環境、時間などの資源をフル活用しながら、実力では劣る相手に一泡吹かせようという試みは、自らの知性的な側面ともマッチしており魅力的だった。


 人との出会いに恵まれた高校野球だったと思う。

 一つは顧問の金森先生との出会いだ。慶應でプレーした先生は私たちに大学野球の存在を教え、意識させてくれた。思い返せば、私たちの実力に見合わないようなプレーを教えてくれたり、タジケンの本を使って野球脳を育てたりしてくれたのは、高校野球よりも先のステージを念頭に置いていたのかな、とも思える。新しい練習を取り入れてきては試して数日でやめる金森先生の若さには振り回されたけど、私たちの主体的な取り組みは最大限後押ししてくれて、ウエイトに力を入れたり、メディシンボールで球速アップを図ったりとかなり自由な部活動だった。

 二つ目は理学療法士の高橋晋平先生との出会いだ。晋平先生は体のケアについて教えてくれたが、何より、強豪で野球をしてきて、仕事でもさまざまなトップ選手を見てきた経験から私たちにアドバイスをくださったのが印象的だ。

 「今の時代の野球は考える力がある奴に勝機がある。情報化の今は良い指導者に出会うことよりも、情報を自分で取捨選択する能力が大事だ。」

 この話をして晋平先生は私の大学野球継続を後押ししてくれた。この時自分の中で、プロ野球を目指してもいいかもしれないという考えが少しだけ生まれた。この話は私の大事な教条になっており、今も信念として、そして非エリートの自分の希望として常に胸に刻まれている。


 肝心の試合はなかなか勝てなかった。高3時の二高一高定期戦では全校応援の前でライバルと本気の勝負ができた。後半リリーフした私が打たれて逆転負けを喫した。心から尊敬しているローレンスをはじめとした応援団幹部が、コロナ禍の制限もありながら必死に応援してくれて、それに応えられなかった人生で1番悔しい敗戦だった。翌日ローレンスと8組のベランダで号泣した。


 この頃からようやく「酒井の弟」レッテルから脱却し始める。一つは兄が高校で伸び悩んだこと、もう一つは高校で投手野手の分業が明確化し、投手の兄と野手の弟で比較がされづらくなったことが要因となった。苦しんだ割には意外とあっさりした決着であった。


 最後の夏はあっさり負けて、受験勉強に移った。大学野球を志し始めた頃から、東大野球部という選択肢はあまりにも魅力的すぎて、東大を志望した。


 猛勉強の末東大に合格、すぐに入部届を郵送した。
 東大で野球をするならと思って、合格後の取材でプロに行きたい旨を公言した。
 凡人の自分がプロになるならこのルートしかない、と思った。


 東大野球部に入ってすぐに思った。ここはなんて素晴らしい組織なんだろう、と。


 なんというか、部員全員が各々の個性を出しながら、互いに高め合っているような印象を受けた。宮﨑さん(R5卒)や隆成さん(奥田隆成さん/R5卒)のような打撃博士がいれば、片岡さん(R5卒)のように盗塁を極める人もいて、しかもそんな突出した知識を持つ人たちが自分の領域について惜しみなく他者に教えていて。とにかく全員が自分の持ち場で輝いているように見えた。

 特に、永田さん(R6卒)は入部したばかりの自分にとってそんな東大野球部の象徴に見えた。学生コーチとして、小さい体には全く見合わないくらいの存在感を出していた。何も知らない自分にも永田さんがスタッフとしてチームを引っ張ることを決めた経緯は想像できて、勝手にそこに美しさを感じていた。


 そんな環境に飛び込み、みんなに流されるように自主練をするようになった。授業欠席が多かったから、オフの火曜日にも球場に行った。ちょっとティーをするだけでも、メキメキとバットが振れるようになっていくのを感じて楽しかった。ある日には、片山さんの計らいで別府さん(R6卒)のスイングを間近で見せてもらえた。別府さんは真っ白なユニホームを着た一年坊にスイングの意識を聞いてきて、納得したような表情で「参考にするわ!」と言って走っていった。なんて謙虚で貪欲な人なんだろうと思った。


 春フレッシュ出場の夢は松原さん(R7卒)の2HRによってポシャったけど、この頃は毎日を生きていくのに必死で、悔しさを感じる間もなく日々が過ぎていった。


 春リーグ戦後のオフ明け、Aチームに上がった。リーグ戦に出ている先輩方と練習できる毎日は夢のようだった。Rさん(井上さん/R5卒)の食事指導により体がデカくなった上、夏のオープン戦は1年生にしてはよく打って、足も評価されて代打代走でのメンバー入りも見えてきた。(守備はお粗末すぎて、守屋さん(R5卒)によくヘタクソといじられていた。到底神宮は守れなそうだった。) そのまま遠軽、七大戦と帯同し、順調すぎるまま秋開幕の明治戦でベンチに入った。


 初めての神宮の打席は晩夏の暑さを忘れるような寒々しさだった。体がピリピリして、ピッチャーはすぐ目の前にいた。左打席から正面を向くと淡青色の応援席が聳え立っており、ふと我を忘れていたことに気づいた。


 すぐに神宮の虜になってしまった。
 当時の代打枠の競争は激しく、水木金のマシン打撃では命がけで調子の良さをアピールしてベンチ入りを狙ったが、明治戦以降ベンチ入りは一度もなかった。その頃同じくらいの序列だった西前さん(R7卒)と、金曜日にメンバーが発表されるたびに愚痴を言い合った。俺の方が調子良かったやろ、とか、内野の守備固め枠多すぎる、とか、ピッチャー7枚にして俺を入れろ、とか。(たしか西前さんはリーグ戦が後半に差し掛かった頃にベンチに入った。僕から見ても本人からしても別に特別調子が良かったわけじゃなくて、いつもの金曜日に西前さんは「なんか入ってたわぁ」と不思議そうに言っていた。なんだそれ!と思いました。)

 神宮のせいで僕はかなりギラギラしていた。


 ギラギラは僕をさらなる練習へと駆り立てた。


 転機が訪れた。

 秋フレッシュ慶應戦、5打数4安打の大爆発。試合は16−6の快勝。

 フレッシュ2試合で7打数6安打した。
 打球が全てヒットゾーンに飛んだ。



 春もその勢いは衰えず、春先のおいどんカップから1番ライトの座を手にして離さなかった。

 怖い物知らずで春リーグを迎えた。とは言っても、自分がリーグ戦で通用するとは思っていなかった。


 開幕戦初打席から2打席連続でヒットを打った。神宮は俺の場所だと本気で思った。


 その後もヒットは出続けた。初打点、初盗塁に続き、初本塁打までも打ってしまった。


 六大学では第三カードから電光掲示板に打率が表示される。その頃からは数字に苦しめられた。高校までのトーナメントとは異なる、結果を出し「続ける」ストレスに苛まれ、一息つけるのは1本打った後の試合中とせいぜい月曜日くらい。水木金は土日ヒットがでなかったらどうしようと思いながら打撃練習をし、金曜の夜は決まって悪夢にうなされた。

 それでもヒットは出て、僕へのプレッシャーはジェンガが高く積み上がっていくように膨れた。打てても嬉しいのかわからなかった。


 最終カード法政戦でジェンガは崩れた。
 法政戦前に見た悪夢は今でもその内容まではっきりと覚えている。
 それまでと同じペースで、2試合で1本ずつヒットを打てば3割だった。悔しかったし、惜しいことをしたと思ったけど、心が限界すぎて、これが実力だと認めざるを得なかった。


 春の悔しさを胸に夏は大幅な打撃改造に着手した。
 高く上げた足は摺り足にして対応力を高め、その分開きやすくなった前腰を止めて打つフォームを身につけるためにスローボール打ちに勤しんだ。(スローボール打ちは武者修行に行った七十七の野球部で教えてもらいました。今でも毎日50球程、続けています。)


 迎えた秋も、やっぱり神宮ではよく打てた。明治の2回戦は蒔田さん(R6卒)相手に3三振を喫して絶望したけど、ずっと神様に祈っていたら4打席目でポテンが出た。法政戦は吉鶴くん(R7卒)が破壊的な投球を繰り広げたけど、滅多にやらないドラッグバントが綺麗に決まった。自分が神宮の男であることは自分が1番理解していた。メンタルは春からよわよわのままで、金曜夜の悪夢がたまにエロい夢になるくらいの成長しかなかった。


 迎えた最終カードの立教戦、打率は全外野手の中で3番目、このままいけばベストナインだった。初戦で2安打して3割は確実、あとは一本打つだけだった。

 4タコした。自分と競っていた桑垣(立教大学/4年)が目の前で打って自分の打率を超えた。

 0次会は笑えなかった。10月生まれの自分にとって、先輩と初めて乾杯できると楽しみにしていた会だった。会が始まってすぐ自室に戻りふて寝した。1時頃に廊下のばやしさん(梅林さん/R6卒)の声で起こされて、それからは朝まで寝られなかった。春と同じことをしてしまった。人生最悪の夜。


 結果的にはベストナインを獲得した。棚からぼたもちの知らせに、うまく喜べなかったのを覚えている。さっきまでは予選初戦負けの平凡な高校球児だった自分が、閉会式では錚々たる面子のなかで取材を受けた。希由翔さん(上田希由翔さん/明治大学/R6卒)にプロ来いよと言ってもらった。自分のこととは思えなくてふわふわしていた。少し遅れて1人で寮まで自転車を漕ぐ道中、飯田橋の大きな交差点の信号待ちで携帯を見たとき、ようやく自分のしたことを認識した。


 松山合宿にも呼ばれて、最終的にはいいシーズンになった。東大6年ぶりのベストナインと日本代表候補選出、出来過ぎだけど、成人式前にいいお土産ができた。


 2年次の活躍で、プロ野球の夢が少しずつ解像度の高いものとして見えるようになってきた。憧れの宮台さん(H30卒)ともご飯に行けて、江尻さん(二高→早大H14卒→日ハム…)にも挨拶ができた。あと2年でちょっとずつ打率を上げていって、4年では首位打者。支配下7位くらいでプロ指名。




 春合宿で右膝の前十字靭帯を切った。


 2月25日受傷、帰京後3月1日新小岩での診察。
 全治は10ヶ月。


 僕の3年のシーズンは終わった。新小岩で泣いた。人目なんて気にならなかったけど、小林さんは施術中僕の顔にタオルをかけてくれた。小林さんにトンカツをご馳走になって、そのあと総武線でまた泣いた。


 それから1週間は寮の自室で泣きながら過ごした。なんで俺なんだろうと思った。みんなに合わせる顔がなくて、部屋からは出られなかった。トイレに行くタイミングで藤田さん(R7卒)と鉢合わせしてしまった。何も言えなかった。涙が止まらなかった。


 プロは無理だと思った。


 自室で陰鬱な日々を過ごした。ふと思い出しては泣いて、伸びも曲がりもしない膝を見ては現実に引き戻された。食事は部屋まで内田(4年/アナリスト/広島学院)が持ってきてくれた。人と顔を合わせないように風呂には夜中2時ごろに入った。これも内田が付き合ってくれた。みんなとは話せなかったけど、内田とだけは話せた。


 人生で初めてのどん底だった。


 ある夜、11時ごろに突然小林さんから連絡があった。PRP療法という保存療法があり、秋リーグに間に合うかもしれないとのことだった。比較的新しい療法でまだ保険はおりない、個人差がある療法で治らない可能性もある。もし手術ではなくPRPに挑戦するなら明日の朝イチに病院に来てくれ。

 かなり大きな決断をしかもタイムリミット付きで強いられ、夜中なのも気にせずに色んな人に連絡した。両親はもう寝ていた。

 プロになるには4春のパフォーマンスが一番大事で、3秋にヘタな成績を出すくらいなら欠場した方が良い。そもそもPRPが合わなければ3秋どころか4春も出られないかもしれない。


 僕はPRPを選択した。


 大好きな先輩方の力になりたかった。



 徐々にリハビリを開始した。
 最初は固まった膝を伸ばすことから、地に足がついてからは歩行訓練をした。久しぶりに地面に着いた右足は自分のものとは思えなくて、足の裏に硬いかまぼこの板がついているみたいだった。それでも歩いていると、地面から足底にエネルギーが流れ込んでくるような感覚があり、右足は柔らかく馴染んだ。


 ようやく球場に行けるようになった頃にはもう桜が咲いていた。いつもの道を歩いて本郷通りに出ると春の匂いがした。この時ばかりは春が来てほしくなくて、セブンの前の信号でため息をついた。


 春リーグが始まった。
 スタンドから眺める神宮のグラウンドは昔のアイフォンみたいで、打席から見たような鮮やかさはまるでなかった。松本(松本慎之介/2年/投手/國學院久我山)が1年生ながら鮮烈なデビューを果たした。人々の注目が僕から松本に移っていくように感じて寂しかった。大原(4年/外野手/県立浦和)の活躍は嬉しかった。間接的に、ほんのちょっとだけ、自分が怪我をしたことの意味になってくれている気がした。


 5月になってからは軽いジョグができるようになった。この頃から高木さんとマンツーマンのリハビリが始まった。痛いし、キツイし、人生で一番辛かった。地獄だった。それでもひたすら神宮の舞台を思い浮かべて、泣きながらリハビリをした。怪我をした直後の涙とは違った。何回も心が折れたけど、自分に本気で向き合ってくれている高木さんや内田を裏切るわけにはいかなかった。もう前を向くしかなかった。


 リーグ戦が終わり6月、横紋筋融解症(オーバートレーニング症候群)による1週間の入院で有終の美を飾り、リハビリは落ち着いた。病名がついたことで、自分のハードワークが世間から認められた気がしてちょっぴり嬉しかったけど、集中治療センターに入れられて血の気が引いた。数値的にはいつ意識を失ってもおかしくなかったらしい。心拍モニタの音が響くだだっ広い1人部屋で過ごした。テレビは看護師さんが持ってきてくれたけれど、本来こんな元気な奴がいるところではないらしく、ワイファイはなかった。


 練習に復帰してからは一瞬で時が過ぎた。失われた打撃と守備の感覚を取り戻し、走塁はものすごく慎重にやった。7月の青学戦で代打復帰し(三振)、8月の東農大オホーツク戦で先発復帰した(2エラー)。とにかく怪我前の状態に戻すことに必死で時間もなく、気づいたらリーグ戦だった。リーグ戦直前の明スポの取材で打率の目標を聞かれ、目標なんて全く立てていないことに気づいた。それくらい一瞬だった。


 秋開幕にはなんとか間に合った。
 開幕の早稲田戦、スタンドからは「すぐる、おかえり」のコールが聞こえた。生きていて良かったと思った。
 1打席目の初球を捉えてライト前ヒット。やっぱり神宮は僕の場所だった。


 でもなんだか雲行きが怪しくて、明治戦ではノーヒットを叩き、打率は1割台を推移した。こんなもんじゃないと思いながら怪我前の影を追い続けたけど、全然打てなかった。2年春の初スタメンから続いていたらしい連続試合出塁記録も止まった。

 打てなくなってからは悪夢を見なくなった。

 あんなに必死にリハビリをして迎えた秋だったのに結果は散々だった。
 毎日が苦しかった。


 先輩方が引退していった。
 もう秋のような思いはしたくないと思った。猛練習を決意した。


 覚悟の冬。

 夏にかじった就活は辞めた。進路をプロ一本に絞って退路を絶った。毎日朝から晩まで球場にいき、バットを振り、ウエイトをあげ、スプリント。疲れた時は、同じく狂ったように球場にいた臼井(4年/学生コーチ/静岡)詠介(大田/4年/学生コーチ/都立西)深見(2年/捕手/サレジオ学院)から元気を分けてもらった。クリスマスプレゼントは荒井さんの特打だった。朝から晩まで、プロに行くために、勝ち点を取るために、野球のことしか考えていなかった。不思議と、手のひらの痛み以外に、ネガティブな感情は全くなかった。


 夢を追うこと、ただそれだけが毎日の喜びだった。



 勝負の春。

 全く打てなかった。
 完璧に捉えた当たりがフェンス際で失速した。2年の頃の梅林さんの当たりを思い出した。いい当たりは悉く捕られ、ラッキーヒットも悉く捕られた。こうなるとバットが振れなくなってきて、冬の取り組みを疑った。
 とにかく全く打てなかった。

 心のどこかでは、3秋以下の成績を叩くことなどないだろうと思っていた。ため息が増えた。ハァとため息をつくと運気が逃げていく気がして、口をすぼめてフゥと息を吐くようにした。気づけば常に口を膨らませていた。



 野球が嫌いになった。



 当たり前だ。逆襲を心に誓い死ぬほど練習したのに、迎えた春にはこの仕打ちである。努力と報酬を考えれば対価が見合わな過ぎる。

 清々しいほどに全部俺が悪い。

 中山(4年/外野手/宇都宮)や大原が打てなかった時は少しホッとした。最悪のマインドだった。そんな自分にひたすら嫌悪感を抱いた。こうやって組織は弱くなるんだなと思った。下手は伝染する。春は勝てなかった。



 練習が嫌になった。


 これは一大事だった。少なくとも本気で野球に取り組み始めてからは初めての感情だった。秋の失敗のときは負の感情が自分を練習に駆り立てたけど、今回の失敗ではとうとう挑戦する気力すら奪われてしまったらしい。絶望した。


 春リーグを終えて初めての練習、いつものように皆の前に立つ杉浦(4年/捕手/湘南)はもう秋の話をしていた。自分はもう野球のことなんて考えたくないとすら思っていて、杉浦の切り替えの速さに唖然とした。隣の井之口(4年/内野手/ラ・サール)も僕と同じ顔をしていて、この時は何も言わずとも互いの心情がわかる気がした。


 野球を辞めたかった。副将の立場がそうはさせてくれなかった。あと半年地獄は続く。


 それからの日々は、燃えかすに火をつけるように、練習をした。
 バッティングは何が正解かも分からなかった。2年のときの活躍もたまたまだったのではないかと思い始めた。


 でも、燃えかすになった僕にみんなが少しづつ火をくべてくれた。ある時は練習に付き合ってくれる太幹(酒井太幹/4年/学生コーチ/筑波大駒場)の温かさ、ある時は芳野さん(R7卒)からのLINE、岡林(3年/外野手/土佐)が筋トレでどんどんデカくなったこと、大坂(3年/外野手/金沢泉丘)竹山(3年/外野手/修道)とのハンドリング練、榎本(4年/外野手/渋谷幕張)の復帰、三田村さん(R6卒)と将来を語り合ったこと、岡田(4年/学生コーチ/岡崎)との朝メシ、遠軽での黒武者(4年/外野手/渋谷幕張)のツーベース、数馬(伊藤数馬/4年/マネージャー/旭丘)のバッピ、土ヶ端(2年/捕手/城北)塗師(2年/内野手/時習館)の明るさ、挙げだしたらキリがないな。


 自分のためにはもう頑張れなそうだったけど、なんとかみんなのためにと思いここまできた。



 こんなに苦しんだ日々も残すは法政戦のみとなった。
 秋リーグも打てずに相変わらず苦しんでいる。
 まあ打っても打たなくても辛い思いばっかりしてきたけれど。
 野球は嫌いだ。

 僕は東大野球部が大好きだ。みんな揃いも揃って野球バカで、頑張っても一銭にもならないのに、勝利のために、野球という「遊び」に全てを賭ける。なんて馬鹿で、純粋で、最高な仲間だろう。

 自分と同じように同期のみんなが苦しみ、辛い思いをしながら踠き続けるのを間近で見てきた。だから、みんなには最後くらい報われてほしい。
 もし、みんなが揃って報われる手段が、「勝ち点」なのだとしたら、僕はそのために何があっても力を尽くす。



勝ち点取ろう。






お世話になった方々へ

川村さん、佐々木さん
 野球の楽しさを教えてくださり本当にありがとうございました。寺ブラで野球が始められたこと、お二方の元でのびのびと野球ができたこと、本当に幸運なことだったと思います。これからもお体に気をつけて、子供たちに楽しい野球を教え続けてください。


正弥先生
 正弥先生はよく「こだわりを持て」と言っていました。先生のレイバンの眼鏡とか、愛車とか、腕時計とか、もしくはノックの一球に対する姿勢とか、先生のその言葉には説得力があって、憧れていました。今も変わらずにバッティングの1スイングや、ダッシュの最後の一歩までこだわってやれています。たまにスクールライフや社会の授業振り返りシートに野球のことを書くと細かい字で返事がきて嬉しかったです。ありがとうございました。


金森先生
 先生のおかげで六大まで来れました。ありがとうございます。最近は合格実績ばっかりが良くなっているので、もうちょっと野球の指導に力を注いでください。


晋平先生
 進学校の私が野球で勝負することを後押ししてくださりありがとうございました。先生のおかげで、プロを目指せました。


大久保さん、石井さん、西山さん
 大学4年間、でっかい器で私たちのことを見守ってくださりありがとうございました。結果で恩返しします。


荒井さん
 プロの世界を見せてくれてありがとうございました。荒井さんのおかげで、夢を持ち続けられました。オフの日のだだっ広いグラウンドでバッティングしたことは思い出です。


小林さん
 4年間本当にありがとうございました。急にLINEして休日なのに診てもらったり、他の先生に会いにお茶の水まで連れていってくださったりと、感謝してもしきれません。この前の立教戦前、バッティングが「沼」にはまっていると言った僕をベランダに連れ出して、スイングを見てくださりました。正直もうバッティングは諦めかけていたのを、見透かされましたかね。落ち込んでいたけど、前を向けました。


高木さん
 4年間本当にありがとうございました。怪我のリハビリに苦しんでいる時に高木さんからいただいた長文のアッツいライン、スクショしていまだに大切にしています。春リーグ後にバックネット裏で説教していただいたこと、自分の中でまだ答えは見つかっていませんが、人に優しく、格好良い大人になれるようにこれからも精進していきます。


ハイゴールド 風呂本さん、遠藤さん
 2年間本当にお世話になりました。毎回お店に行くたびに元気をもらいました。野球以外にもお二人からたくさん学ばせてもらったと思います。私も「縁」を大切に、これから生きていきます。


遠藤さん(H12卒)
 夢を見させてくれてありがとうございました。


梅林さん
 正直なところ自分と考え方が真逆なばやしさんからは、組織のあり方や、人の気持ちの考え方、色んなことを学びました。就活辞めるのを後押ししてくれたのもばやしさんでした。ばやしさんと出会えて、東大に来て良かったと思います。これからも人生の師匠としていろいろなことを学ばせていただきます。


別府さん
 大好きです。


 ちょっと書ききれないので、大好きな先輩方には個別で連絡しようと思います。


杉浦
 キャプテンとして、チームをまとめてくれてありがとう。本当に尊敬しています。冷静な杉浦と、情熱の酒井捷、思いやりの中山、けっこうバランス取れていい3人だったと思うな。


中山
 杉浦と俺がガンガン前を突っ走って引っ張る中、中山はチームの最後尾について皆の背中を押してくれました。その優しさで細部に気を遣い、後輩の面倒を見たり、チーム全体の調和をとってくれたり、本当に中山にしかできないことだと思います。ありがとう。


太幹
 ずっと一緒に練習してくれてありがとう。入団金の半分あげる約束は叶わなそうだわ、すまん。辛い時そばにいてくれてありがとう。マウンテンデューはもう気軽には飲めなくなっちゃいました。


石井(4年/学生コーチ/仙台二)
 高校から今までありがとう。試合中打てなくて下向きそうになる時も、守備に向かうとき石井からまっすぐ見つめられると、見透かされてるような気がして、頑張らないとと思いました。これからは“仲間”じゃなくて“友達”でよろしく。


奥畑(4年/マネージャー/智辯和歌山)
 チームのためを思って、他人のために動く姿勢、本当に尊敬しています。このチームは杉浦のチームであると同時に、奥畑のチームだと思うよ。いっぱいバンの助手席に乗せてもらいました。奥畑の雑多なプレイリスト、けっこう好きです。


渡辺(4年/投手/海城)
 アンダースローっていう、教科書も正解もない投げ方を、自分で研究して実験して作り上げていった渡辺の努力にはいつも感化されていました。4年の春頃かな、渡辺が自分の感情を捨ててチームのために投げ続けていることを知った時からは、エースとして、神宮に立つ者として本当に尊敬しています。最終戦くらいは人間にしてやっからな。


内田
 辛い時助けてくれてありがとう。膝怪我した時は倖太郎がいなかったら復帰できてなかった。ずっと倖太郎の優しさに甘えてきたので、これからは積極的に俺がギブしてくわ。頼りたい時はいつでも頼ってくれよ。


酒井班のみんな
 目標立てて、計画立てて、結果出すっていうところ、俺が見本見せてやりたかったんだけど、できなかった。ごめん。今までの少人数班で、そのプロセスは大切に聞いてきたつもりだから、これからもブレずに、でっかい目標立てろよ。バッティングとウエイトに全振りで、頑張れ。


門田(3年/内野手/松山東)横山(3年/投手/新潟)
 ずっと後ろ振り向かずに引っ張っていくのはいくら堀部(3年/内野手/県立船橋)でもしんどいから、たまにはお前らが堀部に背中見せてやれるように、前出て頑張れ。


尾瀬(早稲田大学/4年)
 デビューした時期が同じで、背格好も選手としてのスタイルも同じで、2年の時からずっとライバルだと思ってきました。3、4年は張り合い無くなっちゃってごめん。疲れた時も、尾瀬は今練習してるだろうなと思って練習しました。
 絶対にプロ行ってね。


応援部の皆さん
 4年間一緒に戦ってくれて本当にありがとう。思い返せば、神宮の思い出は常に皆の応援と共にあります。最終戦勝って、一緒に笑おう。


ファンの皆さん
 どんな時も僕たちを応援してくださりありがとうございました。松山合宿に行った時、僕が取材で最後までグラウンドに残っていると、いつの間にかグラウンドには僕1人、スタンドには東大ファンの方々だけになっていて、皆さんが僕に労いの言葉をかけてくださりました。周りはスター選手だらけで、彼らの方がファンは多そうだったけど、皆さんの温かさと、親密さは、日本一だと確信しました。本当は他人との比較で皆さんのありがたさを知るなんて恥ずかしいことなのですが、とにかく、皆さんの存在は東大野球部にとってかけがえのないものです。これからも東大をよろしくお願いします。


お父さん、お母さん
 捷という名前をつけてくれてありがとう。僕はこの名前が本当に大好きです。文章の序盤で父を悪者みたいに書いちゃってごめんなさい。お父さんから学んだバッティングは今でも自分の基礎です。何より、野球の勉強の仕方を教えてもらったと思います。母も食事から何から、僕のことをサポートし続けてくれました。就活を辞めるって言った時は流石に反対されると思ったけど、2人ともあっさり承諾してくれたね。いっつも僕のやりたいようにやらせてくれて、夢を応援してくれてありがとう。


兄へ
 ちっちゃい頃からずっと自慢の兄貴です。気高秋ベスト4の記事で兄の紹介に「弟は東大野球部の酒井捷」って書かれてたとき、なんかちっちゃいことだけどすごく嬉しかった。俺がプロになったら今度は兄が「酒井の兄」になるかと思ったけど、やっぱりそれは叶いませんでした。僕はずっと「酒井の弟」です。


 様々な方々に支えられて野球ができたこと、これから恩返ししなきゃいけない人がたくさんいること、本当に幸せです。











 10月23日、ドラフト会議での指名は無く、僕の引退が決まりました。

 志望届を出した時も、内心はもう野球をやりたくない気持ちと、でも夢を捨てきれない気持ちとがせめぎ合って、自分でも整理がつかないでいました。

 もう、強がって取材を受けることもないと思うとホッとします。


 落ちているゴミを見つけた時も、赤信号を無視しちゃおうか迷う時も、「野球の神様が見てるかもな」とか考えるような野球バカから野球をとったらどうなっちゃうのか、自分でも心配です。


 これからまた熱くなれるものを探そうと思っている一方で、これ以上本気になれることもこれからの人生無いんじゃないかな、とも思ってしまっています。


 僕を育ててくれた野球というスポーツに感謝です。


 眠れないほど夢を見た、最高の野球人生でした。




僕の野球人生
酒井 捷



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次回は明日10/22(水)、中山太陽副将を予定しております。