フリーパス付きアプリ 2026年度版 販売中!
BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平
  • TOP
  • 『僕の野球人生』vol.4 山口 周平 投手

『僕の野球人生』vol.4 山口 周平 投手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
※リーグ戦日程の変更により、投稿予定を変更しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『僕の野球人生』vol.4 山口 周平 投手(4年/三重)

僕の野球人生を書くのを先に先に後回しにしたツケが、38度超えの風邪という暴利と共に回ってきた。こんな状況で書いているものですから、前作の近藤選手(4年/投手/筑波大附)の紹介文にあった理論的な文章ではなく、むしろ大変酷い怪文になると思われますが、どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

僕の野球人生は、小学3年生の頃に端を発する。

 

元々はサッカーをやりたかったが、見学に行ったサッカーチームの練習がハマらず、なぜだか地元の軟式野球チーム、松尾ブルーウィンズに入っていた。とにかく野球が楽しく、夕方は壁当てに勤しみ、夜はテレビでプロ野球を見るか3DSでプロ野球スピリッツをプレイする毎日だった。コーチからは野球オタクと呼ばれるほどで、プロスピで得た野球ルール(インフィールドフライが特にお気に入りだった)や応援歌を自慢げに披露し、登下校の途中ではこれ見よがしに華麗なシャドーピッチングを町中に見せつけていた。
松尾ブルーウィンズは、ミスをしても怒鳴られることがなく、選手それぞれが伸び伸びと野球をプレーし、そして礼節に関しては厳しく教えていただける、少年野球チームとしては最高の環境でプレーをすることができた。

 

小学生の頃はとにかく練習が楽しかった。練習に行かない日は、父親に連れて行ってもらうバッティングセンターが楽しみでしょうがなかった。

 

この頃はある程度中心的な選手として活躍できていたと思う。キャッチャーとして出場することが多く、今思うとダサすぎるガニ股打法からそこそこヒットを打っていた。たまにピッチャーをすることがあったが、練習試合でノーヒットノーランをしたこともあった。本当はエースになりたかったけど、同じ学年に良いピッチャーが他にいたのでエースにはなれなかった。悔しかったが、まあそのうちピッチャーとしての才能が開花するだろうと高を括っていた。現在も同じように高を括っているが、果たしていつになれば開花は訪れるのであろうか。

 

小学5年生の頃、地元松阪市にある三重高校が甲子園に出場し、準優勝した。私は初戦と決勝戦を甲子園で観戦した。東大の名物応援曲である「不死鳥の如く」を三重高校も使用しているのだが、決勝の大阪桐蔭戦で甲子園全体を熱狂と共に赤いタオルが埋め尽くした光景を今も覚えている。甲子園が終わってもこの熱狂が私の中で消えることは無く、必ず三重高校に進学するんだと固く決意した。

 

三重高校には6年制のコースがあり、私は親からの勧めもあり半ば強制的に受験に臨み、三重中学校に合格した。中学受験といっても、都市部の私立中学のそれとは全く難易度が異なり、私はつるかめ算も植木算も習得せぬまま合格した。

 

こうして三重中学校に進学した訳だが、中学校の部活には参加せず、リトルシニアのクラブチームに入った。2個上の先輩には中日ドラゴンズで活躍されている岡林選手も所属しており、小学校の時より何段階も上のレベルで野球をできることに、不安を覚えながらもワクワクしていた。初めて硬式のボールに触れてみて、プロの選手が使っているのと同じボールで野球できることに高揚した。しかし、硬式ボールは中学1年生には硬すぎた。少し芯を外せば手は痛むわ、グラブのおかしなところでボールを取れば指が腫れるわでとにかく痛い。最初はキャッチャーをしていたが、あまりの痛さにブロッキングが出来なくなり、ファーストに転向した。しかし、当時のシニアは恐怖政治的な環境で、ファーストがゴロをグローブで取りに行くなど言語道断、体に当てて止めないと罵詈雑言が四方から浴びせられる中で野球をしていた。次第にボールが怖くなっていた。ボールが怖いと、上手くなりたいという気持ちよりも、いかにしてボールが体に当たらないか考える方が強くなり、段々と野球への愛が冷めていった。

 

この頃の記憶は、試合に出場してもエラーをしてこっぴどく怒られることばかりだ。試合で活躍することより、どうやって怒られないかばかり考えていた。

 

練習もとにかくキツかった。小学生の頃にはなかった冬練があまりにも恐ろしかった。冬のある日には、カレーを1kg食べた後にグラウンドを10周させられることがあった。あれは一体何だったんだ。

 

練習がキツく、試合に出るのも怖くなっていたこの頃、途端に野球が嫌いになっていた。小学生の頃あんなに好きだった野球への愛が自分の中から消えようとしているのが怖かった。

 

ただこんな中でもなぜかキャプテンに任命された。ただ声がデカい坊主だっただけなのではと思っているが、任命された理由はよく覚えていない。

 

相変わらず練習は憂鬱だったが、キャプテンとしての責任を感じて頑張った記憶はある。冬が明けるまでは自分にも他人にも厳しくし、チームの規律を作り上げようとした。ただ、当時のチームの雰囲気は良いとは言えず、大抵誰かしらが喧嘩をしていた。こんな中で厳しく指摘をすると、ただただ反発されるだけで、冬を超えた頃、厳しく指摘するスタイルではただチームの雰囲気が悪くなるだけだと考え、一気にゆるっゆるのキャプテンになった。キャプテンとして嫌われる勇気がなかっただけだったと、今は思う。

 

吹っ切れた後に、キャプテンとして取り組んだことはあまり覚えてないが、アップをとんでもなく短縮させた記憶がある。ただ短縮させたのではなく、監督が来るまでは各々がゆっくりと各自アップし、監督の車を発見次第大慌てで全員がスプリントだのをしていたように見せかけるようにしたと記憶している。なんともクソガキである。

 

キャプテンとして紆余曲折をしたが、戦力面では中心の選手になれなかった。中学最後の公式戦はドラゴンズカップと言われる大会で、決勝戦をナゴヤドーム(現:バンテリンドーム)で行った。この決勝戦では試合に出ることができなかった。チームは勝利して優勝したのだが、全く喜べなかったことを覚えている。中心の選手となって勝利に貢献できなかったことがあまりに悔しく、優勝したチームのキャプテンでありながら、試合終了後にチームメイトがマウンドに集まり喜びを分かち合っていたのを遠目に眺めた、ナゴヤドームの景色を今も鮮明に覚えている。

 

こうして、辛い記憶で溢れたシニアでの野球が終わった。
幸い、中3の頃にメジャーリーグにハマり始め、マイク・トラウトを真似したバッティングフォームとクレイグ・キンブレルにインスパイアされたピッチングフォームがそこそこの成功を収めた時期があったため、野球への愛は取り戻していた。
甲子園への憧れもあった。
また、三重高校のOBの内田さん(慶應義塾大学/H31卒)が六大でベストナインを獲得されたのを知り、東京六大学への漠然とした憧れが醸成されていた。

 

三重中学校から三重高校に進学し、迷うことなく硬式野球部に入部した。いざ入部してみると、周りの選手の実力に圧倒された。また、部員数もとんでもなく多く、自分の代は確か56人いたと記憶している。最初のうちは現実を直視しないようにしていたが、入部して割と早いうちに、このチームでベンチ入りすることは不可能なのではと悟った。高3の頃には140キロ以上を投げるピッチャーが6,7人いるくらいレベルが高かったから、この悟りは間違っていなかった。

 

日々の練習も本当に辛かった。三重高野球部での思い出は、野球をしている場面より真っ先に走っている場面が頭に浮かぶ。シニアでの野球が終わった頃、メジャーの選手の体型に憧れてトレーニングに励み体重を激増させたが、この体重ではランメニューについていけなかった。通称山ランと言われる名物練習があるのだが、これがあまりにもキツくて、頑張れば走り切れるとかの次元ではなく、何をどう足掻いても足が前に進まないのではと思えるくらいにキツかった。学校から松尾神社まで走ってから神社を10周し、そこから走って学校まで帰ってきたとき、沖田先生の話を聞きながら5秒に一度気絶しかけていたのを思い出す。

 

結局、高校に入っても、どうやって上手くなろうと考えるより、どうやって毎日の練習を乗り切るかばかりを考えていた。この時に、もっともっと上手くなろうと貪欲になっていたならと今も後悔している。実際、キツい練習を乗り越えた上で更に上達しようと自主練に励む選手も多くいた。

 

高一の頃、元々は慶應野球部に憧れを持っていたが、慶應ならもっと凄い選手がいっぱいいるんだろうし、むしろ東大に勉強で入って活躍する方が簡単なのではと思い東大を目指すようになった。

 

この頃から今の私に共通する悪い癖として、自分に逃げ道を作るというものがある。
幸い私はおベンキョーが得意なようなので、高校の頃には「東大を目指しているから、三重高でベンチ入りできなくても仕方がない」と心の中で言い訳を作っていたし、東大に入ってからも物理工学科(後輩達よ、間違っても入ることの無いように!)に進学して、「理系で忙しいから活躍できなくてもしょうがない」という言い訳を知らず知らずのうちに作っていた気がする。

 

ただ、高校時代に野球で全く上手くいかなかった訳ではなかった。3年春の頃にはピッチャーの怪我人が多く出たこともあり、自分にも機会が与えられた。地区大会に先発し完投し、その後の愛工大名電との練習試合でもそこそこの好投を見せることができた。ただ、この試合で肩を痛め、次の試合で中継ぎとして出て2者連続四球を与えたとき、ある意味僕の高校野球は幕を下ろした。周りに優秀なピッチャーが何人もいる中で、もう自分にチャンスがないことはわかった。結局そこから私にチャンスが巡ることはなく、引退試合を迎えた。

 

チームは甲子園に出場した。全高校球児の晴れ舞台で、苦楽を共にしたチームメイトが活躍したのは嬉しかったが、心の底から喜びきれない自分がいた。

 

チームは勝った。だけど、自分はその勝利に貢献できなかった。シニアと全く同じ結果になってしまった。

 

自分でも、勉強を言い訳にして野球にフルコミットしなかったことはわかっていた。野球が不完全燃焼だったから、引退後の勉強も身が入らず、結局浪人した。

 

浪人は辛かったが、東大野球部で活躍することを夢見てなんとか頑張った。
三重高校野球部から浪人をして大学受験をする人は珍しいのだが、どういうわけか自分の代には数人いた。その中には今慶應野球部でプレーしている寶田(慶應義塾大学/4年)と福井(怜侑/慶應義塾大学/4年)がいる。
共テ前にたまたま寶田(先日の東大戦で猛打賞の大活躍)とご飯に行くタイミングがあり、お好み焼きを食べながら六大学で頑張ろうな、という話をした。そのとき、『俺は東大だから試合に出れるだろうけど、寶田は慶應なんだからマジで頑張れよ』と思っていた。勘違いも甚だしい!

 

なんとか受験に成功し、東大野球部に入った。合格発表の次の日には東京に向かい東大球場の見学にも行ったので、迷わずに野球部に入ったのだと思う。

 

自分は強豪校出身なんだから、きっとベンチ入りもすぐに出来るだろうと、完全に舐めていた。新入生練習でキャッチボールをしていると、最初はまあ自分が一番球が速いだろうと思っていたが、江口(4年/投手/海城)がパッと見同じくらいの球速のボールを投げていた(今となっては下手すりゃ10キロも江口の方が速い)のを見て、おやおや、話が違うぞと思い始めた。その後、少しずつブルペンや練習試合で投げ始めたが、そこで浪人の一年で忘れていた事実を思い出した。ノーコンなのだ。なるほど、自分より速い球を投げ、自分より制球力のあるピッチャーが同期にいる。これはまずい。

 

まあそれでも、結局はなんとかなるだろうと考えていた。1秋のフレッシュにはベンチ入りして、早稲田戦の3点リードで満塁のピンチでマウンドに上がり三振を取って勝利に貢献できた。うん、やっぱり来年の春にはベンチ入りして神宮で投げてるやろ、そう考えていた。

 

この頃は完全に慢心していた。ただ1と1/3イニングを抑えただけなのに、どうしてそう自信満々になれるのか不思議だが、この頃は野球を舐めていた。
2春の合宿選考を兼ねたシートBTで、目も当てられない投球をした。おかしい。春のリーグ戦で投げているはずの自分が、合宿のメンバーにさえ入れない。
この頃に肘を怪我した。怪我している間も、もちろん練習した。ただ、特に何か変えたとかではなく、怪我が治ったら何だかんだ良くなってるだろうと漫然と過ごしていた。
2春のフレッシュになんとか間に合ったが、これといった活躍を出来なかった。
フレッシュの後すぐに湘南高校との練習試合があったが、ここで3回7四球1失点という私を象徴するかのような酷い投球内容を見せた。大久保監督からは「ブルペンキャッチャーでもして、キャッチャーの気持ちになってみろ」と至極真っ当なお灸を据えられ(今でも江口だけはこのことをイジってくる)、完全に自信を失ってしまった。元々のプライドが高かったものだから、認識と現実の間の落差があまりにも大きく、打ちひしがれてしまった。

 

この頃から、また野球から逃げるようになっていた。野球をしていても楽しくなれないし、どうせプロ野球選手になれるわけでもないんだから、何をそんな本気で練習することがあるのか、と冷笑気味に構えるようになっていた。

 

どうせ野球で結果が出せそうにないなら、勉強くらいは頑張るかと思って、少し大変そうな学科の物理工学科を選んだ。これが大きな間違いだった!ここは少し大変だとかのレベルではなくて、寿命と引き換えに勉強する学科なんだと入ってから気付いた。

 

次第に全体練習に出られなくなった。もちろん自主練はしていた。全体練習に出られなくても、自主練を頑張っていたら上手くなるんだと強がっていたが、やっぱり他の選手と一緒に練習する時間がないと、どうにも上手くならない。自分でもこの事実に薄々気付いてはいた。ただ、それならばもっと頑張ろうとはならず、このことを心の中で言い訳にしていた。

 

そんなこんなで3年生になり、大学野球の半分が終わっていた。特に大きくマインドセットが変わるなどといった事はなく、相変わらず漫然と練習を続けていた。なんとか春の合宿メンバーには入る事はでき、ようやくリーグ戦も目に入ってきた頃、忘れもしない、城西国際大学との試合があった。ここで四球の嵐で大炎上し、試合後に監督から「A戦で投げるレベルではない」との言葉をいただいた。自分はこの日の投球内容に絶望し、ここまで頑張ってきたのにまたBに落ちるのかと気を落としていた。周りの選手も気の毒そうに僕を見るくらいだったが、バスに乗る前に満面の笑顔で近付いてきた明石(4年/捕手/渋谷幕張)が、「お前、A戦のレベルじゃないよ」とあまりに鬼畜じみた言葉を投げかけてきた。以来明石は私のことをレベルと呼ぶようになりやがった。許せない!

 

せっかくベンチ入りが見えたのに、またBに落ちてしまった。ただ、ここで一念発起して絶対にリーグ戦に間に合わせてやるぞと猛練習し、なんとか数試合ベンチ入りすることができた。ようやくリーグ戦で投げれると思っていたが、毎試合毎試合、後一人ランナーが出たらマウンドに上げると言われたタイミングで前のピッチャーが急に抑え始めるせいで、結局一試合も投げることがないまま終わった。

 

まあベンチ入りすることは出来たし、このまま頑張り続ければ秋のリーグ戦で投げられると思っていた。少し肘が痛む気もしたが、ここが踏ん張りどころだと思い無理して投げていた。結果、痛みを庇う投げ方で上手く行くはずもなく、またしてもBに落ちた。

 

この怪我が治ることなく3年生のシーズンを終えてしまった。結局、3年生になってもリーグ戦で投げることはできなかった。

 

この頃も、シニア、高校野球の時と同じように、試合で活躍する選手を真っ直ぐな目で見られなかった。また自分がチームに貢献できていないのが辛かった。

 

気を紛らわすために勉強した。この頃は、毎日1限から5限まであり、課題も大量に出ていた。正直両立なんて出来っこなかった。でも正直、野球が上手くいかない理由を正当化できている気がして、安心していた。

 

先輩達が引退し、気付けば自分たちが最高学年になっていた。このままいけば、野球で全く結果を残さずに引退してしまうのではと感じ、急に怖くなった。中学、高校では、その時に結果を残せなくても次のステージがあった。今は違う。おそらく大学野球を最後に、自分が野球をプレーするのは最後だ。それなのに、いまだに本気でやらなかったから結果が出なかった、という言い訳を作っている。

 

何かを変えないと、と思った。練習内容も色々変えた。同期、後輩から練習方法を聞き出し、フォームで意識しているところも聞いた。

 

訳のわからぬ血迷いもした。俺は生活の中で野球を考えている時間が足りないんだと思い、プロスピのアプリを入れてとにかくゲームした。プロ野球選手の名前を覚え、バニッシュボールの有効な使い方は学んだが、自分の技術向上にはつながらなかった。

 

とにかく球数を多くしなければとも思い、ブルペンで投げ込んだ。春の長崎合宿でのシートBTのとき、マウンドに上がる前のブルペンから既に投げ込んでいた。投げすぎな気もしていたが、まあ今後の成長のためには今日投げすぎるくらいで丁度良いくらいに考えていた。この日のシートBTはすこぶる調子が悪かった。昼休みに一通り反省し、切り替えて午後の練習をしようと立ち上がったとき、右肘に激痛が走った。これまでに感じた事のない痛みだった。歩くときに腕を振る動作で激痛が走る。

 

一旦どれくらい投げられるか確認しようとキャッチボールしようとしたところ、10メートルも投げられない。ここまでの絶望は初めてだった。もう人生でボールを投げられないのかと思うと涙が出てきた。宿に帰ってから、何回も何回も「もう一生ボール投げられないのかなあ」と感傷に浸りながら佐伯(4年/投手/渋谷幕張)に話していた。こんな話の相手は絶対面倒臭かったと思う。佐伯、ごめん。

 

東京に帰り、診察を受けたら、いわゆるネズミと呼ばれるものが見つかった。取り除く手術をしたらまず間に合わないだろうとなり、このまま放置して投げるしかなかった。ただ、どう頑張ろうとも痛すぎて投げられる気がしない。半ば諦めかけながら、高木さんに相談にいった。そこで色々と自分の投げ方の問題点や練習メニューについて教えてもらい、とにかく高木さんの言うことだけを信じて練習していたら、急に投げられるようになった。

 
そこから今まで、去年の持永さん(R8卒)をロールモデルとして、4秋でのリーグ戦デビューを目標に日々練習に取り組んできた。夏の遠軽合宿のメンバー入りを目指したが、結局メンバーには選ばれず盛岡合宿に参加した。遠軽に行けなかったのは辛かったが、元気な後輩達と試合や練習に励んだのは楽しかった。後輩達からはずっと院試対策をしているおじさんとして見られていたと思う。

  
残念ながら、4秋のリーグ戦は開幕したが今に至るまでリーグ戦デビューを果たせていない。

 
振り返ってみれば、私は野球で上手くいかないたびに、何かしらの逃げ道を作ってきた。勉強があるから、忙しいから、怪我をしたから。本気でやって駄目だったと認めるのが怖くて、「本気でやらなかったから仕方がない」と思える余地を、どこかに残していたのだと思う。

  
でも、もう次のステージはない。
  
小学生の頃、いつかピッチャーとしての才能が開花するだろうと高を括っていた。あれから十年以上経ったが、どうやら随分と時間がかかっているらしい。
  
それでも、まだ僕は高を括っている。
  
このままで僕の野球人生が終わるわけにはいかない。最後くらいは何の言い訳も残さず、真っ直ぐに野球に向き合ったまま、必ず結果を残す。
  
1ヶ月後、僕の野球人生がどんな結末を迎えるのかは、まだ自分にも分からない。
 
だから、もう少しだけ足掻いてみようと思う。
  

 
ここまで、随分と冗長に自分の野球人生を振り返ってきた。こんな駄文を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。
 
最後に、これまでの野球人生でお世話になった方々へのお礼で締めくくりたい。

 

両親

ここまで野球を続けてこられたのは、間違いなく二人のおかげです。特にシニアの頃は、送迎など当時の自分が想像していたよりも遥かにサポートをしてくれたと思います。本当にありがとうございました。最後に神宮で投げている姿を見せられるように頑張ります。

 

平田さん(R7卒)、増田さん(R8卒)

これまで何度もご飯に誘ってくれましたが、その多くを練習と課題で断ってきました。ここには書けない形でケジメをつけるので、また誘っていただけると嬉しいです!

 

内田さん(R8卒)

内田さんには、野球部の後輩というより物工の後輩として沢山お世話になりました。院試対策をはじめ、何から何までありがとうございました。これからもきっとお世話になります。

 

学生コーチ

ここまで献身的に選手をサポートしてくれた皆を心から尊敬しています。
特に本岡(4年/学生コーチ/基町)には、本当に沢山自主練習を手伝ってもらいました。3年秋に1限の前や5限の後に受けてもらったブルペンは一生忘れません。
川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)には、2年の頃俺が四球出しまくって代えられたのに逆ギレしたことがありました。本当に申し訳ない。
土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)にも、まあまあお世話になりました。嘘です、沢山お世話になりました。4年になってもBチームにいる自分をイジってくれるのはお前だけです。でも、イジる時に周りにいる1年生の顔が引き攣ってるので勘弁してやってください。
来年は岩佐(3年/学生コーチ/浅野)が暴れることを楽しみにしています。

 

マネージャー

学生主体の東大野球部で、みんなが野球に集中できているのは他でもないマネージャーの皆さんの働きのおかげです。ありがとうございました。

 

アナリスト

東大野球部が勝つ試合には、必ずアナリストの貢献が大きくあると思います。これからも東大野球部の頭脳を担ってください。

 

大森(3年/投手/一宮)

俺が野球部を引退し、研究生活がスタートすれば、笑顔を忘れると思います。またルミネに行こう。
他にも書ききれないけど、後輩達はみんな応援しています。特に後輩投手には皆に活躍してほしい。マジで一緒に練習するのが楽しかったです。

 

山口班(コンプラ意識)の皆へ

一年間お世話になりました。俺がみんなに何かを教えるより、みんなに色々と教えてもらいました。まつしん(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)池田(2年/投手/江戸川学園取手)を初めとして、みんな能力のあるいいピッチャーだと思う。今後もお互いに高め合って、神宮で活躍してください。油断すると有水(3年/投手/鶴丸)がすぐに暴走機関車になるので、みんなで止めてやってください。

またご飯に行きましょう。もちろん奢るので、花村(4年/学生コーチ/開成)も連れてきます。

 

同期へ

本当に楽しく、実りある大学四年間をありがとう。みんなそれぞれが個性があり、それでいて互いに尊敬しリスペクトし合える最高の環境でした。グラウンドで切磋琢磨した日々も、部室でただ笑い合った時間も、本当にかけがえの無い思い出です。

特に同期投手陣は、それぞれが面白いキャラを持っており、本当に面白かった。一緒に濃密な時間を過ごさせてもらった。最近はあんまり同期投手会開けてないな。50歳とかになったらまた10人でよみうりランドで遊ぶか。

俺たちの野球人生の一つの締めくくりとして、最後に勝って終わろう。

 

東大野球部を心の底から愛しています。東大で野球をしたからこそ、自分がどれだけ野球を好きなのか、改めて気づくことができました。この素晴らしい環境を作り、支えてくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。

 

次回は小村君(4年/内野手/私立武蔵)です。僕を除けばチームで一番イケメンと言われている小村君です。きっと文章からも甘い匂いが飛び出してくることでしょう。その甘美な人生談に期待しましょう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次回は9/21(月)、小村旺輔内野手を予定しております。