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【僕たちが歩んだ4年間】④~石田将基~

4人目は、石田将基(投・法・早大本庄)です。

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こんにちは、4年の石田将基です。
せっかく引退投稿という4年間を振り返る機会を頂いたので、色んなことを書いたらものすごく長くなってしまいました。拙い文章ですが最後まで読んでいただけると嬉しいです。

自分は、高校を卒業した時点では大学の野球部に入部するという気持ちはなく、準硬式野球部に入ろうと考えていました。しかし、高校の同期である飯塚悠斗(4年・内・社会・早大本庄)齋藤成輝(4年・投・社会・早大本庄)の勧誘があり、締切日の前日に野球部への入部を決意しました。この時、野球部に入部するからには本気で練習してリーグ戦に出場しようと決意したことを覚えています。
入部してから最初に待ち構えていたのは、朝準備と1年生ランでした。朝6時にグラウンドに来て練習の準備を行い、練習開始から練習終了まで延々とランニングと体幹トレーニングを行う日々がしばらく続きました。自分はグラウンドまで1時間程度かけて通っていたので、朝の4時40分に起きるという生活が1年続き、基本的に睡眠不足でしんどかったのを覚えています。特に、新人練習後に鍵当番(グラウンドの片付け)を行った次の日の朝準備はしんどかったです。鍵当番をすると家に帰るのが23時半を過ぎ、そこから夜ご飯と風呂を済ませるとどんなに頑張っても寝る時間が24時を回ってしまい、睡眠時間を確保することが難しかったからです。また、朝準備ではレフトブルペンの整備を齋藤成輝と2人で担当しましたが、ミスを多発してよく怒られました。自分はボール磨き担当で、朝準備の時間内に10球綺麗にするのが主な仕事だったのですが、時間内に終えるのが厳しく、朝の電車の中や授業中にこっそり何球か磨いて、綺麗なボールのストックを定期的に作っていました。
2年になってからは雑用の仕事も減り時間的な余裕ができました。春のリーグ戦期間中には初めてAチームのシート打撃に登板しました。Bチームのシート打撃でも数回しか投げたことのない自分が、いきなりAチームのレギュラークラスの選手たちを相手に投げるということに対して非常に緊張しました。結果としてはそこそこの内容で、次の週にもう一度Aチームのシート打撃の登板機会を与えてもらいましたが、そこでは結果を残せず悔しい思いをしました。
また個人的にフレッシュトーナメントへの出場という目標を掲げて練習に臨んでいましたが、春の段階ではその目標は叶いませんでした。メンバー発表の直前に、当時の投手コーチの石原さん(石原壮大・R7卒)から「お前は東大戦のリリーフで行くからそのつもりで準備しとけ」と言われましたが、メンバー発表では自分の名前が呼ばれず困惑したのを覚えています。なぜベンチにも入らないのにそんなことを言われたのかが不思議でたまりませんでした。しかし、困惑以上に悔しい気持ちが強かったです。このメンバー漏れをきっかけに、今まで以上に考えて練習に取り組むようになったと思います。練習のおかげかサマーリーグ辺りから調子が良くなり、結果として秋のフレッシュトーナメントでは、試合メンバーに選出され登板することができました。しかし登板した立教戦では良い結果を残せず自分の実力不足を痛感しました。またフレッシュトーナメント直後のオータムリーグに参加する予定でしたが、直前にインフルエンザになってしまい参加することができませんでした。オータムが終了した後、自分の代わりに投げた選手含め複数の選手がAチームに昇格しており、自分の体調管理の甘さで大きなチャンスを逃したのだなと思いました。

そして3年生になってからは、リーグ戦出場を目標に掲げ練習に取り組むようになりました。しかし、新チームになってからすぐに肩を故障し怪我人リスト入りしてしまいました。当時の怪我人リストには同期の田和廉(4年・投・教育・早稲田実)大倉啓輔(4年・投・教育・早稲田実)がいたので、怪我人の期間中は3人で一緒に筋トレやリハビリを行いました。3人でオフの日に施設に行って野球を教えてもらったりもしました。しかし目標としていたリーグ戦出場を果たすことはできませんでした。
そして最終学年になり、昨年果たせなかったリーグ戦出場を達成するために今まで以上に練習するという気持ちで練習に臨みました。新チームになってから初めてAチームに昇格し、2月からの実戦に向け自主練習の量を増やしました。また、自分に合いそうな施設を調べてオフの日に大阪まで野球を教えてもらいに行ったこともありました。しかし、年明けに肉離れで脚を痛めたり、体調不良になったり、実戦直前に肘を痛めたり、自分の気持ちとは裏腹に、思うように練習できない時間も多くありました。そして実戦が始まり、2回目の登板で結果を残せずBチームに降格してしまいました。またこの時期から同期の多くが就活を始め、自分も流されるように就活を始めました。肘の痛みや、就活の忙しさを言い訳にして練習量が減りモチベーションも徐々に薄れていきました。結局秋のリーグ戦直前になってもモチベーションが上がることもなく、目標であるリーグ戦出場を完全に諦めてしまいました。目標を諦めて練習することを放棄してしまったことで自分の気持ちの弱さを痛感しました。
長くなりましたが、自分の4年間を文章にして振り返ってみました。まだまだ書き足りないこともあり、非常に濃い4年間を過ごしたと思います。最後にみんなへの感謝の言葉を綴ります。

115期のみんな
みんなと野球ができて本当に良かったです。このメンバーじゃなかったら3連覇なんてできなかったと思います。最後にもう一度優勝して4連覇でみんなと卒業したいです。最後まで戦力としては貢献できなかったけど、最後のリーグ戦の期間は補助としてチームに貢献するので最後まで一緒に頑張ろう!

投手陣のみんな
自分のこの野球部でのほとんどの思い出は、投手陣と過ごした時間だと思います。練習以外でもオフに遊ぶ時(麻雀)のメンバーは、福太郎(清宮福太郎・4年・外・社会・早稲田実)を除いて全員投手陣でした。こんな関わりにくい人間性の自分と一緒に過ごしてくれてありがとう!
もちろん麻雀をしていない投手陣にも感謝をしています。真央(山口真央・4年・投・社会・早大学院)裕平(伊藤裕平・4年・投・人間・水沢)は新チームになってから一緒にAチームに昇格しました。2人は練習熱心で自分で考えながら練習していたと思うけど、2人の姿に刺激されて自分も練習を頑張ろうと思えました。一緒に練習してくれて感謝しています。
そして、冨田(冨田大地・4年・学コ・スポ・日立一)にも、投手コーチとしてチームをまとめてくれて感謝しています。一緒に弁当係として神宮に弁当を運んでくれたことも感謝しています。2年の春に自分と投球スタイルが似ている冨田がフレッシュにベンチ入りしたことで、そこから頑張って練習するようになりました。個人的にライバル視してました。ありがとう。

通いの黒﨑、福太郎
投手陣以外で深く関わっていのはこの2人だと思います。黒﨑(黒﨑将太・4年・捕・文・國學院久我山)は自分が降りる駅まで一緒に電車に乗っていたので、帰りの時間に2人で結構喋ったと思います。バッテリーを組むことも多く、帰りに2人でその日の投球を振り返るのが結構好きでした。この振り返りの時間が自分の野球の成長にもつながったと思っています。ありがとう。
福太郎は自分に麻雀という趣味ができるきっかけとなった人です。福太郎に教えられて麻雀にハマり、投手陣に自分が布教しました。趣味が全くなかった自分にとって、大好きな趣味ができたのは結構大きなことだと思っています。また、野球部の中でオフの日にご飯を誘ってくれるのは福太郎くらいだと思います。福太郎がたまに誘ってくれるおかげで何にも予定のなかったオフが少しだけ豊かになることがたまにあります。ありがとう。

写真左から 齋藤成、黒﨑、清宮、石田

自分を野球部に誘ってくれた成輝と悠斗
今まで書いて来たことも、全部この部活に入ってなかったら経験できなかったことです。こんなに貴重な体験ができたのは成輝と悠斗が誘ってくれたからです。野球部に入るつもりはないと高校のみんなには言っていたのに、締切日直前に電話してきた2人には、正直何考えているんだと思いました。しかし、今では2人のお陰で貴重な経験ができたと思い感謝しています。ありがとう。