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僕たちが歩んだ4年間】㉘~山口力樹~

28人目は、山口力樹(内・スポ・早稲田佐賀)です。

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おはようございます!こんにちは!こんばんは!山口被りの真央(山口真央・4年・投・社会・早大学院)から、素晴らしい誉め言葉でバトンをもらいました。ニューヨーク生まれの帰国子女こと超ハイスペックな、早稲田大学野球部4年の山口力樹です。
真央の文を読んでいない方はぜひ最後の文だけ読んでみてくださいね!!真央の誉め言葉だけで1週間飯を食べずに生きていけそうです。強いて言うなら高身長も付け足してほしかったですね。1年生の頃から、HP上での身長を毎年1㎝ずつ盛っていたところ遂に177cmまで来ました。あと2~3年で大台の180cmに届きそうなので、密かに楽しみにしています。
早稲田大学野球部で過ごした4年間は本当にたまらん毎日だったので、それを素直に綴っていきたいと思います。絶対に最後まで読んでくださいね。

1年生の頃はやはり朝準備と補助がとにかく印象的でした。朝準備での自分の仕事は、は1番辛い役職だと自負しているホームアンツーカーでした。仕事内容はホームのグラウンドを平らにして固めるだけ。単純です。しかし厄介なのが天候でした。集合時間は基本朝6時だったものの、雨の日や寒い日は朝4時集合でした。今では考えられません。普段ニュースをほとんど見ない私が、毎晩次の日の天気コーナーだけは見てから寝るのが日課になっていました。1番印象的だったのは、冬の終わりごろに「明日は久々に温かさが戻るでしょう!」と可愛いアナウンサーが言っていたことを鵜吞みにして、朝ゆっくりとグラウンドに向かったところ、寒さでグラウンドがパリパリに凍っていました。同じ役職だった中島(中島稜太・4年・学コ・人間・桐朋)と大いに焦り、考え抜いた結果、凍った土を溶かすためにグラウンドにドライヤーをかけるという迷案で何とか切り抜けました。しかし、色々と朝準備で愚行を重ねた結果、ついた異名が「ホームアンツーカー史上最悪の世代」。これはこれでたまらんです。
補助で1番印象深いのはガッツポーズ事件です。1年生は基本1日中補助をするのですが、雨の日は練習時間も短くなり、練習内容的にもあまり補助をしなくていいので、みんな密かに好きな天気でした。その中で微妙な天気の際に「今日は室内で!」と声があった時に喜びがあふれガッツポーズをしたところ、それを当時の新人監督に見られひどく叱られました。ガッツポーズをして怒られた人を見たことあるでしょうか。僕はないです。貴重な経験ができました。この出来事がきっかけでガッツポーズ恐怖症に陥りました。

ここからは肝心な野球について少し真剣に話していこうと思います。
絶対に早慶戦で活躍すると意気込んで野球部に入部したものの、入部1ヶ月で肩が急に痛くなり始めました。気づけばとにかくどう練習を乗り切るかだけを考えており、好きだった野球をやりたくない時期が続きました。その時に先輩から「今は無理する時期じゃない、抜けたほうがいい」と諭され、練習を抜けました。しかし、私は強豪校出身でもなければ、有名な選手でもなかったので、1・2年生のうちにどれだけアピールできるかが大事だと思っており、ひたすら焦りました。その結果、肩が治っていないのにもかかわらず練習に復帰をして、すぐに再発し練習を外れるという地獄のサイクルを繰り返していました。復帰直後に同期の田村(田村康介・4年・内・商・早大学院)と一緒に2軍戦デビューを果たすもまたすぐに肩の限界を感じ、練習を抜けました。そんな中で田村が2軍戦で活躍しているのを間近にし、本当に悔しくて、野球をやり始めて13年目にして、初めて野球を辞めたくなりました。

そんな中、肩の状態がなかなか良くならずに2年生を迎えます。かなりお先真っ暗な状態でした。約1年ずっと肩の痛みに悩まされたのにもかかわらず、一向に手術する決断はできませんでした。理由はただただ怖かった。これだけです。自分の体にメスを入れることはもちろん、何よりも手術をした後に痛みが消えなかった時のことを考えたくありませんでした。もし治らなければ、目標だった早慶戦はもちろん、今までずっとやってきた野球ができなくなるのが本当に怖かったです。その時に田村から「絶対手術したほうがいい。そっちの方が絶対に後悔しないだろ」と言われ、手術をすることを決心したのを覚えています。田村君ありがとうね。そして、2年生の6月に手術をし、10月に復帰をしました。復帰直後はやはり肩が痛く、常に針や注射を打ちながら野球をしていました。けど、野球ができるようになって楽しかったですし、何より安心しました。このようにケガに振り回されて、フレッシュトーナメント、サマー、オータムという全部の行事に参加することができないままに1・2年が終わりました。正直これだけは後悔しています。行きたかったです。

3年になり2軍戦では常に出るようになり、毎試合ある程度活躍していたと思います。しかし、一向に1軍には上がれず、その間にチームは春秋連覇をしました。優勝の輪に入れない悔しさと、来年こそはやってやるという気持ちの2つしかありませんでした。

代替わりのタイミングで小澤(小澤周平・4年・内・スポ・健大高崎)がキャプテンになり、小澤の部屋で「今まで試合に出ていないお前らが出て、優勝を一緒にしたい」と熱く語ってくれたのを今でも覚えています。それがこの1年間、ずっと自分の中で頑張れた原動力だと思います。4年になりようやく1軍に上がることができ、ようやくこのチームの一員になれたと思いました。そんな中、ある方から「あいつは練習中にへらへらしすぎだ」といわれました。自分的にそんなつもりはなかったのですが、同期曰く常に顔がにやけているらしいです。こんな表情に育てた親を少し憎みましたが、顔は変えられないので、気合を見せるべく大学4年にして坊主にしました。そして毎日鏡に向かってバトルフェイスすることが日課になりました。その癖が抜けず、このブログの表紙もバトルフェイスであります。
そんな中、初めて浦添キャンプに参加しました。就活の期間とも重なり、日中は練習、夜は就活という過酷な毎日で常に寝不足だった気がします。4年間で1番きつかったかもしれません。しかも、キャンプ中の同部屋がみんな曲者という非常事態が発生します。沖縄では、毎朝鬼の飛び蹴りで起こしてくる石郷岡(石郷岡大成・4年・外・社会・早稲田実)、荷物を放置していると容赦なく踏んでくる椎名(椎名丈・4年・外・教育・早大学院)、至る所でズボンに手を突っ込みながら寝ている田村と同部屋で、自称部屋長の自分としては手を焼くメンツでした。
その後の関西遠征では福太郎(清宮福太郎・4年・外・社会・早稲田実)と同部屋だったのですが、ツインベッドなのにもかかわらず、ベッドをくっ付けてずっと寝ていました。「このラインからこっちに来るな」と彼から言ってきたのにいつも寝返りを打ち、気がつけばベッドに侵入されていました。朝はありとあらゆる方法で起こされました。彼も言わずもがな曲者です。手が焼けます。

辛くも充実していた春季キャンプが終わり、すぐにリーグ戦が始まりました。リーグ戦で1番記憶にあるのはやはり早慶戦ですね。同点の8回という緊迫した場面で出番が来て、走塁ミスをしてしまいました。この時、人生の終わりを感じ、退部届を出そうと思い、泣きそうになりながら走っていました。しかし、ボールが頭に当たり奇跡的にホームに生還することができました。この時初めて坊主頭にしたことを誇りに思い、今までの徳積み人生に感謝をしました。そこで咄嗟に、人生史上最大のガッツポーズが出てしまいました。この出来事のおかげで、1年生の頃のガッツポーズ恐怖症を脱することができました。連盟100周年という記念すべき年の早慶戦で決勝点を踏むことができ、今までの野球人生が報われた瞬間であったと思います。


秋のリーグ戦は目の前で明治大学に優勝を決められ、4連覇を果たせなかったものの、指導者や先輩、後輩に恵まれて本当に濃い4年間でした。そして何といっても同期である115期は本当にたまりません。野球、私生活全てにおいて楽しませてくれたし、色々とやらかし、どうしようもない自分を受け入れて仲良くしてくれた同期には正直本当に感謝しています。この4年間の大学野球人生は本当にたまらなく、最高でした!ありがとう!!

ここまで読んでくださりありがとうございます。最後に感謝の思いを綴ります。

〈主将・新人監督・主務>
周平へ
君がこのチームのキャプテンになったからこそ、俺は最後までついていけたし、活躍することができました。本当に感謝です。大体、俺が坊主にするときのトリガーは周平の「そろそろやるっしょ」です。君の言葉には力があります。
新チーム始動の時に周平の部屋で話したことも、秋のリーグ戦の立教戦後に俺の家に来て話したことも、何故かわからないけど周平の言葉はとてもやる気がでます。本当にありがとう。

創志(大西創志・4年・学コ・人間・城北)
多分チーム一迷惑を掛けました。本当にごめんなさい。こんなどうしようもない俺を最後まで見捨てずにいてくれただけでも感謝です。何をしても、向き合って話をしてくれ、どうするべきかまで考えてくれて、本当に負担をかけたと思います。君は最高の学生コーチです!!

北嶋(北嶋晴輝・4年・マネ・スポ・早稲田佐賀)
北嶋は高校からの唯一の同期で、約7年間本当にありがとう。性格は自分とは正反対で頼りがいあるし、ちゃんとしています。そんな北嶋を羨ましく思うこともあります。高校の頃からたくさん迷惑をかけたと思うけど、いつも味方でいてくれた気がします。本当に最高です。ありがとう。

〈構ってあげた同期〉
中澤(中澤凱・4年・投・社会・早大学院)
君とは1番長い時間を共にしたと思います。本当にすべての価値観が正反対でどうして仲良くなったのかがわからないけど、いつも楽しませてくれてありがとう!本当に一緒にいすぎて安心感半端ないです。どうせ引退しても1番遊ぶのは君でしょう。楽しませてください。

裕平(伊藤裕平・4年・投・人間・水沢)
君の球は本当に危ないです。実は打席で毎回顔付近にボールが来るとキレてました。一回、頭に投げてきてヘルメットを壊されたときのMRI代の清算がまだなので早く払ってください。君とは一緒の会社なのでこれからもたくさん関わると思います。個人的の尖っている祐平が好きなのでいつまでも尖っていてください。

田村へ
君のことは一番信頼しているし尊敬もしています。何を話すにも田村には最初に話します。同じ内部生で同じケガを負い、レギュラーでプレーをしている君は本当にすごいと思います。今、俺が野球をできているのもあの時に手術をすることを後押ししてくれた田村のおかげです。本当に本当にありがとう。

写真左から 飯塚悠斗(4年・内・社会・早大本庄)、中澤、田村、山口力

写真上段左から 石郷岡、齋藤成輝(4年・投・文構・早大本庄)石田将基(4年・投・法・早大本庄)、清宮、冨田大地(4年・学コ・スポ・日立一)、中澤、山口力、伊藤裕

〈家族〉
兄へ
計画性があり、ちゃんとしており、素晴らしいです。小さいころから何を聞いても模範解答のような答えが返ってきて、太刀打ちできません。これからも困ったことがあればたくさん聞くので今まで通り返してください。普段、俺のことに興味を示さない兄が、春の早慶戦を見に来てくれた時は素直にうれしかったです。ありがとう。これからもよろしく。

母へ
母からは人との関わり方を教わりました。誰にでも笑顔を見せ、分け隔てなく接する母を小さいころから見てきたおかげで、明るく楽しい人生を歩めていると思います。母に似たせいか同期からは変人扱いされることもあるけど、それはそれで幸せです。このままずっと明るい母でいてください!!

父へ
父は私の野球人生で一番大切な存在です。「やると決めたからには本気でやれ」これを常々言われましたね。だからこそ、小さいころから父は本気でサポートしてくれました。毎回怒られてばかりだけど、たまに褒められると本当にうれしいのでこれからはもっと褒めてください。大学のうちに脛をしゃぶりつくすので覚悟してください!!

文字数の関係であまり多くは書けませんでしたが、高校時代の恩師である古賀先生、怪我の面倒を見てくださった土橋トレーナー、そして115期の皆などには、書きたいことはたくさんあります。とりあえず一言だけ「本当にみんなたまらなく最高です!!」
最後の早慶戦、勝って終わり、最高の打ち上げにしましょう!

本当は自分らしくとんでもなくふざけた文にしたかったのですが、父がちゃんと書けとうるさいので、自分なりにちゃんと書きましたよ!どうですか!!ここまで長い文を読んでくださり本当にありがとうございます。

次はチーム1身長が低いのに、チーム1態度のでかい依田塁に回します。