【僕たちが歩んだ4年間】㉙~依田塁~
29人目は、依田塁(投・文・早大本庄)です。

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力樹からチームで1番態度がでかいと言われてしまいましたが、そんなことはありません。たぶんないはずです。依田塁です。
引退ブログも終盤に差しかかり、引退の二文字が頭の中をぐるぐると回っています。このブログでは4年間で体験した、ちょっと苦しいとても愉しい思い出を綴りたいと思います。
早稲田大学野球部の思い出を語るには、朝準備は外せません。私は堀越(堀越健太・4年・投・スポ・宇都宮)とペアを組みマウンド整備を担当していました。堀越は自由でいい奴です。朝6時からエンジン全開、一度口を開くと2時間喋り続けます。朝準備の憂鬱さは堀越の声を聞けばなんだかどうでもよくなります。ただ気がつくとホームアンツーカーの中島(中島稜太・4年・学コ・人間・桐朋)に話しかけに行くため、肝心のマウンド整備はほとんど私がやっていた気がします。そんな毎日のなかで、裕平(伊藤裕平・4年・投・人間・水沢)に八当たりしてしまったこともあります。ごめん。裕平とマウンド上で大喧嘩をしたことも、今となっては懐かしいあの頃となってしまいました。
それからもう1つ、リーグ戦期間の電当(電話当番)です。3代目TOKIO北嶋(北嶋晴輝・4年・マネ・スポ・早稲田佐賀)を筆頭に、田和(田和廉・4年・投・教育・早稲田実)、大倉(大倉啓輔・4年・投・教育・早稲田実)、黒嶋(黒嶋風希・4年・内・教育・佐賀西)、成瀬(成瀬かおり・4年・マネ・スポ・千種)とは長い時間を過ごしました。私の主な仕事は「神宮ガンダ」です。この仕事を簡単に説明すると、リーグ戦メンバーの忘れ物や急遽必要となった道具を最速で安部寮から神宮へ届けるという仕事です。リーグ戦メンバーのバス出発を安部寮から見送り、待機していると突然連絡が入ります。届けにいく途中、歩くことは許されません。というのは嘘ですが、当時はとにかく早く神宮へ到着することにプライドをもっており、スムーズに乗り換えられる号車、駅から神宮までの最短ルートを日々模索していたのを覚えています。「お気に入りのリストバンドを忘れたから届けて欲しい」と言われた時は、心の中でそのくらい我慢できないものかと思いました。それでも、私が届けたリストバンドをつけてヒットを打ってくれた先輩を観た時、なんだか誇らしかったです。

肝心な野球はというとテンポよく四球を出すピッチャーで、紅白戦で投げるたびに四球で降板していました。2年春、当時の投手コーチ石原さん(石原壮大・R7卒)の秘蔵メモに「依田 1ヶ月実戦禁止」と大きく書かれていたのを見つけました。それからはブルペンはおろか、キャッチボールの相手もレフトフェンスになり、石原さんから「1球種でいい、必ずストライクが取れる球を見つけろ」と言われて壁当てが始まりました。この時期が野球人生のなかで1番辛い時期だったと思います。周りの投手、特に同期と開いていく実力差に焦り、眠れない夜もありました。
いつものように壁当てをしていると、齋藤コーチから「力みすぎている。カーブのような球を練習してみるのもいいだろう」と助言をしていただきました。この言葉が私の投手人生を変えたといっても過言ではありません。ストレートは全くストライクが取れませんでしたが、カーブは違いました。肩の力が抜け、不思議とストライクが入りました。そこからはカーブを自分のものにするため、カーブだけを投げ続けました。2年夏、ようやく実戦復帰が認められ、カーブを投げると、100キロに満たないボールで面白いようにフライアウトを取ることができました。石原さんにも認められ、徐々に実戦の機会が増えていき、秋フレッシュでは立教戦一打サヨナラの場面で登板することになります。結果は山形選手にセンターオーバーを打たれての敗戦。自信のあるカーブを打たれた時の悔しさは今でも忘れません。
石原さん、あの時は期待に応えられず申し訳ありませんでした。石原さんだけがチームで1番下手だった私を最後まで信じてくれたこと。本当に嬉しかったです。ありがとうございます。

3年春にはAチームに上がり、憧れていた原さん(原功征・R5卒)と同じ背番号13となりました。浦添キャンプにも参加させていただきましたが、思うような結果が出せず、帰京後すぐにBチームへ降格が告げられました。それからは、何をやっても上手くいかない日々が続きました。次第に野球への熱が冷めていき、再びAチームへ上がることはなく16年の野球人生は終わろうとしています。あの時もっと練習していれば、みんなみたいに体が大きければ、言い訳ばかりが頭をよぎります。この4年間は自分に打ち勝つことがいかに困難であるかを学んだように思います。
それでも野球部を辞めずに続けてこれたのは115期のみんながいたからです。特に東京ステイ(学生寮)のみんなは身体的にも精神的にも辛い期間を共にしました。毎日が修学旅行で、いつも誰かの部屋に集まっていたような気がします。ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、寝るのも、先輩に怒られるときもずっと一緒でした。東京ステイにいたあの時が人生で1番笑っていたと思います。
115期のみんなへ
115期は本当によく怒られた代だと思います。補助ミス、朝準備ミス、毎日のように新人グルに「申し訳ございません。」の文字が並んでいました。数えきれないミスをして、数えきれない本数のPPを走って、投げ込んで、ノックを受けて、バットを振って、泣いて、笑って。当たり前の日常が終わってしまうと思うと寂しくなる時もあります。学年グルのアルバムはこれからずっと宝物になりそうです。
4年間本当にありがとう。


写真左から 田村康介(4年・内・商・早大学院)、依田、中澤凱(4年・投・社会・早大学院)
チーム本庄へ
115期の最大勢力、本庄から6人野球部に入るというのは珍しいと思います。
悠斗(飯塚悠斗・4年・内・社会)とは東京ステイにいる時、毎日のように田無のカラオケに行ったのを覚えています。それから毎晩の大富豪。リンピャンとアンチョンの戦い。通算成績はいくつだっけ。飯塚の笑顔が今でも大好きです。
周良(飯島周良・4年・学トレ・教育)は1番、チーム想いのかっこいい奴です。私は野球で結果が出せず、その後もチームに貢献できませんでしたが、学生トレーナーとなってチームを支えた周良を尊敬します。
ここ最近、困ったら一颯(畑﨑一颯・4年・学コ・商)の部屋のピンポンを押すがマイブームです。夜遅くにピンポンしてごめん。そんな当たり前ももう少し、泣けます。必ずや成功させよう。練習常善。
成輝(齋藤成輝・4年・投・文構)とは最近よく美味しい店を探しにいきます。この前は1時間も遅刻してごめん。寝坊です。高校時代から成輝のコントロールの良さに憧れ嫉妬してきました。俺もあんなふうに投げたい、そう思いながら勝手にライバル視していました。今なら心の底から言えると思います。「ナイスピッチ。」
石田(石田将基・4年・投・法)はなんでか石田です。他の本庄のメンバーは下の名前なのですが、石田だけは石田です。かといって仲が悪いわけではありません。私の思い込みかもしれませんが。石田は常に気怠そうに振る舞っていますが、チーム本庄で1番仲間思いで野球が好きな奴だと思います。あそこまで高校時代の試合の詳細を覚えているのは石田だけです。それから、私だったらオフの日に野球の練習で大阪へは行けません。
個性派揃いのチーム本庄。
好敵手悠斗、チルチル周良、練習常善一颯、晩年投球スタイル成輝、キリッと石田。
みんなが大好きです。また本庄飲み行こう!
父ちゃんへ
早稲田大学野球部で最高の仲間と出会えたのは、父ちゃんが野球を教えてくれたからです。本当にありがとう。
小さい頃は50メートル先にいる父ちゃんまでボールを届かせるのがやっとだったけれど、今ではすっかり立場が反対になりました。いつも優しく見守ってくれている父ちゃんが大好きです。
これからもずっと「すみれが丘グラウンド」で一緒にキャッチボールをしよう。
母ちゃんへ
母ちゃんには今までたくさん迷惑をかけたと思います。野球の調子が上がらず、その鬱憤をぶつけてしまったこともあります。それでも毎朝机の上にはお弁当が置いてありました。お弁当を食べるとき、ご飯は冷めていても温かい愛情を感じていました。
サマーリーグ、オータムリーグでは、新潟や静岡まで駆けつけてくれる母ちゃんの応援は勇気をくれます。神宮で活躍する姿を見せることができなかったことが唯一の心残りです。
これからも2人にはたくさん迷惑をかけると思います。少しずつ、時間はかかると思いますが親孝行させください。
父ちゃんと母ちゃんの子どもでよかったです。野球を続けさせてくれてありがとう。
「塁」という名前をありがとう。
おかげで最高の経験をすることができました。
長々と書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
次は梶田に並んで115期通算遅刻回数最多タイ、最高の投手コーチ冨田に回します。
主将 


