【僕たちが歩んだ4年間】㉕~堀越健太~
25人目は、堀越健太(投・スポ・宇都宮)です。

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畑﨑からバトンをもらいました、早稲田大学野球部4年の堀越健太です。
栃木県立宇都宮高校から一般入試で早稲田大学に進学し、憧れの早稲田大学野球部に入部しました。フレッシュトーナメント登板、怪我、イップス、壁当て、最後の最後まで「投げる」ことに、すべてを懸けた4年間でした。早稲田大学野球部で過ごした日々を通して、多くの経験や成長を重ねてきました。そのすべてを、ありのままに綴らせていただきます。
入部初日は、夕方から安部寮でのミーティングでした。寮への道中で松江(松江一輝・4年・内・人間・桐光学園)と会い、お互いを先輩だと思い、深々と挨拶し合いました。ミーティングでは、「野球を楽しみたいなら不要」「普通の学生の生活は出来ない」と厳しい言葉が続き不安でしたが、松江と励まし合い頑張ろうと思いました。
2日目からは厳しい練習が始まり、朝準備や整備、Aチームの補助などに追われる日々でした。そんな中、オフの日に吉納さん(吉納翼・R7卒)が自主練やドライブに誘ってくださり、少しずつ部に慣れていきました。
夏には、紅白戦や2軍戦で登板機会が増え、フレッシュトーナメントで神宮での登板もできました。同点の9回表に登板し、10球で三振を3つ取り、喜びがあふれて吠えました。マウンドに上がり、緊張がピークに達していた投球練習でストライクが入らず焦っていると、キャッチャーの吉田(吉田瑞樹・4年・スポ・浦和学院)が大きな声とジェスチャーで緊張をほぐしてくれて、最高のピッチングが出来ました。11月には、静岡で行われたオータムフレッシュで早慶戦に登板する事が出来ました。

2年生になる頃には、椎名(椎名丈・4年・外・教育・早大学院)と夕飯後にウエイトトレーニングをすることが日課になっていました。日をまたぐことも少なくなかったです。

写真左から 堀越、椎名
野球は、気持ちだけ空回りして伸び悩み、春のフレッシュトーナメントはベンチに入るも登板できず、直後に肉離れをしてプレーも出来なくなりました。初夏、リハビリを終えて久々にマウンドに上がりました。しかし、キャッチャーの黒﨑(黒﨑将太・4年・文・國學院久我山)とPKをしているように、ボールはバックネットに突き刺さっていきました。いわゆるイップスになってしまいました。次の日からは、キャッチボールさえ出来なくなり、前に投げようと思ったボールが真横に飛んでいくことにも慣れてしまいました。
イップスにもめげずに練習を続け、秋には再び登板のチャンスをもらいました。しかし、マウンドに立った途端にコントロールを失い、練習を止めてマウンドに来たコーチに「ここはへたくその実験場ではない」と叱責されました。キャッチボールもまともにできない日々の苦しさが蘇り、「もう今日で野球をやめよう」と思いながら、涙をこらえてマウンドを降りました。そのままベンチに座り込み、「今日で終わりか」と今までの思い出が込み上げてきた時、小宮山監督から「ボールを1球持ってレフトの方へ来なさい」と声をかけていただきました。レフトフェンスで壁当てをしながら、コントロールについての指導と励ましを受け、一瞬でも楽な方に逃げようとした自分を悔やみました。
その日から、弱い自分を吹き飛ばすように、ひたすら練習しました。19時過ぎに練習が終わり、その後1時間でも2時間でも冨田(冨田大地・4年・学コ・スポ・日立一)がトレーニングに付き合ってくれました。そして、あの日のレフトフェンスの壁には、冨田が修繕テープで的を作ってくれました。この文を書いている今日も、壁を突き破ろうと時間を忘れてボールを投げ続けています。
3年生の春には、冨田との自主練の成果が出始めて、また2軍戦やBチームの紅白戦に何回か登板出来ました。しかし、1年を通して振り返ると、良くなったと思うと逆戻り。一歩進んでは一歩下がる、そんな1年でした。
4年生になっても、野球は相変わらず良くなりそうでまた悪くなる。そんな中、進路を決めなくてはいけない時期になりました。私は、会社を経営していく予定でしたが、野球も続けたいという中途半端な気持ちでした。監督室へ相談に行くと、長い時間をかけて話を聞いてくださいました。そして、監督が4年間私たちのことを1から100まで見てくださっていたことを知り胸が熱くなりました。どんな時も見守ってくれていたことを思うと、感謝が込み上げてきました。
「いつかは野球を辞める日が来る。入部してきてくれた君たちに諦めさせるのも辛いことだが、俺の仕事だ」という監督のお言葉で、野球は大学でやり切って、野球をしてきた経験を胸に、引退後も上を向いて頑張っていこうと決意が出来ました。そして監督は、東大戦のバッティング練習の時、同じ宇都宮高校出身の中山さん(中山太陽・東京大学4年)との神宮でのユニフォーム姿の2ショットを撮ってくださるという、とても粋な計らいまでしてくださいました。

野球は、思い描いた結果とは程遠いものになりましたが、人として、115期のみんなのおかげで、入学時には想像もできなかったほど成長させてもらえました。
小澤(小澤周平・4年・内・スポ・健大高崎)へ
焼肉や寿司、サウナ、釣りまで色んな所へ連れて行ってくれてありがとう。何年生になっても、俺がキャッチボールすら出来ない状況の時でも、「いつ投げるん?(笑)」と声を掛けてくれて勇気をもらっていました。これからももっといろんなところへ行こう!小澤主将最高!
煌稀(髙橋煌稀・2年・投・スポ・仙台育英)へ
ピッチングとか体の使い方とか色々教えてくれてありがとう。ガンダム(表紙の器具がそう呼ばれていた)も引き継いでくれて嬉しいです。いつも野球に真っすぐな姿勢に元気もらっています。これからも応援しています。
藤原さん(藤原尚哉・R6卒)・ユエンさん(ユエン賢・R6卒)・鹿田さん(鹿田泰生・R7卒)・宇野さん(宇野竜一朗・R7卒)へ
色んな所へ行ったり、食べたり飲んだりしながら、いつもポジティブにいろんな話を聞いてくれて、ありがとうございました。先輩方のおかげで、いつも心が温かかったです。最後まで頑張ります。これからも色々とお話しをしてくれると嬉しいです。
中山太陽さんへ
高校時代から、野球やそれ以外のことも時に厳しく指導をしてくれてありがとうございました。大学野球で同学年になり、対戦したかったですが最後まで太陽さんの活躍を見るだけになってしまい、悔しかったです。本当にありがとうございました。
兄へ
小学生の時、兄のチームの人数が足りなかったことがきっかけで始めた野球ですが、気づけば大学4年生になっても続けています。あの時、誘ってくれて本当にありがとう。小さい頃は、兄や兄の友達にくっついて遊ぶことが多くて、1人だけ年下の僕はどんな遊びでも基本負け続けでした。機嫌が悪くなる僕に、わざと負けてくれていたこと、実は気づいていました。これからも、兄弟仲良く、ずっとよろしく!
父へ
東京で仕事をしながら、休日は栃木に帰ってきて、試合や練習に来てくれていたこと。当時は「なんで毎日家にいないのだろう」と不満に思うこともありましたが、今はそれがどれだけ大変で、ありがたいことだったか分かります。庭にブルペンを作ってくれたり、バッティングゲージを作ってくれたり、野球経験がないのに球審までしてくれたこと、本当に嬉しかったです。特に、球審の時に僕がピッチャーだと明らかにストライクゾーンが広かったのも、今ではいい思い出です。僕が唯一神宮で登板したフレッシュトーナメントの試合の日に、ちょうど母と見に来てくれてありがとうございました。これからも、変わらずよろしくお願いします。
母へ
毎日お弁当を作ってくれたり、栄養の本を読んで勉強してくれたり、いつも支えてくれてありがとう。野球もソフトボールも経験がない中で、防具をつけてピッチングを受けてくれたこと、今でも忘れられません。怪我や病気で心配をかけることも多かったけれど、大学まで野球を続けられたのは、間違いなく母の支えがあったからです。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

とても長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
次は、「小さくても世界は変えられる」を早稲田大学野球部で体現した男、森田にバトンを渡します。