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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第8週 2025年5月29日掲載

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神宮の杜で会おう

今から50年以上前の話になります。昭和47年(1972年)は慶應が早稲田に勝ち3連覇を成し遂げた年です。私はその年の春の早慶戦をご両親が慶應出身の小学校の級友宅でTV観戦しました。満員のスタンド、華々しい応援合戦、早慶戦ってすごいなあ、慶應はいいなと思った瞬間でした。
当時の六大学野球は、NHKラジオ第一放送で試合中継があり、一般紙の夕刊には試合途中経過が、好カードはNHKだけでなく民放でも中継されることもしばしば。NHKニュースで、「今日から早慶戦の徹夜が始まりました」と伝えられるなど、国民の関心も高い時代でした。
ちょうどそのころ、文京区に文京リトルリーグが誕生しました。野球少年だった私は喜んで入団したのは言うまでもありません。球団の創設者は、歯科医の田中久雄さん。球団創設は、医院の前の道路でキャッチボールをしている小学生を見て、土のグランドの上で思いっきり野球をさせてあげたいとの思いからの発案でした。そして、明るく健康な小学生になってほしいとの願いを込めてチーム名をリトル・インディアンズと名づけました。

ここから、私と東京六大学野球とのかかわりが始まります。田中先生の思いに応えてくださったのが、当時東大野球部監督だった岡村甫さん。その後数十年、歴代の東大監督のご厚意で、文京リトルのホームグランドは東大球場になります。そして、文京リトル総監督に就任されたのは法政大学野球部OBの高尾憲治さん。高尾さんの同級生には山中正竹さん、江本孟紀さんがいらっしゃいます。高尾さんは、本格的に野球を始めた私達に野球の基礎を教えてくださった恩人で、ご自身のお話も含めて東京六大学野球の話もいっぱいしてくれました(今でも当時のお話をたくさんしてくださいます)。冒頭の言葉、「神宮の杜で会おう。」は、その高尾さんが文京リトルの選手たちに送った合言葉です。その言葉を聞き、私は東京六大学でプレーする。慶應義塾で野球をするという気持ちが固まりました。そして、私は一足早く、慶應義塾高等学校に入学することになります。

同じ思いだったのでしょう。山田智康君(1985年法政大学卒)、江端徳人君(私と同じく慶應義塾1986年卒)、山中亨君(1988年立教大学卒)らが続き、当時全く想像できなかった「神宮の杜で会おう」という合言葉が現実のものとなったのです。また、野球部には入らなかったけど、明治大学に進んだ現在東京都市大付属高校の教頭の野田宏幸君(1985年卒)は、長男の宏太朗君を立教大学野球部に、また、昨年まで同校の野球部監督を務め、教え子を東京六大学野球部全校に送りだすなど、東京六大学野球の魅力を伝え続けてくれています。きっと、自分自身の思いも込められているに違いありません。
さて、私は同期堀井哲也監督との縁もあって2021年から母校慶應義塾大学野球部のコーチに、今季からは助監督に就任して神宮球場に戻ってきました。助監督就任を高尾さんに報告すると、ことのほか喜んでくださり、少しは恩返しができたようです。

東京六大学野球が作ってくださった縁、今思えば、こうした人達との出会いがなければ、私の人生は全く違うものになっていたでしょう。卒業してからも、仕事で、観戦に行った神宮球場のスタンドで、いろいろな方のお世話になりました。中でも、東大の野村雅道さん(1979年卒)は、金融業界の大先輩で、20年以上前に偶然再会し、以来、北倉君は野球つながり、神宮つながりだからと言っていただき大変かわいがってくださいました。恩人の一人です。慶應義塾、元塾長、小泉信三先生のスポーツの与える3つの宝ということばの一つに「友」、生涯の友を得る。というのがあります。「友」を、「野球つながり」に置き換えれば、東京六大学野球、神宮球場はそうした素敵な関係を実現させてくれるところのようです。

今年、東京六大学野球は100周年という記念の年を迎えました。次の100年もまた東京六大学野球が、学生野球の聖地神宮球場が、これまでもそうであったように、私にとってそうであったように、少年、少女のあこがれであるとともに、高校生の夢の舞台として、また、卒業生をはじめ関係者の皆様、神宮を愛する人たちがいつでも帰ってこれる素敵な場所であり続けて欲しいと思います。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第7週 2025年5月21日掲載

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東京六大学野球発祥の地「記念碑」建立

2025年東京六大学野球は1925年9月20日に明大対立大1回戦が開催されてから100年周年を迎えました。100周年記念行事のスタートとして4月12日(土)の春季リーグ戦開幕日の当日に「東京六大学野球発祥の地 記念碑」の除幕式を開催いたしました。来賓の明治神宮外苑石井苑長ほか明治神宮外苑、野球場関係者、各大学の野球部長、先輩理事、監事、監督、主将、マネージャーが参加し、加藤理事長の挨拶、六校の主将が記念碑の曳綱を引いて除幕いたしました。記念碑は神宮球場の8番入り口前に建立され、高さ1m20㎝、幅1m、重さは5㌧、ボールの部分は白御影石、台座が黒御影石、碑文の部分はブロンズ鋳造の立派なものです。是非神宮球場にお越しの際は、記念碑をご覧になっていただければと思います。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第6週 2025年5月14日掲載

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ブルペンからの風景

私は平成5年に入学しました。長野県長野高校を卒業し、2浪の末に早稲田大学野球部に入部しました。当時の私は早稲田大学野球部の歴史や東京六大学野球連盟の歴史を正直なところ詳しく知りませんでした。地方出身の私にとって大学野球とは高校の先輩で大学でも野球を続けた人からの話と、唯一テレビで見ることの出来た早慶戦だけでした。私はその早慶戦をテレビで見たことがきっかけで、自分もこの舞台でプレーをしたいと思い、浪人生活を経て入部した訳です。入学後、諸先輩方より早稲田の歴史、連盟の歴史を聞くにつれ、その重みの中に身を置く事を光栄に思うと共に身が引き締まる思いを感じたものです。

私のポジションはピッチャーだったのですが、幸いにも1年生の時から度々ベンチに入れてもらう機会を得ることができました。しかし、ベンチには入るものの試合で投げることは2年生の秋までありませんでした。必然的に神宮のブルペンに居る時間が長くありました。そのブルペンからの景色でとても印象に残っている話をひとつ。それは学生席の応援風景です。ご存知の通りブルペンのすぐ横は学生席です。応援部リーダーによる「学生注目!」から始まるウィットに富んだ選手を鼓舞するかけ声、それに呼応する学生。得点が入った瞬間の間髪を容れずに始まる「紺碧の空」。早慶戦に勝った時にのみ歌われる「早稲田の栄光」等々。他の五大学も同様ですが、六大学は非常に伝統的で特長的な応援が繰り広げられますが、ブルペンに長く居た私はその応援を間近で見ることができた訳です。その中でも最も印象に残っているのは、秋の早慶戦での応援部リーダー4年生全員によるコンバットマーチです。なんとそのリーダー達は涙を流しながら応援していたのです。もちろんその4年生のリーダーにとって神宮での応援は最後になると言うこともあったのでしょう。しかし、涙を流してまで人の為に応援するその姿に私は目頭が熱くなりました。そして沢山の人から熱く応援してもらえる野球部、連盟の環境を、非常に有り難く幸せに感じると共に、自分は本当にこれだけの人から応援される事に見合うだけの努力をしているのか?もっと頑張れるのではないか?と奮い立たせてもらいました。

来年は早稲田大学野球部創部125年と言う節目の年です。「125」とは早稲田にとって重要な数字です。創立者大隈重信が唱えた人生125年説による数字であり、2007年には大学創立125年の記念式典などが行われました。また、大隈講堂の時計塔はその数字にあやかり125尺の高さです。

今年が連盟100周年、来年が創部125年と記念の年が続きます。
後輩の皆さんにはどうか沢山の人から応援してもらい、早稲田らしい野球で記念の年に花を添えて頂きたいと切に願うばかりです。
そして私達と同様、卒業後に早稲田の良さ、六大学野球の偉大さを更に感じてください。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第5週 2025年5月7日掲載

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「神宮球場」 “回想”
「東京六大学野球連盟結成100周年」誠におめでとうございます。
私は1970(昭和45)年入学、1970~1973年の春秋8シーズンを神宮球場でプレーし、2004~2009の6年間は監督を努めさせて頂き入学時から卒業迄に多くの事を学び経験し、卒業後の社会人・企業人の根幹となる人生の基礎を築いた空間と時間でした。

1970年春季新人戦(フレッシュリーグ)で初めて神宮球場の土を踏み無我夢中でプレーした記憶が鮮明に残っています。2年生の春季リーグ戦から二塁手として出場しましたがチームに貢献出来るほどの選手ではありませんでした。
立教グランドでは故篠原一豊監督のもと「六大学で一番弱いチームは六大一の練習をするんだ」という意識のもとで12月合宿中は毎日グランド30周、8月には100メートルダッシュ100本を連日走り込み、精神と肉体を鍛錬し、技術的には「逆方向と進塁打を打てる打者になれ」でした。

1972(昭和47)年7月8日~18日の第一回日米大学野球選手権大会に選出され、神宮球場を皮切りに、神宮1・2・5・6・7戦・第3戦は岡山県営球場・第4戦は中日球場で開催。全日本選抜は山口高志投手(関西大→松下電器(現パナソニック)→阪急D1位)の力投で5勝2敗、初の栄冠を手にしました。
この初戦開会式セレモニーは、当時の明仁皇太子ご夫妻(現上皇様、上皇后様)をお迎えし、35,000人の観衆の中、国内スポーツ競技では初めて皇太子殿下が来賓席からバニスター・萩野両主将に試合球を渡す始球式で開幕。第一戦の米国トップバッターは後に読売巨人軍の最強助っ人ウォーレン・クロマティー選手でした。

日本チームには六大学連盟から石井藤吉郎総監督(早大監督)大戸コーチ(慶大監督)他主務・選手として慶應4名、法政3名、早稲田2名、立教2名、明治1名の合計14名が出場し活躍。大変残念なことは大会第2戦で頭部に送球が当たり東門明選手が他界されたことでした。
※2025年は7/8~13に札幌・新潟・神宮で開催予定です。

当時の立教大学選手には自分の名前が初めてスコアボードに出たのを見て涙することもありました。メールもLINEも無い時代です、名前と出身校が新聞・ラジオで報道させると、両親・知人・友人に「自分が元気で頑張っていることを知ってくれる」と精進した選手もいました。神宮球場のスコアボードには夢や希望を感じていました。

1974(昭和49)年に卒業、松下電器に入社と同時に社会人野球選手としてスタートし、8年間仕事・野球を両立、後に20年間社業を勤め50歳を超えて母校監督のお話を頂き、再び神宮球場に戻れる喜びと不安が交差し、52歳の12月から指揮を執り、春季キャンプ・オープン戦を経て、六大学社会人対抗戦で20年ぶりに神宮球場を訪れた際、故長船騏郎事務局長が「おっ、坂口お帰り!」と笑顔で迎えて頂いた時が今でも忘れられません。とても嬉しい瞬間でした。
社会人になり、神宮球場で学んだ「思いやり・諦めない・誠意」、野球から学んだ「準備・努力・根気」を常に心掛けてきました。

日本野球界を温かく見守りリード頂いた故長船騏郎様、厳しくも愛情豊かに育てて頂いた故篠原一豊監督様、いつも優しい戸頃啓前神宮球場長様、本当にお世話になりました。
現在新球場建設等、変革の時期で大変ご苦労されている内藤雅之事務局長様、永渕義規球場長様、今後とも日本野球界を宜しくお願い申し上げます。
最後になりますが、100年という輝かしい歴史と伝統のある東京六大学野球連盟において10年間にわたり神宮球場でプレー・指揮させて頂いたことに重ねて感謝致します。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第4週 2025年4月30日掲載

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ご縁あって、連盟結成100周年を副部長として迎え、春季リーグ4月20日の東大―明大第2回戦で早速ベンチ入りする機会に恵まれました。神宮のグラウンドに立つのは、1995年以来30年ぶりです。フカフカとした人工芝の感触、グラウンドから見上げるスタンド、両校応援部のエール──それらは当時の記憶とぴたりと重なりました。

私が在籍していた頃は、平野裕一先生が二度目の監督に就き、一つ上の代には濤岡賢さん、片山英治さん、北村英也さん、石田和之さんら頼もしい先輩方が、同期には通算7勝を挙げた高橋崇展投手や、主将として首位打者にも輝いた間宮敦君らが揃い、どの大学とも互角に戦えるという気概に溢れていました。私は2年春から一塁ランナーコーチ兼代走要員としてベンチ入りし、最終学年には二塁手として出場する機会に恵まれました。対戦相手の強い圧を感じつつも、数多くの接戦を演じたことが思い出されます。また、1995年には春季リーグを制した法政大学が全日本大学野球選手権大会を、秋季リーグを制した明治大学が明治神宮野球大会を制し、連盟結成70周年に華を添えたことも記憶に残る出来事です。

30年ぶりにベンチに入り、いくつかの変化を感じました。選手たちは体格が増し、スピード・パワーも向上しています。また、マネージャー、アナリスト、学生コーチといった学生スタッフの層が厚くなり、存在感が増しています。以前は少数のマネージャーに頼っていましたが、今は組織化された学生スタッフがチーム、リーグを支えています。また、試合前後に選手・スタッフ全員がスタンドに向かって挨拶をする光景も新鮮で、六大学ファンを含めた球場全体に一体感が生まれていると感じます。

あらためて、グラウンドで繰り広げられる真剣勝負の迫力に心を引き込まれ、応援部の演奏とエールには胸を熱くしました。こうした若者たちのエネルギーのぶつかり合いこそが、東京六大学野球の魅力だと感じます。今後も、若者たちが情熱を注ぎ、応援する人々に勇気を与える存在であり続けてほしいと願います。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第3週 2025年4月23日掲載

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春は必ず来るけれど、今年の春はちょっと違う。東京六大学野球連盟創設から100周年という節目の春だ。早大・小宮山悟監督が「ひと口に100年というけれど、すごいことだよね」の言葉通り、先人たちが1年、また1年と歴史を積み重ねた結果なのだ。
詳しい歴史は省くが、高校野球開催のため1924年(大正13)に甲子園球場が完成した。六大学OBが中心となり「東京にも学生野球の球場を」と1年遅れで神宮球場が作られた。明治神宮の多大な協力とOBたちが寄付を募り、自らもモッコを担いで土も運んだと記事で読んだことがある。学生野球のメッカを作りたいという情熱。これがなければ100年はない。戦後、神宮球場が米軍に接収されても46年(昭和21)には場所を後楽園球場に移して再開。東大が唯一2位になった年だ。最近ではコロナが全国に蔓延、最大のピンチを迎えたが連盟関係者が協議を重ね夏に春のリーグ戦を開催。無観客、応援団は外野席で選手を鼓舞した。

4月12日、前季優勝の早大と東大の試合で100年目の幕が開いた。節目の年に公式記録員として東京六大学野球に関われるのは感慨深いものがある。私が大学2年の75年(昭和50)は連盟50周年だった。外野席は土のまま、もちろん人工芝なんてない。スコアボードは点が入るたびに回転して数字が入った。選手名は手書きだったような気がする。当時のリーグ戦は法大の戦力が充実していた。74年に入学した昭和の怪物・江川卓投手、甲子園で優勝した広島商の主将・金光興二(現野球部長)らが入学。”花の49年組”と呼ばれた。彼らが1年秋にリーグ優を飾り「7連覇するのでは」とも言われた。ところが75年のリーグ戦は明大が春秋連覇するのだから野球は生き物だ。明大の名物監督・島岡吉郎に率いられた”人間力"野球。秋は開幕の東大に連敗しながらの優勝だった。東大に連敗して優勝したのはこの1回だけ。私は神宮球場の2階席で先輩たちの活躍を見るだけだったが、超満員のスタンドを見ながら興奮したのを覚えている。

島岡監督の勝利への執念はすさまじかった。江川投手を攻略するために寮の壁には「打倒江川」の張り紙があり、全員がバットを短く持たされた。打席に立てばホームベースに近づいてデッドボールを受ける覚悟で内角封じを敢行。もちろんベンチからは「なんとかせい!」とゲキが飛び、選手は「なんとかしなくちゃ!」と決死の表情で打席に向かった。まさに昭和の野球だった。
元々、学生時代は応援団長。野球部OB以外で監督を務めたのは東京六大学の歴史の中でも島岡監督しかいない。小柄で丸い体全身を使って打つノックもユーモラスでスタンドから笑いが起こったが、監督は必死。選手もその思いに応えようとボールに食らいついた。島岡監督に薫陶を受けた男たちは卒業しても"オヤジ"と呼び当時を語り合う。ある選手が知らずに「えび茶」のトレーナーを着ていたら、それを見つけた監督が「お前はワセダのまわし者か!」と激怒し寮から追い出したなんて話もあった。現在阪神の二軍監督を務める平田勝男主将時代、法大に敗れた後のミーティングに登場した島岡監督は机に短刀を突き刺して「切腹せい!」と怒鳴った。これには「次の法政戦は必ず勝ちますから切腹はお許しください」と平田主将。法大に勝ち点を挙げて"切腹事件"は笑い話に変わった。島岡監督特有の演技なのだが、その時は全員が必死だった。
江川投手がいたお陰で、早慶戦はもちろんだが法明戦、法早戦、早明戦は満員、いい時代を経験させてもらった。今は第二内野席が埋まるのは早慶戦くらいで寂しい限りだ。江川投手最後の登板となった77年秋の明大戦。得点圏に走者を置かないと全力で投げない男が、この時は初回から速球がうなった。明大だけ江川投手に完封されていなかったが、最後の登板で1点も奪えなかった。通算47勝目。監督の横でスコアブックを付けていた私の目にはマウンドで躍動する江川投手が焼き付いている。

3年生からマネジャーとなり島岡監督に接する機会は増えた。朝4時には起き、寮内にある「明治稲荷大明神」の準備を整え、5時には起きてくる監督を待つ。4年秋のリーグ戦が終わってもマネジャーは帳簿の整理などがあり寮に残っての作業。ある日監督に呼ばれてこんな言葉をかけられた。「いいか、社会に出たら人より早く出社して雑巾がけから始めろ。人が嫌がる仕事には真っ先に手を挙げろ」。 正座しながら聞いた言葉は社会人になってからも脳裏に焼き付いている。
卒業してから48年。早大の岡村猛、東大で8勝をマークした西山明彦両先輩理事は同期。金光野球部長も含めこの3人にはリーグ戦で何度も痛い目にあった。それでも「あの時はなあ」なんて昔話も楽しい。スタンドに顔を出せば先輩や後輩、他校の仲間にも会える。今思うと、神宮球場は「青春の故郷」だとつくづく思う。応援団、チアリーダー、吹奏楽部など試合に欠かせない人たち、さらに足を運んでくれるファンあっての東京六大学野球。今年もワクワクしながら神宮に通う私がいる。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第2週 2025年4月16日掲載

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法政大学創立100周年と東京六大学野球連盟結成100周年

私が法政大学に入学したのは昭和55年で、大学創立100周年の節目でした。野球部は第2期黄金期、五明監督がチームを率いて江川、袴田、金光(現野球部長)、植松、島本各先輩方の活躍で、すべて勝ち点5の4連覇を成し遂げたのが昭和52年秋。以降、リーグ優勝から遠ざかっている状況でした。

春のシーズンは同級生の小早川(元広島、ヤクルト)とともに、開幕からベンチに入れてもらいました。小早川は四番打者として全試合先発でフル出場し、好成績を残しました。私は3試合、先発のチャンスをもらい、早大戦で初勝利。六大学で1勝を挙げるのが目標だったのが、1年春に達成できたのは幸運でした。
なぜならば、当時の法政大学の投手層は厚かったからです。3年生には川端さん(広島ドラフト1位)、池田さん(阪神ドラフト2位)、2年生には田中さん(日本ハムドラフト1位)、その他にも甲子園で活躍した猛者たちが在籍していました。

初めて神宮でプレーした春のリーグ戦は3位。「100周年に優勝を」。その期待が重圧になったのかもしれません。夏の練習は当然ながら厳しいものでした。鴨田監督の方針で少数精鋭でメニューを組むことになったのです。200人近い部員の中から40人を厳選。1年生は10人以下であったと記憶しています。当時の1年生は、雑用が付きもの。練習以外に洗濯、掃除、用具の手入れなどが思い出されます。厳しい夏を乗り越え、秋季リーグ戦に臨みました。
慶應との開幕カード。鴨田監督から先発投手に指名されました。ところが、技術、精神的にも未熟でした。コントロールが定まらず、自滅する形で降板。幸い2回戦、3回戦に連勝して勝ち点を挙げることができましたが、私の登板はありませんでした。

「もう投げさせてもらえないのでは……」と「チャンスは必ずもう一度、来る!!」。2つの思いが交錯しながらも、1年生の私は活動拠点である川崎の法大グラウンドで汗を流すしかない。次なる起用に備えて、最善の準備をした記憶があります。
すぐに、その機会は訪れました。2カード目の立大2回戦で先発起用されたのです。決死の思いでマウンドに立ちました。「このチャンスを逃したら4年間投げさせてもらえない」。ただ、危機感よりも、神宮で投げられる喜びを感じて投げたことが良かったのか、完封勝利を挙げることができました。次のカードは、春大学日本一の明治戦。1回戦は勝利しましたが、2、3回戦に勝ち点を落としてしまいました。幸い明治が立教に勝ち点を落としましたので、早稲田、東大に勝ち点を取れば優勝という星勘定になりました。

早大戦では全試合に先発して勝ち点を奪い、東大戦も2試合に先発、連勝で6シーズンぶりに天皇杯を手にすることができました。私自身も6勝2敗でベストナインに選出。大学創立100周年という節目の年に入学し、卒業するまでにリーグ優勝4回、明治神宮大会、全日本大学選手権での日本一2回は、諸先輩方から育てていただいた一生の財産です。
明治神宮大会を制した昭和56年は、神宮球場における土のグラウンド最後のシーズンでした。翌57年の人工芝元年に春10戦全勝で大学日本一を遂げました。山中正竹監督(全日本野球協会会長)の下で助監督を務めさせていただいた際には、20世紀最後の春にリーグ優勝、21世紀最初の春のリーグ戦で優勝。法政大学は、節目の年に強いんです。

令和7年、東京六大学野球連盟は結成100周年を迎えました。現役学生は、この節目の年に神宮でプレーできることを、この上ない幸運と受け止め、法政大学野球部創部110周年に花を添えていただきたいと思います。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。