神宮の杜で会おう
今から50年以上前の話になります。昭和47年(1972年)は慶應が早稲田に勝ち3連覇を成し遂げた年です。私はその年の春の早慶戦をご両親が慶應出身の小学校の級友宅でTV観戦しました。満員のスタンド、華々しい応援合戦、早慶戦ってすごいなあ、慶應はいいなと思った瞬間でした。
当時の六大学野球は、NHKラジオ第一放送で試合中継があり、一般紙の夕刊には試合途中経過が、好カードはNHKだけでなく民放でも中継されることもしばしば。NHKニュースで、「今日から早慶戦の徹夜が始まりました」と伝えられるなど、国民の関心も高い時代でした。
ちょうどそのころ、文京区に文京リトルリーグが誕生しました。野球少年だった私は喜んで入団したのは言うまでもありません。球団の創設者は、歯科医の田中久雄さん。球団創設は、医院の前の道路でキャッチボールをしている小学生を見て、土のグランドの上で思いっきり野球をさせてあげたいとの思いからの発案でした。そして、明るく健康な小学生になってほしいとの願いを込めてチーム名をリトル・インディアンズと名づけました。
ここから、私と東京六大学野球とのかかわりが始まります。田中先生の思いに応えてくださったのが、当時東大野球部監督だった岡村甫さん。その後数十年、歴代の東大監督のご厚意で、文京リトルのホームグランドは東大球場になります。そして、文京リトル総監督に就任されたのは法政大学野球部OBの高尾憲治さん。高尾さんの同級生には山中正竹さん、江本孟紀さんがいらっしゃいます。高尾さんは、本格的に野球を始めた私達に野球の基礎を教えてくださった恩人で、ご自身のお話も含めて東京六大学野球の話もいっぱいしてくれました(今でも当時のお話をたくさんしてくださいます)。冒頭の言葉、「神宮の杜で会おう。」は、その高尾さんが文京リトルの選手たちに送った合言葉です。その言葉を聞き、私は東京六大学でプレーする。慶應義塾で野球をするという気持ちが固まりました。そして、私は一足早く、慶應義塾高等学校に入学することになります。
同じ思いだったのでしょう。山田智康君(1985年法政大学卒)、江端徳人君(私と同じく慶應義塾1986年卒)、山中亨君(1988年立教大学卒)らが続き、当時全く想像できなかった「神宮の杜で会おう」という合言葉が現実のものとなったのです。また、野球部には入らなかったけど、明治大学に進んだ現在東京都市大付属高校の教頭の野田宏幸君(1985年卒)は、長男の宏太朗君を立教大学野球部に、また、昨年まで同校の野球部監督を務め、教え子を東京六大学野球部全校に送りだすなど、東京六大学野球の魅力を伝え続けてくれています。きっと、自分自身の思いも込められているに違いありません。
さて、私は同期堀井哲也監督との縁もあって2021年から母校慶應義塾大学野球部のコーチに、今季からは助監督に就任して神宮球場に戻ってきました。助監督就任を高尾さんに報告すると、ことのほか喜んでくださり、少しは恩返しができたようです。
東京六大学野球が作ってくださった縁、今思えば、こうした人達との出会いがなければ、私の人生は全く違うものになっていたでしょう。卒業してからも、仕事で、観戦に行った神宮球場のスタンドで、いろいろな方のお世話になりました。中でも、東大の野村雅道さん(1979年卒)は、金融業界の大先輩で、20年以上前に偶然再会し、以来、北倉君は野球つながり、神宮つながりだからと言っていただき大変かわいがってくださいました。恩人の一人です。慶應義塾、元塾長、小泉信三先生のスポーツの与える3つの宝ということばの一つに「友」、生涯の友を得る。というのがあります。「友」を、「野球つながり」に置き換えれば、東京六大学野球、神宮球場はそうした素敵な関係を実現させてくれるところのようです。
今年、東京六大学野球は100周年という記念の年を迎えました。次の100年もまた東京六大学野球が、学生野球の聖地神宮球場が、これまでもそうであったように、私にとってそうであったように、少年、少女のあこがれであるとともに、高校生の夢の舞台として、また、卒業生をはじめ関係者の皆様、神宮を愛する人たちがいつでも帰ってこれる素敵な場所であり続けて欲しいと思います。