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『僕の野球人生』vol.26 平泉 輝将 投手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.26 平泉 輝将 投手(4年/戸山)

佐伯くん(4年/投手/渋谷幕張)から紹介いただきました平泉です。彼とは何かと行動を共にすることが多いですが、普段とマウンド上とでの顔つきの変わりようがすさまじくリーグ戦のたびに風邪をひきそうです。法政戦もかましたれ!

正直これまで同期たちの情報量の多さに圧倒されているので個性を出せるようにオリジナリティのあるエピソードを厳選して「短め」「濃いめ」で行こうと思います。よろしくお願いいたします。

野球との出会いは小学校二年生の秋だった。親の勧めで小学校の野球チームが開催していた野球教室に参加し、そのままの流れでそのチームに入った。そのチームはそこまで人が多いわけではなく下級生の内から試合に出させていただき、試合でプレーする楽しさをたくさん味わうことができた。クラスメイトをたくさん勧誘し、高学年になるころにはチームに同級生がたくさんいた。学校内でもチームメイトと野球の話などができるようになり、毎日の通学が楽しみで仕方なかった。

しかしこの楽しい生活も五年生の夏アメリカへの引っ越しが決まり終わりを迎えてしまった。英語なんて最悪パッションでいけるっしょという甘い考えで挑んだが、その謎の自信はぼこぼこに砕かれた。学校に入る前の英語の試験では「この写真を見てください」の「ピクチャー」が「ピッチャー」に聞こえたせいで何も答えられず、学校の受付で「何年生?」と聞かれたときは「ファイブ!」と自信満々に回答し、ESOL(英語ができない人のための補助クラス)は学校唯一のレベル1になった。次第に学校にいっても一度も口を開くことはなくなり、家に帰ってからも特に何もすることなく一日を過ごすようになった。日本で学校はおしゃべりをする場所だと思い込んでいた私にとって地獄のような日々が続いた。

そんな様子を見かねてなのか、父が近所の野球リーグに参加しないかとおすすめしてくれた。初めは乗り気ではなかったが何も起こらない日々よりはましだと考えリーグに参加した。参加したリーグはレクリエーションリーグといって、半年に一回集まった子供たちがいくつかのチームに割り振られてリーグ戦とプレイオフを行うものだった。そこでの野球は内野ゴロが半分くらいヒットになるようなお遊びレベルで、そんな中で普通のゴロとフライを捕れる私はスター選手のように崇め奉られた。左利きという理由でピッチャーもやらせてもらい、毎週のように投球制限ぎりぎりまで投げさせてもらった。チームメイトとも得点や勝利の喜びを共有し、ベンチでは適当な軽口を叩けるようにまで成長した。

変化は学校生活にまで波及した。リーグ参加者が話しかけてくれるようになり、昼休みはそのコミュニティと壁あてゲームで遊ぶようになった。また同学年に日本人を発見して質問がわからなかったときに通訳してくれるようになった。野球と関係のないクラスメイトとも会話をするようになった。全てがうまくいきだした。野球にハマったきっかけは?と聞かれたら、必ずこの経験のことを話すと思う。野球というスポーツが非言語的コミュニケーションツールとして異国の地で孤独な私を支えてくれたという事実から、野球の楽しさが何十倍にも増して感じられるようになった。そんなこんなで残りの二年間も少しリーグのレベルを上げながら、サマーキャンプにも参加しながら野球をたくさんプレイした。

日本に戻ってからも野球はたくさんの人とのつながりを生んでくれた。中学二年生の夏休み直前という半端な時期に転入したが、野球部の練習は夏休みという空白の期間を忙しさで埋めてくれた。結果として人生の半分も住んでいない西早稲田は、今では私の地元になった。

高校での野球はある意味初めての競技としての野球であった。先輩がスタメンを占め練習試合でプレーしないこともある。同期もクラブ、シニアなど自分が聞いたこともないような環境でプレーしていて自分はこれといった特色もなくかなり下からのスタートだった。少しでも追いつこうといろいろと試行錯誤を繰り返した。最上級生になるころには主力を自認できるくらいにまで成長することができた。

それと同時に高校は環境に振り回された時期でもあった。コロナで入学が遅れ、入部してから体感一週間ほどで先輩が引退し、そこからも緊急事態宣言、グラウンドの改修工事と学校で練習のできない期間がかなり続き最後の夏を迎えた。

初戦は運のいいことに神宮球場でできることになり、これまで公式戦で特段すごい活躍をしたわけでもなかった私はここにかける思いがとりわけ強かった。前日の午前中はチームで神宮に試合を見に行った。試合の途中でグループラインにたくさん通知が来ていることに気が付いた。クラスメイトにコロナ感染者が多数出たことを知らせる通知だった。そういえば朝から喉が痛い気がする。一瞬で頭が真っ白になり「どうしよう」と「やばい」だけが頭の中をぐるぐるとめぐるようになった。そのあと学校に戻って練習をしたのだが何をしていたのかは正直全く覚えていない。覚えているのは頭と体がどんどん重くなっていく感覚だけだ。練習後の決起集会では完全にダウンしてしまった。キャプテンが何か話している中で一番後ろで誰にも迷惑をかけないように体を縮こまらせながら痛みをごまかすことしかできなかった。家に帰ると40度近い熱があり翌日病院でコロナの診断を下された。初戦は勝利したものの二戦目であっけなく負けてしまい夏の大会は終了した。私はみんなのプレイを画面上で見ることしかできなかった。
東大野球部で野球を続けようと思った一番の理由は、この不完全燃焼な最後にある。もともと存在は知っていたし高校の同期に大学野球好きもいてたまに東大のリーグ戦も見に行ってはいたが自分がプレーするビジョンは全くなかった。もともとどうせなら日本一というあほみたいな考えで東大を志望していたため、合格したら野球部に入ってまた頑張ろうと心に決めた。半年間の猛勉強の末何とか東大に現役合格することができ、そのまま野球部に入部した。
大学での四年間を一言でまとめると決断力不足だと思う。振り返ってみると四年間で様々な岐路があったがその全てで変化の少ない安定択を採ってしまった気がする。もともと遅れたスタートだった私にはどこかで挑戦的な択を採る必要があったなと後悔している。
もう一つ後悔があるとすれば二年の途中からである。思うように投げられなくなってから練習にきて毎日のルーティーンワークをこなし続ける日々になってしまった。自分に何が必要なのかを見失い、時間が解決するだろうとだらだらと足踏みする日々が続いた。結局その悪い状況が完全に解決することは最後までなかった。後輩のみんな、時間は何も解決しないぞー
一つ上の代が引退してからは自分の引退について考えることが多くなった。せめて何かチームのためになりたいという考えから後輩と話す時間を意識的に多くとるようにした。特に冬ごろから授業で忙しい工学部の彼に代わりB投手の練習をまとめることが多くなった。悩みを解決しきるには力不足だったかもしれないが、言語化の機会を与えることで少しでも助けになればと思いいろんなことを聞き出せるように努めた。少しでも役に立ってたらうれしいなと思う。
その後夏になって引退を告げられた。いくら察しをつけていてもその瞬間は感情が揺さぶられるものだなと思った。まだ戦ってる同期のみんなへ、みんなは最後勝って楽しく引退しよう。

 

感謝のパート

たくさんお世話になった人たちへ
感謝は直接お伝えします

最後まで読んでくださった方々へ
ありがとうございました

 

明日は私服姿が完全に子持ちのお父さんな大江くん(宣知/4年/学生コーチ/仙台二)です。己の全てを投げ出す全力壁当てが有名な彼、おそらくぼくじんにも全力投球してくれるでしょう。お楽しみに。

 

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次回は10/18(日)、大江宣知学生コーチを予定しております。