『僕の野球人生』vol.2 鈴木 宥悟 外野手
昨日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.2 鈴木 宥悟 外野手(4年/浅野)



俺ならやれる、なんだってできる
そんな過剰なほどの自信を抱えた少年だった。
小学校入学と同時に6つ上の兄が所属していた少年野球チームに入団した。入学前から兄や父と野球をしていたおかげもあって同級生の中でも比較的に上手なほうだったと思う。そのせいもあって自尊心は膨れ上がり好き勝手やっていた。生意気ではあったが、なぜか監督やコーチ、先輩たちからかわいがってもらったのをよく覚えている。70歳近い監督の頭頂部をイジったり、塁上から盗塁のサインに対して手で大きく×を作るなどの反逆行為、打席に向かう前に監督に「次エンドラン出してね」と指示する、など生意気エピソードを挙げればキリがない。
肝心の野球の方はというと、下級生のうちはいろいろなポジションを経験したが最終的にキャッチャーに落ち着いた。グラウンドで一人だけ防具を付けて守備につけるポジションに特別感を感じてひどく気に入っていた。このころは純粋な野球の楽しさに夢中になっていたと思う。バットに球が当たり内野を抜けていくときの爽快感、ダイビングキャッチでボールがグラブに収まるときの感触、そのすべてが僕を魅了していた。のびのびと野球をさせてくれた当時のチームには感謝しかない。
中学では、高校硬式野球部がある中高一貫校を目指して受験をしたのに入学すると体験入部でほかのスポーツの魅力に気付いてしまい、突拍子もなくボクシングやハンドボールをやりたいと親に伝えた。緊急の家族会議が開かれ、家族の半ば強制ともいえる説得の末、なんとか「僕の野球人生」は一命をとりとめた。
野球部の同期には野球経験者がそもそも少なく、先輩を含めても技術面では見劣りはしなかったが、体が小さかったためキャッチャーをあきらめてショートになった。自称神奈川№1プレイヤーの岩佐(3年/学生コーチ/浅野)とのポジション争い(笑)に勝利し、試合にも多く出場した。実力は大して伸びていないのに自信ばかりが膨れ上がっていった。なんやかんやあって主将になったがチームをまとめるとかそういったことには微塵の興味もない責任感の欠如した選手だった。
高校では入学と同時にコロナウイルスが蔓延し始め一年生のころは満足に部活ができなかった。それでも制限が緩まるにつれ、朝練などできることをひたすらやった。顧問の斎藤先生にはレベルの高いことを本当にたくさん教えていただいたが、半分も吸収しきれなかった気がする。高校二年生では夏大会前日に右ひざの半月板を損傷した。周りの人や親に本当に迷惑をかけたし、自身初の長期離脱を余儀なくされるケガで自分でもどうしていいのかわからなかった。リハビリに明け暮れる日々はただただもどかしかった。復帰してからはけがの再発を恐れて守備のリズムが崩れて思うような動きができなくなっていた。それでも高3に上がるころにはだいぶ元の動きを取り戻し調子は上々だった。しかし主将としてはあまりにも未熟でチームは衝突を繰り返した。当時のチームメイトには申し訳なかったと今でも思う。最後にはチームは何とかまとまったが夏大会は初戦敗退、自身も5タコというさんざんな結果だった。コロナによる不完全燃焼感と最後の夏大会の結果によって「まだ野球終われないな」という気持ちになった。
引退した日には親に「大学野球ではもっとすごい結果を出すから」と啖呵を切っていた。
大学に入学してすぐに野球部に入部した。ショートには門田(4年/内野手/松山東)と小村(4年/内野手/私立武蔵)がいた。門田は入部当初からスイングがいかつかったし、小村の守備はビューティフルだった。二人は同期でも最初にAチームに上がった。同期のみならず先輩にもすごい人たちがたくさんいた。今まで「お山の大将」だった自分にとってはその刺激が新鮮だった。それでも自信が崩れることはなく「この中でのし上がってやろう、俺ならできる」とギラギラした闘志があった。
最初のころからB戦ではとにかくたくさんのチャンスをもらえた。守備は全然だったが打撃ではそのチャンスをものにしてヒットを打ち続けた。変化球を拾ってレフト前に落とすヒットは何本打ったかわからない。みんなから「キモいヒットだな」といわれることが嬉しかった。かろうじてバッピができていた一年生のころはよく門田と自主練習をして、結果を出し続ける門田に刺激をもらって切磋琢磨していた。
しかしインパクトには欠けており、一年生のうちはフレッシュのベンチ入りすらせずに神宮デビューを果たす同期の姿を眺めるだけだった。
2年になると春先にはかなりの好調で結果を出し続けリーグ戦の2週間前にAチームに上がった。堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)や明石(4年/捕手/渋谷幕張)に「やっとだな」と言われてようやくこいつらと同じ土俵で野球ができると思い心が沸き立った。
しかしこのころから送球難が特にひどくなり、地肩を生かすためにも外野へのコンバートを考え出した。内野手として午前練に出て、午後練では外野手の練習、夜ご飯を食べたら球場でトレーニングと自主練、というスケジュールで毎日を過ごし文字通り野球にすべてを捧げた。無我夢中に練習に取り組む日々は体力的にはきつかったが精神的には野球人生で一番充実していた。その努力に呼応するかのようにバットは快音を鳴らし続けた。
リーグ戦裏のシートBTでも何本もヒットを打ち、空き週のオープン戦ではスリーベースを含む2打数2安打で僕のポジションであるサードにも欠員が出ていた。
ようやくリーグ戦のベンチに入れる
そう思ったが翌週もその翌週もベンチ入りメンバーに僕の名前はなかった。
春シーズンは結局一度もベンチ入りを果たせずに散々なフレッシュを経て夏前にはBチームに落とされた。
何のために野球をやっているのかわからなくなった。
自分の実力不足から目を背け、やり場のない無力感をごまかすために責任を押し付ける場所を探し続けていた。初めて野球をやめたいとも思った。めっきり自主練もしなくなり全体練習のために球場と自宅との往復を繰り返す暗鬱な日々だった。
そんな腐った人間を救ってくれたのが林さん(R8卒)、工藤さん(R8卒)、黒武者さん(R8卒)の3人、「初代ホビーズ」の方々である。ホビーズは若干誤解されやすいので当初の理念が歪曲されないようにここに記しておこうと思う。「野球はあくまで趣味の一環である。趣味の結果で一喜一憂しているようではいけない。結果に流されずに野球を楽しみ、ただ淡々とやることをやるだけ」、これがホビーズの理念である。
林さんたちとやる野球はただただ楽しかった。結果が出ない未来に怯えながら「ヒットを打たなきゃ」という強迫観念に追われる野球ではなく童心に戻って野球というスポーツ本来の楽しさを思い出せたような気がする。
冬には調子を戻し、春先のA合宿にも選ばれ、とんとん拍子で開幕戦のベンチ入りを果たした。そして翌週の明治戦では夢にまで見たリーグ戦の舞台に立つことができた。初めて立つリーグ戦の打席の高揚感は形容しがたいものだった。結果は四球だったが、オープン戦で打つヒットの何倍も興奮した。今までの努力がすべて肯定されたようなそんな気分になった。
その日の夜もいつものようにトレーニングをしていた。途中から肩に少し痛みがあったがたいしたことないだろうと思いそのまま続けた。翌日、ボールを投げると激痛が走った。病院に行くと軽度の関節唇損傷と腱板損傷だと診断された。2週間安静にしていれば治るだろう、と。痛みは2週間たっても取れなかった。半年たっても、何なら現在に至るまで痛みがついぞ無くなることはなかった。
肩をけがしてからしばらくは野球をやるのが苦痛だった。どんな動作をしていても痛みが走るので練習は常に痛みに耐える時間と化していた。打撃でも痛くないフォームを探しているうちに調子を崩した。「ある日突然治ったりしないかな」というバカな希望を胸にリハビリを続けていた。そんなにうまい話はあるはずもなかったが、リハビリのおかげで少しずつではあるが投げられるようになった。それでもかつて投げていた球とは程遠く自分の投げた球を見るたびに落胆した。
秋リーグには絡めるはずもなく伊藤(4年/外野手/県立千葉)や明石など主力で活躍する同期をスタンドから応援していた。半年前驚くほど輝いていた神宮球場は自分の劣等感を強調するだけの場所と化していた。
冬には2年間続けたシェアハウス生活が終わり入寮することになった。モンスターハウスとの別れはつらかったが、心機一転冬には増量をして練習に打ち込み、打撃の調子もまずまずだった。シートBTで結果を出し長崎に行ってやろうと意気込んでいた矢先のことだった。
左腿の肉離れだった。
この文章を読んでいる人ももれなく思っただろうが当然当時の自分も全く同じことを思った。「また怪我か、」と。しかし意外にもこの怪我が僕の精神に与えるダメージはそこまで大きいものではなかった。なぜなら「治る」からだ。終わりの見えない肩の怪我と違い、肉離れは筋組織が修復すれば治る、とそう信じていたからだ。合宿に行けなくても3月のオープン戦で結果を出してリーグ戦のチャンスをつかもう、とそう思っていた。
2か月でけがは大方治り、試合にも出場できるようになった。復帰戦ではセンターオーバーのツーベースを打ち、「これはいける」と思った。
二週間後の練習でまた肉離れが再発した。いわゆるクセになる、というやつだ。肉離れはこの後も含め計4回経験することになる。春リーグはもはや絶望的だった。
6月の再始動からは試合には出られるようになったが、足も肩もかなり限界だった。けがを気にすると出力が下がる→それでも試合では結果を出さなければいけないので練習する→足や肩が痛み出す、という負のサイクルに陥った。どうしていいか分からなかった。多分どうすることもできなかったのだろう。自分だけでなく多くの選手がけがやコンディション不良を抱えながらも限られたチャンスにしがみついている。特に四年生ともなればほぼみんながそういう状況下に置かれるのは当たり前のことだった。そんな中で結果を残した人間だけが生き残っていくのだ。夏のオープン戦でヒット自体は打っていたが、置かれた立場を覆すだけの結果は残せなかった自分は遠軽合宿のメンバーには選ばれなかった。
川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)には「まだ引退はせずに盛岡に行ってほしい」と伝えられたが、即答で行くとは言えなかった。
自分の中で「遠軽に行けなかったら引退しよう」とぼんやり考えていた。
もうこの時点で自分の限界が見えていたような気がしたからだ。かつては「俺ならできる」と自分を鼓舞し続けた過剰なほどの自信もこの頃には「お前はもう無理だ」と囁いているような気さえした。未来ある後輩たちにチャンスを回した方がチームのためになるんじゃないか、なんてことを考えていた。
自分が盛岡に行ってほしいと伝えられる中、ほかの遠軽に選ばれなかった同期は引退を告げられていた。部室では大坂(4年/外野手/金沢泉丘)が泣き崩れていた。選択肢が残されていることがどれだけ幸福なのかも理解せずにそんな迷いを抱えている自分の弱さに嫌気がさした。
両親に遠軽メンバーから漏れて引退しようと思っている旨を伝えた。両親は否定せず意見を聞いてくれたうえで「最後にもう少し頑張ってみたら?」と背中を押してくれた。
ここまで支えてきてくれた両親の気持ちには応えないといけないなと思い、自分を奮い立たせて川又に盛岡に行くと伝えた。
盛岡では、きたぎんボールパークであわやホームランの打球を打ったり、肩の調子もよく、久々にボールを投げるのが楽しいと感じた。やっぱ野球楽しいな、とか野球やめなくてよかったな、と心から思えた。
それでも幸せな時間が長く続くことはなかった。五連戦の最終日、一塁への駆け抜けの途中で左腿に弾けるような痛みが走った。さすがに四回目なのでもう病院の医師に言われずとも分かっていた。その前後の記憶は今も鮮明に残っている。
その日の夜の夢では野球をしていた。
どこのグラウンドかもわからないけど確かに同期と野球をしていた。起きて足の痛みを認識して泣いた。もう野球できないんだなという実感が押し寄せてきた。
東京に戻ってほどなくして引退が決まった。自分の中で悔いはなかった。ただ両親をはじめ僕に期待をかけてくれていた人々の気持ちに応えられなかったことへの申し訳なさはきっと一生かけてもなくならないだろうと思う。
引退してからはひたすらノックを打ち続ける日々を過ごしている。人を支える側に回ってからは今まで以上に自分を支えてくれた人への感謝が大きくなったような気がする。
今まで本当に多くの人に支えられて野球をしてきた。ほんの一部ではあるが今までの野球人生でかかわってくれた人への感謝を綴ろうと思う。
両親へ
いつも俺のやりたいことを真正面から全力でサポートしてくれる母と、口数は多くなくともほぼ毎試合外野の茂みの影など目立たない場所で応援してくれる父と、二人に支えられて野球をした16年間は本当に幸せな時間でした。二人にもっと神宮で活躍する姿を見せたかった。それはもう叶わないけどこれからの人生で少しずつ恩返ししていきたいと思ってます。今まで本当にありがとう、これからもよろしく。
朝さん(R6卒)、菊地さん(R6卒)、地曵さん(R6卒)、間島さん(R7卒)、林さん、工藤さん、岡田さん(R8卒)、黒武者さんをはじめとする先輩たちへ
たくさんご飯連れてってもらって数えきれないほどの応援の言葉をかけてくださったのにその思いに応えられなくてすいません。皆さんの野球人生に僕がどれだけ勇気づけられたことかわかりません。最高にかっこいい先輩たちと野球ができて幸せでした。引退したらまたご飯行きましょう。
佐渡島マネージャー(3年/私立武蔵)と学生コーチへ
たくさん投げてもらったのに活躍できなくてごめん。特に佐渡島は毎日のように何百球と放ってくれて本当にありがとう。選手のために身を粉にしてサポートできるみんなはめちゃくちゃかっこいいと思います。
二年間住んだモンスターハウスの同居人たちへ
モンハで過ごした時間はかけがえのない思い出です。野球に対して前向きな気持ちが持てないときもモンハで過ごす何気ない毎日はずっと輝いていた。みんな将来一人暮らししたら整理整頓は頑張ろうな。
堀端(3年/外野手/向陽)、矢田貝(3年/学生トレーナー/日比谷)、康平(松本康平/3年/捕手/栄光学園)、土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)へ
お前たちと一緒にベンチに入る試合は本当に楽しかった。けがとかで思うようにいかない野球人生だったけどお前たちのおかげで明るい気持ちになれたと思う。来年のチームもお前たちの明るさでぶちアゲていってくれ。
少人数班の後輩たちへ
やっさん(安田/3年/外野手/名古屋) 天才選手なんだから癇癪起こさずにがんばれよ。あと夜は早く寝ろよ。
村尾(2年/外野手/札幌南) 焦りすぎないでけが治してね。怪我さえ治ればお前は無敵の打棒になれる。
紺谷(2年/外野手/北野) お前のバッティングは教科書みたいにきれいだからそのまま突き進んでほしい。プライベートに気を取られすぎずにがんばれ。
清原(1年/外野手/都立西) 打撃の才能はめちゃくちゃあると思うからまずは体を作ってがんばれ。お酒はほどほどにね。
みんなはお世辞抜きで来年、再来年の外野を引っ張って行く選手たちだと思ってるので腐ることなくひたむきに頑張ってほしい。
最後に同期へ
大学四年間はほぼみんなと一緒にいた気がする。数えきれないほど笑いあってきたみんなと過ごす期間があと少しで終わってしまうことにはまだあまり実感は持てていない。部室でだべりながら過ごす時間も、モンハや寮で数えきれないほどした飲み会も、きっとこの先も忘れることはない最高の思い出だった。
できることなら最後の一瞬まで選手としてみんなと切磋琢磨していたかったけど、それは叶わなかったからせめて残りの期間はできる限りのサポートをしていきたいと思う。
俺の選手人生はハッピーエンドとは言えなかったけど「野球人生」はまだ終わってない。最後にみんなと勝って笑いあって終われたらそんな幸せな野球人生の終わりはないと思う。みんなで勝とう。勝って笑おう。
思えば16年、あっという間だった。上手くいったり、いかなかったり、笑ったり、泣いたり、夢のような時間だった。この文章には到底書ききれなかったが今もいろいろな思い出が克明によみがえってくる。こんな素敵なスポーツと仲間に出会えた幸せをかみしめてこの文章を締めたいと思う。ここまで読んでくださりありがとうございました。
明日は近藤(4年/投手/筑波大附)です。近藤は同期随一の秀才で行動力も兼ね備えた超人です。彼の綴る哲学的な文章にご期待ください!
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次回は明日9/18(金)、近藤克哉投手を予定しております。
主将 


