『僕の野球人生』vol.28 永島 開 投手
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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トレ長として、背中でチームのトレーニングを引っ張ってきた大江くん(宣知/4年/学生コーチ/仙台二)からバトンを受け取りました、永島です。独創的な文章を書く文才はなく、オーソドックスな内容になってしまいましたが、お手隙の際にご一読いただけますと幸いです。
僕の野球人生は、小学1年生の時に地元の杉並ホワイトベアーズに入ったことから始まりました。当時は特別野球が好きだったわけでもなく、両親も自分も特段関心があった訳ではありませんでした。それでも野球を始めたのは、体験練習に参加した際、コーチの方々に可愛がってもらったからだったと思います。
低学年の頃は、学年で一番身長が高く、チームへの入部も一番早かったという理由で、4番を任せてもらっていました。しかし、ろくにヒットを打った記憶はなく、守備でもエラーを繰り返し、コーチや両親に怒られてばかりの日々でした。当時の僕にとって、野球は決して楽しいものではなく、半ば強制的に続けさせられているような息苦しさを感じていました。高学年になると、その気持ちはさらに強くなりました。特に、力のある一つ上の代に混じってプレーする時には、ミスをしたくない、早く試合が終わってほしいと願うばかりでした。
そんな環境の中でも野球を辞めずに続けることができたのは、母親に見せてもらったドラマ『弱くても勝てます』がきっかけでした。ドラマを通じて、開成高校で野球をしたいという強い憧れを抱くようになりました。今振り返ると、母親は勉強への動機づけの一環として見せてくれたのだと思います。
開成で野球をすることだけを目指していた僕の人生に、大きな転機が訪れます。それは、アメリカへの引っ越しでした。
中学受験で開成に入ることを目標にしていた自分にとって、アメリカ行きは夢を諦めることと同義でした。もっとも、当時の自分の学力では開成合格の確率は低く、心のどこかで受験から逃げる形で海を渡ったのも事実でした。しかし、結果的にこの決断が、人生において最も良かった選択の一つとなりました。
いくつかのクラブチームのトライアウトを経て、スポーツショップでたまたまコーチと出会った縁もあり、シャンバーグ・フライヤーズというチームに入ることになりました。アメリカのクラブチームの環境は、日本のそれとは全く違っており、全員が試合に出られるよう打順は全員分が割り振られ、ポジションも2〜3イニングごとに交代。練習はほとんどなく、とにかく何十試合も実戦をこなすという、のびのびとした野球がそこにはありました。
フライヤーズでは小学生の時は70kmにも満たない弱肩だったにもかかわらず、ピッチャーやショートなどの野球の花形ポジションでプレーする機会にも恵まれました。小学校時代はファーストしか守ってこなかった自分にとって、ここで初めて野球の本当の面白さを体感できた気がします。ただ、ピッチャーとしては全く通用せず、中学生なのに何十本も場外ホームランを打たれたことしか記憶に残っていません笑。フライヤーズでの2年間では、クーパーズタウンで試合したり、チームメイトとひまわりの種を食べまくったり、オマハで試合終了後に木製バットを燃やす大会に出たり、様々な楽しい思い出が残っています。なによりも日本人である自分を温かく迎え入れてくれたフライヤーズのチームメイトには感謝しかないです。
こうして2年間という短いアメリカ生活を経て日本に帰国すると、現地で培った英語力を武器に、勉強ではこれまでにない好成績を残せるようになっていました。その結果として開成高校に合格できたのは、アメリカでの経験がもたらしてくれた、まさに思わぬ産物でした。
開成入学後は迷わず硬式野球部に入部しました。一学年上のかいちさん(R7卒)がバンバン柵越えのホームランを打っていたり、岩瀬さん(R7卒)が華麗なサード守備を見せているのをみて、こういった先輩たちと一緒に野球をしたいという思いが芽生えました。しかし、いざ入部して練習に参加すると、弱くても勝てますを見て抱いていた幻想とは異なる現実がそこにはありました。1年の夏の合宿までは硬式野球部を続けていましたが、自分の精神的な弱さもあり、このままでは野球を嫌いになると思い硬式野球部を退部しました。そしてそのまま開成の軟式野球部に入りました。軟式野球部は硬式とは真逆で、練習メニューやフォームなどは全て選手の自主性に任されていました。クラスメイトがたくさん軟式野球部にいたこともありすぐに馴染むことができました。コロナの影響で2年の春・夏大会は中止になってしまいましたが、2年秋・3年春と2試合軟式野球部のメンバーで試合することができました。2試合とも7回コールド負けで、練習試合を含めてもほとんど勝てないくらい弱いチームではありましたが、扇大橋の河川敷で練習したり、コロナ禍でも公園で練習したり、軟野のメンバーとする野球はとても楽しく、野球の面白さを再確認することができました。3年の春に他のチームメイトが引退する中、自分は一個下の花村(4年/学生コーチ/開成)の代に混じって3年の夏の大会にも出させてもらいました。結果的に自分がエラーしたせいで1点差で負けてしまい、一個下の後輩には申し訳ない気持ちでいっぱいですが、最後に良い試合をすることができたのはよかったです。
軟式野球部を引退した後、高校で硬式野球に未練が残っていたことに加え、かいちさんや岩瀬さんが東大野球部に入部していたこともあり、東大で野球をすることを目標に東大を志望しました。現役では不合格だったものの、浪人の末に合格し、合格発表当日にはすぐに東大野球部にメールを送って入部しました。入部当初は、漠然とリーグ戦に出たいと思っている程度でした。しかし、いざ入部してみると、同期のレベルの高さに驚かされました。佐伯(4年/投手/渋谷幕張)と山口(山口周平/4年/投手/三重)はえげつない距離を遠投しているし、キャッチボール相手の近藤(4年/投手/筑波大附)や垣田(4年/投手/高卒認定試験)の直球は変化量がすごく、何度も捕球できずに顔にボールをぶつけられました。前田(4年/投手/熊本)や平泉(4年/投手/戸山)も変化球と直球の制球力がすごく、江口(4年/投手/海城)は意味が分からないくらいノビのある球を投げていました。怪我をしていた横山(4年/副将/内野手/新潟)や花村も、復帰後すぐに130kmの球を余裕で次々と投げていました。そんな同期たちの中で、自分だけが明らかに劣っていることはすぐに分かりました。自然と目標も、リーグ戦出場から、2年春のフレッシュトーナメントで何とかして神宮のマウンドに立つことへと変わっていきました。
初めて登板した浦和高校とのオープン戦では、1イニング3死球という最悪のスタートを切りました。盛岡合宿でも、他の同期が試合に出る中で自分だけが出場できず、その時期はかなり腐っていて、同期の投手たちにも相当迷惑をかけたと思います。ごめんなさい。それでも、盛岡合宿中の試合で、1回無死から2番手として登板した際、奇跡的に4イニングを抑えられたこと、そして当時Bチームの投手が少なかったこともあり、1年生の間はBチームで多くの登板機会をいただきました。打たれることも多く、なかなか結果を残せませんでしたが、春にはスプリングフレッシュで先発を任せていただくなど、多くの実戦経験を積むことができました。
そうこうしているうちに、早くも目標としていた春のフレッシュトーナメントの時期を迎えました。まつしん(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)を中心に、後輩にすごいピッチャーがたくさん入部してきたこともあり、ますます春フレに出場できなければ神宮でプレーする機会がなくなってしまう、という危機感を抱くようになりました。しかし、そうした危機感とは裏腹に、ピッチャーとしての自分の能力は1年生の頃からほとんど向上していませんでした。直前までのオープン戦や、メンバー決めのためのシートバッティングでも良い結果を残せず、ベンチ入りはできたものの、目標としていた試合への出場は叶いませんでした。
春フレへの出場が叶わなかったため、目標は必然的に秋フレへの出場へと変わりました。そんな中で迎えた夏、秋フレへの出場を目指して、オープン戦では死に物狂いで投げるようになりました。その中で、全球で大声を出しながら投げるスタイルが、自然と自分の中で定着していきました。投球スタイルの変化に加え、冬からジムに通って体づくりに励んできた成果も現れ始め、球速が一気に10kmも上がり、制球も改善しました。その結果、秋フレまでのオープン戦では10試合連続無失点を記録し、秋フレの2戦目で、ついに神宮のマウンドに立つ機会を得ることができました。結果としては、本塁打を浴びるなど2イニング2失点と思うような投球はできませんでした。それでも、尊敬していたヤクルトスワローズの青木選手が引退した直後の神宮で、背番号23を背負って登板できたことは、間違いなく野球人生で最も嬉しかった思い出の一つです。
好事魔多しとはよく言ったもので、念願の神宮登板を果たしたその日に、重い胃腸炎にかかってしまいました。その結果、ベンチ入りが決まっていた秋フレの最終戦に加え、オータムフレッシュにも出場することができなくなりました。さらに、その直後から肩や肘の痛みにも悩まされるようになりました。
3年春は、肩痛のため合宿には参加できなかったものの、球速が落ちたなりにBチームでまずまずの成績を残すことができました。しかし、Aチームに呼ばれることはなく、その後も夏、秋と徐々に結果を残せなくなり、10月には学生コーチの候補に選ばれました。自分の目標は神宮で試合に出場することだったため、当時は多少なりともやり切ったという気持ちがあったのも事実で、学生コーチになることに対しても、それほど後ろ向きな気持ちは持っていませんでした。そんな中、学生コーチを決める学年ミーティングで、「永島はB戦運用要員として必要である」という意見が出ました。これまでの自分の頑張りを認めてもらえたという安堵感があった一方で、自分はBチームの戦力としてしか見られていないのかという悔しさも覚えました。結果的に、自分は学生コーチには選ばれず、大江と、高校時代からの仲である花村が選ばれました。特に、自分よりも圧倒的に才能があると感じていた花村が学生コーチになったことはショックでした。しかし同時に、花村の分まで頑張らなければならない、そして、自分がBチームの戦力としてしか見られていないという評価を覆したいという思いが湧き上がり、再び闘志に火がつきました。
運よく就職活動を早く終えることができ、年末から春合宿前までは、これまでにないほど練習に打ち込むことができました。特に、夜遅くの人が少ない練習場で黙々と練習していたことは、今となっては良い思い出です。そうした努力が実り、合宿メンバーを決めるシートバッティングでは久しぶりに自己最速の球速を記録し、ついに初めてAチームに昇格し、春合宿にも参加できることになりました。しかし、春合宿では、初めてのA戦を翌日に控えたタイミングで肉離れをしてしまいました。正直、悔しすぎて笑い話にするしかありませんでした。自分は三振を量産してアピールできるタイプではなかったため、このタイミングでBチームに落ちることは、実質的に春リーグへの出場を諦めることと同じでした。やるせない気持ちでいっぱいでした。
それから夏までは、何とかして結果を残してアピールしようとするあまり、三振を取ることばかりに意識が向いてしまいました。その結果、本来の持ち味である制球力まで乱れ、思うような成績を残すことができませんでした。そして7月、川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)から選手引退を告げられました。覚悟はしていたものの、家では涙が止まりませんでした。選手としての最後の活動として、投手陣のバックアップ要員として盛岡合宿に参加することになりました。そこで、4年生の選手としては異例の引退登板をさせていただき、未練なく選手生活に幕を下ろすことができました。登板の機会を与えてくださった助監督、土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)、竹下(2年/学生コーチ/筑波大駒場)には、感謝の気持ちでいっぱいです。
自分は東大野球部に入部し、個性あふれる同期や先輩・後輩と一緒にプレーすることができて、本当に良かったと感じています。そんな東大野球部で過ごせる時間も、残すところあと1週間、そして1カードとなりました。自分はもう応援することしかできませんが、法政戦では同期のみんなが活躍し、勝ち点を奪取できると心の底から信じています。
最後、勝って終わりましょう!
ここからは、これまでお世話になった方々への感謝の気持ちを綴らせていただきます。
両親へ
自分がどんな環境でも何不自由なく野球を続けることができたのは、間違いなく両親のおかげです。特に母親には、慣れないアメリカの地で、何度もバッティングセンターや試合会場まで車で送ってもらうなど、いろいろな場面で自分のために動いてもらいました。アメリカ2年目に打率を大幅に上げることができたのも、母親の支えがあったからだと思っています。普段は喧嘩してばかりいますが、本当に感謝しています。今まで支えてくれてありがとう。
祖父母へ
自分が野球を好きでいることができた要因の一つは間違いなく、大阪の祖父と一緒に野球した楽しい記憶があったからだと思います。リーグ戦に出場する姿を見せることができなかったのは残念ですが、これからはたくさん会いに行きます。
開成軟式野球部のメンバーへ
自分はだいぶ癖が強い人間だったと思うけど、硬式野球部を辞めた自分を軟野の一員として受け入れてくれてありがとう。試合では全然勝つことができなかったけど、みんなと一緒に練習したり、ふざけあったりする日々があったからこそ野球を好きでい続けることができました。顧問の中村先生もノッカーをしてくださり、本当に感謝しています。菅野や小島とは大学以降も野球について話したり、色々包み隠さず話すことができてありがたい存在でした。またみんなで12月に野球しよう!
フライヤーズのメンバーへ
アメリカのトラベルチームとしては珍しく、アジア系のメンバーが5人もいるチームだったこともあってすんなりと馴染むことができました。英語の方が得意なさとちゃんと、自分と同じような見た目なのにめっちゃ野球が上手いひろきという二人の日本人がいたことも、心の支えになりました。マットやルーク、ノックなどフライヤーズのメンバー、そしてその親御さんは自分によくしてくれたと思います。日本語では伝わらないとは思いますが、本当にありがとうございました。
周平へ
1年の頃は全く喋った記憶がないけど、いつの間にか一緒に練習する時間が一番多くなった気がします。多分周平とキャッチボールした回数は同期の中でも一番だと思う。4年の盛岡まで一緒に行って、合宿中も勉強を頑張ってる姿や夜遅くに球場に行っても練習している周平の姿を見てめっちゃ凄いと思ってます。最後の法政戦、周平の鮮烈なリーグ戦デビューに期待して、スタンドから応援しています。がんばれ!
垣田へ
Bチームでたくさん一緒に投げた同志として、垣田の真っ直ぐはマジでえぐかった。途中部にいない期間もあったけど、垣田が部に戻ってきてくれて本当に良かった!また三浦半島へ一緒に行こう!
前田へ
前田・永島班の班長として引っ張ってくれてありがとう。前田は後輩のこととかしっかり見てるし、アドバイスも丁寧で野球に対してすごく真摯に向き合ってて尊敬しています。この秋は前田が活躍する場面が見れて同じ班のメンバーとして嬉しいです。法政戦も老獪なピッチング期待してる!
他の同期のピッチャーへ
野手転向した横山含めてみんな凄いピッチャーだと思います。みんなと同じピッチャーとしてプレーできて色々な刺激を受けることができました。みんなと一緒に投手陣の一員として居られることができて本当に良かったです。1年の時以降開かれてないピッチャー会またどっかでしよう!
前田班の後輩へ
岩佐(3年/学生コーチ/浅野)と太翼(杉山/2年/投手/西大和学園)は自分が選手引退を告げられた時に話を聞いてくれてありがとう。本当に助かりました。岩佐は学生コーチに転向してからチームのことを凄く考えているのが伝わるし、太翼も難しい状況の中でなんとか自分の活路を見出そうとしている姿はかっこいいです。栗林(3年/投手/灘)と中根(2年/投手/筑波大駒場)は二人ともめっちゃ良いピッチャーだから法政戦も来シーズン以降も活躍期待してる。一年生3人も関わる時間は短かったけど、それぞれ個性溢れるピッチングをしていると思うから、フレッシュや来年以降のリーグ戦でプレーしている姿を見れることを楽しみにしてます。フレッシュ終わったら、また少人数班会しよう!
よしこうさん(R8卒)へ
先輩方の中でも、特によしこうさんには一番お世話になったと思います。野球面でのアドバイスはもちろん、食事にも何度も連れて行っていただき、本当にありがとうございました。
同じヤクルトファンとして、藤原とはいつもヤクルトの話題で話していたと思います。また一緒にヤクルトの試合を見にいこう!
同期へ
キャプテンの堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)を中心に、他の代と比べてもまとまりが強かった代だと個人的には思っています。同期のみんなと一緒に野球できて本当に良かった!
野球人生を通じて、ここに書ききれないほど多くの方々にお世話になりました。この場を借りて、心よりお礼申し上げます。
こうして振り返ってみると、野球というスポーツに出会えて本当に良かったと思います。野球を通じて人としても成長できましたし、何より、かけがえのない仲間に出会うことができました。これからも大好きな野球を続け、楽しんでいきたいと思います。
次回は、主務としてチームを支えてきた堂埜(4年/主務/湘南)の僕人です。夜遅くまでマネ室に残って仕事をしている彼女には、尊敬の気持ちしかありません。そんな彼女が僕人に何を書くのか、今から本当に楽しみです。お楽しみに!
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次回は10/20(火)、堂埜智咲紀主務を予定しております。
主将 


