『僕の野球人生』vol.31 横山 景一 副将
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.31 横山 景一 副将(4年/内野手/新潟)



いつも手でひげを抜いている門田くん(4年/副将/内野手/松山東)からバトンを受け取りました、副将の横山です。彼は全部手でひげを抜いているので人生で一度も顎髭を剃ったことがないらしいです。恐ろしいですね。そんなしょうもない話はさておき、いよいよ「僕の野球人生」を執筆することになってしまいました。あと数日で引退ということで、恐ろしいです。ここまでのみんなのように読書経験が豊富なわけではないのでおそらく読みづらい文章になりますが、せっかくなので最後まで読んでください!
僕が野球を始めたのは五歳のころ、3つ上の兄と一緒にWBCで日本代表が韓国代表をボコボコにするのを見たことがきっかけです。低学年のころは普通に捕れる球をわざとダイビングキャッチして褒めてもらおうとしたり、母親や父親と公園に練習をしに行っては何かにつけて不機嫌になり帰りの車内の空気を悪くしたりするという典型的なクソガキでした。(今でもアンガーマネジメントは苦手なので大して成長していないのかもしれません。)ただ野球は比較的うまく、小6の時は後に長谷川(2年/外野手/新潟明訓)も加入することになる県選抜(もどき?)に選ばれて台湾で試合をするなど(当時はショートでした)、前途有望な選手でした。中学では軟式野球部に入部し、一年次は田辺先生と岩田先生の下、のびのび(だらだら?)と野球をしていました。
ただ二年生になるとどうやら凄腕らしいと噂の大野先生がやってきました。大野先生はすごく怖く個人的にはびくびくしていました。挨拶などの礼儀にとても厳しかったし、練習量も多く、遠征に行きまくった記憶があります。先生の厳しい指導の甲斐あり、新チームになるとチームはメキメキ強くなり、3年春と夏の県大会で優勝しました。僕はエースでキャプテン、MAX134キロ(おそらく誤計測)という華々しい実績を積むことができました。また県選抜にも選ばれ(登板の機会はほとんどありませんでしたが)現西武の滝澤(勝手に名前出しちゃいますごめんなさい)と一緒にプレーするなど、貴重な経験ができました。
今思い返すと、この時から本当に野球が上手い人との壁を感じるようになったのだと思います。当時は目をそらしていましたが、「野球で食べていくのはムリなのかもしれない」と思うようになりました(当時の自分の感情を思い出すのは難しいので、今になってそう思っているだけかもしれませんが)。またこのころ、進路を新潟高校に決めました。兄の代で日本文理を倒したこと、進学校で21世紀枠で甲子園に行きやすそうだと思ったこと、文武両道ってなんかかっこいいなと思ったことが決め手でした(選抜チームのチームメイトのように本気で野球に打ち込もうとする勇気がないことも影響したかもしれません)。今ではそんな短絡的に進路を決めたことを深く後悔しています。
無事入試を突破し、自分が高校を甲子園に導くぞと意気込んで入部しました。ただ高校入学後、その意気込みは一瞬で消え去ってしまいました。グラウンドに絶えず響き渡る怒号や学校生活まで管理されるような環境に全く適応できませんでした。初日で転校したいと思いました。実績だけはあったので超有望選手として期待されたものの、高校レベルでは大した球速もなく、コントロールも悪い凡ピッチャーでした。当時を振り返ると、僕は大した実力も度胸もない、ちょっと成功体験を積んだ分調子に乗っている質の悪い勘違いイキり野郎だったと思います。監督・副顧問からしたら、期待外れだったに違いありません。監督や副顧問からはその様子をひしひしと感じました。監督からは「お前にはがっかりだ」とかなんやらもういっぱい言われました。もちろん実力不足であることは確かでしたが、四六時中自分への失望を感じるその雰囲気や発言は15歳の僕には耐えられないものでした。この時期は特につらかったです。野球部以外のクラスメイトは当然のこと、自分より数十歳年上の通学路の土木作業員の方々やゴミ収集の業者さんなど、自分以外の全員を羨望しました。次の日が来るのが怖くて電気をつけたまま寝たり、真っ暗なお風呂に入ったりするなど異常行動を繰り返しました。甲子園なんてマジでどうでもよくなっていきました。日々を安全に生き抜くこと、それだけが目標でした。入部1か月で「引退まであと〇か月」のカウントダウンを始め、その数字が2とか3の先輩をうらやみました。
ただ、秋ごろには急にピッチングもバッティングもよくなり(腹をくくったのかも知れません)、一年秋には投打に主力選手として扱われるようになりました。チームが2回戦くらいで負けてしまいマウンドに上がることはありませんでしたが、やっと自分のプレーができる、そう思い、少しはメンタルが回復していきました。しかし2年春、コロナ禍で自主練をしすぎ、肩を怪我してしまいました。コーシロー(WR/ノジマ相模原ライズ)は俺と練習しすぎた責任を感じていると言っていた気がするが別にそんなことはない、自分のせいです。部活再開の一週間前という最悪のタイミングでした。焦りから復帰の時期が尚早になってしまい、症状が悪化しました。そこから現在に至るまで、肩の痛みが消えたことはありません。無痛でボールを投げられた日は結果的に一日もありませんでした。そんな未来を知るよしの無い16,7歳の僕は、「秋大会になったら・・・」、「春大会になったら・・・」、「最後の夏こそ・・・」、とか言ってけなげにリハビリを続けていました。肩を痛めてからの部活はさらに憂鬱でした。バッティングはそんなに好きでも得意でもないし、ひたすらに肩は痛いし。
結局塁間も届かないくらいの肩痛を抱えたまま最後の大会へ入りました。4番レフトで出場しましたが晩年の金本よりも弱肩。チームは、春はベスト4までいったのに夏は3回戦で敗戦しました。負けるなんて思っていなかったからみんな呆然としていました。ただそんな状況でも、悔しいとか悲しいとかは全く思いませんでした。高校野球という地獄からやっと解放される。思ったのはそれだけです。ただ、ベンチに入れなかったサカヅメ、ハズキ、カイセイ、リョウ、シンイチロウらの表情を見ると、大変なことをやってしまったなと思いました。こんな状況になっても引退による身の安全に安堵する自分の小ささに愕然とすると同時に、みんなと一緒に泣く資格なんてないなと思ってすぐ泣き止みました。おぼろげながら覚えているのは、女性の記者に取材されて(一応その日は2長打だった)、「東大で野球をやります」と言ったことくらいです。次の日の新聞に小さく載っていたらしいです(真偽不明)。
散々な高校生活を経て部活は大嫌いでしたが、野球は好きなままでした。惰性だったけどコーシローやイクム、シュウヤ、(一応ショウゴも入れときます、武田塾に通っていたから居ないことが多かった気がするけど)とナイターが消えるまで自主練したし、コロナ禍で学校が閉まっているのに忍び込んで練習もしました(多方面に迷惑をおかけしましたが)。同期といるのが楽しかっただけかもしれませんが、ただみんなと一緒に自主練するのは楽しかった記憶があります。
そして、絶望的な肩の状態でもまだピッチャーがやりたい気持ちは消えませんでした。高校でほとんど投げていないせいで、自分の投手としての記憶は中学時代の無双状態で止まっていて、大学でゆっくりリハビリすれば活躍できるだろう、そんな自信(慢心?)がありました。また、高校野球を全力でやりきらなかった自分に煮え切らなさを感じ、「ケガしてなかったらもうちょい・・・」といった言い訳ができないまでに野球をやりきろう、そう決心し、東大野球部を目指すようになりました。受験は大変でしたが、一浪した末なんとか合格を果たすことができました。
入学後、一年は丸丸リハビリに費やし、だんだんと球が投げられるようになった二年目、この年は自分にとって飛躍の年でした。フレッシュ、七大戦、リーグ戦など、下級生ながら多くの出場機会をいただきました。秋の開幕戦の前日に背中を痛めたせいで(言い訳です、ごめんなさい)リーグ戦初登板は散々でしたが、二年秋にリーグ戦デビューという事実。思っていたよりも順調に進んでいるように思いました。特に印象に残っているのは春のフレッシュトーナメントの慶應戦です。同大会でチーム最多イニングを投げることができ(たったの3 2/3イニングでしたが)、慶應打線に立ち向かえたことは自信になりましたし良い経験でした。見に来てくれたシュウヤ、シュンスケ、サカヅメ、ありがとう。
ただ秋のリーグ戦終盤、肩がついに限界を迎えてしまい、離脱することになりました。「来春は主力投手として」と意気込んでリハビリをしましたが、結局一冬超えても治りませんでした。リハビリメニューをこなしてもそのせいで痛みが増幅することもあり、にっちもさっちもいかない状況でした。夏の期間を経てすこしずつ投げられるようになったため夏は数試合登板しました。しかし大事な試合(東海大戦だったでしょうか)をコンディション不良でスキップし、結局リーグ戦ではずっとスタンドでした。この時期は肩が痛すぎて、毎試合「この試合で引退しよう」と思っていましたし、リーグ戦に間に合わないと悟っては寮の部屋で一人で泣いていました。そんなこんなで春秋の2シーズンまるまる休んで3年生が終わりました。
自分の代になり、副将に就任しました。副将をやろうと思ったのは、普通に勝ち点を取る組織になりたい、いつまでも一勝や二勝でチヤホヤされる組織なのはダサすぎると思ったからです(今でもそう思っています)。一点にこだわる組織、接戦を勝ち切る組織を目指して、かなり恥ずかしかったですが学年の前でプレゼンもやりました。個人的には春の勝ち点獲得に貢献できたプレゼン、施策だったと思っています。一方で個人としては、新チーム発足時から自分がもう一度マウンドに上がる未来はあまり見えませんでした。もちろん頭の表面では、なんとかもう一回リーグ戦で活躍したい、勝ち点を取る瞬間のマウンドにいたいと思っていました。しかしそれは自分(の身体)にとって現実的なものでないことがわかっていました。3月くらいまでリハビリを頑張り続けてその姿を後輩に示し、スパっと学生コーチになろうという気持ちがあり、そっちの方がチームが強くなるだろうとも思っていました。
ただ、変なタイミングで転機が訪れました。12月、地元の子供向けの野球教室で僕がロングティーを披露すると、監督が僕に野手転向を(最初は冗談半分でしたが)勧めてきたのです。そのタイミングでなかったら、その話には乗らなかったと思います。ただ、「このままピッチャー続けるよりは野手やったほうがいいかもな」と思った自分がいて、そう思った時点で、自分が投手としての未来を想像できていないことをはっきりと自覚しました。また、毎日を後ろ向きに、治る見込みのない肩のリハビリだけに費やすことに辛さを感じていたことに加え、「野手だったら活躍できたかもな」という後悔(プライドの高い自分なら根拠もなくそう思いあがりそうなものです)を抱えたまま野球を終えるのは嫌でした。
結局年明けからバッティング練習に参加し、ほどなく野手専念のお達しが出ました。大して打てもしないのに長崎合宿に行き、それ以降これまでずっとAチームに帯同しています。監督・助監督はすごく期待してくれて、結果が出なくても我慢して使っていただいたと思います。本当に感謝しかありません。
野手に転向してからは本当に楽しい日々を過ごすことができました。相当練習したし、その分うまくなれました。22歳ってこんなに成長するんだ、と感じるほどには上達しました。遠軽合宿などは打てなさすぎて本当につらかったですが。そして、運よくリーグ戦の舞台にも少なからず立つことができました。中山さん(R8卒)や杉浦さん(R8卒)、持永さん(R8卒)、ショウゴ、アキヒトやリンタローなど(ヒビキも先日見に来てくれました)、いろんな人に喜んでもらえたことが本当にうれしかったです。もちろん楽しいだけではないこの10か月でした。本気でレギュラーを目指してももっと結果を残す選手がいたし、慶斗(荒井慶斗/3年/外野手/宇都宮)とか秋元(3年/内野手/市川)、金山(1年/内野手/安積)やブンシュン(李/1年/内野手/明秀日立)とかにはどうやっても敵わないんだろうな、とか思ってしまいます(実際そうでしょう)。ただそれでも毎日努力を積み重ねて(ほとんどの場合うまくいかないのですが)、結果が出たときの喜び・安堵は大きく、投手時代の暗いリハビリ期間や暗黒の高校時代よりは選手として生きている実感を持つことができました。
さて、この「僕の野球人生」ももう終わりに近づいていますし、僕の野球人生も数日で終わります。もう野球が終わると思うと変な気持ちになります。ここまで野球でしか進路を選択してこなかったので、今後の人生に少なからず不安はあります。ここまで熱くなれるものはあるのかな、と。ただ、自分のへたくそなバッティングの動画をチェックして萎えたり、自分のいない試合メンバーのマグネットを見て泣きそうになったりしなくて済むと思うとほっとする部分もあります。先輩方の話を聞くと、引退して数週間後には全力で生きたそんな日々が恋しくなるのだと思いますが。
考えると、夢が潰え、終わりそうになった瞬間が何度もあった野球人生でした。ただ僕はそのたび、潰えた夢から逸れた道のその先でまた夢を見て、そこに向かって努力してきましたし、その終着点がこの東大野球部という組織だったのだと思います。「あの時ああしていれば」や「あの時こうだったら」と思ったことは数えきれないくらいあります。今も気を抜くとそうやって考えてしまうし、特に「高校の時怪我をしていなかったら・・・」などは考え始めると寝つきが悪くなってしまうくらいです。ただ、まだ野球をやっている以上、それらの後悔はいくらでも「あの時ああしたから」や「あの時こうだったから」に更新できる、そう思ってここまで頑張ってきました。そっちの方が過去のことを引きずってくよくよするよりも方がかっこいいとも思いますし。
ひょっとしたら野球選手としては、一つ一つのターニングポイントではずれを引くことの方が多かったかもしれません。ただ、「僕の野球人生」は絶対に他の誰にも真似できない、自分にしかたどれないものだったという自負がありますし、そんな道を歩み切った自分を、今では心の底から誇りに思っています。出会いに恵まれ、様々な人に支えられた野球人生でした。関わってくださったすべての人に心から感謝しています。
最高に辛く、最高に幸せな野球人生でした!
ここからは感謝パートです
監督・助監督
僕に期待して、我慢して使っていただき、本当にありがとうございました。ほとんど期待を裏切ってしまいましたが、お二人のおかげで悔いのない野球人生を送ることができました。
同期へ
みんなと野球ができて、このチームで野球を終えられて、僕は幸せ者です。ありがとう。
高校同期へ
みんなにはいまだに申し訳なさと感謝でいっぱいです。一緒にいるときはそんな感じを出さないけど、(イクムやタキグチさえも含めて)尊敬できるかけがえのない仲間です。今度は全員で旅行に行こう。
リンタローへ
心の底から俺を応援してくれてありがとう。お互いにいろんなものを抱えながら、苦労の方が圧倒的に多い野球人生だったと思う。いっぱい語ったけど叶わないことだらけだったことが心残りです。これからもよろしく。
アキヒトへ
俺を応援してくれてありがとう。あんまり野球に関してなにも言ってこなかったけど、応援してくれる気持ちは伝わっていました。その塩梅がちょうどよくて、本当に助けられた。わざわざ神宮まで応援に来てくれて本当にありがとう。またすぐ話そう。
ケンタカ関東組(非野球部含む)へ
みんなといる時間だけは、つらいことを忘れられて本当に心が休まりました。みんなが地方に散らばった最後の一年は結構しんどかったです。これからもよろしく!
全学生コーチ、学生トレーナー(+佐渡島(3年/マネージャー/私立武蔵))へ
チームのために夢を諦め、支えてくれてありがとう。みんながあってのチームです。文字通り全員、本当にありがとう。
川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)へ
チーフとしてここまでチームを支えてくれてありがとう。
(プライベートは置いておいて)責任感と選手を大切にする姿勢、全員に伝わっていたと思います。
本岡(4年/学生コーチ/基町)へ
本岡は本当に神だと思っています。春の勝ち点は本岡のおかげです。嫌な顔一つせずみんなの練習に付き合ってくれて本当にありがとう。将来悪い人に騙されないように!
先輩方へ
本当にいろんな方に応援していただけて幸せでした。絡みにくい後輩だったとは思いますが、野手転向後も多くの人に励まされ、初打席の時も初ヒット()の時もラインをくださったり食事に連れて行ってくださったりして、愛を感じました。
堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)へ
キャプテンは門田がいいとか言ってごめんなさい。あと、話が長すぎるときに露骨に不機嫌になってごめんなさい。
堀部がキャプテンでよかったです。堀部と一緒に幹部をやれてよかった。
9年ぶりの勝ち点獲得にふさわしいキャプテンだったと思う。ありがとう。
北翔(大森/3年/投手/一宮)へ
仲良くしてくれてありがとう。北翔の初登板を見たのがスタンドだったのがすごく悔しいです。チームの勝利に貢献できる力があると思うから、引き続き頑張れ!
横田(3年/マネージャー/湘南)へ
なにかあったらいつでも相談してくるように。僕も相談します。
来季のチーム運営頑張れ。応援しています。
髙村(1年/投手/新潟)へ
(受け継がれているか心配ですが)丈夫魂を胸にがんばれ。あとはもう少し垢抜けるように。
兄へ
対照的に見えて、結構似た兄弟だったと思います。一緒に野球を始めてくれて、和室野球をしてくれて、いっぱい試合を見に来てくれて、ありがとう。
両親へ
野球をやりきらせてくれて本当にありがとう。良い時も悪い時も、変わらずに応援してくれて、本当に助けられました。ここからちゃんと孝行します!
以上!
明日の「ぼくじん」はついにラスト、TEAM2026のキャプテン堀部くんです。思いが溢れすぎて話が長くなりがちな彼のことですから、きっと過去に類を見ない超大作になっていることでしょう。お楽しみに!
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次回は10/23(金)、堀部康平主将を予定しております。
主将 


