ラストシーズンに懸ける想い!その33<竹下寛人>
こんにちは。
雪谷高校出身、学生コーチの竹下寛人です。
私のラストシーズンにかける想い。それは、「日本一という最高の形で野球人生を終えること」です。ありがちですが、これに尽きます。
最後に日本一になれば、これまでの選択も失敗も苦悩も葛藤も、もがき苦しんだ日々も、すべてを正解にできるからです。そして両親をはじめ今までお世話になった人たちへ、結果で恩返しすることにもなります。そんな想いに至った経緯を、自身の野球人生を振り返りつつ、今回だけはふざけずに、真面目に綴ろうと思います。
また、私の野球人生にハッシュタグをつけるとしたら、#甲子園出場経験無、#非進学校、#都立校出身、#一般入試、#浪人、#スイッチヒッター、#主将解任、#イップス、#ガーナで瀕死状態、#難病児支援、#学生コーチ、あたりでしょうか。1つでも興味のあるワードがあれば、全てを詳細にはかけておらず、また読みづらく稚拙な文章となってしまいましたが、その部分だけでも読んでいただけると幸いです。全国から集うエリート集団の中で、決してエリートではない自分のような経歴の者もいることを知っていただければ本望です。
『意志あるところに道は開ける』
この言葉を胸に、強い憧れを抱き門戸を叩いた慶應野球部での日々があっという間に過ぎ去り、終わりを迎えようとしています。野球を始めて約14年。酸いも甘いも経験してきました。比較的上手くいっていた高校の途中までとは対照的に、それ以降は結果を出せず地獄のような日々を過ごした記憶しかありません。それでも数あるスポーツの中で野球を選んで良かったし、続けてきて良かった。本気で続けてきたからこそ、上手くいく人だけでなく、本当に苦しむ人の気持ちや痛みが分かるようになりました。
野球を始めたきっかけは、体育会系の父親と3歳上の兄の影響です。幼い頃から、冬でも半袖半ズボンで、鼻水を垂らしながら公園で走り回わるような子供でした。それほど体を動かすのが大好きだった私は、これまで野球以外にも水泳、剣道、フットサル、バスケ、陸上、など様々なスポーツを経験してきました。水泳ではジュニアオリンピック出場、陸上では中学時代に区大会で100M等複数種目で優勝。代表として関東大会まで進出。他競技を極める道も考えた中で野球を選んだのは、1番プロになれる可能性があるかもしれないと思ったのに加えて、同じく野球をやっていた文武両道の兄を超えたかったからです。スポーツで競争に勝つこと、1番になることが生きがいで、その瞬間は周りの注目を一気に浴びて自分を証明できる至福の時間でした。野球はその中の1つでした。
小学時代
小学3年生の夏、3歳上の兄の背中を追いかけ地元の少年野球チーム「中根メッツ」に入りました。とにかく朝が苦手で、眠い目を擦りながらグラウンドに向かっていた記憶があります。早起きが嫌すぎて何回辞めたいと思いました。当時15.6チームほどあった目黒区リーグの中で万年最下位を争っていたような弱小チームで、勝つことは滅多にありませんでした。それでも、試合でホームランを打ったり三振を奪うだけでなく、練習で自身の上達を実感するのが楽しかったです。
中学時代
中学生になり近所の世田谷西シニアという強豪シニアに入ることも考えましたが、両親の勧めで兄と同じく「目黒ピータース」という軟式のクラブチームに入りました。元プロ野球選手の監督と出会い、野球選手としての土台をつくってもらいました。もっと上のレベルでできるかもしれないという自分に対する期待感や目標も持たせてくれました。また、学校の陸上部の練習が月水金の週3日、野球の練習が火木土日の週4日、計週7日練習という労働基準法を度外視した様な生活を送っていました。
挫折と進路選択
3年の夏。セレクションを突破し、東京選抜の4番捕手として全国大会に出場しました。走攻守すべてに自信があったのですが、U15日本代表には選ばれず、世代トップの選手たちを目の当たりにして、天狗になっていた当時の自分は井の中の蛙であることを痛感させられました。負けたという悔しさと同時に高校では彼らに勝ちたいという欲求に駆られ、真剣に進路を考え出しました。声をかけていただいた15校ほどの誘いを断り、最終的に都立雪谷高校への入学を決めました。都立校で史上初のセンバツ甲子園出場を果たした兄を超えたい思いがありました。そして、そのチームでエースだった伊藤優輔さん(現福岡ソフトバンクホークス)に憧れました。オール東京の先輩でもある伊藤さんが、環境や実力では劣る都立校を率いて強豪私学を撃破していく姿に強く心を動かされました。周りの人からは反対されることもありましたが、「他の人と同じじゃつまらないし、誰もやったことがないことがしたい。」「どこにいっても結局は自分次第で環境は関係ない。」根拠のない自信に満ちていました。
高校時代
スポーツ推薦で都立雪谷高校に入学。運良く入部直後からAチームに帯同し出場機会をいただきました。授業中も登下校中も、どうしたらもっと打てるか、もっと強い球を投げられるか、そればかり考えていた記憶があります。しかし、そんな自分と周りとの温度差に戸惑いを感じる部分がありました。高校で野球を辞める選手の方が多く、卒業後の進路も野球で決めようと考えていた自分にとっては、競争に勝とうとするまわりの意欲や熱量の低さに嫌気が差し、独りよがりになってしまった時期もありました。そのせいで、全部員の投票で選んでもらった主将を一度解任されたこともあります。生まれや育ちが違えば価値観も違うのは当たり前、野球に何を求めるのかも違う。多様なバックグラウンドや価値観を持った人たちを尊重すること、人として大切なことを学んだと思います。
スイッチヒッター再開
中学1年生から続けてきたスイッチヒッターは高校では通用しないだろうと思い、右打ちに専念していました。ところが2年の春。練習中に、偶然左でティーを打っていた姿がコーチの目のとまり、左の方がスイングが綺麗だと言われ左打席にも立つようになりました。そして1ヶ月もしないうちに偶然試合でホームランを打ったことで、本格的に両打を再開しました。スローイングの調子も良く、2塁送球が1.8秒を切ることもありました。まだまだ自分はこんなもんじゃない。そう思っていました。
イップス
入学してから常に肘が痛く右手に力が入らなくなることもよくありました。大したことないだろう。そう思い騙し騙し肘を庇って投げていたところ、2年の冬頃から肩も痛み始めました。だんだん投げ方が分からなくなっていきました。暴投を恐れ腕が振れない。痛みが出ない投げ方を模索しているうちに、もっと投げ方分からなくなりました。2塁送球はスライダー、投手までの返球は届かず、セカンドやショート方向に投げてしまうこともありました。周りに指摘されて始めて、自分はイップスだと気付きました。もう手遅れでした。野球の中で1番好きで得意だったはずの投げることが、1番怖くて嫌いになってしまいました。人生で初めて野球が嫌いになりました。グラウンドに出るのもしんどくて、本気で野球を辞めようと思いました。
絶望のどん底
本来のスローイングが戻ることはなく、最後の大会は代打のみでの途中出場に終わり、チームも敗退。絶望のどん底でした。周りの反対を押し切りこの高校に進学し、3年間を野球に捧げてきた。それなのに、最後は甲子園出場どころか試合にもあまり出られずに終わってしまいました。中学時代の友人や声をかけてくれた高校は軒並み甲子園に出場し、活躍してる人もいました。自分の選択や頑張りは何だったのか。意味なかったのか。間違いだったのか。そんな思いが頭から離れませんでした。怪我やイップスに苦しみ、自分の力を出し切れなかった悔しさ、情けなさ、無力感、今まで支えてくれた親への申し訳なさで頭がいっぱいでした。最後の大会で負けた日から1ヶ月程は正直記憶がありません。部屋から出られず、ただ時間だけが過ぎていきました。
浪人期は「只管打坐」を掲げ、携帯を解約。外では音楽しか聴けない状態にして、毎日9時から22時まで予備校に籠って勉強する日々。周りは大学生活を謳歌している中、自分は早慶戦という目標へのスタートラインにも立てていない。同期や知り合いの中には、早くからリーグ戦に出場し活躍してる人もいました。劣等感や悔しさしかありませんでした。しかしその悔しさや劣等感がエンジンとなり、辛く苦しい孤独の日々をなんとか耐え抜くことができました。
一度は別の大学に進み、単位をとり、アルバイトをしながら会計士の勉強をしていました。それでも「早慶戦」を諦めきれず、再受験を決意。紆余曲折あったものの、臥薪嘗胆の末に見た「合格」の2文字は一生忘れないと思います。もう一度挑戦して本当に良かった。後悔なんてあるはずがありません。
大学時代
ようやく入部したものの、まわりのレベルの高さと、とてつもなく大きな理想と現実の乖離に、何度打ちひしがれました。
1年目は落ちた体力を取り戻そうと、フィジーカーのごとく体づくりに専念しました。技術獲得のためにもある程度のフィジカルが必要だと思ったからです。そのため全体練習とは別に、週4,5日のウエイトトレーニングと食事管理を徹底しました。食事に関しては、自分で管理したくてあえて寮には入らず自炊しました。1日の最適なPFCバランスを模索し、体脂肪率を1桁で保つようにしたこともありました。
2年生になり、打球速度が20キロ以上あがるなど、増量や体づくりの成果が目に見えるようになったと同時に怪我が増えました。肉離れや靭帯損傷、網膜剥離などの突発的なものから、胸郭出口など慢性的なものにも苦しめられました。怪我人リストには1年中自分の名前があったと思います。怪我が治り出場機会をもらっても打席では四死球の嵐。
「せっかくここまで来たのに、俺の野球人生はこうやって終わっていくのか。」
行き場のないやるせなさに、腐りかけたこともありました。しかし、長らく競技から離れていたのだからすぐに結果が出ないのは当然。上級生になってチャンスが来た時に備えようと、リハビリやウエイトなどできことを継続しました。
しかし3年になっても胸郭出口が完治することはなく、痛みや痺れで右腕が上げられなくなることもありました。また、イップスは軽減したものの、かつてのスローイングの出力や感覚が戻ることはありませんでした。毎日「選手引退」が頭から離れませんでした。でもそこには、不思議とネガティブな感情だけではありませんでした。それは、真摯に野球に向き合う同期や先輩後輩たちの姿を間近で見てきて、そんな彼らのサポートができることもそれはそれで幸せなことではないか、という感情が芽生えたからです。しかし、浪人と仮面浪人までして追い続けた「早慶戦」という夢を、ここで諦めていいのだろうか。これまで多くの迷惑や心配をかけても支え続けてくれた親は何て言うのだろうか。
3年生の夏、ガーナでの1ヶ月は、食中毒で死にかけながらも、言葉や文化の違う子どもたちに、得意な野球を教える楽しさを知った時間でした。
3年生の秋には、難病の子どもたちを早慶戦に招待する企画を実現しました。幼い頃から身近に障害のある子がいたこと。自分自身も怪我やイップスで思うようにプレーできなかったこと。そして浪人中、大野晴人くんの始球式を見て勇気をもらったこと。そんな経験が重なって、「野球人生を終える前に、自分がお世話になった野球を通して、誰かの力になりたい」と思うようになりました。米国研修で学び、毎週のように睡眠時間を削り資料作成やメンターの方とMTGを重ね、ようやく企画を形にすることができました。
そして代が変わり、新4年生になっても決めきれなかった私の背中を押したのは、面談での監督の言葉でした。「たとえ大谷翔平選手でも、全部が思い通りにいってる訳じゃない。それを肥やしにして、自分なりに納得して次に繋げている。」長年アマチュア野球界の第一線を走り続けてきた名将の言葉は、自分には充分すぎるほど重く深く心に響きました。
学生コーチになって1番嬉しかったのは、4年生の成長を感じたことです。入部前から共に九段下工房で汗を流し、入部当初もいがみ合ってた筒井俊介(4年・内野手・県立船橋高校)や山口龍之介(4年・内野手・大分上野丘高校)が、今では最上級としてBチームの下級生を引っ張りながら直向きに練習しています。大きくなったその背中は本当に頼もしくてかっこよかったです。
親からのLINE
春のリーグ戦を優勝で終えた直後、親から長文LINEがきました。普段あまり連絡を取り合うことはないため、珍しいなと思い見てみるとそこには感謝の言葉が書かれていました。
「寛人が諦めずに夢を追いかけ続けてくれたおかげで、六大学野球という新しい世界をみることができた。本当にありがとう。素晴らしい仲間たちと完全燃焼できるよう最後まで頑張れ。」
ざっくりそんな内容でした。私は男三兄弟の次男で三人全員野球をやってきました。親は朝4時や5時に起きて、自分たちの弁当をつくり、送り出し、仕事に行く。帰ってきたらまたご飯をつくる。そんな生活を15年以上続ける姿を近くで見てきた自分は、「親のためにも必ず結果で恩返ししなければいけない」そう思い頑張ってきました。しかし、大学では怪我を繰り返し、結果も出せず、納得した決断ではあるものの学生コーチに転身。もう一生、神宮球場でユニフォームを着てプレーしてる姿を見せることができません。これまでたくさん迷惑や心配をかけ続けてきたのに。こんな親不孝な息子で本当にごめんなさい。そんな申し訳なさや情けなさを心のどこかにずっと抱え続けていた中でのこのメッセージでした。普段あまり感情的になることがない自分の目からは、気付かぬうちに涙が流れていました。何年振りだったか、思いがけない形ではありましたが、素晴らしい仲間たちのおかげで少しは親も報われたのかなと思うと、少しだけ肩の荷が降りたのと同時にチームメイトへの感謝でいっぱいでした。本当にありがとう。
学生コーチへの感謝
学生コーチが足りなかった中で、谷口航大(4年・学生コーチ・慶應義塾高校)、三瓶遼斗(4年・学生コーチ・慶應義塾高校)、阿南正輝(4年・学生コーチ・桐蔭学園高校)、宮腰悠生(4年・学生コーチ・慶應義塾高校)らが早くから学生コーチへの転身を決め、最後までチーム軸で頑張ってくれました。そんな彼らを近くで見てきて、彼らがいたからこそこのチームは回ったと思いますし、春の全日本大学野球選手権大会準優勝に繋がったと思います。もちろん学生コーチだけでなく、マネージャー、トレーナー、アナリストなど、スタッフらの支えがあってこの組織は回っています。自分が知らないところで、たくさんの人が動いてくれてるから当たり前のように野球ができていたこと。そのことを改めて実感させられました。本当にいつもありがとう。
4年間を振り返ってみて、この塾野球部は本当に素晴らしい組織だと思います。もちろん、細いいざこざやここに書けないことはたくさんあります。しかしそれを差し引いてもこんなにレベルの高い集団は日本中を探しても無いと思います。高いレベルで野球も勉強も頑張るし、他人を尊重できる。ギャグセンもあって冗談も通じる。愛嬌もあって華もある。自己研鑽に励みながらも組織の規律を守り共に高め合える。そんな組織に身を置けた4年間は本当に幸せでした。
特に塾野球部同期に対しては、特殊なバックグラウンドを持ったこんな自分を受け入れてくれて、いじってくれて、笑ってくれて、本当にありがとう。感謝しかありません。みんな尊敬してるし、大好きです。
両親をはじめ中根メッツ、目黒ピータース、オール東京、雪谷高校、慶應義塾大学、これまで関わり、支え、応援してくださった方々へ。
本当に本当にありがとうございました。
三橋隼騎(4年・学生アナリスト・船橋東高校)のサポートでも何でも、最後まで自分にできることを全力でやり切ります。
みんなで日本一になってパレードしましょう!

主将 


