ラストシーズンに懸ける想い!その31<齊藤光汰朗>
こんにちは。
仙台三高校出身、学生コーチの齊藤光汰朗です。
「どれくらいの値打ちがあるだろう 僕が生きているこの世界に」
好きな曲の歌い出しです。
私は昔から、自分の「値打ち」を気にして生きてきた節があります。人より上手くありたいし、認められたい。振り返れば、私を前に進ませてきたのは、いつだってそんな不純なエゴでした。人と比べることで生まれる劣等感は、悔しいほどに燃費が良かったです。
けれど、ラストシーズンを控えた今、そんな私も少し変わったように思います。
そんな4年間を、少しだけ振り返ってみようと思います。
入部テストを終え、ようやくスタート地点に立った私を待っていたのは新人トレーニングでした。受験勉強明けの身体には、随分とこたえました。そんな日々の拠り所は、高関寮でした。2年生の寮長・近藤大翔さん(2026年卒)、高橋秀彰さん(2026年卒)、濵松圭太さん(2026年卒)、藤田俊平さん(2026年卒)、勝野淳さん(2026年卒)、そして私たち1年生。それまでほとんど出会ったことがなかった関西出身勢も多く、寮の食卓はいつも賑やかでした。
ある日の早朝練で、足上げ腹筋の直後にグラウンドで盛大に吐きました。その日の夜、食卓に行くと朝の一件は私より先に話題になっていました。だが私も笑っているうちに、惨めさやしんどさはどこかへ消えていきました。寮暮らしでなければ、きっと日吉のぎょしんでいつものネギトロサーモン丼を食べ、部屋でふて寝して終わっていたと思います。
高関寮を何十年も見守り続けてきた寮母のゆみさんには、私が自分でさえ気付かない心の機微まで筒抜けでした。MBTIなど到底及ばない洞察力で一人ひとりの性格を見抜き、くだらない愚痴から青臭い恋愛相談までなんでも聞いてくれました。
5時半から早朝練がある日は、私たちが起きるよりずっと前、まだ外が暗い4時台から朝食を作ってくれていました。僕たちのおかずの切れ端をよく食べに来ていた、随分とガタイの良い猫は今も元気にしているのでしょうか。ゆみさん、本当にありがとうございました。
ルームメイトは三瓶遼斗(4年・学生コーチ・慶應義塾高校)。連日5時半からの早朝練に備え、2人して20時には部屋の電気を消していました。「小学生より早寝」とか言って布団に入った夜も、今となっては恋しいです。あの頃のアラームはYOASOBIの「もう少しだけ」でした。死ぬ間際にあのイントロを流されても、僕はきっと高関寮2号室の二段ベッド上段を思い出すと思います。
下級生の頃は、フィジカル強化のことばかり考えていました。食事はいつしか「栄養摂取」になり、好きでもないものも食べ続けました。スポーツフードマイスターの資格も取り、自分の身体を実験台に、得た知識を片っ端から試しました。そうして53kgだった体重は1年弱で81kgになりました。着られない私服が増えていくことさえ嬉しかったです。この頃はよくステロイドの使用をいじられました。(もちろん使っていないです。)
しかし、現実はそう単純ではありませんでした。どれだけ努力しようが、肝心なのは野球の実力です。怪我もあり、思うようにはいきませんでした。OP戦の最中、怪我人としてネット裏から眺める下田グラウンドは、インスタントカメラのように淡かったです。かつてマウンドから見下ろした芝生は、もっと青々としていた気がしました。
そうこうしているうちに就職活動も始まり、インターンなどで練習を欠席せざるを得ないことも増えました。振り返れば当時の僕は、野球が満足にプレーできない現状から目を逸らし、別の場所に自分の価値を求めていた節がありました。学年ミーティングで、皆の前で謝ったこともありました。
そんなやるせなさを抱えながら、新チーム発足時に学生コーチへの転身を決めました。怪我で復帰が難しい現状を踏まえ、2ヶ月ほど悩んだ末の決断でした。
学生コーチになると、グラウンドに立つ時間はむしろ長くなりました。全体集合前にはもう誰かがいて、練習後もボールを握る選手がいました。オフの前日のウエイトルームにも、必ず誰かがいました。皆んな、野球に懸けていました。でもだからこそ、学生コーチという立場は怖かったです。私の何気ない一言や一つの意思決定が、誰かの大学野球を左右するかもしれないからです。
迎えた春のフレッシュトーナメント。6連覇を逃し、チームは3位に終わりました。負けた法政大学戦後の試合後ミーティングで、本多大輝(2年・投手・県立長野高校)が皆に頭を下げていました。何か声をかけなければと思いました。でも何を言えば良いのか分からず、絞り出せたのは「秋、頑張ろう」の一言だけでした。
帰りの銀座線で「まただ」と思いました。あんな言葉しかかけられない自分が情けなかったです。毎日これだけ近くにいるのに、私はまだ選手たちとの間に踏み込めない距離を作っていました。だから、せめて誰よりも選手を見ようと思いました。メンバーに入る選手だけではなく、ネット裏にいる選手も、試合を支える選手も、リハビリに励む選手も。
これが、私の価値観が利己的から利他的へ切り替わった瞬間でした。自己犠牲への忌避が静かにほどけていきました。
野球人生の幕引きが見えてきた今、もう一つだけどうしても触れておきたい場所があります。それは高校野球です。
思えば、私という人間の根っこの部分は高校野球で形作られました。仙台三高校を目指したのは、公立進学校でありながら100人規模の大所帯で、私学に打ち勝つ、その気迫に心を奪われたからでした。一つ上の代には宮城県の中学野球で名の知れた選手が揃い、実際に1年生大会では仙台育英を破っていました。勉強にも野球にも本気な校風が、当時の私にはあまりに眩しかったです。
高校受験期に通っていた予備校には、仙台三高校野球部の先輩が3人いました。真っ黒に焼けた坊主頭に、泥のついたエナメルバッグを背負って現れる。その姿がとにかく格好良くて、同じ景色を見たい一心でひたすらペンを握りました。
念願叶って入学した私を待っていたのは、令和の時代とは思えないほど苛烈なバンカラ世界でした。入学直後の歌唱指導では、竹刀を手にした応援部の怒号が響き、涙を流す同級生も少なくなかったです。
そして野球部では、とにかく純二先生が怖かったです。
純二先生は、私にとって特別な恩師です。
中学までそれなりに器用に生きてきたエセ優等生の私を、初めて真正面から叱ってくれた人でした。
「大学受験は浪人できるが、甲子園に浪人はない」
進学校らしからぬその強烈な一言を受け、妙に覚悟が決まったことを今でも覚えています。
平日は朝6時過ぎからグラウンドに立ち、休日は12時間以上私たちの野球に時間を注いでくれました。職員会議がある日も、時間ギリギリまでグラウンドにいました。校内放送で純二先生が職員室へ呼び戻されるたび、「会議、毎日やってくれないかな」と思っていた気がします。
関西遠征で深夜まで続いたミーティング、グラウンドに絶え間なく響く怒号、終わらない須田トレーニング、授業間のわずかな休憩にかき込む三合タッパー、岩切での真冬10kmラン。この頃は毎日を生き抜くことに必死で、悔しさを噛み締める暇すらなかったです。
だからこそ、ごく稀に報われる瞬間はとびきり嬉しかったです。
後に甲子園に出場する磐城高校を相手に、完全試合をした日があります。最後のセンターフライが上がった瞬間を、今でもよく覚えています。毎日あれだけ野球に追い詰められていたくせに、こんな日があると全部忘れてしまいました。我ながら、なんとも都合の良い脳みそです。
あれほど自分を削り、何かを犠牲にして、一つの勝利に向かった3年間は他にないです。
怒号ばかり浴びたはずなのに、ふと思い出す純二先生の顔は、案外よく綻んでいます。二人で話すとき、ふっと緩むその表情がなにより嬉しく、無性にほっとしました。赤紺のジャージから漂う匂いを鮮明に覚えているのも、きっとそのせいです。
校舎で会う優しい純二先生と、グラウンドで鬼と化す純二先生は、本当に同じ人だったのでしょうか。今でも夢に出てくるのは、決まってグラウンドの方です。
記憶とは不思議なもので、あれほど苦しかった3年間が、今では私の揺るぎない原点です。
勝つために、いつも魂でぶつかってきてくれた純二先生。本当にありがとうございました。年末、また挨拶に伺います。
高校野球で、自分のすべてを懸けることを知りました。
大学野球で、自分ではない誰かに懸けることを知りました。
勝ちたいと渇望すること。負けることが死ぬほど悔しいこと。自分を追い込むこと。そして、自分ではない誰かのために本気になること。
野球がなければ、今の私は存在しないです。
そして、最後の秋が始まります。
4年間一緒にやってきた同期を見渡すと、本当に色んな時間がありました。思い描いていた4年間とは随分違った人も多いと思います。それでも、4年間ここを離れず、気付けば皆んなで最後の秋まで来ました。
この1年、選手を一番近くで見る側に回って、日の目を浴びる一球の後ろには、誰にも見られていない時間があまりにもたくさんあることを知りました。
だから、最後くらいは皆んなにに報われてほしいです。
もちろん、200人全員が同じ形で報われることなんてないと思います。それでも、この部にいる全員が同じ瞬間に喜べるものが一つだけあるとすれば、それは勝利だと思います。
だから、この秋は勝ちたいです。
そのために、できることは全部やりたいです。
僕の16年間の野球人生も、残りわずかになりました。
重い荷物は決まって左肩で持つ。寝るときは右肩を下にしない。
いつから始めたのかも分からない、右腕を守るための癖も、もう必要なくなります。
そう思うと、自由になれるはずなのに、ひどく寂しいです。
誰かと比べてしまうことの多い16年間でしたが、最後に残ったのは、人と比べようのないものばかりです。
値打ちなんて言葉では到底測れない、かけがえのない野球人生でした。
きっとこれからも、重い荷物は左肩で持つと思います。

主将 


