ラストシーズンに懸ける想い!その34<谷口航大>
こんにちは。
慶應義塾高校出身、学生コーチの谷口航大です。
ラストシーズンが開幕し、長いようで短かった野球人生が終わりを迎えようとしています。父親の影響で野球と出会い、真っ白なユニフォームに初めて袖を通した日から早くも15年の月日が流れました。私にとって野球はこれまでの人生そのものです。多くのお金と時間を費やしたと同時に、野球が理由で諦めたことや失ったものも少なくありません。それでも野球を選び、がむしゃらに駆け抜けた日々にどのような価値があったのか、少しばかり振り返ってみようと思います。拙い文章ですが、最後まで読んでいただけますと幸いです。
野球との出会いをはっきりとは覚えていません。ただ父が野球をしていたので、物心ついた時にはボールを握っていたと思います。また、兵庫県に住んでいたため、阪神甲子園球場によく連れて行ってもらいました。
そんな環境で育った私は、小学校に入学してすぐに少年野球チームに入部しました。とにかく野球が大好きで、上手くなりたくて、父と兄と3人でひたすら練習したことを覚えています。今思い返すと、私の“練習グセ”はこの頃に父から叩き込まれたものです。おかげでそれなりの技術が身につき、その地域では強いチームの中心メンバーとしてたくさん良い思いをすることができました。
小学4年生までは空手と野球の二刀流でしたが、神奈川に引っ越したことを機に野球一本に絞りました。1人で戦う空手とは違って、仲間と共に戦い、喜びを分かち合える野球に魅力を感じていたからです。
中学校に入学してからは、硬式野球のクラブチームに入団しました。振り返ると、このチームで過ごした3年間が、私の野球人生の原点かもしれません。
中学野球で磨かれたのは、技術以上に心でした。それは当時の監督が、野球選手としてはもちろん、1人の人間として私を育ててくれたからです。人としてできて当たり前の挨拶や返事から始まり、何事も自信を持って挑むにはどうすれば良いか、上手くいかない時にどう乗り越えるか、周囲からの信頼を勝ち取るにはどうすれば良いか、など。話すとキリがありませんが、私の人間性に対して厳しく指導していただきました。特に「周囲への感謝を忘れるな」と言われ続けたことは、自分の心に深く刻まれています。当時の私は当たり前のように野球をしていましたが、両親をはじめ、多くの方々の支えがあって野球ができていることに初めて気付かされました。自然と、両親に対する何気ない「ありがとう」という言葉が増えたように思います。
厳しく指導されることに対してうるさいと思う気持ちもありましたが、日常生活の中で監督の言葉を思い出し、我に返る瞬間が多くありました。野球の技術が上達したことも、勉強が周囲より少しだけできたことも、すべて監督の教えによって自分という人間が磨かれたからだと思います。3年間を通じて、単に技術を磨き「野球を学ぶ」ことから、人として大事なことや社会を生き抜くために必要なことを「野球から学ぶ」という考えに変わりました。
高校は、一般受験を経て慶應義塾高校に進学しました。迷わず野球部に飛び込みましたが、待っていたのは挫折です。
中学時代の日本代表や、全国トップクラスの同期が多く集まっていて、かたや私は何も箔がない平凡な選手でした。当然、入部してすぐにAチーム入りした同期に対し、私は2年間一度もAチームにいたことはありませんでした。中学時代は下級生からスタメンを経験し、常にチームの中心選手だった自分と比較して大きな挫折を味わいました。それでも乗り越えられたのは、共にBチーム時代を長く過ごした同期の存在があったからです。練習量だけは負けまいと、毎日一緒に夜遅くまでグラウンドに残りました。遠征帰りの海辺で、どうしたらAチームに食い込めるか語り合いました。コロナで部活が止まっても、近くの公園に集まって練習しました。コロナ禍で様々な制限がありましたが、間違いなく私の青春です。そんな日々を過ごし、私は最終学年でレギュラーの座を掴むことができました。苦しい時間があったからこそ、より一層試合に出場できることのありがたみと責任の重さを感じました。
一方、最後の大会でメンバーに入れなかった同期もいました。彼らはそれでもチームのために尽くし、決して嫌な顔をせず私の練習に付き合ってくれました。県大会の準々決勝で敗退し、引退が決まった時のことを今でも鮮明に覚えています。ミーティングを終えてすぐ、同期が「お疲れ様、ありがとう」と声をかけてくれました。その時、堪えていた涙が止まりませんでした。上手くいかない時期に切磋琢磨し、最後の最後まで支えてくれた同期のために勝てなかったことが、私にとって何よりも悔しかったのだと気付きました。自分のためではなく、応援してくれる人のために結果を出したかったという感情は初めてで、そう思わせてくれた同期には感謝しかないです。あれから4年経った今でも、同期と語ると泣きそうになります。(また飲みに行こうね。)
大学に進学するとき、野球を続けるか悩みました。理由は、自分の能力に少し限界を感じていたことと、海外に留学したいという思いがあったからです。しかし色々な方に相談した結果、野球を続けることにしました。理由は一つで、塾野球部という大学野球界ではトップクラスの環境かつ、世の中に名が知れた組織に身を置く事で、今後の人生の糧になる何かが得られると考えたからです。まさに「野球から学べる」ことが多くあると思いました。もちろん、やるからには自分が神宮の舞台に立って、日本一に貢献するという覚悟を持って入部しました。
大学1年生。想像よりもハイレベルな野球に圧倒されました。パワーもスピードもまるで違いました。そして高校時代と同様、入部してすぐAチームに帯同した同期に対し、私は一番下からのスタートでした。もちろん悔しさはありましたが、高校時代に下から這い上がった経験があったので全く落ち込むことはなかったです。逆に、4年かけてレギュラーの座を掴めるという自信すらありました。
最初はAチームのサポートをしながら見て学び、吉野太陽(4年・内野手・慶應義塾高校)とひたすら自主練するという日々でした。そんな吉野が今レギュラーとして試合に出ていると考えるとかなり感慨深いし、尊敬します。
1年生といえばやっぱり”神宮仕”です。塾野球部の伝統で、リーグ戦の裏方仕事を1年生が中心となって行うというものです。なぜか私がエース(リーダー)になり、仕事を取りまとめることになりました。1学年上の神宮仕エースだった二宮慎太朗さん(2026年卒)、そういえばどうして私を指名したのですか。正直に言って、大変でした。小心者の私が、まだお互いのことをよく知らない同期をまとめるなど怖くてできませんでした。しかし任されたからには、リーグ戦を戦う選手が気持ち良く試合に臨めるように全力を尽くそうという責任感だけで、必死にサポートしました。キャパオーバーで同期に当たりが強くなることもしばしばありました。本当にごめんなさい。辛いこともありましたが、とても良い経験だったと思っています。神宮仕がきっかけで廣瀬隆太さん(2024年卒・現福岡ソフトバンクホークス)をはじめとしたチームの中心選手とお話しすることができ、早慶戦の独特な雰囲気や日本一の瞬間をより近くで味わうことができました。現在リーグ戦を戦う中で、あの時の経験が生きていると感じる場面もあります。もちろん自分の練習もしていたので、当時は朝から晩まで本当に余裕のない一年でした。今思えば自分が不器用なだけだった気もしますが。
大学2年生。私の相棒は寶田裕椰(4年・外野手・三重高校)です。授業に行って、練習に出て、夜ご飯を食べて、ウェイトして、室内練習場で夜遅くまで打撃練習をする。時には、リーグ戦メンバーに入るためのプランや、自分たちの代が4年生になった時のチーム像を真剣に語っていました。そんな日々を繰り返す中で、徐々に自分の技術の成長を感じていました。フレッシュトーナメントでは全試合でベンチ入りを果たし、神宮球場でヒットを打つこともできました。チームとしても春秋連覇を達成することができ、2年後へのワクワクが止まらなかったことを覚えています。2月の鹿児島キャンプには帯同できなかったものの、日吉で結果を残し続けたことで、A戦のベンチに入れてもらうことができました。はっきりと覚えています。9回に代打で出場し、右中間にツーベースヒットを打ちました。しかし気付いたら、一塁ベースを回ったところで肉離れしていました。今となっては笑い話ですが、当時は相当ショックを受けました。もう一段階実力をつけてリーグ戦に絡める選手になろうと思っていた矢先の怪我で、勝負すらかけられなかったことに絶望しました。後輩の皆んな、怪我だけは本当に気をつけてね。
大学3年生。春リーグが終わった頃に選手を引退し、学生コーチになるという大きな決断をしました。もちろん選手としてもチームに貢献できる自信はありました。しかし日本一を獲るために、組織の中で自分が取るべきベストポジションを模索した末、学生コーチを選びました。特に塾野球部では学生コーチの役割が重要で、私がやればチームを良い方向に持っていけるという自信もありました。今まで選手としての自分を応援してくれた両親には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、自分が決めたことを正解にするという強い覚悟を持っていました。学生コーチになってからは、今までになかった視点や考えを持てるようになり、野球が一段と楽しくなりました。
そして、3季連続5位という苦しい状況で迎えた4年生。自分たちの代で必ず日本一を獲る。幹部として、「強い慶應」を一から作り上げるという相当な覚悟を持ってスタートしました。今津慶介(4年・内野手・旭川東高校)や山口瑛士(4年・学生コーチ・奈良県立郡山高校)らと何度も話し合いながら、チーム作りに全力を注ぎ、自分自身もサブチーフコーチとしてどうあるべきかを常に考え、試行錯誤する日々でした。春キャンプの終盤ぐらいからチームが1つになる感覚があり、もしかしたら優勝できるのではないかと挑んだ春季リーグ戦で、見事優勝することができました。間違いなく、部員全員がそれぞれの役割を全うした結果です。そして春季リーグ戦で感じたことは、想像以上にたくさんの方々から応援していただいたということです。毎試合神宮球場でたくさんの方が激励してくださり、その度に絶対勝たなくてはならないという気持ちになりました。優勝パレードや優勝祝賀会で「おめでとう、ありがとう」と声をかけてくださり、本当に優勝できて良かったと思いました。
野球を続けて良かったと心から思っています。特に最後の一年は本当に濃かったです。幹部として200人を超える組織のマネジメント、学生コーチとして選手一人一人の性格を理解すること、首脳陣との日々の会話。何かしらの学びや気付きを得られる毎日は、私にとってかけがえのない財産です。
4年間を共に過ごしてくれた同期。自分の性格的に、イケイケで面白い皆んなの輪に加われず、引け目を感じることもありました。それでも最後の一年は全員で覚悟を決めて、本音でぶつかり高め合えたことが何よりも楽しかったです。皆んなと日本一獲りたいです。
1年間ついてきてくれた後輩達。春の優勝はみんなのおかげです。勝敗の責任は4年生がとるので、秋もそれぞれの役割で存分に暴れてください。いつも無駄に絡んでごめんね。皆んながそれぞれの代で優勝してほしいです。
そして、なんといっても私の野球人生に家族の存在は欠かせません。野球を始めるきっかけを与えてくれ、人生のコーチである父。常に私のことを考えてくれる母。いつでも一歩先のステージを進んでくれている兄。末っ子すぎてどうしようもないけど、自分がやりたいことに突き進む妹。私は本当にこの家族が大好きです。ブログで話すことではないので、続きは引退した時に直接話します。いつもありがとう。
最後に、春成し遂げられなかった「日本一」を秋は必ず達成します。それは決して自分たちのためではないです。勝てない時期でもスタンドから大声援を送ってくれた應援指導部、塾員・塾生、慶應ファンの皆様。そして、日頃からご支援いただいている三田倶楽部の皆様。塾野球部を応援してくださっている全ての皆様への恩返しとして、「日本一」という結果を届けます。
そして、いつも一番近くで応援してくれた家族。4年間苦楽を共にした同期。扱いにくい私にも優しくしてくれた先輩方。生意気だけど可愛くて仕方がない後輩達。私の部活のオフに合わせて予定を立ててくれる友人。今でも仲良くしてくれる高校の同期。これまでの私を育ててくださった小中高の指導者の方々。そして、堀井監督をはじめとする首脳陣の方々。私の野球人生に関わってくださったすべての方々へ「感謝」と「感動」を届けられるよう、全力でラストシーズンを戦います。
今後とも、塾野球部への温かいご支援、ご声援のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

主将 


