『僕の野球人生』vol.9 明石 健 捕手
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.9 明石 健 捕手(4年/渋谷幕張)



中井(4年/アナリスト/金沢大附)からバトンを受け取りました、明石健です。中井とはつい先日、朝の5:50からzoomでミーティングをしたのですが、「おはようございます!」の声量がバグっていて朝から笑ってしまいました。彼の声量なら、応援が響く神宮球場でも簡単に指示の声が通ることでしょう。あまり声が通りにくい僕としては羨ましい限りです。
僕は東大野球部の中だとかなり試合の出場機会に恵まれてきた方です。あまり浮き沈みが激しい「僕の野球人生」ではないので、面白みはないかもしれませんが、最後まで読んでいただけますと幸いです。
小学1年生の冬、地元の少年野球チーム「吾妻スターズ」に入ったことで、僕の野球人生は始まった。中村祐大(4年/マネージャー/渋谷幕張)とはこの時からの仲だ。幼稚園生の時はサッカーをやっていたけれど、人混みが嫌いだった僕は、ボールに群がるいわゆるお団子サッカーの、「お団子」から外れた場所にずっといた。ボールに触ることができなかったから、当然のごとくサッカーを好きになることはなかった。野球は違った。試合に出ていれば、8人分待てば必ず自分の番がやってくる。僕は野球を気に入った。
僕が育った千葉県成田市では、空を見上げていると10分に1回は飛行機が飛んでいる。地域によってはとてつもない至近距離で。多くの小学生が飛行機に気を取られている中、目の前の白球に集中し続けた者がレギュラーになる、と小学生の僕は信じていた。僕がレギュラーになったのは3年生の頃だった。同学年で一番乗りだった。といっても、吾妻スターズは弱小でただ人数が足りないだけだったが。試合にたくさん出ていると上手くなっていくもので、小学生の頃はただ打って守って走るのが楽しかった。父との自主練も嫌いではなかった。ただ、野球よりも中学受験をちゃんとやりたいと当時の僕は考えたのか、5年生の最後だか6年生の最初だかでチームをやめた。
渋谷幕張中学に入学すると、無数の部活の選択肢があり、どこに入ろうか頭を悩ませた。なんとなく運動はしたいと思っていた僕は、最終的に2つの選択肢を残した。出席番号が僕の次だったイシイくんが入ると言っていた卓球部と、クラスの人気者だった髙林くんが入ると言っていた野球部である。結局、小学校の時にやっていたからというつまらない理由で僕は野球部に入ることを決めた。
僕は小学生の時に阿部慎之助選手が好きだったので、捕手をやりたかった。少年野球の時も基本は内野だったが、捕手もかじっていた。希望は言ったはずだが、いつの間にか僕は内野になっていた。僕は当時かなり小さく、捕手は体格の良い髙林がなっていた。野球は体格で決まるのか、と、僕の柔らかい脳みそに1つの偏見が刷り込まれた。
野球部の活動はあんまり楽しくなかった。富津の合宿でやった坂ダッシュはキツすぎて、今でも坂の途中に描いてあった「市原卍」は網膜に焼きついている。野球未経験の顧問が考案した「相撲基礎」「腹式呼吸の発声」といった謎メニューは面白かったが、真面目に野球をやるよりもみんなとふざけている方が楽しかった。試合の日も、重い荷物を持って電車に乗るのが億劫で、家でYouTubeを見ている方がいいのになとか思っていた。3年生になると僕は副キャプテンになったけど、むしろおふざけは加速して、日々セコセコとチームに亀裂を入れていた。僕たちの代は前の代からエースだった佐伯(4年/投手/渋谷幕張)がいたため、相応に期待されていたが、最後の大会は僕と佐伯の継投で初戦敗退を喫した。県大会に行った山崎先輩(R8卒)たちの代とは雲泥の差だった。負けた後にキャプテンだった髙林が号泣していて、この時ばかりはさすがの僕でも申し訳ない気持ちになった。
中高一貫でほぼみんな高校野球部にも入ると言っていたので、中学から高校に上がるタイミングでは特に迷うことなく硬式野球部に入った。厳しいと噂の合宿には行きたくなかったから、少しだけみんなよりも入部を遅らせ合宿行きを回避したが、今思えば、コロナで合宿には一度も行けなかったから、この時くらい行っておけばよかった。
高校入学前には僕の体格は大きくなり、中学入学時とは比べ物にならないほど打球がよく飛ぶようになっていた。実戦形式で佐伯からホームランを打つなどアピールしていた僕は、高3の先輩を押しのけてサードのレギュラーを取らんとしていた。その矢先のコロナだった。代替大会は3年生が中心になると聞いてしょうもない茶番だと思った。自分の立場でしか物事を考えられない、他者の気持ちに共感することはおろか、理解しようとすらもしない。ただひたすらにガキだった。
代替大会が終わり、山本先輩をキャプテンとする新体制が始まった。この代でやる野球が、僕の人生で最も楽しい時間だった。小学校からの友達だった中村も高入生として入ってきてくれた。山本先輩と二遊間を組み、武者さん(R8卒)、えのさん(R8卒)、琉さん(R8卒)をはじめとした(かつゆきも)愉快な先輩外野陣が意味不明な掛け声を出しながら守る、フリーバッティング中の守備は最高だった。僕自身は、大してチームには貢献できないどころか、セカンドでエラーを繰り返し、ピッチャーとしては試合を破壊し続けて(この責任はピッチャーキャプテン(笑)の和田先輩にあると思う)、責任は感じていたけれど、そのくらいで楽しさが薄れることなどなかった。練習が日々の活力だった。こんなことは野球人生で初めてだった。
幸せは失ってから気づくもので、愛すべき先輩たちが引退し、僕がキャプテンになってからは野球はまた楽しくないものになっていった。同期が2人辞めた。1人は家庭の事情で仕方のないものだったが、もう1人は監督とそりが合わないからだった。僕はその同期が苦しそうにしているのを見て、手を差し伸べることをしなかった。普通に自分が何をすれば良いのかよくわからなかったし、何もできないと思っていた。今思えば、アクションを起こすならキャプテンの僕だったのに。自由すぎる後輩たちのマネジメントにも手を焼いた。同期に恵まれていたことは救いだったけれど、野球部に所属しているはずなのに、野球以外の問題が日に日に山のように積もっていくようで、かつての自分がいかに甘やかされていたかを理解した。だから、最後の試合で千葉黎明に負けたあとは解放感でいっぱいだった。大学でも野球をやろうとは微塵も思っていなかった。
受験期は気分転換で素振りをしていた。野球をやろうとは思っていなかったのに?
いざ東大に入ってみると、案の定また野球がしたくなっていた。だけど、著しくプライベートの時間が奪われる(と当時は信じていた)硬式野球部は選択肢になかったので、軟式野球部と準硬式野球部の新歓練習に行った。どちらも楽しそうだった。軟式は人数もそこそこ多くて活気に満ちていたし、準硬はアットホームで先輩たちの仲が良くて居心地が良さそうだった。でも、僕はほんの少しだけ感じた違和感を見過ごすことができなかった。それは、あえて言語化するならば、自分がそのコミュニティで野球が上手な方に分類されるのではないかという所感、またそれに伴い、自分がそのコミュニティで得られるある種の満足感や達成感が最大化されないのではないかという懸念、そしてその懸念が現実となった時、僕がおそらく感じるであろう後悔……。えのさんや、先に硬式野球部に入っていた佐伯から誘いは受けていた。また、新入生のドッジボール大会で山口(山口周平/4年/投手/三重)に会っており、面白そうな奴がいるなとも感じた。軟式と準硬に行って初めて、僕はずっと蓋をして見ないようにしていた選択肢を真剣に検討するようになっていた。渋幕から同じく東大に受かっていた中村も、ずっとどの部活に入るか迷っているようではあったが、硬式のマネージャーを考えだしていた。
リーグ戦前日の金曜日、僕は高校時代の練習試合以来2度目となる東大球場に見学に行った。リーグ戦前日だから見学は遠慮した方がいいか奥畑さん(R8卒)にLINEで聞いたが、来て良いとのことだったのでドキドキしながら行ったことを覚えている。球場の入り口で2限抜けの琉さんとバッタリ会って少し話したのち、スタンドに行った。スタンドには当時肋骨を骨折?してリハビリしていた工藤さん(R8卒)がいた。僕は初対面の工藤さんと1時間以上話し込み、球場を去る時には入部することを決めていたのだが、今まで覚えていることは、「寮に入ると風呂が唯一の楽しみになる」という言葉しかなく、心の機微さえも一切記憶にないので、一体工藤さんがどのような話術を使ったのか不思議で仕方がない。
上記のような紆余曲折を経て、五月祭後に入部した。武田(4年/投手/岡山白陵)と藤尾(4年/内野手/岡山白陵)の1年遅れコンビを除けば、僕がこの代で入った最後の選手だった。この時期にもなると、同期の勢力図みたいなものが見え始めていて、内野、特に二遊間は、僕が割って入る隙がないことなど火を見るより明らかだった。たおやかな動きの守備を見せる小村(4年/内野手/私立武蔵)、圧倒的なパワーで柵越えを連発する門田(4年/副将/内野手/松山東)、誰よりも声を出しボディストップを厭わず確実にアウトをとる堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)、特にこの3人は実力が抜きん出ているように感じられた。いきなりコンバートは考えていなかったから、高校時代に経験があったサードで登録してもらうことにした。同期では秀英(昭和学院秀英)のやつ(渋幕と秀英は真隣に位置し合同練習をしたこともあったから実力は何となくわかっていた)しかいないし大丈夫だろとか思っていたが、普通に上手で、いかに東大野球部のレベルが高いか思い知った。当然春フレッシュはスタンドから観戦した。
そして、入部から2週間ほど経った頃だろうか、僕の大学野球人生を大きく変える提案を受けることになる。捕手転向の話である。僕は準硬の新歓で見栄を張って、自慢の爆肩を魅せてやろうと大遠投を披露し、肩を壊していたため、野球部に入ってからはほとんど一度も投げたことがないはずだった。そんな中、僕の素質を見抜き、打撃の出番も増えるからと捕手転向を打診してくださった名畑さん(R6卒)の慧眼には今も頭が上がらない。当時レギュラーの和田さん(R6卒)が大学2年生から捕手を始めていたこと、同期投手の話を聞く限り川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)という同期の捕手がどうやらそこまで上手くなさそうだということ、当時捕手だった太幹さん(R8卒)が学コになることをこっそり教えてくれ、B戦の出場機会は間違いなく多くなること。転向するには十分すぎる理由が揃っており、僕は1週間も考えることなく捕手転向を決断した。初めて受けたブルペンの相手は花村(4年/学生コーチ/開成)で、「そんなに速くないよ」と本人が言っていたから油断していたが、実際に受けてみるとミットがボールに全く追いつかず、不安を募らせるスタートだった。
川又はいい奴だった。同期のライバル捕手が増えるという状況でも親切に僕にブロッキングの基本を教えてくれた。また、岡田さんの教え方もよかった。当時のB捕手は僕、川又、岡田さんの3人で、なかなかに過ごしやすい環境だった。途中から岡田さんが肉離れで離脱し、夏季B戦はほとんど僕と川又で乗り切った。盛岡合宿では僕が原因で一時険悪になることはあったが、川又との仲も基本的に良好だった。試合に出続けていると技術はみるみるうちに上達し、捕手を始めて3ヶ月が経った9月ごろにはちゃんと試合を成立させられるようになっていた。この頃は結果が出ていなくても、毎日のように自分が成長している実感があって、楽しさを感じられていた。
打撃に関しては打席を重ねるだけで良くなることなどなく、非本質的な自主練しかしていなかったから大して実力は伸びていなかった。ただ、秋フレッシュ前のシート打撃で運よく2安打したことで、フレッシュの早稲田戦ではDHとして出していただいた。第1打席の2球目に、ど真ん中のストレートを振り遅れながらもレフト線に運び、2点タイムリーツーベースを放った。セカンドベースからスタンドの先輩たちの歓声を浴び、神宮は素晴らしい場所だと心の底から思えた。結果的に試合にも勝利し、前日までのDHが武者さんだったことを除けば、嬉しさしかなかった。また、この試合では鮮明に記憶していることがもう1つある。数馬さん(R8卒)の引退登板だ。数馬さんが登板を終えベンチに帰ってきた後、ベンチ裏で泣いているのを僕はたまたま見てしまった。東大野球部で野球をすることの意味を、この日初めて少しだけ考えた。
新チームになった。入寮。Aチーム昇格。出世街道を歩んでいると思った。府川さん(R7卒)からは、「必死でレギュラーを取りに行け」と言われていたが、何となく現実感がなく、2年春からリーグ戦に絡めるとは思っていなかった。合宿にも行き、春のオープン戦は大体2枚目で1打席しかないことも多かったが、そこそこヒットを放っていた。気づけば春の開幕慶應戦で僕は代打として打席に立っていた。オープン戦の好調はとうに終わっており、ヒットを打てるビジョンなど全く見えず、あっけなくショートゴロに倒れた。その後のリーグ戦は出場することもほとんどなく、「結果が全てだ」と常々言っていた府川さんが結果を出し続けている姿をブルペンから見ていた。チームが大敗を続ける中でも僕の目からは府川さんが輝いて見えた。立場が変わり、代打が中心になっても結果で引っ張る。目指す選手像が明確になった。
そして春リーグの最中、川又が学生コーチになることが決まった。僕は川又からちょっとだけみんなよりも早く、学生コーチになることを教えてもらった。川又の実力が1年間で異常なほど伸びていたことは、おそらく一番近くで練習していた僕が最も理解していたから、川又に選手を続けてほしい気持ちはあったし、学年ミーティングでもそう主張した。だが、それに反するように、学生コーチの候補者の中だったら間違いなく川又が適性が高いであろうことも、頭では理解していた。だから、川又から話を聞いた時、まず最初に浮かんだのは、やっぱりか、という思いだった。そしてだんだんと悲しみが押し寄せ、最後は、川又の分まで頑張らないと、と思った。
その思いとは裏腹に、春リーグ後も全く打てなかった。今思えばただの技術不足だが、当時はなぜ打てないのか分からず外部指導なども頼った。それでもなかなか改善することはなく時間だけが過ぎていった。遠軽合宿では風邪を引き、復帰初日の練習で肉離れ。東京に帰り、最低限のリハビリをやったらあとは自動車教習所に行く日々を送った。上手くなる訳がなかった。
結局2年の秋は出場ゼロで終わった。当然の報いだ。試合に出られないことは別に嫌じゃなかった。ただ、法政に門田のサヨナラヒットで勝った時、嬉しくもありつつ、歓喜の輪の中心が自分でないことに悔しさもあった。
悔しさもあった???
正真正銘の馬鹿である。大学入学時のスタートも下、練習量も少ない、練習の工夫もしていない、ウェイトも上げられない。門田に勝っている部分が1%でもあると思っていたのだろうか。そのくせ一丁前に自分が門田と同じ土俵に立っていると勘違いしていた。この時ばかりはドス黒い感情が僕を支配し、自分で自分の機嫌を取るのが苦じゃない僕でも自己嫌悪に陥った。秋リーグ中は、周りの人にできるだけ負のオーラを振りまかないように気をつけていたつもりだが、一緒に自主練をしていた小村にはおそらく色々と伝わってしまっていただろう。あんまり覚えていないけど、もしかしたらがっつり愚痴っていたかもしれない。ごめんな。
秋リーグ、フレッシュが終わり、僕は投手転向を視野に入れ始めた。その時の僕のアイデンティティは強肩のみで、打撃はもう向上しないと思ったからだ。藤田さん(R7卒)には「血迷ってる」と言われ、自分でもそうかもな、と思いつつ、停滞している現状を何とか打破したかった。江口(4年/投手/海城)には「本当にピッチャーをやりたいと思っているならいいけど、バッティングから逃げて転向しようと思っているのなら反対だ」といった趣旨のことを言われた。清々しいほどに全てバレていた。「そんなんじゃないよ」とかむにゃむにゃ言いつつ、真っ直ぐな江口の視線から目を逸らすので精一杯だった。
結局、投手を始めようとした矢先、フレッシュでブロッキングした際にボールが当たった右手親指のヒビが発覚し、投手転向の話は自然消滅した。年が明けてヒビが治る頃には、チームは杉浦さん(R8卒)の補欠を担う第二捕手を切実に求めていた。
長崎合宿に行く前、僕は学生コーチになっていた岡田さんに弟子入りした。1年生で捕手の技術を教えてもらっていた頃から岡田さんの教え方は上手いと思っていたし、実際に自分の実力がぐんぐん伸びていったから、野球の知識を多く持っている岡田さんに頼ってみようと思うのは自然だった。最初は肩痛の解消のために投げの指導からで、投げが良くなると、徐々に指導の対象は打撃に移っていった。これが今まで続いている「まこつ塾」の始まりの経緯である。
岡田さんの指導で劇的にメカニクスが改善され、バットスピードなどの数値は軒並み上昇したが、春のオープン戦で結果は残らなかった。岡田さんは申し訳なさそうにしてくれていたが、僕はそこまで焦っていなかったと思う。日々成長の実感があったから停滞感で苦しくなることはなかったし、まだ岡田さんの指導が身に付いていないと考えていたからだ。春のリーグ戦は1打席の出場だけだった。普通のショートゴロが送球ミスになり、僕の初ヒットが記録された。少しだけ嬉しかった。気づけばチームは10敗していた。この時はただ淡々とリーグ戦で活躍するための自主練を積み重ねられたから、自分の出番が来なくとも、全くメンタルに響くことはなかった。
2年春から3年春まで、リーグ戦にほとんど絡めないままベンチ入りし続けた3シーズンが終わった。また夏がやってきた。杉浦さんは肩の怪我で実戦からしばらく遠のくようで、僕は今まで見ないようにしてきた現実に向き合う必要があった。なべさん(R8卒)とバッテリーを組むことである。
なべさんとは、Bチームにいた1年生の頃はよく組んでいたものの、チーム杉浦が始まって以降は、杉浦さんが専属キャッチャーのようになっていて、僕とは1回も組んでいなかった。春リーグのどこかの試合で、杉浦さんが試合中に怪我をし、僕が出てなべさんと組むかもしれないとなった時は焦ったものだった。どんな配球をすればいいのか1ミリもわからないのだから。多分、なべさんもあの時は相当焦っていたはずだ。
なべさんの配球は本当に難しい。オーバースローの投手の球はある程度分類ができるため、どこに投げればどこに飛ぶ、といった対応関係は、組んだことが少ない投手でもある程度わかった状態でリードできる。アンダースローはその対応関係がオーバーとは全く異なる上、打者の観察もより繊細なものが求められた。僕と組み始めてからなべさんの調子がだんだん落ちていくのがわかった。なべさんが僕に丁寧に向き合ってくれたことには救われたが、こればかりは杉浦さんがいてくれたらどんなに助かるだろうかと思っていた。
秋リーグ直前に杉浦さんは帰ってきてくれた。リーグ戦にはまた出そうになくて悔しかったけど、なべさんのラストシーズンが望む形で訪れたのではないかと思い、その点だけは安心した。開幕戦で杉浦さんの手に死球が当たった。どんなに怪我しても、杉浦さんは絶対にリーグ戦には無理してでも出るだろうと思っていたから、次の日に僕がスタメンになった時は心底驚いた。めちゃくちゃ緊張したけれど、やるしかなかった。
早稲田戦が終わり、明治戦はまた杉浦さんが出るだろうと思っていた平日の夕方のことだった。寮の3階の通路で杉浦さんとばったり会った。
「あ、明石。指折れてたわ。」
あまりにも唐突すぎて、言葉を失った。退路が断たれた。今度こそ本当にやるしかなかった。
分析、まこつ塾、ケア、試合。ひたすらそのサイクルを繰り返していたらあっという間にシーズンが終わっていた。明治戦で岡田(明治大学/4年)と榊原(明治大学/4年)の盗塁を刺したり、慶應戦で11打数6安打を記録したり、自分自身が手応えを感じたことはあったが、勝ち点は取れないまま終わってしまった。何より、最後までなべさんをきちんとリードできたとは言えない状況で、その部分は本当に悔しかったし申し訳なかった。
堀部がキャプテンになり新チームが始まった。僕はバッテリー長になり、色々な会議に参加するようになった。タレント揃いの上下の世代に挟まれた僕らは、谷間の世代と呼ばれたくなかった。先代が残してくれた多くの良い部分を受け継ぎつつ、それをより徹底できるよう堀部中心に部門長が動いていった。
春、勝ち点を取った。勝利の瞬間にグラウンドに立てていたことは、とても幸せだった。勝った瞬間は現実感がなかった。その後2,3日は見逃し配信を何度も見て朝の4時くらいまで寝られず、身体は疲労しているのに、脳が常に覚醒しているようだった。
春リーグが終わった後の学年ミーティングで、新しく勝ち点3を目標に据えた。
遠軽合宿前の練習で、走塁中に手を付き、肩を痛めた。それが今も尾を引き、チームに迷惑をかけている。また、大山(3年/捕手/ラ・サール)を中心に深見(3年/捕手/サレジオ学院)、康平(松本康平/3年/捕手/栄光学園)、田渕(1年/捕手/宇都宮)などの後輩キャッチャーズには本当に助けられた。ありがとう。最後の遠軽はほぼ何もできなかったけど、君たちのおかげで楽しいものになりました。
秋リーグ、すでに2カードが終わり、どちらも勝ち点を落とした。
みんな、落ちるなよ、ここからぶち上げてくぞ。
僕は自分のために野球をやっています。もちろん、チームメイトとか、ファンの方々とか、家族とか、岡田さんとか、勝手に僕が思いを背負わせてもらってる川又とか、みんなのために戦うのはかっこよくて、そういう側面もあるけど、多分一番は僕自身が満足するためです。ただ打ったり投げたりするだけでも気持ちいいし、結果が出たらもっと気持ちいいです。結果がチームの勝利に結びついて、僕がチームを勝たせられたらもっともっと気持ちいいと思います。
ここまで柄にもないことをつらつらと書いてきたので、最後も柄にもない言葉で締めようと思います。
残り3カード、俺がチームを勝たせます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
吾妻スターズ 田原監督をはじめとした指導者の方々
たくさん試合に出してくださりありがとうございました。チームは強くなかったですが、野球の楽しさを味わえました。田原監督は大学1年の時に偶然駅で会った時に話しかけてくださり、とても嬉しかったです。
渋谷幕張中高 島本監督をはじめとした指導者の方々
のびのびと野球をさせてもらい、野球を好きなままいられました。「妥協するな」は今でも僕の行動指針の1つです。引退したらまたご挨拶に伺わせていただきます。
大久保監督、石井助監督
たくさん期待して試合に出してくださりありがとうございました。期待に応えられないことも多かったですが、残り3カード、全力でチームに貢献します。
西山先輩理事、栗山さん、荒井さん、高木さん
たくさんアドバイスをいただきありがとうございました。皆さんが教えてくれた1つ1つのエッセンスが今の僕を形作っています。
エスゴッズ 平井さん
山陰地方に縁もゆかりもない僕に、ミットを使わせてくださりありがとうございました。バットは軽いのに弾きがよくてすごく気に入ってます。まだまだ打ちたいと思います。
野村さん
たくさんの人とのつながりを作ってくださりありがとうございました。WhatやWhyではなく、Howを考えるのは今も実践中です。
金先生、メディカルベース新小岩の小林さんをはじめとした医療関係者のみなさん
たくさん通わせてもらい、おかげさまでリーグ戦は今までずっとベンチ入りできています。あと1ヶ月よろしくお願いします。
応援部の皆さん
いつも最高の応援をしてくださりありがとうございます。僕は打席に入ったりキャッチャーをやっていると、応援の音が聞こえなくなってしまうのですが、ネクストバッターの時や守備につく時など、ふとした時に背中を押されているような不思議な感覚になります。これからも応援よろしくお願いします。あと、いつも声をかけてくれる太志、ありがとう。
渋幕の先輩方、同期、後輩
渋幕のゆるくて楽しい感じが大好きです。またご飯行きましょう。
佐伯は10年間ありがとう。東大野球部に誘ってくれたの感謝してる。
中村は16年目の付き合いになると思うけど、引き続きよろしく。
和田(1年/外野手/渋谷幕張)、妥協するなよ!
府川さん
背番号22をつけられてよかったです。僕が府川さんに憧れたように、今の僕に憧れて努力してくれる後輩がいたらいいなと思って日々努力しています。バッティングはいまだに府川さんほど勝負師にはなれていませんが、最後は魂のギャン投げを披露したいと思います。
杉浦さん
人としてもキャッチャーとしてもタイプが違いすぎて、自分に足りないところをまざまざと見せつけられてきました(笑)。おかげで成長できたと思っていますし、1学年上にすごいお手本がいてよかったです。ありがとうございました。
岡田さん
引退してからもたくさん教えていただいてありがとうございます。岡田さんに教えてもらえてなかったらと思うとゾッとします。多分数百時間以上は僕に使ってもらっているので、残りの人生でなんとか恩返しできるようにがんばります。とりあえず残り3カード、まだまだ打ちます。
なべさん、まつしん(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)
東大野球部の歴史にも残るような2人とバッテリーを組めて幸せでした。僕ができたことは本当に少ないけれども、2人に引っ張ってもらって成長できました。まつしんは来年も頑張って。期待してます。
後輩キャッチャーズ
1学年下の大山、康平、深見は本当に頼もしいし、お世話になりました。「返球の大山」「握りかえの深見」「スローイングの松本」の3人の力が合わされば来年はもっと強いバッテリーになると思います。あと1ヶ月よろしく。俺が引退したらまた飯行こう。
個人的に次の背番号22は田渕につけてもらいたいと思っているから、早く治せよ。
同期
付き合い悪くてごめん。引退したら寂しくなってきっと飯にいきたくなると思うから行きましょう。勝ち点3とるぞ。
あと、竹山(4年/外野手/修道)は最後の1年めちゃくちゃ部屋行ってごめん。鈴木(4年/外野手/浅野)と竹山とイーフトしてる時間は何もかも忘れて楽しめました。ありがとう。
家族
健康に野球ができて幸せでした。最近自分の名前が好きになってきました。色々と支援してくれてありがとう。
次回は僕と同じ千葉県出身の伊藤滉一郎外野手(4年/県立千葉)です。春の勝ち点獲得試合で大爆発した彼は、なぜだか今シーズンも大事な場面で打つような気配を漂わせています。そんな伊藤のぼくじん、乞うご期待。
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次回は9/27(日)、伊藤滉一郎外野手を予定しております。
主将 


