ラストシーズンに懸ける想い!その43<沖﨑真周>
こんにちは。
幕張総合高校出身、マネージャーの沖﨑真周です。
最後のシーズンを迎えるにあたり、僕の16年の野球人生を振り返りたいと思います。
幼少期、父とのキャッチボールが野球との出会いでした。まだ小学校入学前の時期に、毎日父と50球のピッチング練習をしていたのをうっすらと覚えています。そして小学校入学と同時に近所の野球チームへ入団。そこから本格的な野球人生が始まりました。当時は野球が楽しくて仕方がありませんでした。平日は学校から帰り、友達の家を1軒ずつ周り10人程集め毎日野球の試合をし、休日は朝から夕方まで所属チームで野球に打ち込みました。3年生から6年生までキャプテンとして幼馴染と野球に打ち込んだ小学生時代はとても楽しかった良い思い出です。
野球が楽しいだけではなくなったのが中学生時代でした。県内で一番スパルタだと言われていた千葉西リトルシニアに入部。自宅から車で片道1時間、360度田んぼに囲まれたグラウンドで、休日のみの活動でしたが朝7時から夜8時頃まで、強化期間は朝4時半から日付が変わる午前0時まで練習に打ち込みました。嘘のようですが本当なのです(笑)。毎朝田んぼ道の10キロ走という絶望的な練習から始まり、ようやくボールを使う練習ができてもミスをすれば指導者からの愛のムチと叱責、そして暗くなれば終わりの見えないランニング。吐かなかった日は数えるほどしかなく、毎日練習が終われば心身ともにボロボロで、とにかく土日が憂鬱でした。そんな中、いくら息子の身体がボロボロになっても、どれだけ殴られても、毎日送迎をしてくれ、練習中は静かに見守ってくれた両親にはとても感謝しています。また、監督をはじめとする指導者の皆さんへも感謝しています。当時は嫌いで仕方がありませんでしたが、今思うとその指導も愛に満ち溢れており、何より生ぬるくやんちゃだった中学生の私の根性を、一から叩き直してくださいました。お陰様で多少のことでは逃げ出さない忍耐強い人間になれたと感じています。最後の大会はセカンドのレギュラーを奪われベンチで終えましたが、同期にはその後プロ入りした仲間が2名いたりと、レベルの高い環境で野球ができたことはとても良い経験になりました。同期の仲間が全国の甲子園常連校に進学する中、私は公立校で強豪校を倒したいと、何人かの仲間を誘い幕張総合高校へ進学しました。
高校入学後、すぐに試合に出ることができ、1年秋からショートのレギュラーを任されました。ただ、目標としている強豪私立高校に勝利することは簡単ではなく、悔しさと不甲斐なさを感じる日々でした。最後の1年はキャプテンとして70人程の部員をまとめ、どうしたら勝てるのか、仲間と遅くまで話し合い、練習に打ち込んだことは今でも鮮明に覚えています。そんな中、私の野球人生最大の挫折を味わいました。肩の怪我です。プレー中に左肩を脱臼、その後も繰り返し手術をし、なんとか復帰した直後に再び脱臼。手術とリハビリが台無しとなり絶望しました。しかし災難はそれでは終わらず、今度は大事な右肩を脱臼しました。その瞬間、「もうこれ以上野球ができないかもしれない」と直感的に悟り、訳もわからずグラウンド上で涙が溢れました。練習が終わっても、家に帰ってもひたすら泣き続けたことを覚えています。当時から塾野球部に入り神宮で活躍することが野球人生の目標であり、その先も野球を続けたいと思っていたからこそ、人生の全てであった野球ができなくなるかもしれないことに対して、ものすごい恐怖と喪失感でした。その後右肩も手術をしましたが、復帰後も元通りに投げることができず、また幼少期の父とのキャッチボールで鍛えられた自慢の肩を失ってしまったことがものすごくショックで、野球がつまらなくなってしまいました。投げること、打つこと、捕ること、その全てにおいて痛みがつきまとい、あれだけ楽しかった野球が怖いものに変わってしまいました。仲間の支えもあり、なんとか最後の大会まで試合に出続けることはできましたが、この身体では上のレベルで戦えないと感じ、野球をやめることを決めました。人生そのものであった野球と、選手として向き合い続けた12年間が終わった瞬間でした。
高校野球引退とともに進路選択の岐路に立たされました。野球ができなくなった当時、他のことへの興味は一切なく、何を目的に生きていけばいいのか分からないくらいの状況でした。ですが、色々と考える中で、慶應義塾大学に入り神宮で活躍したいという自分の中にずっとあった目標は、野球ができなくなったところで諦めてはいけないと思うようになりました。
憧れのチームでプレーはできないが、その一員になることはできるのではないか。そう思うようになり、選手以外の入部方法を調べたところ、マネージャーという役職があることを知りました。別にマネージャーがやりたかったわけではありません。何をするのかも知りませんでした。ただ、憧れの組織で、今までとは違う形でも、人生をかけてきた野球に没頭することが自分のやりたいことだと当時の自分は考えました。そこからはひたすら必死に勉強をしました。そこまで優秀な高校ではなかったため、周りからも慶應は無理だよとたくさん言われました。学校の中で特段成績が良かったわけでもなく、ろくに勉強もしてこなかったのですが、自信だけはあったようで「君たちには無理かもしれないけどおれはできるよ」と大口を叩いていたことを覚えています。7月の引退時から必死に勉強し望んだ受験は補欠合格。一つ上の補欠ランクまで繰り上がったのですが、私は繰り上がらず。あと1点足りず不合格となりました。別の東京六大学の学校には合格していたため、進学するか迷いましたが、一度決めた慶應への思いは貫こうと決め、浪人をしました。そして1年後無事合格。晴れて塾野球部へ入部しました。
入部して感じたことは、やはりこのチームが素晴らしい組織だということです。慶應へ憧れを抱いて全国各地から入部して来た仲間たち、一人一人の野球への思いがとても強く、そして個人が自立していました。それぞれに強い思いがあり、自分の役職に徹しており、このチームで日本一を取るんだという気迫に満ち溢れていました。このチームを選んで良かったと心の底から思いました。そう感じる一方、やはり選手でプレーしたかったという思いがずっとありました。技術力の高い試合や、昼夜問わず一生懸命に練習をする選手を見れば見るほど、自分もやりたくて仕方がなかったです。マネージャーが嫌だったわけではありません。ただ、選手以外の立場で野球と向き合ったことがなかったため、どうすれば良いのかが分かりませんでした。ひたすら練習をして上手くなり、試合に出て活躍する、そしてチームの勝利に貢献する。それが今までの野球でした。マネージャーはどうすればチームに貢献できるのか、何が正解なのか。ひたすら考えた4年間だったと思います。その答えは今でも分かりません。ただ、主務となりチームの中枢となった今、自分の役割や価値が徐々に分かってきた気がします。マネージャーは責任が重大なポジションです。チームスケジュール、遠征の手配、設備環境整備、用具管理、事務手続き…。200人以上の大所帯であり、かつ伝統があり世間の注目も高いこの野球部で、マネージャーがやらなければいけないことは無数にありました。グラウンドでは主将の今津慶介(4年・内野手・旭川東高校)がリーダーですが、グラウンドの外では自分が組織のリーダー、まとめ役、調整役です。その責任感と緊張感を持って野球と向き合ったのは初めてでした。すごく大変でしたが、その一方で、自分の今までの野球人生に感謝ができました。当たり前に高校まで野球に打ち込めていたのは、たくさんの方々の協力があってのことだったと。自分が選手の時は気が付きませんでした。野球をやるための設備や用具、遠征の移動、練習試合、大会への参加。そのすべてにたくさんの人の協力があったことを、マネージャーとして野球に向き合ったことで気が付きました。野球人生の最後に感謝を覚えられたことはとても良かったと思います。
よくマネージャーは「支える立場」や「誰かのために尽くす」と表現されます。私自身も周りからそう言われることが多くありました。でも、私はその言葉は嫌いです。違和感があります。この4年間を振り返ると、誰かのために何かをした感覚はありません。全ては自分がこのチームで日本一になりたいからやりました。結果的にそれが誰かのためになっていたのかもしれませんが、私の目的は日本一です。こんな気持ちにさせてくれたのは、同期の仲間たちのおかげです。選手層が厚いこのチームで生き残るには、一日一日、一球一球が勝負で、皆命をかけて野球をしています。高校まで必死に野球と向き合ったからこそ、選手の大変さは身にしみて感じます。正直ここまで野球にかけている人たちは見たことがありません。マネージャーは大変でしたが、選手の方が大変です。毎日押しつぶされそうなプレッシャーの中で戦っている仲間達を心から尊敬しています。そんな彼らと同じ気持ちで、本気で日本一を目指した4年間は一生の宝物だと思います。
この春、全日本大学野球選手権大会の決勝で関西大学に敗れた悔しさはとてつもないものでした。目標の日本一にあと一歩何が足りなかったのか。ひたすら考え自分にできることはすべてやってきたつもりです。4年間共に戦ってきた仲間達と、最後は日本一の最高の景色を見たいと思います。

主将 


