野球人生を振り返って〜檜皮竜〜
皆さんはじめまして!
島根県開星高校出身経済学部4年、学生コーチの檜皮竜と申します。
この4年間学生コーチとしてチームを見てきましたが、
苦労してやっと1つの結果をもぎ取る選手を多く見てきました。
その度にプレーヤーとして活動していた自分と重ねていました。
今回はこの様なブログ記事執筆の機会を頂き、
小学校3年から高校引退までの迫り来る重圧に
バットを振ることで運命に抗い続けた
選手としての10年間を振り返ってみたいと思います。
その10年を振り返ると野球を通じて
私自身大きく成長してきました。
その野球における成長過程で欠かせなかったのは
指導者の存在でした。
そこで今回は私の成長を支えた小中高の指導者と
その各々から得た教訓を紹介したいと思います。
清水監督 (小学生時代の監督)
この清水監督からは私は「チームワーク」を教えられました。
誰しも小学生の時は自分が打つことや投げることばかり
考えていたのではないでしょうか。
それゆえワンマンチームや心がバラバラのチームは
小学校の野球チームが多いと思います。
私が所属していたあいづクラブもそれと同じ様なチームでした。
同じどころかもっとひどかったかもしれません。笑
クラスでは先生に怒られてばかりで学年のお山の大将を全員集めた様なチームでした。
部員との殴り合いの喧嘩は毎日の様にした覚えがあります。
そんなチームを団結あるチームに仕立て上げたのが清水監督でした。
清水監督はエラーしたりミスした仲間に
「お前何してんねん」「しっかり捕れや」と罵ることを決して許しませんでした。
むしろ「ドンマイ」「気にすんな」と声をかける様に指導されました。
仲良しこよしだけでは良くないことは今でこそ分かりますが
この頃の私たちにはこれぐらいが丁度良かったのです。
それが理解出来る様になった私たちが負けることはほとんどありませんでした。
送りバントやスクイズもしっかり決め、
繋がったのは打線だけでなく、みんなの心も繋がっていました。
心の繋がった仲間とは地元へ帰ると今でも一緒に騒ぎます。
あれだけ殴り合っていた仲間と今でも会えるのはあの時清水監督が心を繋げてくれたからです。
清水監督ありがとうございました!!
羽佐監督 (中学生時代の監督)
和歌山のボーイズリーグのチーム御坊ジュニアタイガース(現 和歌山御坊ボーイズ)に私が所属した際の監督が羽佐監督です。
羽佐監督には「克己心」を教えられました。
私はあいづクラブを引退後このチームの小学部にも在籍し、
本チームを卒団式に送られた寄書きに羽佐監督より頂いた言葉です。
この言葉は私がグラブをオーダーする際に刺繍するぐらい私の座右の銘でもあります。
さて、そんな羽佐監督の練習は想像を絶する程過酷です。
冬場は朝から夕方までずっと走らされました。
当時キャッチャーだった私は防具をつけたまま走らされたこともあります。
野球チームなのにボールやバットを使わない日も頻繁にありました。
久しぶりにグラブをはめたと思えば
キャッチャーのセカンドスローを速いテンポで連続でするのを
コンテナに敷き詰められたボールを何箱もやりました。
果てしなく屈伸運動を繰り返すこの練習は走るメニューより過酷でした。
このメニューをしている時に体力が限界に達し、
動きたくても身体が言うことをなかなか聞かないとき
「なんや、もう止めるか?」「自分の為にやるんやろ」
と口酸っぱく言われました。
それを言われると獅子奮迅の如く身体をもう一度奮い立たせていました。
きっとこれが”限界を越える”ことなんです。
後の開星高校入学後誰もいない朝6時のグラウンドで
練習し、全体練習後の23〜24時の誰もいないグラウンドで自主練習する
「己に克つ心」を持った自分の基礎をこの時間が築いてくれたと私は思っています。
誰しも存在する自分の中にある弱い自分。
その弱い自分から目を逸らさず向き合い、
その自分を凌駕していくことが出来るのはあの時羽佐監督に鍛えられたからです。
もうあの時間が戻ってきてほしいとは思いませんが。笑 羽佐監督ありがとうございました!!
野々村監督(元 開星高校監督) 山内監督(現 開星高校監督)
島根県開星高校野球部に進学後上記の御二方の指導者に出会いました。
私が在学中に双方が監督されたので紹介致します。
紹介の前に中学生時代の恩師羽佐監督の教訓「克己心」
はこの開星高校でどれだけ支えになったかを紹介させて下さい。
開星高校は甲子園に頻繁に姿を表すだけに
レギュラー争いは熾烈でたった1つの落球が
レギュラー争い戦線から離れていく要因になることはありませんでした。
それは授業中にも及んでいて居眠りをしていたりすると
それもレギュラー定着への道を閉ざす要因でした。
野球強豪校特有の「野球だけやっていればいい」という考えはそこには一切ありませんでした。
レギュラーを約束されている人は誰一人なく、
今日の結果があるから明日グラウンドに立てる。
「明日を闘う為に今日を闘う」練習でも試合でも
それは共通していて、保障されているものは何もない中で必死に喰らいついて日々を過ごしていました。
そんな時私のたった1つの取り柄である
「弛まない自主練習」の源が間違いなく
羽佐監督から得た克己心です。
どんなに身体がしんどくても部活動が休養日でも
引退までの約2年半全体練習時間外で私はバットを振らなかった日は本当に1日もありませんでした。
どんなにバットを振ることに気が進まなくても
あの時の羽佐監督のしごきを受ける訳ではないと思うと自然と自主練習が苦にならなくなっていました。
それだけ羽佐監督の練習は糧となっていました。
前置きが長くなりましたが開星高校で教えを請うた
2人の監督のご紹介に移ります。
私は両監督に「誰が為に野球をやるか」を学びました。
少し余談になりますが
開星高校野球部元監督野々村直通というと
高校野球に少しでも興味あれば知っている方も多いのではないでしょうか?
そうです!あの有名な「腹切り発言」の張本人です笑。
あの時世間でかなりバッシングを受けましたが
同監督が常にどれだけの覚悟を持って闘いに臨んでいるか、
それゆえどれだけあの時歯痒くてあの様な発言に至ったのかもこの文面でご理解頂けると思います。
本題に戻りますが開星高校野球部では
「人の為にやれ」「チームの為にやれ」
日頃から常に言われています。
それは野々村監督も山内監督も本当に常日頃から言っていました。
特に夏の大会が近づいてくるとその傾向は顕著になりました。
高校野球は多くの方の支えがあってやっと闘うことが出来ます。
両親や保護者の方々、夏の大会になるとベンチ入りを逃した悔しい想いを抱えつつも
バッティングピッチャー等のサポートを率先してやってくれる3年生にも支えられます。
試合でも吹奏楽部やチア部を筆頭に全校生徒から汗を流しながらメガホン越しに全力で声援を頂きました。
全国である程度有名な分、県境を跨いで応援に駆けつける熱狂的なファンもいらっしゃいました。
ここまで書くとある程度お分かりになると思いますが
甲子園は自分だけでなく、みんなの夢や目標だったんです。
だからこそ「絶対に負けるな」「人の為にやれ」と言われていたのです。
小学校と中学校の時には感じることのなかったものの中で闘っていました。
「お前らが負けて涙するのはお前らだけではないことを忘れるな。だから絶対に勝て」毎試合のように言われたことも覚えています。。
しかし、最後の夏は準決勝で敗退しました。
負けた直後は「俺は毎日バットを振ったし、やるだけのことはやった。」その想いが涙腺を一切潤しませんでした。
ですが、試合後応援スタンドへ全員でお礼に言いに行った時
スタンドのほとんどの人がタオルに顔が埋もれる光景を見て
2年半バットを振り続けた自分に「よく頑張った」とは言えませんでした。
また、悔しさではなく、申し訳なささから
初めて人目を憚ることなく泣き崩れたことを今でも鮮明に覚えています。
自分の結果で喜ばせたい方々を喜ばせられなかった。
敗戦後のインタビューで「腹を切りたい」そう言いたくなるぐらい歯痒い気持ちになりました。
情けない思い出ばかり書きましたが
「人や組織の為に頑張れる自分」を手に入れたのは確かです。
また、その想いや姿勢が時にはここぞという時に
自分の能力を明らかに超越した結果を生み出すことも
両監督より学びました。今でも私には喜ばせたい人はいます。
そんな人の為に日々精進出来る自分がいるのは
野々村監督と山内監督の教えがあったからです。
野々村監督、山内監督ありがとうございました。
振り返ってみると濃密な10年間だったことをお伺い出来ると思います。
他にも所属したチームの方々のコーチ等、
ご紹介したい方はたくさんいらっしゃいますが
監督して下さった上記の4人の方々に留めておきます。
紅葉は枯れ落ちたその後栄養となって春頃に新しい花を咲かせるそうです。
私はこの秋をもって枯れ落ちる紅葉の如く野球人生に終止符を打ちます。
そして、野球とはまったく関係なく、企業の一員として働きます。
枯れ落ちた私の野球人生はこれまで野球一本で駆け抜けてきた情熱そのもの、
それはまさに紅葉の様に真っ赤に染まっていて、
その情熱と日々は私にとって財産です。
その財産もまた糧となり、来春からは社会人という舞台で新たな花をさかせていきます!!!!
最後までお読み頂きありがとうございました!
檜皮(4年・学生コーチ・開星)