法政大学創立100周年と東京六大学野球連盟結成100周年
私が法政大学に入学したのは昭和55年で、大学創立100周年の節目でした。野球部は第2期黄金期、五明監督がチームを率いて江川、袴田、金光(現野球部長)、植松、島本各先輩方の活躍で、すべて勝ち点5の4連覇を成し遂げたのが昭和52年秋。以降、リーグ優勝から遠ざかっている状況でした。
春のシーズンは同級生の小早川(元広島、ヤクルト)とともに、開幕からベンチに入れてもらいました。小早川は四番打者として全試合先発でフル出場し、好成績を残しました。私は3試合、先発のチャンスをもらい、早大戦で初勝利。六大学で1勝を挙げるのが目標だったのが、1年春に達成できたのは幸運でした。
なぜならば、当時の法政大学の投手層は厚かったからです。3年生には川端さん(広島ドラフト1位)、池田さん(阪神ドラフト2位)、2年生には田中さん(日本ハムドラフト1位)、その他にも甲子園で活躍した猛者たちが在籍していました。
初めて神宮でプレーした春のリーグ戦は3位。「100周年に優勝を」。その期待が重圧になったのかもしれません。夏の練習は当然ながら厳しいものでした。鴨田監督の方針で少数精鋭でメニューを組むことになったのです。200人近い部員の中から40人を厳選。1年生は10人以下であったと記憶しています。当時の1年生は、雑用が付きもの。練習以外に洗濯、掃除、用具の手入れなどが思い出されます。厳しい夏を乗り越え、秋季リーグ戦に臨みました。
慶應との開幕カード。鴨田監督から先発投手に指名されました。ところが、技術、精神的にも未熟でした。コントロールが定まらず、自滅する形で降板。幸い2回戦、3回戦に連勝して勝ち点を挙げることができましたが、私の登板はありませんでした。
「もう投げさせてもらえないのでは……」と「チャンスは必ずもう一度、来る!!」。2つの思いが交錯しながらも、1年生の私は活動拠点である川崎の法大グラウンドで汗を流すしかない。次なる起用に備えて、最善の準備をした記憶があります。
すぐに、その機会は訪れました。2カード目の立大2回戦で先発起用されたのです。決死の思いでマウンドに立ちました。「このチャンスを逃したら4年間投げさせてもらえない」。ただ、危機感よりも、神宮で投げられる喜びを感じて投げたことが良かったのか、完封勝利を挙げることができました。次のカードは、春大学日本一の明治戦。1回戦は勝利しましたが、2、3回戦に勝ち点を落としてしまいました。幸い明治が立教に勝ち点を落としましたので、早稲田、東大に勝ち点を取れば優勝という星勘定になりました。
早大戦では全試合に先発して勝ち点を奪い、東大戦も2試合に先発、連勝で6シーズンぶりに天皇杯を手にすることができました。私自身も6勝2敗でベストナインに選出。大学創立100周年という節目の年に入学し、卒業するまでにリーグ優勝4回、明治神宮大会、全日本大学選手権での日本一2回は、諸先輩方から育てていただいた一生の財産です。
明治神宮大会を制した昭和56年は、神宮球場における土のグラウンド最後のシーズンでした。翌57年の人工芝元年に春10戦全勝で大学日本一を遂げました。山中正竹監督(全日本野球協会会長)の下で助監督を務めさせていただいた際には、20世紀最後の春にリーグ優勝、21世紀最初の春のリーグ戦で優勝。法政大学は、節目の年に強いんです。
令和7年、東京六大学野球連盟は結成100周年を迎えました。現役学生は、この節目の年に神宮でプレーできることを、この上ない幸運と受け止め、法政大学野球部創部110周年に花を添えていただきたいと思います。