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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第8週(通算120号) 掲載
2017年05月24日発行

昭和43年3月、早稲田野球部新入部員二十一名は夢と希望に胸を膨らませ安部球場に集合しました。

中京商業時代〔(現中京大中京)二年生の時は甲子園春夏連覇、三年生の夏(当時は中京高校)は惜しくも準決勝で習志野高校に敗れたものの(優勝は習志野高校)、四年に一回の高校オールジャパンのキャプテンとしてアメリカ遠征等を経験し自信満々で入部したのも束の間、レギュラー連中の投手の球速、フリーバッティングの飛距離を目の当たりにし度肝を抜かれカルチャーショック。

とてもレギュラーにはなれないと感じた事を覚えています。(当時の中心メンバー:投手―小川・小坂・安田 捕手‐阿野 野手―荒川・小田・井石・谷沢・千藤) 他大学も明治―星野、法政―田淵・山本・富田の三羽烏に小さな大投手山中、立教―阿天坊、慶応―上岡、東大―橘谷と凄い顔ぶれ。
早慶戦は徹夜組が何千人も並び当日は一万人以上が神宮球場に入れずラジオを聴き歓声を上げるなど今では考えられない時代でした。

当時の早稲田の監督は石井藤吉郎先生でした。球界は勿論のこと一般の方からも関白さんと親しまれ長身でおおらかでスケールの大きな方でした。
怒った姿は記憶にありません。練習でもゲームでも茨城弁でユーモア溢れる監督さんでした。
只、私生活や怠慢プレーには言葉には出しませんが無言の威圧を感じていたのは私だけではないと思います。

六大学の素晴らしさは私生活では良き友としての付き合い、いざゲームとなれば対抗心を前面に出し絶対勝つんだとのライバル意識。
他校の上級生からは『望月。真面目に練習やってるか?高いレベルで競い合わないと六大学の選手として失格だぞ。』と助言を頂き六大学でプレー出来本当に良かったと思ったものでした。

四年の春季リーグ戦でラッキーにも首位打者を獲得出来たのも精神面、技術面で石井監督、河上助監督(後帝京大学監督)さんのお陰だと今でも感謝しています。
卒業し社会に出てから仕事の面に於いて六大学出身の縦・横の繋がりでどれだけ助けられた事か。
直近の大学野球に対する学生の関心の薄さ、観客動員数など将来に向けての課題は多いと思いますが微力ながら何かお手伝いが出来ればと思っています。
フレーフレー六大学。

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第7週(通算119号) 掲載
2017年05月17日発行

次週の5月27日早大―慶大1回戦の試合開始前に野球殿堂の表彰式が行われます。
野球殿堂は、日本野球の発展に大きな貢献をした方々の功績を永遠に讃え、顕彰するために1959年に創設されました。本年度は3名の元プロ野球選手と2名の学生野球関係者の5名が野球殿堂入りを果たし、合計197名となりました。
東京六大学野球の関係者や出身者では113名の方々が殿堂入りをされています。

神宮球場での表彰式は昨年の故松本滝蔵さんと山中正竹さんの殿堂入り表彰式以来2年連続の開催となります。
今回の表彰では、明治大学の先輩で東京六大学や高校野球の審判員として数々の試合で審判を務め、審判員引退後も後進の指導にあたり学生野球界の発展に寄与された故郷司裕さんと東京大学の先輩で1956年に初めてプロアマ合同で統一され発行された野球規則の編集委員として参画、以後日本アマチュア野球規則委員長として現在も毎年発行されている「公認野球規則」の編集に亡くなるまで中心的に関わった故鈴木美嶺さんに野球殿堂博物館の熊﨑勝彦理事長(プロ野球コミッショナー)から表彰レリーフが授与されます。

表彰式は試合前の12時35分から。当日は明大、東大関係者の皆様、東京六大学野球ファンの皆様をはじめ大勢の観客の皆様とともに郷司さん、鈴木さんの殿堂入りをお祝いいたしましょう。
なお、元プロ野球関係者として今回殿堂入りされた明治大学の先輩の星野仙一さんの表彰式は7月のプロ野球オールスター戦の際に予定されています

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第6週(通算118号) 掲載
2017年05月10日発行

「元気だして!」「さあ、いこうぜ!」リーグ戦敗戦後の練習風景である。
その日は、対戦相手の記憶が曖昧であるが守備のミスで負けた試合。下級生の私は、神宮球場から練習のため一目散で当時のグランドがある調布に戻る。
合宿所の掃除、グランド整備等行いメンバーの戻りを待つのが恒例である。緊張感の中、練習が始まる。
当然練習は守備練習、学生コーチから始まり助監督へノッカーが移る。グランドの傍らでは、島岡監督が車いすに座り鋭い眼光で練習を見つめる。

守備練習が終わりかけたその時、自力歩行も困難な状態の島岡監督が「俺がノックする!」
と側にいたマネージャーに伝えると車椅子から立とうとした。
マネージャーが「監督、できませんよ」と話しても聞き入れず、マネージャーが腰のベルトを掴み支えながらホームに立ち、島岡監督の手からボールが転がされた。
「エラーはダメだ!」「しっかり守れ!」と気迫に満ちた劇が飛ぶ!そのゴロは今にも止まりそうなゴロであったが、メンバーの選手達は涙を流しながら「絶対捕れ!」「エラーはするな!」と自らを鼓舞してそのゴロを拝むように捕球していた。その光景をメンバー外として練習の手伝いをしていた私は涙が溢れ、これが一球に魂を込める明治大学野球部の教えなんだと痛感した。

現在、私は社会人野球、東京ガス野球部の監督をさせていただいている。今でも明治大学野球部で学んだ四年間が指導の礎となっている。卒業してから二十五年が過ぎたが、その時に学んだ事が今でも時代遅れにならず不変なのは、明治大学野球部の先輩方々が築いた素晴らしい伝統と島岡監督の人間力教育があったからではないかと思っている。
今後も、一球・一瞬を大事にし、人づくり組織づくりに邁進していきたい。

明治大学野球部に感謝!

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第5週(通算117号) 掲載
2017年05月02日発行

外苑前の駅から神宮球場に向かう。その緊張感は、高校生の時に初めて六大学野球を観戦した時、法政大学野球部員として通った時、そしてOBとして後輩を応援に行く今も全く変わらない。
むしろ歳を重ねて更に身が引き締まる思いだ。秩父宮を通り過ぎる頃に、遠くにブラスバンドの音、応援団の声、そして神宮のアナウンスが聞こえてくる。
緊張感がピークに達する頃に神宮球場へと到着する。ロッカーの空気、ベンチに繋がる通路の暗さ、光が差し込むその先に現れる人工芝とスタンド。全ての選手が感じた光景だと思う。

ご縁があって九州の進学校から法政大学野球部に入部させて頂く事となった。
当時はまさにリーグ戦4連覇の真っ最中で、全国の大学が打倒法政大を目指していた時だ。後にプロ野球や社会人野球の主軸となる、正にスター軍団であった。
田舎から上京してきた私にとっては、日々の寮生活、グラウンド整備、道具整備、練習の手伝いもそうであったが、何より先輩方のプレーを神宮球場で観戦(応援)する事が楽しくて仕方がなかった。
部屋長(中根仁さん)が主将であった為、10番のユニフォームをグラウンドでファン目線で追いかけた事も鮮明に覚えている。
私自身、その憧れの10番のユニフォームでプレーさせて頂いた事も学生時代の最大の思い出であり、その後の歩む道の礎になった事は言うまでもない。

昨今、各地にドーム球場が建設され、ボールパークをコンセプトとした野球場が存在する。
しかしながら何故、神宮球場には圧倒的且つ独特の空気を感じるのであろうか?そして全国の大学生が憧れ、目指すのであろうか?大会運営の関係上、最近は全日本大学選手権で東京ドームを使用させて頂いている。
一回戦で敗退した選手から、「最後は神宮で負けたかった・・」という話を聞いた時に、あらためて学生野球における神宮球場の存在を感じる事となった。
2020年東京オリンピックに向けて近代的なボールパーク建設も魅力的ではあるが、学生野球の聖地としては古き良き歴史と伝統も反映して頂ければと願う。

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第4週(通算116号) 掲載
2017年04月26日発行

先日春季リーグ戦前の現役選手激励会に出席するとOB出席者リストの最上段に私の名前が載っており、今更ながらもうそんな年になったのかと改めて気付かされた。
私が東大野球部に入部したのは昭和26年で、まだ六大学リーグ戦は神宮球場が使えず、今はもう無くなった三鷹のグリーンパーク球場で春のリーグ戦が行われ、秋になってやっと神宮へ戻ることが出来た。それまで神宮球場はまだ戦後の占領米軍の管理下にあった。当時の他の大学では慶応に後巨人の藤田投手、明治にその後大洋でプロ日本一になる秋山、土井のバッテリー、早稲田に石井投手、立教に快速球の小島投手等が活躍していて、東大にとって善戦はあっても一勝への道は遠かった。

そんな中私は3年生の春に遊撃手として出場していたが、法政との試合で故三笠投手の3連投もあって、2勝1敗と勝ち点を上げることが出来たのが4年間の在部中で唯一の勝ち点で、その後平成5年に再び法政から勝ち点を上げるまでに40年を要し、たまたまその時私はOB会の幹事長を引き受けていたので、当時の現役選手と一緒に乾杯したのが懐かしく思い出される。現在も東大は長い間勝ち点から見放されているが、いつか近いうちに投打が噛み合って、必ず勝ち点を上げることが出来るものと信じている。

私の同期には、甲子園で優勝を経験し、近年高野連の会長を務めた脇村三塁手や、東大から初めてのベストナインに選ばれた斉藤左翼手が居て、そんな仲間と一緒に4年間の野球部生活を全う出来たことを貴重な勝ち点の思い出とともに今でも誇りに思っている。

最近とみに脚力が衰えて、神宮球場の階段を手摺り頼りに昇るのがしんどくなってきたので、リーグ戦を見る回数も減りつつあるが、なんとかもうしばらく頑張って、東大が勝ち点を上げる日を楽しみに時々神宮に通うつもりである。現役選手諸君の健闘を祈る。

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第3週(通算115号) 掲載
2017年04月19日発行

福島県立磐城高校では夏1年準優勝、2年甲子園、3年開会式直後にサヨナラ負け。
「天国と地獄」を味わった私は昭和62年、憧れの立教大学野球部の門を叩いた。当時の主将は長嶋一茂さん。父兄会である「智徳会」の会長は代々主将の父親が務めるのが慣例だった。
つまり、長嶋茂雄大先輩が会長である。会場だった日本青年館は「ミスタープロ野球」を一目見ようと、大勢の父兄で埋め尽くされた。
長嶋大先輩を「神様」と崇める私の父にとって、お目にかかれる切っ掛けを作った私は、野球のプレイ以上に、大そう褒められた思い出がある。

チャペルでの伝統のユニホーム推戴式で渡された縦じまを着た4年時は、最高の仲間に恵まれた。
当時の横川賢次監督は私生活の大切さを説き、自立心が養わられた。横川さんの方針で食堂に衛星放送が設置され、メジャーの試合が見られる環境はその後の私に大きな影響を与えた。
法政大学との27年ぶりの優勝決定戦で先制タイムリーを放って秋連覇に貢献し、明治神宮大会では同志社大学に敗れたが準優勝で学生野球を終えることができた。
現在の第16代溝口智成監督は天皇杯を獲得した同期であり、優勝キャプテン。彼のような「立教愛」に溢れた男だからこそ、再び立教黄金時代を築いてくれると信じて止まない。

1995年からアメリカでメジャーリーグを中心に、スポーツビジネスの本場に身を置いてきた。
松井秀喜氏がメジャー1年目のこと。長嶋大先輩がヤンキースタジアムに松井氏を激励に訪れた。直立不動で挨拶する私に向かって、「メジャーリーグの魅力を伝えて下さい」と温かいお言葉を頂いた。感無量だった。
現地メディアには「日本のジョー・ディマジオ」と紹介した思い出がある。

アメリカにいても、メジャーやWBCの現場で、多くの六大学の諸先輩・後輩と交流したし、また一緒に仕事をする機会にも恵まれた。
連盟の内藤雅之事務局長が「野球殿堂の197人中113人は六大学出身者」と話されているが、時を経て、六大学の出身者が野球界の様々な立場で、日米の懸け橋になっている。

活動の拠点を日本に移してから、母校で教鞭も執るようになったし、アマチュア球児向けフリーマガジン『サムライベースボール』の発行人として、アマ球界の現場に行けばどこにでも六大学の諸先輩方がいて、温かく迎えてくれる。
4年程前からOB会長で組織する「六考会」の活性策の一環として、活性化委員を任命され、「観客動員数アップ」を命題に、20人を超える熱いメンバーの方々と時間を共有し、議論を交わしてきた。その一例が「東京六大学野球ゼミナール」である。
今季からゼミ生のアイデアで、SNSでの情報発信、神宮グラウンド招待、フォトブース設置などを実施。
今後も野球界の先駆者たる六大学らしい発想で、アマ球界を先頭で引っ張る東京六大学野球連盟の方々や活性化の同志の方々と多くの施策を実現していきたい。

最後になりましたが、諸先輩方が築き上げた良き伝統を、次の世代に繋げるお手伝いが少しでもできるように、「東京六大学野球・愛」を胸に、これからも微力ながら恩返しをさせて頂きたいと思っています。

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TOKYOROCKS!2017 特別号 春季リーグ第2週(通算114号) 掲載
2017年04月12日発行

「エンジョイベースボール」という言葉を慶大野球部時代に初めて教わった。
今でも良く耳にする“野球を楽しむ”という意味とは少し違う。「野球は、どこよりも厳しい練習をして“勝つ”事こそが一番楽しい」というものだ。
厳しい高校野球から楽しい大学野球と思って入部した私は出鼻をくじかれた事を覚えている。

その為なのか、卒業して30年近く経った今では、東京六大学野球での思い出を聞かれると、“負け”て悔しい思いをした試合が頭に浮かぶ。
その中でも特に思い出深い“負け”は、2年秋のリーグ戦開幕試合で東京大学に負けた試合だ。その年の春は4番打者としてリーグ優勝し、全日本大学野球選手権でも優勝して日本一という“勝ち”を経験して野球の楽しさを味わった。
こんなに野球が楽しいなんて、と思ったものだ。

春秋連覇を狙った秋の初戦で、当時200勝まであと2勝と話題になっていた東大に対して、初回先制ツーランでリードを許すも、中盤に1点を返し、いつか追いつくと思っていたら、あれよあれよという間に9回まで抑えられ、199勝目を献上してしまったのだ。
勝ち点こそ奪ったものの、その秋のリーグ戦は5位という“惨敗”。
「優勝は逃しても早稲田には勝て」という、もう一つの慶大野球部の教えも守れず、日本一から音を立てての転落だった。結局4年間で東京大学に敗れたのは、その1試合のみだったが、それ以降も一番やりづらい相手だった。

やりづらい東大戦だけでなく、永遠のライバルであり優勝しても負けたら意味がないと言われた早大戦、人間力という見えない力で本当にしつこく粘り強くプレッシャーをかけられた明大戦、当時4連覇を達成するなどタレント揃いで大人の野球をしてきた法大戦、長嶋ジュニアフィーバーで世間も敵に見えた立大戦など、苦渋を味わった事ばかりが思い出される。
もちろん苦しい思いをした分だけ勝った時の喜びと楽しさは格別なものだった。
東京六大学野球は学生野球とは言え、勝敗を争っている以上、勝ちに向けての必死な姿を見せ続けてほしい。野球を楽しむのはファンであって、プレーヤーは勝負師なのだ。そして、勝ち負けには必ず根拠がある事を学んでほしい。