TOKYOROCKS 東京六大学野球

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第8週(通算112号) 掲載
2016年10月26日発行

昭和56年から4年間過ごした塾野球部での思い出といえば、下級生時代の厳しさとケガとの戦いもあり苦労の連続だった思い出が数多く残っています。残念ながら私が現役を過ごした4年間に塾野球部は優勝を勝ち取ることができませんでした。
1年後輩たちが昭和60年秋のシーズンで13年ぶりの優勝を勝ち取った時には自分たちが優勝したかのように仲間と喜んだものでした。「努力を続ければ必ず報われる」ということを身をもって学んだ4年間でした。

大学卒業後地元に戻った時に地元の先輩から「大学まで野球を続け神宮も経験することができたのだからこれからは審判員として野球に恩返ししないか」と声を掛けていただいた事がきっかけで高校野球の審判員を始め、いくつかの連盟で審判員として野球に関わっていたこともあり、2004年から3年間東京六大学野球の審判員を務めさせて頂きました。
その後仕事の都合で海外赴任もあり9年間神宮から離れていましたが、今シーズンより再び審判員を務めさせて頂くことになりました。

審判員として野球に関わるようになり野球の奥深さを改めて学びました。野球規則も毎年見直しが行われますし、審判員のメカニクスもより良いジャッジのために常に進化しています。野球の試合は決して同じ場面はありません。常に学ぶことを忘れず、選手が一生懸命練習に励み試合に臨んでいるのでその1つ1つのプレーに対して正確なジャッジが行えるように常に心掛けています。
聖地神宮でグランドに立つ時はいつも以上に緊張感を持って臨んでいますが、これからも選手のスピードに対応できるように体力維持と体調管理に注意しながら、陰ながらではありますが東京六大学野球の一員として精一杯努めさせて頂きます。
また、ひとりの親としては次男が目標としている「神宮でプレーする」に向かって努力を続けて実現してくれることを切に願うものである。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第7週(通算111号) 掲載
2016年10月19日発行

六大学野球は神宮球場から錚錚たる野球人を輩出してきた。昭和44年卒の同期には、法政の三羽烏富田勝、田淵幸一、山本浩二。明治に星野仙一。一年下にはリーグ最多勝の記録を持つ山中正竹。早稲田では、荒川堯、谷沢健一、小田義人、阿野鉱二などベンチ入りのメンバー殆どがプロ入りという豪華布陣だった。

その中で投手として誇る戦績は挙げられなかったが、有難くない記録は頂戴した。それは被本塁打。既に記録は更新されたが、通算24本、1シーズン9本。今なお記録に残る1試合5本。それも4本は田淵、山本の2打席連続アベックホームラン。これを塗り替える打者が並ぶことは今後ないだろう。

このように神宮では打ちのめされたが、社会人では、都市対抗第41回大会で、大学時代の先輩、同輩、後輩を抑え久慈賞を頂き、神宮での借りを後楽園で少し返すことが出来た。優勝で橋戸賞を得たのは、都市対抗史上唯一の決勝延長引分試合を投げ合った一期下の早稲田の安田猛。〈プロでヤクルト球団初の日本一に貢献〉このライバルとは、今では杯を交す良き友となった。
これも投手経験のなかった私を育て、上級生の時には連日試合を任せて下さった故坪井忠郎監督のおかげだと今でも深く感謝している。

また、昨年一誠会(東大野球部OB会)の会長を受けた際、「東大を優勝させよう会」の会長であった冷泉公裕氏から「マウンドで投げ続けていた姿を見て東大のファンになった」と伺い、このような方々に支えられて野球ができたのだと有難く良き野球人生を振り返った。

六大学野球は対抗戦で競い合うが、シーズンの覇者には天皇賜杯が授与されるというスポーツ界では数少ない栄誉を浴する。残念だが、わが母校は一度も手にしていない。六大学最後のメンバーとして参加を許された東大野球部が追い求め続けなければならない使命だ。「頑張れ東大野球部!」

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第6週(通算110号) 掲載
2016年10月12日発行

この夏、8月20日に新潟県新発田市の五十公野(いじみの)公園野球場で「東京六大学野球オールスターゲームin新発田」が行われました。オールスターゲームは昨年、徳島県阿南市と高知県高知市で開催されました。
新発田市は越後平野の北部に位置する新潟県北部の中核都市で、県下有数の良質なお米の産地としても知らており、また新発田藩の城下町として栄えた市街地は新発田城を代表とする歴史的建造物が多数あります。

当日は、多くの観客の中、東京六大学応援団連盟も参加して神宮の応援を再現し、観客の皆様も大いに盛り上がりました。試合は地元の藤塚浜と二王子岳の名前から、春季リーグ戦の順位により藤塚浜オーシャンズ(明慶早)と二王子マウンテンズ(立法東)に分かれて対戦、1点を争う好ゲームは結局3-3の引き分けとなりました。翌日21日には地元の中学生を対象とした恒例の野球教室も開催しました。

来年の8月には宮崎、さらに平成30年は長野でオールスターゲームを開催することになっています。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第5週(通算109号) 掲載
2016年10月05日発行

1964年(昭和39年)立教大学入学、硬式野球部入部。グランド、合宿所は西武池袋線東長崎でした。神戸から上京して第二合宿所に入りました。主将は土井正三(私の実兄)部員100名弱、そういった環境で東京六大学野球部員としてスタートしました。(10月:東京オリンピック)

1、2年時は練習にも加えて貰えず只ひたすら下積み生活、そんな中昭和41年春季リーグ戦初めてベンチ入り即優勝、とても信じられない経験でした。 兄は一年生春からベンチ入り、しかし一度も優勝の経験を味わう事なくプロ入り(その年から巨人軍V9メンバー)、その彼も7年前67歳で他界しました。他に学生時代の思い出としては、1年時春:慶應義塾大学・渡辺投手に完全試合、3年時秋:明治大学・星野投手にノーヒットノーランを!!
亡き兄が会うたびにいつも言っていた事は、「俺は東京六大学で優勝を経験出来なかった」と…。

母校は17年間(34シーズン)優勝から遠ざかっています!何度かチャンスは有りましたが何かが足りなかったのでしょう。この秋季リーグ戦、初戦の法政戦ストレートで勝ち点を取りいいスタートを切りました。この先未だ未だ分かりませんが、今度こそ何とか美酒を味わせてやりたい…。そんな気持ちでスタンドの片隅で見守って居ります。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第4週(通算108号) 掲載
2016年9月28日発行

2007年3月に早稲田大学を卒業してから5年後の2012年より東京六大学野球の審判員を務めさせて頂いております。神宮球場に選手としてではなく、審判員として戻ってきた時は選手の時とは違った緊張感がありました。
自分が行う一つ一つの判定が選手の今後を左右する。少し大袈裟なのかもしれませんが、そのような緊張感を持ちながら審判員を務めるようになり、5年目を迎えます。未だにその緊張感を持ち、日々勉強を続け、グラウンドに立つ毎日を送っております。
学生時代の一番の思い出と言えば、4年秋の早慶戦2回戦で代打サヨナラホームランを打ったことです。延長12回まで戦い、後攻だったため負けはなくなり、当時の監督から行ってこいという形で4年生の代打攻勢で自分の出番が回ってきました。

何も考えず振り抜いた打球がライトスタンドへ入り、グラウンドを1周した時は最高の気分でした。
社会に出てからも後輩のキャンプへ一緒について行った時にも監督さんから当時の話を現役部員に向けてされました。「努力は人を裏切らない」本当にその通りだと思いました。

現役の部員特に4年生には自分を信じ、最後まで精一杯努力を続けてほしいと思います。
そうすれば必ず良い結果が待っています。
これからも陰ながらではありますが、東京六大学野球の後輩達のためにグラウンドに立ち続けていきたいと思います。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第3週(通算107号) 掲載
2016年9月21日発行

私が神宮球場を初めて訪れたのは昭和53年の春季リーグ戦でした。当時早稲田大学に在学していた兄と浪人生の私に加え,栃木の田舎から上京してきた今は亡き父と3人で早慶戦を観戦しました。浪人後,この場所で活躍する自分を妄想しながら楽しい時間だったことを覚えています。また,華やかな応援や当時の早稲田打線の迫力が浪人生であった私を刺激し,神宮球場に対する思いを更にヒートアップさせていきました。

そんな思いが実を結んだのか,昭和54年4月に縁あって明治大学入学に入学することになりました。その後4年間,強力なライバルとなる同級生のみならず先輩・後輩たちに加えて島岡監督からも鍛えられ、厳しくも楽しい(今思えばですね)学生生活を送ることが出来ました。
自分が描いていた通りにはなりませんでしたが,2年春のシーズンからベンチに入れていただき,大学選手権の連覇等に立ち会えたことや4年時には学生コーチとして島岡監督をフォローし,試合前のノックやサードベースコーチをさせていただくなど良き思い出となりました。

その中でも一生忘れられない,忘れてはならない事があります。それは島岡監督からの援助でした。3年生の12月に父が急逝し,大黒柱を失った我が家としては,私を含め大学生が3人いたこともあり,私が野球と大学を諦め、社会に出て弟たちの面倒をみようと,島岡監督に退学・退部を申し出たところ「学費と生活費は俺が面倒みるから思い止まれ」と言っていただき,学生生活を全うすることが出来ました。

それから33年が経ち,私は現在明治大学に勤務させていただき,長男の亮太(日大三-明治大学-JR東日本)も神宮球場から育ち,現在は千葉ロッテマリーンズでピッチャーとして頑張ってくれています。このようなご縁がなかったら現在の私や息子の活躍は無かったなとつくづく感じております。引き続き,神宮球場を通してご縁をいただけるよう親子ともども努力していきたいと思います。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 秋季リーグ第2週(通算106号) 掲載
2016年9月14日発行

神宮球場での「バトンパス」

リオオリンピックのメダル獲得数は過去最多で大変な盛り上がりでしたが、2020年の東京オリンピックでは野球競技が復活するため、野球ファンにとっては楽しみの1つになりそうです。

斯く言う私は昭和57年に憧れの神宮球場で六大学野球をやりたくて桐蔭学園から法政大学に入学しました。その頃の神宮球場は現在のような人工芝ではなく、天然芝のグランドで外野席も天然芝でした。上級生は皆大人に見えて甲子園組も多数で圧倒されました。当時の法政大学は春、秋のリーグ戦で常に優勝争いをしていた中、私は神宮球場で活躍する事は無く、夢はいつしか色あせていき卒業を迎えました。その後、縁がありまして現在、法政大学野球部先輩理事代行をされている小林國甫さん(現在、三州㈱会長)の会社でお世話になる事になりました。

自分はもうユニフォームを着ることは無くなりましたが、我が家の長男も野球を始めました。大学時代同期の川崎君(広島商)、菅野君(東海大相模)や大勢の方々にお世話になり、強肩俊足を強みに力を付けていき私と同じ桐蔭学園に入学し、親が果たせなかった甲子園へ出場することができました。数十年後にこのような形で甲子園出場が実現するとはあの頃には想像もつきませんでした。
その後息子は法政大学に進学する事になり、1年生から試合に出場させていただき、私の夢を叶えてくれました。
神宮球場で我が子が頑張っている姿を観ていると学生時代の自分の姿を息子に重ね、幸せをかみしめていました。掲示板に「普久原」の3文字が点灯し、応援団や観客席の皆さんが息子を応援して下さるのを見ると嬉しさで息子の姿が涙で滲んだ事を思い出します。

歴史のある神宮球場で自分が昔叶えられなかった夢…それを息子にしっかり「バトンパス」をする事ができた。その後息子は、法政大学を卒業し中日ドラゴンズにドラフト指名していただき入団する事ができました。親子共々神宮球場は一生忘れられない「夢の舞台」です。