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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第8週(通算40号) 掲載
2012年05月30日発行

私が早大に入学した1966年、同期生で注目の的だったのは阿天坊俊明君だった。同郷のライバル校・銚子商業から立教大へ進んだ彼は、いきなり春のリーグ戦に出場した。

一方、私は球場の入口で1年生の務めを果たしていた。観戦に訪れるOB諸氏の出迎え役、所謂「切符切り」である。場内アナウンスと歓声を耳にしながら、心には「1日も早くユニフォームを着て球場に入るぞ」という想いだけがあった。そして、秋にはベンチ入りでき、2年春には首位打者にもなれた。

だが、なぜか栄光とは逆の記憶が鮮明だ。48勝の山中君・本塁打22本の田淵氏を擁する法政大に、0対20で敗北したこともあった。その時は、バックスリーンの横から遠くプレーを注視する仲間への申し訳なさが胸に溢れた。

半世紀近くが過ぎた今、東大野球部に関わっている。学業のためにボールやバットに触れる時間がどうしても少ない部員たちに、自製熟語の「必用必要」を説いている。

5大学だったリーグへ東大が加盟するのに尽力したのは大先輩飛田穂洲先生だった。その6大学野球なしに自分の人生はありえないという想い、それが神宮球場にある。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第7週(通算39号) 掲載
2012年05月23日発行

次週の6月2日慶大―早大1回戦の試合開始前に野球殿堂の表彰式が行われます。野球殿堂は、日本野球の発展に大きな貢献をした方々の功績を永遠に讃え、顕彰するために1959年に創設されました。

本年度は2名の元プロ野球選手と2名のアマチュア野球関係者の4名が野球殿堂入りを果たし、合計177名となりました。東京六大学野球の関係者や出身者では105名の方々が殿堂入りをされています。

通常はプロ野球のオールスターの第1戦で表彰式を行いますが、アマチュア野球関係者の場合、夏の甲子園大会や都市対抗野球で表彰式を開催したことがあります。今回野球博物館から学生野球関係者の表彰については神宮球場での表彰が相応しいとの要請があり、東京六大学野球連盟としてもこれを快諾した次第です。

次週の表彰式では本年度野球殿堂入りされた学生野球の発展に寄与した故長船騏郎さんとアオダモ資源育成の会を設立された故大本修さんのご遺族に、野球体育博物館の加藤良三理事長(プロ野球コミッショナー)から表彰レリーフが授与されます。当日は大勢の観客の皆様と一緒にお二人の殿堂入りをお祝いしたいと思います。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第6週(通算38号) 掲載
2012年05月16日発行

昭和25年生まれ。北海道の網走で育った。3歳でボールを持ってから毎日投げていた。早く中学生になって野球部へ入り投手をやりたいと思っていた。網走中学、網走南ヶ丘高校と地元で野球を続けた

。甲子園は別世界だと考えていたが高校3年の夏、北北海道大会で優勝し出場が決まった。出場は出来たが一回戦で大分商業に完敗。試合後、初めて人前で泣いた。不甲斐ない試合で、もう野球が出来なくなったと思い込んだからだ。進路に悩んでいた時、甲子園で審判をしていたから方から立教を受けないかと連絡を頂いた。

立教大学は長嶋さんの母校としか知らなかったが、野球が続けられるという思いだけで四学部受験し、法学部に合格した。寮に入ると、田舎者の自分には戸惑うことばかりだった。上下関係の厳しさや当時流行っていた「網走番外地」という映画に引っ掛けて先輩から「番外地」と呼ばれるのは、自分の人間性を否定されているようで嫌だった。

1年の秋、先輩投手陣の練習を見た時、自分の投げる球はどこへ行くかわからないが、速さだけは1番だと思えた。この時から、この思いだけが自分の支えになった。神宮のマウンドに立つために死に物狂いで練習をした。「番外地」と呼ばれることぐらい平気になった。

プロ野球に7年間身を置いたが引退した時、野球への想いを断ち切るために一切野球とは関わらないと決め、うどん店で皿洗いから修行を始め4年後に池袋で店を開けた。店を出してからも野球に関しては目も耳も閉じていたが、5年が経った頃、自分のことを聞いた当時の立大野球部の助監督が車で迎えに来てくれ、新座のグラウンドへ連れて行ってくれた。挨拶だけで帰るつもりだったが、久しぶりのグラウンドは本当に気持ち良かった。

気が付けば練習が終わるまでグラウンドに立っていた。自分はやっぱり野球が大好きなんだと素直になれた。その日から、当時の監督の許可を得て時間の許す限りグラウンドへ行き練習を見た。その時間が自分の生き甲斐になった。自分を育ててくれた野球への恩返しになるかもしれないと思った。

9年前、3度目のガンの再発で成功率3割と手術の説明を受けた。先生から「何か質問はありませんか」と尋ねられ、口から出た言葉は「手術がうまくいったらノックが出来るようになりますか」だった。「出来るようになります」と先生は答えた。

退院して最初に行った場所は新座のグラウンド。学生たちがすぐに気付いて来てくれた。生きていて良かったと思った。その時は歩くことさえ不自由だったが今ではノックも出来る。まだ通院治療は欠かせないが、前向きに頑張れるのは「生きたい」と思うからだ。野球をする学生たちに伝えたいことがある。

野球部へ来た全員が自分の良い所を見つけてそこを磨き、自信をつけ誇りを持って卒業してもらいたい。その手伝いをしたい。

東京六大学という伝統ある野球部だからこそ学べることが必ずある。大学野球の4年間は今も自分を支えてくれる土台だ。学生たちにもこの4年間を大切にしてほしいと願っている。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第5週(通算37号) 掲載
2012年05月09日発行

神宮球場、東京六大学、学生であれば最高の舞台と言う思いは常にありました。

甲子園の夢破れ、大学で野球を続けると決め、どうせやるなら神宮で、と大学の門を叩きました。歴史ある東京六大学で神宮のマウンドに立つ事が次の夢になりました。

当時はまだ天然の芝、土のグラウンドで何故かとても広く大きく感じられたものでした。選手達を見ても、大きく強そうに見えたのを覚えています。九州の宮崎から上京し、応援団の後押しやOB、ファンの皆様の前で野球をする、試合をする、全ての要素があの雰囲気を作っているのだと感じたものでした。

私の神宮での初めてのマウンドは1年生の時、相手は早稲田大学。いきなり名前を呼ばれ、今思えばどうやってマウンドに行ったかも覚えていませんが、振り返るとランナーもいてピンチ。しかも打者は岡田さん(現オリックス監督)でした。その後何年かの年を経て阪神タイガースでチームメイトになろうとは、その時は考える由もありませんでした。

神宮と言えば、やはり応援団が印象的でした。毎試合大きな声をだして必死に応援してくれる姿に感動と感謝をしていました。負けると選手以上に悔しんでくれたのが心に残りました。今でも応援団の友達とは、たまに当時の話をしながら親交を深めています。

人としても野球人としても、神宮、あの聖地が私を育ててくれたと言っても過言ではないと思います。今更ながらに思う事は、神宮で始まった野球が、現役最後の球団もヤクルトスワローズで、その神宮球場のマウンドで最後の一球を投げられた事に感激と縁を感じました。

多くの仲間や素晴らしい時間をくれた神宮球場に感謝したいと思います。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第4週(通算36号) 掲載
2012年05月02日発行

「受け継がれる人間力野球」

当時(昭和50年)の神宮球場は、内野・土、外野・天然芝、外野観客席も天然芝で、緑溢れる球場でした。スコアボードも手書きで、ポジション・名前、そして私が何より気に入っていた出身高校名が入りました。大学(チーム)の代表としての責任と、母校の名誉を背負って戦いに挑む。重荷でもありましたが、力を与えてくれるものでもありました。

私たちの学年は、明大始まって以来の弱小チームと言われながら、春・秋共に、天皇杯を手にする事が出来ました。これも、早朝5時に起こされ、霜の降りたグラウンドを鍬で掘り起こし、寒さと戦いながら、夜遅くまで練習の上に練習を重ねた結果であったと思います。

島岡御大の「人間力野球」の教えがあったからこそ、勝利することが出来たのだと思います。

今縁あって、私は母校明治高校野球部の監督をしております。“人としての成長なくして技術の成長なし=勝利なし”という、島岡監督の「人間力野球」を少しでも多く選手達に伝えていきたいと思っています。

母校明大の春秋連覇も願いつつ・・・。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第3週(通算35号) 掲載
2012年04月25日発行

2013年、我が部は創部125周年を迎える。三田ベースボール倶楽部として発足したのが1888年(明治21年)、ちょうど黑田清隆が第二代内閣総理大臣に就任した年であった。1903年に行われた第一回早慶戦の15年前と言えば分かり易いかもしれない。数々の偉大な諸先輩方が築かれた歴史を噛みしめながら、選手達は日々汗を流し、我々OBは微力ながら支援を続けている。

三田倶楽部(野球部OB会)ではこの度125周年記念事業委員会を設置し、大きな柱として人工芝の張り替え、合宿所に隣接するウエイト場の新設、そしてロッカールームの改装に取り組んでいる。ウエイト場については春季リーグ中の完成を目処に建設を遂行中で、選手達の益々の体力強化を願う気持ちの表れでもある。

125周年事業の計画、実行に際し、慶應義塾中心にご支援を頂き、また三田倶楽部員の皆様にも多大なるご協力を頂いている。六大学で最も歴史のある学校として守ってきた気風を尊重しつつ、この125周年事業を将来につながる事業とするためにも物心両面においてご支援を頂けると幸いである。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 春季リーグ第2週(通算34号) 掲載
2012年04月18日発行

東大球場の今昔

平成24年3月24日、改装なった東大球場で、グランド開きの式典が行われた。その工事の内容は、劣化し凸凹となった経年15年の人工芝を撤去し、最新の人工芝に取り替えるというものであった(なお球場のスタンドは去年すでに国登録有形文化財となっている)。

時節柄、工事費用の調達に苦労と困難が予想されたが、野球部のOBや後援会のみならず、本部や運動会、そして大学の先輩方の熱意と温情により。春のリーグ戦開幕に先だち竣工に漕ぎつけたのであった。

歴史を紐解くと、今を去る75年前の昭和12年に。関東大震災で壊滅した本部キャンパス復興の最後の事業として、この球場が内田祥三博士(当時工学部長のち総長)の設計により、小なりとはいえ、れっきとしたスタディウム形式で完成され、当時六大学一の立派な球場であったといえよう。この時、長与又郎総長が始球式で第一球を投じられ、東龍太郎野球部長が祝辞を述べられた。

私はというと50年の昔、東大野球部に在籍し、昭和36年春のリーグ戦において、オープニングピッチャーを務めさせていただいた。このことは小生にとり終生の寶となっている。