昭和25年生まれ。北海道の網走で育った。3歳でボールを持ってから毎日投げていた。早く中学生になって野球部へ入り投手をやりたいと思っていた。網走中学、網走南ヶ丘高校と地元で野球を続けた
。甲子園は別世界だと考えていたが高校3年の夏、北北海道大会で優勝し出場が決まった。出場は出来たが一回戦で大分商業に完敗。試合後、初めて人前で泣いた。不甲斐ない試合で、もう野球が出来なくなったと思い込んだからだ。進路に悩んでいた時、甲子園で審判をしていたから方から立教を受けないかと連絡を頂いた。
立教大学は長嶋さんの母校としか知らなかったが、野球が続けられるという思いだけで四学部受験し、法学部に合格した。寮に入ると、田舎者の自分には戸惑うことばかりだった。上下関係の厳しさや当時流行っていた「網走番外地」という映画に引っ掛けて先輩から「番外地」と呼ばれるのは、自分の人間性を否定されているようで嫌だった。
1年の秋、先輩投手陣の練習を見た時、自分の投げる球はどこへ行くかわからないが、速さだけは1番だと思えた。この時から、この思いだけが自分の支えになった。神宮のマウンドに立つために死に物狂いで練習をした。「番外地」と呼ばれることぐらい平気になった。
プロ野球に7年間身を置いたが引退した時、野球への想いを断ち切るために一切野球とは関わらないと決め、うどん店で皿洗いから修行を始め4年後に池袋で店を開けた。店を出してからも野球に関しては目も耳も閉じていたが、5年が経った頃、自分のことを聞いた当時の立大野球部の助監督が車で迎えに来てくれ、新座のグラウンドへ連れて行ってくれた。挨拶だけで帰るつもりだったが、久しぶりのグラウンドは本当に気持ち良かった。
気が付けば練習が終わるまでグラウンドに立っていた。自分はやっぱり野球が大好きなんだと素直になれた。その日から、当時の監督の許可を得て時間の許す限りグラウンドへ行き練習を見た。その時間が自分の生き甲斐になった。自分を育ててくれた野球への恩返しになるかもしれないと思った。
9年前、3度目のガンの再発で成功率3割と手術の説明を受けた。先生から「何か質問はありませんか」と尋ねられ、口から出た言葉は「手術がうまくいったらノックが出来るようになりますか」だった。「出来るようになります」と先生は答えた。
退院して最初に行った場所は新座のグラウンド。学生たちがすぐに気付いて来てくれた。生きていて良かったと思った。その時は歩くことさえ不自由だったが今ではノックも出来る。まだ通院治療は欠かせないが、前向きに頑張れるのは「生きたい」と思うからだ。野球をする学生たちに伝えたいことがある。
野球部へ来た全員が自分の良い所を見つけてそこを磨き、自信をつけ誇りを持って卒業してもらいたい。その手伝いをしたい。
東京六大学という伝統ある野球部だからこそ学べることが必ずある。大学野球の4年間は今も自分を支えてくれる土台だ。学生たちにもこの4年間を大切にしてほしいと願っている。