早稲田を目指したきっかけ:
小学校3年生から少年野球を始めた私ですが、小学校高学年の時にテレビで早慶戦を見て、なぜ慶應ではなかったのかは分からないのですが、ブラウン管から伝わる早稲田の泥臭さに興奮し、そしてこの襟付きのユニフォームを着て早稲田で野球がしたい! と強く思うようになりました。
その後もこの気持ちは変わらず、高校に進学するときは、福岡大大濠高校と福岡県立筑紫丘高校の2つの選択肢がありましたが、早稲田への進学を考え、進学校である筑紫丘高校への進学を選びました。
高校3年生の夏は県大会予選敗退で終わり、いよいよ早稲田への進学を目指して、現実に向き合わなければならない状況となりました。
8月下旬に当時の戸塚・安部球場で行われたセレクションに3塁手として参加し、甲子園出場選手を含め、私と同じ志をもった同級生と共に時間を過ごしたことで、「早稲田で野球をする」という目標が揺らぎのないものとなりました。
石井連藏監督との出会い:
何とか早稲田大学教育学部教育学科体育学専修(現在のスポーツ科学部)に入ることができ、1、2年生の時は、今でいうパワハラや体罰といったものもあり、しごきにしごかれましたが、同期の仲間の存在が唯一の支えでした。
入学時は40名近くいた同期も最初の夏が終わる頃には20人まで減りましたが、最後まで残った20人の同期は、所謂「同じ釜の飯を食った」友であり、一生の友となることでしょう。
今でも会うと、話題に上るのは勝ったことや楽しかったことではなく、負けたことや苦しかったことばかりで、会う度に飽きもせず同じ話で盛り上がっています。恵まれていたのは、早稲田の大先輩方が血と汗を流し切磋琢磨をされ、そして最後の早慶戦など数々の歴史が刻まれた今はない戸塚の安部球場で2年間練習をすることができたことです。
2年生の秋のリーグ戦が終了し、新たに石井連藏氏が監督に就任されることになりました。これから3年生になり、少しは練習が楽になるだろうという淡い期待は見事に打ち砕かれました。
しかし、この最後の2年間で早稲田大学野球部とはどういうものかを徹底的に教えていただきました。そして、この石井連藏監督との出会いが私の後の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
日米大学野球との関わり:
早稲田大学卒業後すぐに、石井監督の勧めで石井監督と親交が深かったロッド・デドー氏が名誉監督を務めるUSC(南カリフォルニア大学)へ留学しました。
当時、石井監督は日本大学野球連盟の理事をされており、その関係で、留学中の私にぜひ日米大学野球の手伝いをしてほしいと依頼がありました。それから私の日米大学野球との関わりが始まりました。主に、日本大学野球連盟とアメリカ連盟の間に入って折衝を行ったり、大会期間中、米国開催の場合は日本チームに、日本開催の場合はアメリカチームに帯同して世話役を務めたりする役割を担っています。
かれこれ20年間以上携わらせていただいていますが、両チーム共に金の卵といえるメンバーが勢ぞろいしており、両国の代表選手としての経験が、彼らの野球人としてのこれからの人生において少しでもプラスになればと思いながら仕事をしています。
特に近年は、日本人選手の中にメジャー志向の選手も多いため、アメリカの野球文化、しきたり、心構えなども積極的に伝えるようにしています。今後も、微力ながら日米大学野球の発展に寄与できれば幸いです。
同期・小宮山監督への激励:
今春より母校の監督に就任したのは、同期の小宮山君です。プロで輝かしい成績を残し、プロ野球界からの監督、コーチ職の誘いも全て断り、母校再建のために全霊全身をかけ、寝食を忘れて野球部の再建に取り組んでいます。
同期一丸となって小宮山監督を応援し、早稲田大学野球部の復活が東京六大学野球の発展に、ひいては日本大学野球の発展につながることを願っています。早稲田大学校歌「都の西北」、そして第一応援歌「紺碧の空」が満員の観衆と共に神宮球場の大空にこだまする日を夢見ながら、早稲田への思い、故石井連藏監督への感謝を胸に筆を置かせていただきます。