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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第8週(通算168号) 掲載
2019年10月30日発行

早稲田を目指したきっかけ:
小学校3年生から少年野球を始めた私ですが、小学校高学年の時にテレビで早慶戦を見て、なぜ慶應ではなかったのかは分からないのですが、ブラウン管から伝わる早稲田の泥臭さに興奮し、そしてこの襟付きのユニフォームを着て早稲田で野球がしたい! と強く思うようになりました。
その後もこの気持ちは変わらず、高校に進学するときは、福岡大大濠高校と福岡県立筑紫丘高校の2つの選択肢がありましたが、早稲田への進学を考え、進学校である筑紫丘高校への進学を選びました。
高校3年生の夏は県大会予選敗退で終わり、いよいよ早稲田への進学を目指して、現実に向き合わなければならない状況となりました。
8月下旬に当時の戸塚・安部球場で行われたセレクションに3塁手として参加し、甲子園出場選手を含め、私と同じ志をもった同級生と共に時間を過ごしたことで、「早稲田で野球をする」という目標が揺らぎのないものとなりました。

石井連藏監督との出会い:
何とか早稲田大学教育学部教育学科体育学専修(現在のスポーツ科学部)に入ることができ、1、2年生の時は、今でいうパワハラや体罰といったものもあり、しごきにしごかれましたが、同期の仲間の存在が唯一の支えでした。
入学時は40名近くいた同期も最初の夏が終わる頃には20人まで減りましたが、最後まで残った20人の同期は、所謂「同じ釜の飯を食った」友であり、一生の友となることでしょう。
今でも会うと、話題に上るのは勝ったことや楽しかったことではなく、負けたことや苦しかったことばかりで、会う度に飽きもせず同じ話で盛り上がっています。恵まれていたのは、早稲田の大先輩方が血と汗を流し切磋琢磨をされ、そして最後の早慶戦など数々の歴史が刻まれた今はない戸塚の安部球場で2年間練習をすることができたことです。
2年生の秋のリーグ戦が終了し、新たに石井連藏氏が監督に就任されることになりました。これから3年生になり、少しは練習が楽になるだろうという淡い期待は見事に打ち砕かれました。
しかし、この最後の2年間で早稲田大学野球部とはどういうものかを徹底的に教えていただきました。そして、この石井連藏監督との出会いが私の後の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

日米大学野球との関わり:
早稲田大学卒業後すぐに、石井監督の勧めで石井監督と親交が深かったロッド・デドー氏が名誉監督を務めるUSC(南カリフォルニア大学)へ留学しました。
当時、石井監督は日本大学野球連盟の理事をされており、その関係で、留学中の私にぜひ日米大学野球の手伝いをしてほしいと依頼がありました。それから私の日米大学野球との関わりが始まりました。主に、日本大学野球連盟とアメリカ連盟の間に入って折衝を行ったり、大会期間中、米国開催の場合は日本チームに、日本開催の場合はアメリカチームに帯同して世話役を務めたりする役割を担っています。
かれこれ20年間以上携わらせていただいていますが、両チーム共に金の卵といえるメンバーが勢ぞろいしており、両国の代表選手としての経験が、彼らの野球人としてのこれからの人生において少しでもプラスになればと思いながら仕事をしています。
特に近年は、日本人選手の中にメジャー志向の選手も多いため、アメリカの野球文化、しきたり、心構えなども積極的に伝えるようにしています。今後も、微力ながら日米大学野球の発展に寄与できれば幸いです。

同期・小宮山監督への激励:
今春より母校の監督に就任したのは、同期の小宮山君です。プロで輝かしい成績を残し、プロ野球界からの監督、コーチ職の誘いも全て断り、母校再建のために全霊全身をかけ、寝食を忘れて野球部の再建に取り組んでいます。
同期一丸となって小宮山監督を応援し、早稲田大学野球部の復活が東京六大学野球の発展に、ひいては日本大学野球の発展につながることを願っています。早稲田大学校歌「都の西北」、そして第一応援歌「紺碧の空」が満員の観衆と共に神宮球場の大空にこだまする日を夢見ながら、早稲田への思い、故石井連藏監督への感謝を胸に筆を置かせていただきます。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第7週(通算167号) 掲載
2019年10月23日発行

この夏、8月24日に富山市の富山市民球場、通称アルペンスタジアムで「東京六大学野球オールスターゲームin富山」が行われました。東京六大学野球連盟の普及振興活動の一環で、日本各地でのオールスターゲーム開催と野球教室をセットにして毎年行っているものです。昨年は、長野県の飯田市で開催されました。

アルペンスタジアムは過去にプロ野球のオールスターゲームや公式戦も行われている立派な野球場で、天気の良い日には外野席後方に立山連峰をあおぐ特等席になっています。
当日は、多くの観客の中、東京六大学応援団連盟も参加して神宮の応援を再現し、観客の皆様も大いに盛り上がりました。試合は地元の皆さんからチーム名を公募した立山レンポーズ(明立法)と富山ワーンズ(慶早東)に分かれて対戦、立山レンポーズの投手陣が富山ワーンズ打線を5安打で零封して3-0で 立山レンポーズが勝ちました。翌日25日には地元の中学生と高校生を対象にアルペンスタジアムとサブグラウンドを利用して野球教室を開催しました。

また、8月26日は神宮球場において東京都軟式野球連盟の所属の約250名の小学生を対象に「少年少女野球教室」を実施いたしました。この野球教室も普及振興活動の一環として毎年行っています。

東京六大学野球連盟ではこれからも野球の普及振興活動を続けて行きたいと考えています。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第6週(通算166号) 掲載
2019年10月16日発行

初めて神宮で六大学野球を観たのは小学生の時。野球少年だった自分の心は決まった。
小学校から大学まで立教で育ち、常に先輩の背中を追いかけた。甲子園、そして神宮へ。

大学の4年間でまず思い出すのが厳しい寮生活。「いい野球はいい生活から」と言う当時の横川監督の指導の下、起床から始まる寮内外の掃除。グランド整備、草むしり、携帯電話が無い時代の電話当番。当時1年生の門限は八時半。スパイク室と呼んでいた薄暗い部屋に1年生全員集まり、その日使ったボールを真っ白になるまで消しゴムで磨いた。

靴やスリッパを揃えろ、トイレの電気を消せ、水を出しっ放しにするな等。毎日の様に注意され、何かあると連帯責任。一人の行動が皆に迷惑をかける事を寮生活で教わった。
卒業してから同期で集まるといつも当時の思い出話。今では考えられない様な理不尽な事も乗り越え、最高の笑顔で当時を語れる仲間を得た4年間は一生の宝である。

就職して15年程経ったある日。OB会長になられていた恩師横川監督から一本の電話が。内容は「練習を手伝いに来れないか?」。すでに家業に身を置いていた事もあり、再びユニホームを着る機会を頂いた。
当時の倍以上の部員数、リフォームされた綺麗な智徳寮。トイレに入れば自然に電気がつき、手を洗うと水が勝手に出て止まる。「そのうち勝手に向きが揃うスリッパが出そうですね」とOB 会の席で先輩達と笑い合った。

2年前の春。18年ぶりのリーグ戦優勝と59年ぶりの全日本優勝を達成した野球部。この10年で大きく環境は変化した。内野全面が入る室内練習場の完成に続き、グランドが神宮と同じ全面人工芝へ。昔の風景が一つ一つ無くなり、時代の流れで伝えられる事も少なくなるが、社会に出て役に立つ大切な事は伝えて行きたいと思っている。

今年110周年を迎えた立教大学野球部。縦縞の伝統を「令和」の神宮へ。行け立教健児‼

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第5週(通算165号) 掲載
2019年10月09日発行

「受験生のみなさんへ」

当時監督だった前田祐吉さんは浪人して入部することに理解があった。「現役も高校3年生の夏の大会が終わってからそんなに練習していないから、現役も浪人も回復に必要な期間はあまり変わらないんだよ」、さらにわたしが4年生のときには「お前たち(2浪組)は、身体的にも精神的にも大人なんだよね」と言われたことを覚えている。
浪人組は、他大学に対していろいろな面で有利だという考えを持つ監督だったように思う。

同期の印出順彦・赤池行平とわたしが「2浪三羽ガラス」と言われ試合に出場していたが、主にブルペン担当だった高田環樹も2浪組だった。
わたしの高校は地方大会で3年連続一回戦負けだったが、他の三人は甲子園出場組だった。印出は1年春から、赤池は秋からベンチに入り、高田も4年が抜けた秋の新チームからはメンバーに入った。焦りもあったが、わたしは右投げ右打ちの平凡な選手だったと自覚していたので、体力回復以上に技術力向上に時間を費やした。

以前から興味があった左打ちを始めたのも大学合格を決めてからである。見よう見まねでスイングを繰り返し、1年の夏には追い込まれても三遊間にゴロを打つ感覚を掴んだ。優勝争いをしていた2年の春季リーグ戦の途中には練習で8割がたヒット性の当たりが打てるようにもなった。
4カード目の明治戦の前に新人監督だった内山清人さんがわたしのメンバー練習入りを前田監督に進言してくれた。一度もメンバー練習に参加したことがなかったので、緊張はしたが無我夢中にアピールをした。ベンチ入りへの手応えはあったが、いきなりのスタメン出場に試合前日は一睡も出来なかった。

受験中は苦しかったが、これまでの人生を振り返ってみると素晴らしい出会いや経験があり、慶應のユニフォームに憧れて2浪をしたことは無駄ではなかったと思う。他校の内情は分からないが、現在でも慶應大学野球部は浪人生に対して手厚いシステムがある。
1年先輩である大久保秀昭監督も浪人組の重要性を認識していると思う。両親をはじめ周りのサポートが無ければ難しいことではあるが、これから受験を控えている受験生は目標達成に向かって是非とも頑張って欲しい。

余談ではあるが、わたしの父は当時横浜大洋ホエールズの監督をしていた。直接喜びを伝えたかったので、大学合格の報告は自宅に帰ってからおこなった。その五分後には日刊スポーツの記者さんが取材に来たのを今でも鮮明に覚えている。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第4週(通算164号) 掲載
2019年10月02日発行

私が法政大学の野球部に所属していたのは、東京六大学野球で女子部員の加入が始まって間もない頃です。当時、山中監督からチーム力はマネジメントで決まるとお話し頂き、チームのために「女子だからできること」ではなく、「自分だからできること」を探し続ける4年間でした。その経験が人生を支える大きな軸になっています。

東京六大学野球は、学生達の運営によって支えられているリーグです。多くの優れたマネジャーや学生スタッフが活躍しています。グラウンドで行われる試合が、ファンの方々の心を惹き付けるのは、ひとつひとつのプレーが多くの学生達の力によってもたらされるものだからだと私は思っています。

連盟100周年の節目に向けて東京六大学野球活性化委員会が結成され、私もそのメンバーとして活動させて頂いています。東京六大学野球の価値とは何か、多くの方と話し合うなかで、学生が野球を通じて学ぶ場であるということのかけがえのなさを実感します。だからこそ多くの方々の心を動かし、100年の間、護り、支えられてきたリーグなのだと考えています。

そのかけがえない場をより多くの学生たちに活かしてほしいという願いを持って、活性化委員会から「東京六大学野球ゼミナール」を提案し、2015年度より開講しています。野球に縁のある学生もそうでない学生も、本気で「東京六大学野球を活性化するには?」というテーマに向き合い活動しています。これまでに、公式SNS運用、神宮球場でのフェス開催や、グラウンド開放、こどもの日イベントをはじめ、様々な企画を立案し運営してきました。野球部員や応援団の方々、ファンの皆さんや卒業生たちの熱に接し、リーグのために自分にできることは何かを考え続け、2年間を通じて大きく成長していく彼らと過ごすなかで、こうして神宮球場から卒業していく学生達こそが東京六大学野球の財産であるのではないかと感じています。

来年度から活動する学生の募集も始まっています。リーグを支え、育っていく学生達の活躍にもぜひご注目ください。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第3週(通算163号) 掲載
2019年09月25日発行

私が明治大学野球部の門を叩いたのは昭和61年3月のことでありました。

明治大学野球部といえば、言わずと知れた「御大」こと島岡吉郎監督率いる野球部である。まだ下級生であった私は、早朝、島岡監督から「なぜお前は俺より先にグラウンド出てないのだ」と大声で怒鳴り散らされました。私は毎朝ベンチを掃除する当番で、いつものようにベンチへ行くと、なんと島岡監督がベンチに座っているではないか。恐る恐る挨拶をすると前述のように怒鳴られました。それはなぜか、冬の寒い時期はベンチ掃除の人が御大の前に一斗缶で火を焚く仕事も兼ねていました。自分よりグラウンドに遅く出てきて、且つ、火も焚いていなかったことへの怒りだったのでしょう。

しかしながら、昼になり、冬場の御大は陽の当たる暖かい場所へ移動していくので、バックスクリーン前で昼食をとっていました。
その時です、マネージャーから「岡本」と呼ばれ、ダッシュで御大の前にいきました。御大は、朝の怒鳴ったことが嘘のように「いつも火を焚いてくれてありがとう」とやさしく語りかけてくれました。
そして、どこかの信用金庫でもらったであろう粗品のタオルを私にくれました。
野球選手は汗をかくので常にタオルが必要だと。島岡監督からいただいたものなので、いまでも家宝として大事に保管してあります。

また、下級生の時は紅白戦(明治では紺白戦という)の審判をよくやりました。冬の時期の審判は寒くて辛いのですが、そんな下級生に試合が終わると御大がバックネット裏に暖かいラーメンを用意してくれました。試合に出ている選手は体を動かしているので寒くないが、審判は石ころと同じで動かないから寒いんだよというのが持論でした。今思えば、このやさしさが島岡監督の「人間力野球」だと実感した時でもありました。

現在、私は母校である明大中野高校野球部の監督をさせていただいております。
島岡監督の厳しさの中にも愛情あふれる指導を、私も生徒とともに汗を流しながら日々勉強中であります。御大の目指した「人間力野球」には、まだまだ遠く及びませんが、少しでも近づいていけるよう頑張っていきたいと思います。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 秋季リーグ第2週(通算162号) 掲載
2019年09月18日発行

38年ぶりの期待を胸に神宮通い

まず、現役時代の思い出ですが、4年生になった昭和56年の春に早慶から勝ち点を奪い4位、シーズン最多の6勝を挙げて「赤門旋風」と呼ばれたことです。個人的にも、キャプテンを任され3番ショートとして勝ち星を重ねることに貢献できたと自負していますが、入学と同時に始まった連敗地獄が2年の秋まで続いて35連敗という、つらく、悔しい時期を経験したことが、神宮で勝つことの難しさや素晴らしさをより深く印象づけているとの思いもあります。

現在は、昨年還暦を迎えたのを機に会社勤めを卒業したため後輩達の応援によく出かけるようになりましたが、加えて、息子が高校、大学と父親と同じ道を歩んで今は2年生投手として野球漬けの日々を送っていますので、こうした幸運にも恵まれたこともあり、神宮通いに拍車がかかっている状況です。

さて、今年のチームは創部100周年の節目の年に「旋風」をスローガンに掲げて活動展開しており、実現してくれれば我々の現役時代以来の38年ぶりの嬉しいニュースになると密かに期待していましたが、春のシーズンは残念な結果に終わってしまい38年ぶりの思いも遠のいてしまいました。

ところが、6月に明治大学が38年ぶりに大学日本一に登り詰めるという素晴らしいニュースを耳にして、私の中の38年ぶりの期待が復活して来ました。当時の明治は、現阪神二軍監督の平田選手がキャプテンでショートを守り森岡-松井のバッテリーを中心とした堅い守りとバンドやヒットエンドランで着実にランナーを進めて得点に結び付けていく堅実な攻撃が信条の本当に強いチームだったと記憶しています。

38年ぶりは明治に先を越されてしましたが、それだけに、この秋には後輩達に是非実現してほしいとの思いも強くなりました。今のチームは投手陣が元ヤクルトエースの松岡さんからプロ仕込みの指導を受けていますし、打撃陣は都市対抗最多3回の優勝監督で全日本4番クラスの強打者を何人も育成してきた垣野さんの指導を受けています。このお二人は私が大学卒業後に野球を続けた三菱自動車の社会人野球チームでの先輩・後輩あるいは監督・選手の間柄にもなりますので、大いに期待を寄せているところです。

ということで、こうした思いを胸に、この秋もOBとしてまた父母として、神宮球場にせっせと通いたいと思っています。

以上