私が入学した昭和55年は昭和52年の第2期黄金期、五明監督がチームを率いて江川、袴田、金光、植松、島本各先輩方の活躍で4連覇を成し遂げてから4シーズン優勝から遠ざかっている時でした。そして奇しくも法政大学創立100周年の年でもありました。
入学前のオープン戦から投げさせてもらい、その結果が認められたのか、小早川(元広島、ヤクルト)と共に開幕からベンチに入れてもらいました。
小早川は4番打者として全試合に先発フル出場し好成績を残しました。私も3試合に先発の機会を与えてもらい、六大学で1勝することが目標でしたので、東大戦で勝利する事ができたのは幸運でした。
なぜなら先輩の投手が私など足元にも及ばない程、凄いメンバーだったからです。3年生には川端さん(広島ドラフト1位)、池田さん(阪神ドラフト2位)。2年生には田中さん(日本ハムドラフト1位)、その他にも甲子園で活躍した方達がたくさんいたからです。
初めて経験した六大学野球のチーム成績は3位でした。“100周年に優勝を”その期待が重圧になったのかもしれません。夏の練習は当然ながら厳しいものでした。監督の方針で少数精鋭で練習することになったのです。7月の後半の休みが1週間あったのですが、その後練習に参加する者は200名近い部員の中で40名位だったと思います。特に1年生は少なく10名いなかったように記憶しています。練習以外に洗濯、掃除、用具の手入れなどが大変だった事が思い出されます。
厳しい夏を乗り越え秋季リーグ戦に臨みました。オープン戦では社会人相手に好投することができ、思ってもいなかった開幕戦(対慶應義塾大学)の先発投手に指名されたのです。精神的にも弱かったのでしょう、コントロールが定まらず自滅の形でKOされました。幸い2回戦、3回戦に連勝して勝ち点を挙げることができましたが、私の登板はありませんでした。その時は完全に監督の信頼を失った思いで“もう投げさせてもらえないのでは”と自暴自棄になりかけていました。その一方で“チャンスは必ずもう一度来る”と信じて、その時の為に最前の準備をした記憶があります。
そのチャンスが次の立教大学2回戦に訪れたのです。1回戦は同じ1年生の樽井が好投して勝ち、“このチャンスを逃がしたら4年間投げさせてもらえない”そういう思いで先発のマウンドに立ちましたが、緊張感よりも投げられる喜びを感じて投げた事が良かったのか完封で勝つ事ができました。
次のカードは大学選手権で原辰徳さん(現巨人監督)を筆頭にタレント集団だった東海大学を破って日本一の明治大学が相手です。1回戦は先発して勝利することができましたが、2回戦、3回戦に負けて勝ち点を落としてしまいました。
幸い明治大学が立教大学に勝ち点を落としましたので、早稲田大学、東京大学から勝ち点を取れば優勝できる展開となりました。早稲田大学戦では全3試合に先発して勝ち点を取り、残るは東大戦です。1回戦に勝ち、翌日も先発して連勝し、6シーズンぶりに優勝を手にする事ができました。
私自身も6勝2敗の成績でベストナインにも選ばれましたが、立教2回戦に先発する機会が与えられず、投げても結果を出すことができなかったら最終的に30勝投手の仲間入りもできなかったでしょうし、社会人野球(日産自動車)で野球を続けられなかったと思います。
チャンスさえ与えられず4年間を過ごした部員も多くいます。ないかもしれないチャンスを信じて努力することは決して永い人生の中で無駄なことではないと思います。創立100周年という節目の年に入学できて卒業するまでリーグ優勝4回、日本一2回は野球部の先輩方に頂いた大きな財産です。来年法政大学野球部は創部100周年を迎えます。この時に現役部員として神宮でプレーできる事は、この上ない幸運だと思って100周年に花を添えて頂きたいと思います。