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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第8週(通算80号) 掲載
2014年10月29日発行

平成11年3月の大学卒業と同時に東京六大学の審判員を引き受けて以来、早いもので間もなく16年目、春夏通じて32回目のシーズンを終えようとしています。

自分を育ててくれた野球というスポーツに対しての恩返しになれば・・・」「将来の野球界を担うであろう愛すべき六大学の後輩のために何らかの力になることができれば・・・」こうした思いで審判員を引き受けて以降、この16年間は本当に貴重な経験を積むことができました。しかし、その大半が辛い思い出ばかりでした。

「審判を辞めたらどれだけ楽になるだろう」「自分は一体どれだけのことを犠牲にしてまで審判をしているのだろうか」。審判を続けることについて真剣に考えたことも何度もありました。しかし、その度に自分を奮い立たせてくれたのが選手の熱い眼差し、そして、先輩も後輩も含めた六大学の審判員の方々でした。

時には消極的な気持ちになってしまったこともありました。ですが、六大学の審判を続けてきたからこそ出会えた人たちがいて、経験できたことがあり、学べたことが本当に多くありました。こうした一つひとつの出来事が、自分にとってはかけがえのない財産であり、自分自身の成長につながっているのだと実感しています。

私自身、まだまだ至らない点も多いですが、自分を成長させてくれる東京六大学野球、そして聖地・神宮球場に感謝の気持ちを抱きながら、これからも精進していきたいと思っています。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第7週(通算79号) 掲載
2014年10月22日発行

この夏、8月23日に新潟県南魚沼市の市制施行10年記念で新設された大原運動公園野球場で「東京六大学野球オールスターゲームin南魚沼」が行われました。オールスターゲームは昨年の静岡草薙球場のリニューアル記念として同球場で開催して以来2年連続のことです。

南魚沼市はお米の「こしひかり」や「日本酒」の産地として有名です。スポーツでは数多くのスキー場、そして大原運動公園はこの度新設された野球場のほか、敷地内にはテニスコートや多目的グラウンドも併設されている一大運動公園になっています。

当日は、スタンドを埋めた満員の観衆の中、東京六大学応援団連盟も参加して神宮の応援を再現し、観客の皆様も大いに盛り上がりました。試合は地元の巻機山と八海山の山の名前から、春季リーグ戦の順位によりTeam Mt.Makihata(早明東)とTeam Mt.Hakkai(慶立法)に分かれて対戦、投手戦のすえTeam Mt.Hakkai が1対0で勝利しました。また、翌日24日には地元の少年野球チームを対象とした野球教室も開催しました。

来年の8月には四国、徳島と高知でオールスターゲームを開催することになっています。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第6週(通算78号) 掲載
2014年10月15日発行

品位ある六大学野球

昭和四十二年卒業後、社会人野球(川崎コロンビア)で四年、解散後軟式野球(ライト工業)で七年間を過ごし社業に専念していたところ、昭和五十六年に当時アマチュア野球の代表的な審判員だったOBの“郷司が辞めるから替わりにお前がやれ”ついては練習を手伝えと、島岡御大から言われたのが審判に携わるきっかけでした。

昭和五十九年正式に六大学野球の審判員になり、以来大学選手権・明治神宮大会・都市対抗野球・春夏の甲子園・或いはアジア大会・世界選手権にも、先輩方の推薦をうけ審判員として参加することができ、現在も六大学野球審判技術顧問を拝命しています。学生時代は一年後輩に高田氏、二年後輩に星野氏と、日本球界を代表する二人とプレイできたことは誇りです。

特に御大には“何事にも誠を以て事に伺え”私流に考えれば、“陰日向なく一生懸命事を行え”の教えは、その後の人生、多いに役立ちました。六大学の審判員になると、アマチュア野球規則委員会のメンバーに加えられ当時は、神田順治・坪井史郎(東大)相田暢一・西大立目永(早大)山川脩司(慶大)成田理助(法大)鈴木康夫(立大)郷司裕・布施勝久(明大)と六大学の錚々たる方々、又学生野球協会事務局長だった長船騏郎(早大)氏には野球規則と同時に、アマチュア野球、特に六大学野球は品位がなければならないと厳しく教わりました。

品位とは、自然に備わった気高い感じや様子・このことは相手を尊敬すれば生まれてくると考えます。尊敬とは、相手の人格や能力などを認め、頭を下げたいような気持ちになること・敬うこととあります。具体的には、汚い野次・ラフプレイ・過度なガッツポーズ・プレイの判定に対する不服そうな態度・防具を装着している故、使用目的を履き違え投球を避けようとせず、あまつさえ当たりに行くような態度はなくなると考えます。
また、ユニフォームのズボンを脹ら脛まで“キチッ”と上げて試合に臨んでもらいたい。

来年は六大学野球が誕生して九十年を迎えます。先人達が云い続けてきた品位ある試合を展開し、六大学野球ファンに答えられるよう願う一人です。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第5週(通算77号) 掲載
2014年10月08日発行

東大野球部の後輩が連敗脱出に向け苦闘中である。今を去ること24年前、今春まで記録として残っていた70連敗を経験した立場から奮闘する彼らにエールを送りたい。

私が入学した昭和62年、リーグ戦通算198勝の東大がいつ200勝するかが話題を集めていた。私は初めてベンチ入りした1年秋の開幕戦で春の大学日本一の慶應から199勝目を挙げたが、その後一勝も出来ず卒業を迎えてしまった。

200勝か連敗記録更新かと大変な注目を頂く中、4年時は春秋20試合の内一点差負け5試合を含む15試合が3点差以内と勝負どころで重圧に負けて勝ち切れないチームであった。
その後一年間大学に残りコーチとしてお手伝いしたが、その春の開幕戦で後輩が200勝を挙げてくれた。
199勝、70連敗、200勝と全てグラウンドで経験したのは私くらいだが、その間殆どの試合に出ながら後輩に連敗という大きなツケを残したことは心残りでならない。

卒業後に社会人の新日鐵広畑でプレーする中で、自分の力を出し切ることに集中すれば結果はついてくるという当然のことを改めて思い出した。今の選手達も、『どうやって連敗脱出するか』ばかり意識してしまった我々の轍を踏むことなく、『どうやって自分のベストプレーをするか』だけを考え戦って欲しいと願う。そうすれば連敗脱出は言うに及ばず、勝ち星を重ねることも出来るはずだ。

後輩諸氏の健闘を祈る。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第4週(通算76号) 掲載
2014年10月01日発行

今から29年前、昭和60年3月10日。

早稲田大学野球部の新入生集合の日。良く晴れた日曜日だったと記憶している。新宿区西早稲田2-8-34。早稲田通り沿い、今もある源兵衛と大昌苑の間の細い路地を上がって行ったところに安部寮はあった。講堂に通される。錚々たる先輩たちの木彫りの名札が光っていた。

私の現役時代は、昭和60年春~昭和63年秋である。甲子園に出られなかった悔しさを神宮で。あこがれの早稲田のエンジのユニホームを着て試合には出たが優勝は一回も出来なかった、大学時代の思い出は、この悔しいやら情けないやらの4年間である。でも代わりに一生付き合える仲間たちに出会った。

卒業後、仕事でいろいろな『優勝』の瞬間に立ち会うことがあった。そのたびにあの輪の中に居られる人たちをうらやましく眺めた。 この秋もただ一校の優勝チームを目指して戦いが始まった。

ガンバレ! ワセダ!

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第3週(通算75号) 掲載
2014年09月24日発行

昭和50年卒業後、今年ではや61歳になった。振り返ってみて私は六大学で野球を続けて本当に良かったなとつくづく思う。終生の友を賜物として得たのだから。

当時、立教大学野球部の同期はわずか5名、仙台、松本、尼崎、東京都と各地域の出身であった。ひよわな私達は入部した時、先輩たちの体つきや風貌がごついことを感じ野球部員としてやっていけるのか非常に心配した。

しかし、同期で励ましあい苦楽を共に何とか4年間続ける事が出来た。この同期生とは神宮球場、仕事でといろいろな機会でいまだに会っている終生の友人である。更に最近では同期の竹花さん(慶應義塾)、前川さん(早稲田大)が音頭をとってくれ東京六大学野球部50年度同期会をつくり15名の同期生が集まり六大学野球談義から始まり健康や家族、人生の事など本当に大切な時間をすごしている。
また、野球部ではないが応援団の友人も六大学野球で得た賜物である。慶應義塾大学の太田さんとは終生の友として付き合っている。

楽しくも辛くもあったが恵まれた六大学野球生活であった。この4年間で得た友人という賜物を大切に今後は一OBとして立教大学、同野球部やOB会、プレーをさせていただいた神宮球場、明治神宮外苑の方々に微力ながら少しでも恩をお返しできればと思う。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 秋季リーグ第2週(通算74号) 掲載
2014年09月17日発行

私が入学した昭和55年は昭和52年の第2期黄金期、五明監督がチームを率いて江川、袴田、金光、植松、島本各先輩方の活躍で4連覇を成し遂げてから4シーズン優勝から遠ざかっている時でした。そして奇しくも法政大学創立100周年の年でもありました。
入学前のオープン戦から投げさせてもらい、その結果が認められたのか、小早川(元広島、ヤクルト)と共に開幕からベンチに入れてもらいました。
小早川は4番打者として全試合に先発フル出場し好成績を残しました。私も3試合に先発の機会を与えてもらい、六大学で1勝することが目標でしたので、東大戦で勝利する事ができたのは幸運でした。
なぜなら先輩の投手が私など足元にも及ばない程、凄いメンバーだったからです。3年生には川端さん(広島ドラフト1位)、池田さん(阪神ドラフト2位)。2年生には田中さん(日本ハムドラフト1位)、その他にも甲子園で活躍した方達がたくさんいたからです。

初めて経験した六大学野球のチーム成績は3位でした。“100周年に優勝を”その期待が重圧になったのかもしれません。夏の練習は当然ながら厳しいものでした。監督の方針で少数精鋭で練習することになったのです。7月の後半の休みが1週間あったのですが、その後練習に参加する者は200名近い部員の中で40名位だったと思います。特に1年生は少なく10名いなかったように記憶しています。練習以外に洗濯、掃除、用具の手入れなどが大変だった事が思い出されます。

厳しい夏を乗り越え秋季リーグ戦に臨みました。オープン戦では社会人相手に好投することができ、思ってもいなかった開幕戦(対慶應義塾大学)の先発投手に指名されたのです。精神的にも弱かったのでしょう、コントロールが定まらず自滅の形でKOされました。幸い2回戦、3回戦に連勝して勝ち点を挙げることができましたが、私の登板はありませんでした。その時は完全に監督の信頼を失った思いで“もう投げさせてもらえないのでは”と自暴自棄になりかけていました。その一方で“チャンスは必ずもう一度来る”と信じて、その時の為に最前の準備をした記憶があります。

そのチャンスが次の立教大学2回戦に訪れたのです。1回戦は同じ1年生の樽井が好投して勝ち、“このチャンスを逃がしたら4年間投げさせてもらえない”そういう思いで先発のマウンドに立ちましたが、緊張感よりも投げられる喜びを感じて投げた事が良かったのか完封で勝つ事ができました。
次のカードは大学選手権で原辰徳さん(現巨人監督)を筆頭にタレント集団だった東海大学を破って日本一の明治大学が相手です。1回戦は先発して勝利することができましたが、2回戦、3回戦に負けて勝ち点を落としてしまいました。

幸い明治大学が立教大学に勝ち点を落としましたので、早稲田大学、東京大学から勝ち点を取れば優勝できる展開となりました。早稲田大学戦では全3試合に先発して勝ち点を取り、残るは東大戦です。1回戦に勝ち、翌日も先発して連勝し、6シーズンぶりに優勝を手にする事ができました。

私自身も6勝2敗の成績でベストナインにも選ばれましたが、立教2回戦に先発する機会が与えられず、投げても結果を出すことができなかったら最終的に30勝投手の仲間入りもできなかったでしょうし、社会人野球(日産自動車)で野球を続けられなかったと思います。

チャンスさえ与えられず4年間を過ごした部員も多くいます。ないかもしれないチャンスを信じて努力することは決して永い人生の中で無駄なことではないと思います。創立100周年という節目の年に入学できて卒業するまでリーグ優勝4回、日本一2回は野球部の先輩方に頂いた大きな財産です。来年法政大学野球部は創部100周年を迎えます。この時に現役部員として神宮でプレーできる事は、この上ない幸運だと思って100周年に花を添えて頂きたいと思います。