昭和47年に入学した私達の慶應野球部は当時慶應野球部史上初の3連覇のまさしく途中であり、結果的にはその偉業を達成した。しかしながら、その後12年と1シーズン優勝から遠ざかるとは誰が予想しただろう。
私達が4年生の秋季シーズンはそういう意味では優勝のチャンスだった。卯田、竹内、林の投手陣3本柱を擁し、打線も4年から1年生の堀場を加え、久々のバランスの取れたチーム力でシーズンを迎えた。我々4年生と同じく大戸監督にとっても最後の戦いが立教戦で開幕した。
ここ数シーズンは接戦ながらも立教には相性が良く、第1回戦は4対3の延長戦を制した。続く2回戦も僅差の戦いで、9回の裏1点負けの2対3で慶應最後の攻撃を迎えた。先頭打者の私は幸運な「太陽2塁打」、4番斉藤が中前打して無死1、3塁と逆転の場面を迎えた。
ところが斉藤は2盗死、堀場が3振し、続く土居も2-0と追い込まれ反撃もこれまでと思われた瞬間、後藤が捨て身の本盗、捕手が前へ飛び出した為ボークと打撃妨害が同時に宣言されてドタン場で同点とした。そして延長12回のサヨナラ勝ちに結びつけた。(当時の新聞の記述を引用)
サヨナラのチャンスを逃し、絶対に負けたくないという強い思いがあのホームスチールを敢行させたが、セオリーのないサイン無視の暴挙だった。不思議なことに、ゲームが終了してのミーティングでも、同僚からもあの本盗の話題は一切無かった。
やんちゃな私のプレーには監督や仲間もあきれていただろう。後年、母校の監督を8年間勤めさせていただいたが、こんなわがままな選手はいなかった。