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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第8週(通算48号) 掲載
2012年10月24日発行

昭和47年に入学した私達の慶應野球部は当時慶應野球部史上初の3連覇のまさしく途中であり、結果的にはその偉業を達成した。しかしながら、その後12年と1シーズン優勝から遠ざかるとは誰が予想しただろう。

私達が4年生の秋季シーズンはそういう意味では優勝のチャンスだった。卯田、竹内、林の投手陣3本柱を擁し、打線も4年から1年生の堀場を加え、久々のバランスの取れたチーム力でシーズンを迎えた。我々4年生と同じく大戸監督にとっても最後の戦いが立教戦で開幕した。

ここ数シーズンは接戦ながらも立教には相性が良く、第1回戦は4対3の延長戦を制した。続く2回戦も僅差の戦いで、9回の裏1点負けの2対3で慶應最後の攻撃を迎えた。先頭打者の私は幸運な「太陽2塁打」、4番斉藤が中前打して無死1、3塁と逆転の場面を迎えた。

ところが斉藤は2盗死、堀場が3振し、続く土居も2-0と追い込まれ反撃もこれまでと思われた瞬間、後藤が捨て身の本盗、捕手が前へ飛び出した為ボークと打撃妨害が同時に宣言されてドタン場で同点とした。そして延長12回のサヨナラ勝ちに結びつけた。(当時の新聞の記述を引用)

サヨナラのチャンスを逃し、絶対に負けたくないという強い思いがあのホームスチールを敢行させたが、セオリーのないサイン無視の暴挙だった。不思議なことに、ゲームが終了してのミーティングでも、同僚からもあの本盗の話題は一切無かった。

やんちゃな私のプレーには監督や仲間もあきれていただろう。後年、母校の監督を8年間勤めさせていただいたが、こんなわがままな選手はいなかった。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第7週(通算47号) 掲載
2012年10月17日発行

この秋、神宮外苑の杜から名物が一つなくなりました。名物と言っても物ではなく、一人の人物です。その方は神宮球場の名物場長であった戸頃啓さんです。戸頃さんはこの8月31日で明治神宮外苑の奉職41年間を終え定年を迎えたのです。

戸頃さんは平成16年に野球場場長に就任し、その風貌と行動力からプロ野球の各ホームグラウンドの球場方々や、応援団、選手、はたまた一般ファンに至るまで、全国各地で神宮の名物場長として知られる存在でした。また、神宮大会での台湾遠征では、陣頭指揮をとって台湾との国際交流に貢献され、台湾の野球連盟から感謝状が送られました。

戸頃さんは神宮球場の歴史を十分に理解して、41年うち21年間を野球場で働かれ、六大学野球には特に思いれのある仕事をしていただきました。学生野球界への功績は大きく、このコラムを借りて感謝したいと思います。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第6週(通算46号) 掲載
2012年10月10日発行

野球に携わる大学生にとっての目標であり、夢でもある神宮球場でのプレーは、勉学と厳しい練習の積み重ねにより実現します。

「花の49年組」と言われたのは、江川卓・金光興二・佃正樹・袴田英利・植松精一・島本啓次郎・等等、高校野球のトップクラスが、一同に法政大学に入学してきた事が所以です。

4年間のリーグ戦の成績は、4連覇を含め5度の優勝を果たしました。神宮での思い出は、優勝の喜びもさることながら、慶應大学戦で、江川の登板に対し、本人も驚いて緊張するほどの、声援(?)が相手応援席から、あがった事です。(後に思えば、このメンバーで5度の優勝は少なかったかな?)

私自身としては神宮球場での出場の機会は、あまりありませんでしたが、社会人野球に進み13年間もプレーを続ける事ができました。それは、大学生活の4年間のおかげだと思っています。試合に出る事を目標に練習して、多くの野球部の仲間に恵まれた事、また、在学中に、合宿所の建替えがあり、野球部全員が、グランドの近所に、住まいを探す事になりました。

その時、地元(武蔵小杉)の方々に、大変お世話になり、たくさん応援していただいた事です。今でも、変わらぬ交流の中で、たくさんの勉強をさせてもらっています。そして、現在も神宮球場に仲間達と集い、応援できる喜びを感じています。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第5週(通算45号) 掲載
2012年10月03日発行

1970年、秋のリーグ戦は私にとって生涯忘れられないものになった。70年安保で学校は封鎖され、授業もなくひたすら野球漬けの日々を送っていた。

そんな4年生最後の秋のリーグ戦、対慶應2回戦。8回から守備要員としてゲームに出場していた私に9回1死で打順が回ってきた。長谷部投手の初球を振りぬくと白球は左翼席へ。サヨナラホームランだった。自身のホームランがチームを勝利に導いたという高揚感でいっぱいの私に、砂押先輩からの言葉は頭から冷水をかけられたようなものだった。

「あの時にしっかり指示していればもっと楽に勝てた。ホームランを打って喜んでいないで明日の為に帰って走者への指示を練習しろ。」それは試合途中まで1塁ベースコーチだった私の不適切な走者への指示を叱責されたものだった。理不尽な事と憤懣やるかたない思いで帰寮して暗いグラウンドに立った事を覚えている。

その後、幸運にも打席数ギリギリながら首位打者を獲得した。それは私にとって誇らしい宝物になったことは間違いない。だが今、サラリーマン生活も終え家庭人としての人生を含め振り返ってみると、私を支えてくれていたのは砂押先輩から指摘された(自分の仕事に真摯に取り組む姿勢の大切さ)だったのではないかと思う。有頂天で慢心に充ちた私を戒め、地道に努力を重ねてきた自分の立ち位置を再確認させてくれたのがあの叱責だったのだ。

結果よりも過程を大切にし、諦めず誠意をもって努力する生き方を続けてこられたのも、砂押先輩からの叱責がきっかけだったと感じる今日この頃である。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第4週(通算44号) 掲載
2012年09月26日発行

『神宮の思い出』

大学へ入学したS.34春、「神宮」の土を踏んだのは、実は4年ぶりのことであった。高校時代学生野球協会結成記念大会に県代表の一員として出場したことがあったからである。

他の五大学には、甲子園時代から名の聞こえた選手達が溢れていた。胸心高鳴る興奮と緊張との中で錚々たる陣容と対戦できたことは、幸せであった。

走塁も達者な天野昌紀と肩痛癒えた私の二人は二年から岡村、片桐、伊能等有能な諸先輩に混じって正ポジションを与えられ、都合[11]回勝つ場面に巡り合えたことは幸運であった。早慶戦はほぼ満員だったが本学の試合でも観衆三万を超えたこともあった。

最上級学年(S.37)では捕手を受け持った。主戦投手は本学出身プロ第一号となる故新治伸治。後年の橘谷健(s.44卒、「久慈賞」受賞)に比べやや硬さのある「折り畳み投法」であったが、制球力もあり球威も他に引けを取らなかったろう。二年の学年差からか、打者、走者、コーチャーや相手ベンチを速察して送る私のサインに殆んど首振ることなく投げて呉れたので、効率のよいバッテリー駆動ができたと今でも自負している。

特筆したいのが同学年8名から二人の国会議員が輩出されたことだ。一人は岩本荘太(一塁手)で石川県副知事等を経て1988年から参議院議員を一期だけ務め、奥方の介護に専念すべく潔く引退せるも、文筆力は益々冴えわたり、‘北の方’から国政を‘やぶにらみ’続ける。もう一人はマネジャーを務めチームの健全運営を担って呉れた与謝野馨。

日本原子力発電勤務後、議員秘書等を経て1976年衆議院議員となり、爾来文部・通産等の大臣や党役員を歴任しながら将来の総裁/総理大臣と期待を集めた。しかしながら、複数の病魔と闘う身は、今般の財政改革に貢献するにとどめ、志半ばで惜しくも今期での引退を決意表明した。

二人とも、《本学野球部に流れる》“引き際の美学”を如実に示して呉れたことを誇らしく思う。

(了 敬称略)

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第3週(通算43号) 掲載
2012年09月19日発行

巨人で再会した早慶6連戦の安藤元博投手

球史に残る「早慶6連戦」があったのは昭和35年(1960)の秋だった。慶應から逆転優勝を勝ち取った早稲田のヒーローは、3年生のアンダースローエース・安藤元博投手である。

当時2年生部員だった私は、神宮球場の一塁側三角席から安藤投手の「5試合完投、564球」を見守った。新たな伝説を作った安藤さんは卒業後、プロ野球の東映に入団し、いきなり13勝。日本シリーズでも2勝して東映初の日本一に貢献した。

一方、神宮球場の実績がない私は新聞記者になり、安藤さんと再会したのは40年(1965)。私が担当していた巨人に、安藤さんが移ってきたのだ。しかしもう、右腕には早慶6連戦のような球威はなかった。安藤さんは巨人で1年、1勝1敗を最後に引退した。プロ通算4年で17勝16敗。その後は真柄(まがら)建設に入社し、のちに横浜営業所長を務めた。

安藤さんが早大1年のとき、私の亡兄(元ドジャース・オーナー補佐、アイク生原)が新人監督だったこともあって、安藤さんは在学中から私を「生(いく)よ、生よ」とかわいがってくれた。

早慶6連戦を投げぬいたタフな名投手はしかし、平成8年(1996)、リンパガンに侵される。6月に私と同期の主将で捕手だった鈴木悳夫君(故人)と順天堂病院に見舞ったとき、面会室に現れた安藤さんは「いまは痛くもかゆくもないんだけどな、この病気は急変することがあるらしいから、それが心配だ」と笑っていた。

予感は的中して数日後、安藤さんは急逝(きゅうせい)した。享年56歳。葬儀は築地本願寺で営まれ、私も棺(ひつぎ)を抱えた。伝説の名投手が、意外に軽かったことを憶(おぼ)えている。

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TOKYOROCKS!2012 特別号 秋季リーグ第2週(通算42号) 掲載
2012年09月12日発行

長い六大学リーグ戦の中で後世に語り継がれる名勝負、死闘はたくさんあるが、60年を超える私の記者生活で忘れられないのが昭和27年春の早明5連戦。

当時早大は後にプロ入りする選手が5人もいた優勝候補、明大は島岡体制1シーズン目。リーグ戦経験者はわずか3人。誰が見ても明大は不利。ところが1回戦、延長12回、5-5で引き分け。これで若い明大が勢いづく。その象徴的なシーンが3回戦。1-8とリードされたゲームが6回に1点を取ったことで、考えられないことだが押せ押せムードになった。

「次は2点、次は3点」と声を掛け合うと、その通り点が入る。9回に3点取れば逆転勝ちするわけだが、どうせなら4点と言って4点取った、と明大の野球部史を編集する時に当時の岩崎亘利二塁手に聞いた。5連戦は明大が伸べ79人を注ぎ込み、あまつさえ1年生は最初のシーズンは使わないという創部以来のしきたりを破って美貴、塩谷の両投手を登板させるなど形振りかまわね総力戦も明大のがむしゃらな攻撃に土俵をわってしまった。

戦前の予想を覆した明大の勝利。早稲田だけには負けるな、これは島岡監督の口癖だが、島岡監督の猛烈な闘志、そしてそれに応えた選手の体当たりのプレー。これこそ島岡精神野球の真髄。

島岡監督が唱えた人間力は50年以上もたったいまでも脈々と息づいているが、あの5連戦こそ島岡野球の原点である。