昭和43年3月、早稲田野球部新入部員二十一名は夢と希望に胸を膨らませ安部球場に集合しました。
中京商業時代〔(現中京大中京)二年生の時は甲子園春夏連覇、三年生の夏(当時は中京高校)は惜しくも準決勝で習志野高校に敗れたものの(優勝は習志野高校)、四年に一回の高校オールジャパンのキャプテンとしてアメリカ遠征等を経験し自信満々で入部したのも束の間、レギュラー連中の投手の球速、フリーバッティングの飛距離を目の当たりにし度肝を抜かれカルチャーショック。
とてもレギュラーにはなれないと感じた事を覚えています。(当時の中心メンバー:投手―小川・小坂・安田 捕手‐阿野 野手―荒川・小田・井石・谷沢・千藤)
他大学も明治―星野、法政―田淵・山本・富田の三羽烏に小さな大投手山中、立教―阿天坊、慶応―上岡、東大―橘谷と凄い顔ぶれ。
早慶戦は徹夜組が何千人も並び当日は一万人以上が神宮球場に入れずラジオを聴き歓声を上げるなど今では考えられない時代でした。
当時の早稲田の監督は石井藤吉郎先生でした。球界は勿論のこと一般の方からも関白さんと親しまれ長身でおおらかでスケールの大きな方でした。
怒った姿は記憶にありません。練習でもゲームでも茨城弁でユーモア溢れる監督さんでした。
只、私生活や怠慢プレーには言葉には出しませんが無言の威圧を感じていたのは私だけではないと思います。
六大学の素晴らしさは私生活では良き友としての付き合い、いざゲームとなれば対抗心を前面に出し絶対勝つんだとのライバル意識。
他校の上級生からは『望月。真面目に練習やってるか?高いレベルで競い合わないと六大学の選手として失格だぞ。』と助言を頂き六大学でプレー出来本当に良かったと思ったものでした。
四年の春季リーグ戦でラッキーにも首位打者を獲得出来たのも精神面、技術面で石井監督、河上助監督(後帝京大学監督)さんのお陰だと今でも感謝しています。
卒業し社会に出てから仕事の面に於いて六大学出身の縦・横の繋がりでどれだけ助けられた事か。
直近の大学野球に対する学生の関心の薄さ、観客動員数など将来に向けての課題は多いと思いますが微力ながら何かお手伝いが出来ればと思っています。
フレーフレー六大学。