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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第8週(通算64号) 掲載
2013年10月30日発行

ほぼ半世紀前(53~56年前)の明治神宮野球場の施設や、当時の野球選手の環境を思いつくまま書いてみますので、今現在と比較していただくと面白いかと思います。

夜間照明設備はありませんでしたので、1960年秋の早慶6連戦のうち、延長日没引分試合が2試合ありました。 内野席は横に長い板の席で、外野席は自然芝のなだらかな坂傾斜で、早慶戦の超満員の時は6万人が入ったと言われております。今はベンチに飲料水が置かれていますが、当時はありませんでした。

試合中水分をとるとバテルと言われておりました。投手は投げ終わったら肩を冷やさないようにと毛糸の肩当をしていました。今はアイスで冷やしていますね。水泳は勿論ダメでした。腹筋運動は寝て膝を伸ばしたまま上体及び足を上げ、膝を曲げての上体起こしはしていませんでした。以上の水、肩当、腹筋運動などの件は世間一般の常識でありました。

最後に私の事で失礼します。1958年春のリーグ戦で対法政9回完投、最少投球数73球は今もって東京六大学野球の記録として残っています。1960年早慶6連戦では第2試合に登板し、完投敗戦投手でした。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第7週(通算63号) 掲載
2013年10月23日発行

この夏、8月31日に静岡の草薙球場リニューアル記念として「東京六大学野球オールスターゲームin静岡」が行われました。オールスターゲームは2010年に愛媛の松山で坊っちゃんスタジア開場10周年を記念して同球場で開催して以来のことです。

草薙球場は1934年12月に全日本チームとベーブ・ルースらを要した米国大リーグ選抜が対戦し、沢村栄治投手が快投をみせたことは有名な史実として知られています。球場正面にある記念碑には「東京六大学のOBを中心とした全日本チーム」とあり、東京六大学野球連盟にとってもゆかりのある球場です。

当日は、試合前に少年野球教室を行い、各大学の地元校友会の皆さんや静岡県、静岡市などの協力により、12000人の観衆のもと盛大に開催されました。また、東京六大学応援団連盟も参加して神宮の応援を再現し、観客の皆様も大いに盛り上がりました。

試合は春季リーグ戦の順位によりTeam Suruga Bay(法立東)とTeam Mt.Fuji(明早慶)に分かれて対戦、4対4で引き分けました。来年の8月にも新潟県南魚沼市に新しい野球場が完成する予定で、そのこけら落としとしてオールスターゲームを開催することになっています。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第6週(通算62号) 掲載
2013年10月16日発行

東京六大学野球連盟の運営は各校の現役、OBで行っていることをご存知でしょうか。主将、マネージャーをはじめとする現役の選手、部長、監督は勿論、先輩理事、審判員、規則委員、審判技術顧問、公式記録員等でそれぞれの役割を担っています。

私はその中の公式記録員を務めさせていただいています。ネット裏、観客席下の記者席にその席はあります。公式記録員とは、私自身現役時代からこの役割をするまでよくわからず、安打・失策のボタンを押すぐらいだと思っていました。ところがその公式記録員は各校とも東京六大学の球史を飾った名選手や運動記者としてその名を轟かせた大先輩たちが務め上げているのです。

慶應義塾の大先輩である松尾俊治さんをはじめ、名前を聞いたら驚くような方たちばかりであります。縁あって2010年のシーズンから始めましたが、現役時代には主将でもなくマネージャーでもなく、社会人野球の経験もない球歴の私が務まる立場なのかと相当悩みました。

しかし、中学からお世話になった慶應義塾と幼少の頃からの憧れの東京六大学野球、特に「KEIО」のユニホームには愛着を感じており、機会があれば恩返ししたいと思っていたこともあって、引き受けさせていただきました。

この公式記録員という役割は、安打・失策・野選の判定をはじめ、全打者の成績の集計、全投手の投球数、三振奪取数、四死球数、自責点等の集計と盛り沢山です。その判定、集計により個人成績がかかってくるわけですから、一球たりともグランドから眼を離せません。そして試合終了後に自分が作成した集計表がマスコミ等に発表されることになるのですから、責任重大な役割です。

なかなか慣れない自分は、他校の公式記録員やたくさんの方々にご迷惑ばかりかけており、この場を借りまして、感謝申し上げます。話は変わりますが、私が現役時代の慶應義塾は暗黒時代(決して暗黒ではなかったし、いい選手もたくさんいました。ただし、結果がでなかっただけですが…)と言われた時期の一部で、在籍4年間8シーズン優勝がなく、最下位を一度経験しています。

今年度の慶應義塾は連盟の当番校でもあり、さらにグランドも新しい人工芝に張り替わりました。この状況下で現役諸君には是非優勝へ突き進んでいただきたいと祈念しています。その他の大学の選手諸君にも切磋琢磨の努力を期待し、大いに東京六大学野球を盛り上げていただきたいと思います。

いいプレーが増えれば人気も憧れも上がり、マスコミにも取り上げてもらえる機会も増えるでしょうし、観客も増えるでしょう。観戦に来られる皆様もプレーの判定という面から野球を見てもらうのも面白いかと思います。

選手の皆さん、裏方の皆さん、各校OBの方々、各校応援団の関係の皆さん、ファンの皆様と共に、東京六大学野球の伝統の歴史をさらに築いて行きましょう。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第5週(通算61号) 掲載
2013年10月09日発行

高校時代から憧れていた早慶戦の舞台である神宮球場には過去2回お世話になっている。

一度目はS.49~S.52の4年間、東大野球部選手としてだ。小笠原監督(元新日鉄)の下、二塁手・主将として江川法政、高橋・鹿取の明治、岡田・山倉・佐藤の早稲田、堀場慶應等を相手にS.22年春以来、実に60シ-ズンぶりの4位になることができた。

小笠原監督は、常に1対0で勝つ粘りの野球を理想とした。二度目は、S.58、S.59の2年間、新日鉄釜石での社会人野球の経験(S.55都市対抗3位、主将)を買われて就任した監督時代には、大越(新潟高出身、現NHKニュ-スウオッチ9キャスタ-)市川(国立)朝木(千種)立迫(浦和)八重樫(盛岡一)・草刈(浦和)・浜田(土佐、現東大監督)等の好選手に恵まれ、2年間で11勝もさせてもらった。

当時は、大越(通算8勝)・市川(〃7勝)という安定した好投手がいたこともあり、練習は主に攻撃力の強化に専念した。厳しく長い釜石の冬季練習をそのまま取り入れ、徹底的な下半身強化でパワ-とキレをつけた。

選手には随分と泣かれたが、結果として遊撃手の立迫は、首位打者を獲得、捕手朝木は満塁ホ-ムランで法政戦の白星をプレゼントしてくれた、八重樫・草刈・浜田の外野トリオは通算14本のホ-ムランをかっ飛ばす選手に成長した。

連敗中の浜田東大の現4年生が後輩達に大きなツケを残さぬよう、今秋のシ-ズン後半で見事な勝利を挙げることを心より期待している。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第4週(通算60号) 掲載
2013年10月02日発行

昭和43年春、北海道立小樽潮陵高校を卒業、立教大学進学とともに野球部に入部、新座にあった智徳寮で4年間を過ごした。実は親子二代の立教大学野球部員である。

私の父(川崎信一)は戦後再開された東京六大学リーグ戦にて、立教大学の主将、外野手として戦後初の首位打者となった。その父とグランドの傍で育った母の話である。旧制小樽中学(現小樽潮陵高校)から立教に進んだ父の時代はまさに戦争とともにあった。

太平洋戦争前夜から開戦、戦況が悪化する中で学徒動員、海軍土浦航空隊を経て終戦を迎えた。その間多くの友人を失っている。東京六大学で野球を志した人達のみならず、多くの将来ある若者を失った時代(十数年前の映画「最後の早慶戦」に当時の情景が蘇る)であった。

終戦後に小樽に帰っていた父に、六大学野球を再開するので帰ってこい、との手紙が届き、そこから再び東京六大学の歴史が繋がることになる。当時は物不足と栄養失調との戦いだったと聞いた。

母の話である。当時豊島区の東長崎にあった立教グランドのレフト後方に面して母の生家があった。父は縁あってそこに一時下宿したことから母と結婚することになる。多くの野球部員が遊びに来ていたそうである。

戦局が悪化していったある日、一機の練習機が飛来、低空で東長崎のグランドの上空を旋回しはじめた。当時女学生だった母と姉は外に出て夢中で手を振った。するとそれに応えるように大きく翼を振り、やがて飛び去った。

今年84歳になる母は今でも「あれは絶対○○さんだよ、グランドに別れを告げに来たんだよ」と還らぬ人となった先輩の名前を言う。親しい友人、野球の仲間を失った父と東京大空襲を受けた母はどんなことがあっても戦争だけは絶対にしてはならないと教える。

それから20年余、私が過ごした学生時代は学生運動がピーク、東大では安田講堂攻防、ほとんどの大学が自ら全学ロックアウト、立教も例外ではなかった。やがて運動は急速に落ちつき、再びリーグ戦を戦うことに集中するようになっていた。

4年になって闘将篠原先輩を監督に迎え、同期の横山(後に巨人にドラフト1位で入団)、川田など強力な投手陣とチームワークで秋季は優勝戦線に絡んだが、あと1勝が足りず結果として3位となった。

野球の技術では父には遥かに及ばない自分であったが、そのシーズンに今から思うと唯一の親孝行だったのかな、と思えることがあった。父と妹が見に来てくれた慶應戦、2-0で負けていた8回表に2アウト満塁で打席が回ってきた。

初球、右中間を真二つに割る走者一掃の逆転3塁打を打った。自分の野球人生の中で最高の会心の当りである。父はその回が終わるとすぐに妹から留守を預かる母へ電話させたそうである。喜んでくれたのだろう。後日「俺なら(お前の打球を)捕ったな・・・」。親父には敵わない。

後年、父は多くのOB先輩に支えられてOB会の会長を務めた。立教大学野球部と東京六大学野球をこよなく愛した父が亡くなって8年が経った。表舞台に立つ選手、裏方で支える仲間、いつも若い人をひたすら励まし、応援していた父だが今も天国から立教の優勝を願っていることだろう。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第3週(通算59号) 掲載
2013年09月25日発行

~神宮点描~

神宮球場のネット裏に公式記録員の座る席が設けられている。各校選りすぐりの猛者達が座った席である。

六大学の球史を飾った名選手や運動部記者としてその名を轟かせた方々が綺羅星の如く並び座った席でもある。一介の野球部OBに過ぎない私が縁あって、平成13年の秋のリーグ戦から座らせて頂くことになった。

ヨチヨチ歩きの新米記録員に保科(立大OB)さんや、松尾(慶大OB)さんのご指導を受けたが、特に保科さんに、毎試合付きっきりで教えて頂いた。本当に有難く感謝申し上げる次第です。

この秋のリーグ戦で25シーズン目を迎えますが、乏しい経験の中で特に印象に残っている試合は、甲子園の星として鳴り物入りで早大に入学した斎藤佑樹(早実・1年)のデビュー戦だった。平成19年4月14日、早大対東大1回戦でスタンドは斎藤人気で俄に増えた女性ファンが多く、内野席はほぼ満員の状態でネット裏の記者席も騒然としていた。

スタメンは最初に記録員席に配布されるので、記者の皆さんが確認のために集まってきた。斎藤先発の情報はいち早く各社のデスクに流れ、電話のやりとりで異様な雰囲気の中で試合は始まった。

斎藤(早実・1年)は6回を投げ、74球1安打8奪三振の好投し、8対0で勝利投手になった。斎藤の初打席も、三塁前のボテボテの当たりで三塁手が捕球でもたつく間に一塁に生きた。正しく捕球しても一塁は微妙なタイミングでセーフと判断してHのボタンを押した。

初登板初勝利、初打席初安打と彼にとっては記憶に残る試合になったのではないかと思う。神宮の大舞台で育った斎藤投手にはプロの世界でも一段と光り輝いて欲しいと念じていますが、最近はあまり話題にならないのが気がかりです。

秋のリーグ戦の熱い戦いが始まりました。野球は筋書きのないドラマを記録し、安打失策のジャッジなど大事な作業を担っているのが公式記録員です。伝統ある東京六大学野球の歴史の1ページを現役の選手の皆さんや裏方で支えてくれている皆さんと共に大いに盛り上げ、歴史を刻していきたいと思っております。

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TOKYOROCKS!2013 特別号 秋季リーグ第2週(通算58号) 掲載
2013年09月18日発行

多くの財産を頂いた神宮球場

今年の夏、1級先輩の神長監督率いる法政野球部が、北海道合宿にやってきました。夏休みも利用し4日連続でグランドに足を運びました。

『HOSEI』のユニフォームを着た選手達を見ていると30年近く過ぎたあの懐かしい日々が鮮明に蘇ってきます。

1学年先輩には神長監督をはじめ、木戸さん、田中さん、西田さん(ともにドラフト1位)、同学年には銚子(同)、小早川(2位)ら、上3学年、下3学年を含めると17名のプロ野球選手が誕生し、錚々たるメンバーでした。

昭和57年春のリーグ戦は法大史上初の10戦全勝で優勝、昭和58年の4年時は、春は8連勝の勝ち点4で臨んだ最終の明治戦で勝ち点を落とし明治に逆転優勝され、逆に秋には2敗しながらも、勝ち点5の完全優勝で引退に花を添える事ができましたが、当時の鴨田監督からは、とても優勝できる試合運びではなかったと言われてました。

在籍した4年間8シーズンでリーグ優勝4回、学生日本一2回と凄い時代を経験することが出来ました。しかし六大学ではそれ以上に多くの人達に出会えた事の方が、本当に素晴らしい誇れる財産となりました。

ただそれに気付くのは野球を辞めて何年も過ぎてからの事です。学生時代の大半を下積で過ごし、大変な場所にきてしまったと悩む日々でしたが、いつも暖かく見守ってくれる仲間達がいたお陰で、どうにか4年間を過ごす事が出来ました。4年間バッテング投手をし続けた者、1度も休まずに神宮球場に応援に駆けつけた者、こうした大切な仲間達が全国至るところに居り、今も支えられています。

大切な人と人との繋がりは、年を重ねる毎に、まだまだ増え続けています。そしてこの繋がりは法政野球部だけに留まっていません。私達の代は六大学の同期として、以前から定期的に親睦を図っていますが、昨年は家族や、一番お世話になった応援団も加わり、故郷・神宮球場で試合を行い、今後は年中行事になりそうな気配です。

そして集まった中には、現在も高校野球、大学野球、社会人野球界の一線に携わっている者、俳優、NHKキャスターと大活躍ですが、話をすると当時のまま。こんな多くの仲間から現在も多くの元気をもらっています。素晴らしい仲間がたくさんいることが最高の歓びであり、私自身の自慢です。

苦労しながらも六大学で野球を続けてきて良かったなと感じています。そして今も神宮球場に足を運ぶと、変わらず暖かく迎えてくれます。 今、頑張っている後輩達にも、将来、そんな経験ができるよう願っています。しかし先ずはリーグ戦での優勝、学生日本一を掴み、大観衆の前で、神長監督の胴上げをする姿を見せて下さい。

これからも法政大学、東京六大学、神宮を応援し続けます。