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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第8週(通算72号) 掲載
2014年05月28日発行

神宮球場六十年

神宮球場へ初めて足を踏み入れて以来今年で六十年、私はその間選手、審判、顧問と立場こそ変れ、この球場、そして東京六大学野球と何らかの形で関わってきた。

日大三高で甲子園の大会に出場し、六大学でも野球を続けたいと考えていた私の夢が叶えられたのは明治大学の「御大」島岡監督のお蔭である。こうして昭和二十九年四月、明大野球部の一員となった私ではあるが、総勢三百人に上る部員の中からリーグ戦に出場できる二十五人の枠に入るのは難事であり、それが実現したのは三年生になってからのことであった。

従って私は明大が六大学リーグで制覇を遂げた二十九年と三十年の春に、直接の当事者としてその歓びを分かち合えたわけではない。私が最上級生となった昭和三十二年の六大学野球界は、長嶋、杉浦、本屋敷の三羽烏を中心とした立教大学の黄金時代で、その勢いは他校を寄せつけないものがあった。

一方我が明大はといえば、春季には東大にも敗れ最下位、そして秋季リーグ戦緒戦の法政戦に敗れるや、監督は四年生に対して全員ユニフォームを脱げ、明日からは三年生以下で試合を行うと厳命された。これに憤激した我々は、その夜四年生だけで会議を開始、決意書を提出して監督に命令を覆して頂き、奮起して法政、慶應を相手に勝利を収め、立教に対しても一敗の後、決死の覚悟でこれに当たり、二試合続けて二対一で接戦をものにした。

結局早稲田に一勝二敗で終わった結果、勝ち点は同数ながら勝率の点で立教の後塵を拝しはしたが、このときの立教戦での奮闘ぶりは島岡監督にも大きな感銘を与え、これが明治の野球だと後輩達へ今なお語り継がれている。

なお、私の六大学の同期生達は、各大学二名ずつを構成員とする33会という同期会を結成し、現在も会合を続けているが、そこでは私の提唱でお互い呼び捨ての方針を貫いている。お蔭で今も長嶋氏とも「よお長嶋」「おお布施」と学生時代と同じ、裃を脱いだ形で付き合うことができるのである。

さて私は明大を卒業した後、大学の先輩で元松竹球団の監督でもあった小西得郎氏の誘いで大和証券に入社し、昭和三十六年に二十六歳で野球部の監督を拝命、監督兼選手として同年と三十八年の二度に亘り都市対抗野球全国大会に出場、同社野球部が解散した後四十年に退職し、島岡監督の勧めで審判に転じた。

家業の関係で一旦球場を離れたものの、四十二年に復帰、高校、大学、社会人野球、更には国際審判員の資格を獲て五輪大会を含む国際試合の審判も経験し、現在は六大学野球の審判技術顧問を務めている。

私が野球を始めてから約七十年、六大学野球と関わって六十年、その中で最も強い影響を受けた人物はやはり島岡御大である。「投げる奴も、打つ奴も命懸けでやっているのだ。守る奴も命懸けでやるのが当たり前だ」という御大の教えの有難さは、社会人となって後、しみじみと解ったものである。

翻って、大学野球の魅力とは何か。「諦めない」高校野球、「究極のプレーを見せる」プロ野球と比較し、大学野球が一般の観客、ファンに対し訴えかけるべきものは何か。六大学野球の顧問、「現役」OBとして、私は御大の言葉を噛み締めつつ、このことを考え続けている。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第7週(通算71号) 掲載
2014年05月21日発行

東京六大学野球の事務運営は、連盟事務局が軸となり、六大学各校のマネジャーが加わって行われている。

その中で、6年に一度の持ち回りで連盟当番校が割り当てられ、その年の主務(チーフマネジャー)が当番校の幹事役を引き受けることとなっている。たまたまその該当年に主務となった者がこの役を割り当てられるのだが、私の代がその当たり年に該当し、柄にもなく当番校マネジャーを仰せつかることとなった。

マネジャーは、2年生の春から「神宮デビュー」するケースが多く、私も野球道具の運転手役を兼ね慶大の試合時に球場内の事務所に詰めることとなり、3年生になると、自チームの試合有無に関係なく全試合「勤務」することとなった。

当時の事務局長であった、故 長船騏郎氏からは、東京六大学野球の野球界や日本社会における位置付け、他大学連盟、社会人野球等の関係者との接し方等々、当番校ならではのご指導を頂戴した。

特に、球場事務所で「勤務」している間は、決して自チームの勝敗に一喜一憂していけない事を徹底させられた。一緒に仕事をしている中で敗れたチームに失礼であり、連盟全体を運営する立場で行動せよと、マネジャー全員に対しても厳しく指導を頂き今でも強い印象として残っている。

また、他5大学の同期マネジャー諸氏からも「熱き友情」のもと強力なサポートを頂き、六大学当番校の重責を何とか乗り切ることができ、改めて感謝の意を表したい。

この時の「絆」は今でも根強く残っており、選手も含めた六大学同期での定期的な会合を重ねてきた。一昨年の11月には、応援団・部も交えた同期野球大会を神宮球場で開催。卒業後30年が経過した今でも、神宮パワーを頂いている。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第6週(通算70号) 掲載
2014年05月14日発行

この球場の雰囲気はなんなんだ?!
昭和54年春、九州から上京し早稲田大学野球部に入部した野球小僧は神宮2階席で驚き、体が震えました。

神宮球場スタンドの熱気と応援、そして目の前で繰り広げられる好ゲーム、もし万が一、4年の間に一度でもこのフィールドに立つことが出来るならば・・・

それが当時の私の夢でした。

私は幸運にも早稲田大学100周年の秋、主将として天皇杯を手にする事が出来ました。
ただ、この結果は野球部だけの力でなく、OB、学校関係者、応援部、学生,地域の方等様々な方々のご協力があってこそだと痛感しました。 学生の皆さん!神宮で是非、母校をそして仲間を声の限り応援してあげて下さい。

味方の応援歌に勇気づけられ、敵の応援歌に委縮し、それでも全力で勝利を目指す、このような経験は六大学だからこそ出来ることだと思います。

これからも、六大学を応援し、早稲田の優勝を願いつつ、第2の故郷神宮球場へ心の元気をもらいに、通うつもりです。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第5週(通算69号) 掲載
2014年05月07日発行

今年1月に開催された「野球殿堂博物館」の特別表彰委員会で早大野球部先輩の故相田暢一さんが野球殿堂入りをされました。プレーヤー表彰を含めて184名の方が野球殿堂入りをされ、来年に連盟結成90年をむかえる東京六大学野球連盟関係者としては相田さんを加えて107名が殿堂入りをはたしました。

相田さんは戦前最後の早慶戦開催実現にマネージャーとして奔走し、戦争が終わったらいち早く野球が復活できるようにとバット300本、ボール300打を確保し、安部寮に保管して戦後の六大学野球復活に備えました。

六大学野球は終戦直後の昭和20年(1945年)10月28日に六大学OB戦、11月18日に明治神宮野球場で全早慶戦を挙行して、野球復興の先鞭をつけ翌21年(1946年)5月19日から1回戦総当りながら六大学リーグ戦を復活しましたが、これは相田さんが集めたバットやボールが大いに活用された結果です。

その後は高校野球や六大学野球の名審判員として学生野球の発展に貢献、審判員を辞められた後も日本学生野球協会の理事などの役職を歴任しました。

相田さんの野球殿堂入り表彰式が今季の六大学リーグ戦5月31日(土)早慶1回戦の試合前、12時40分から神宮球場行われます。当日は早大関係者の皆様、東京六大学野球ファンの皆様、ともに相田さんの殿堂入りをお祝いいたしましょう。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第4週(通算68号) 掲載
2014年04月30日発行

もうすぐ「母の日」。しかし毎年なかなか母に「ありがとう」と感謝の気持ちを言葉で伝えられない。30歳を過ぎた今も伝えられずにいる…

今、神宮球場で熱戦を繰り広げている選手たちと同じように、私も小学校・中学校の頃から毎日ボールを追いかけ、高校では強豪校ではなかったが、甲子園を目指して夜遅くまで野球に没頭していた。

そんな私に母は毎日弁当を作ってくれ、洗濯をしてくれ、そして試合にはいつも応援に来てくれた。甲子園出場は叶わず、高校卒業後の進路について悩んだ末に、地元を離れて東京六大学の立教大学で野球をやりたいと言った時も何も言わず東京へ行くことを認めてくれた。

立教大学入学後、人生で初めての寮生活、そして地方出身のため親元を離れての生活が始まった。それまで当たり前にやってもらっていた身の回りのことを全て自分でやらなくてはならず、母のありがたみを感じた。

立教大学野球部での4年間は、素晴らしい仲間に恵まれ、また多くの方に支えていただいたおかげで、たくさんの貴重な経験をさせてもらった。 幸運にも1年生の秋から神宮の舞台に立つことができ、しかもそのシーズンで優勝を経験することができた。池袋と新座で行われた優勝パレードではたくさんのお祝いの言葉をいただき、あらためて多くの方に応援していただいていることを実感した。

2年生の秋には、東京六大学野球史上2回目(当時)の完全試合に立ち会うことができた。達成の瞬間はすでに交代していたためベンチに下がっていたが、それでも経験したことのないものすごい緊張感を味わった。

もちろんいい思い出ばかりではない。3年生の時には1年間怪我に悩まされた。野球人生で初めて手術も経験し、その後3ヶ月以上に渡るリハビリ生活は肉体的にも精神的にも本当に苦しかった。

そんないろいろあった出来事の中でも、特に忘れられない出来事がある。

2年生の春、2000年5月14日(日)早稲田大学2回戦の第1打席。フルカウントから高目のストレートを打ってレフトスタンドに入るホームランを打った。今でもここまで鮮明に覚えている理由がある。

偶然にもその試合の日は「母の日」で、しかもたまたま地元から両親が応援に来ていたので、母の目の前でホームランを打つことができ、また試合後に母にホームランボールを渡すことができたからである。

ホームランを打ったことももちろんだが、それ以上に母にほんの少しだが恩返しできたことが本当にうれしかった。ただその時も「ありがとう」の言葉を伝えることはできなかった…

あのホームランから14年。今年の「母の日」こそは、母に「ありがとう」の言葉を伝えたい。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第3週(通算67号) 掲載
2014年04月23日発行

「六大学オールスター戦と天女の羽衣」

昨年静岡の草薙球場でリニューアル後の柿落としてオールスター戦が開催された。清水エスパルスに勤務、サッカーに注力して神宮に足が遠のいていたが、これを契機にあの興奮と喜びを思い出した。

41年春、慶應から勝ち点を取り最下位を脱出し5位となったことを。六大学オールスターメンバーがそろった各地チーム(早大:八木澤・三輪田、慶大:藤原、明大:高田・星野、法大:田淵・山本・山中、立大:槌田・谷木)相手に、東大は投手井手を中心に好ゲームを展開した。

東大が強い時は観客も多い。OB会会長時、スカウトシステムを浜田現監督と立ち上げたが、選手強化ができたかその成果が気になる。他校は甲子園出場選手が以前より多く入学、なかなか勝てないシーズンが続くなかで、今年は地元の協力もありキャンプを初めて静岡市で行った。

よい環境で練習できチームはうまく仕上がったと思う。勝ち点を狙うターゲットを定めて、力を集中すれば必ず1勝できると信じている。

ちなみに浜田監督は三保の御穂神社に勝利を祈願し絵馬を奉納した。ここまで来たら天女の羽衣に通じる神頼みも絶対必要である。

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TOKYOROCKS!2014 特別号 春季リーグ第2週(通算66号) 掲載
2014年04月16日発行

古い昔の話になります。私(大学時代、鶴岡)現在姓は山本です。昭和41年秋(3年生)が終わり、主将に指名されました。なぜ私がと思って、松永監督、浦先輩理事に聞いた所、悪(ワル)の代用との事でした。

昭和42年は当番校で、神宮球場で主将が選手宣誓をすることになっています。入場式(開幕日)当日は簡単に言えばよいと思っていました。ところが入場式30分前にチーフマネージャーの磯が「“鶴〟神宮球場40年記念という言葉を入れろ」とのことで急に言ってきたのです!!簡単に思っていました。

いざ選手宣誓の時、私の前に藤田信男部長の顔が見えたとたん、頭が真っ白になりパニック状態で言葉が出なくなりました。なぜなら藤田先生は私の父(鶴岡一人)の時の監督で、私がびっくりしたことは、父が今まで見た事のない低姿勢であったのです。

それは法大グランドで父が先生に走って近づき、最敬礼をする姿だった。その頃の私はまだ法政二高の生徒でその方が藤田信男先生でした。とにかくすごい方だと感じたのです。そんな人の前で失敗したら大変と思ったら急に何も言えず30秒間程度ストップしたまま無言状態でした。先生に笑顔を見せられてやっと言葉が出てほっとして大変恥ずかしい思いをしました。

そして、その秋のリーグ戦で天皇杯を手に出来た事が心に残る最高の思い出です。私が現在もまだ野球に携われる事は感謝です。ありがとう神宮球場。最後に藤田先生が私に神宮球場も勉強の場だよと言われた事を思い出します。