神宮球場六十年
神宮球場へ初めて足を踏み入れて以来今年で六十年、私はその間選手、審判、顧問と立場こそ変れ、この球場、そして東京六大学野球と何らかの形で関わってきた。
日大三高で甲子園の大会に出場し、六大学でも野球を続けたいと考えていた私の夢が叶えられたのは明治大学の「御大」島岡監督のお蔭である。こうして昭和二十九年四月、明大野球部の一員となった私ではあるが、総勢三百人に上る部員の中からリーグ戦に出場できる二十五人の枠に入るのは難事であり、それが実現したのは三年生になってからのことであった。
従って私は明大が六大学リーグで制覇を遂げた二十九年と三十年の春に、直接の当事者としてその歓びを分かち合えたわけではない。私が最上級生となった昭和三十二年の六大学野球界は、長嶋、杉浦、本屋敷の三羽烏を中心とした立教大学の黄金時代で、その勢いは他校を寄せつけないものがあった。
一方我が明大はといえば、春季には東大にも敗れ最下位、そして秋季リーグ戦緒戦の法政戦に敗れるや、監督は四年生に対して全員ユニフォームを脱げ、明日からは三年生以下で試合を行うと厳命された。これに憤激した我々は、その夜四年生だけで会議を開始、決意書を提出して監督に命令を覆して頂き、奮起して法政、慶應を相手に勝利を収め、立教に対しても一敗の後、決死の覚悟でこれに当たり、二試合続けて二対一で接戦をものにした。
結局早稲田に一勝二敗で終わった結果、勝ち点は同数ながら勝率の点で立教の後塵を拝しはしたが、このときの立教戦での奮闘ぶりは島岡監督にも大きな感銘を与え、これが明治の野球だと後輩達へ今なお語り継がれている。
なお、私の六大学の同期生達は、各大学二名ずつを構成員とする33会という同期会を結成し、現在も会合を続けているが、そこでは私の提唱でお互い呼び捨ての方針を貫いている。お蔭で今も長嶋氏とも「よお長嶋」「おお布施」と学生時代と同じ、裃を脱いだ形で付き合うことができるのである。
さて私は明大を卒業した後、大学の先輩で元松竹球団の監督でもあった小西得郎氏の誘いで大和証券に入社し、昭和三十六年に二十六歳で野球部の監督を拝命、監督兼選手として同年と三十八年の二度に亘り都市対抗野球全国大会に出場、同社野球部が解散した後四十年に退職し、島岡監督の勧めで審判に転じた。
家業の関係で一旦球場を離れたものの、四十二年に復帰、高校、大学、社会人野球、更には国際審判員の資格を獲て五輪大会を含む国際試合の審判も経験し、現在は六大学野球の審判技術顧問を務めている。
私が野球を始めてから約七十年、六大学野球と関わって六十年、その中で最も強い影響を受けた人物はやはり島岡御大である。「投げる奴も、打つ奴も命懸けでやっているのだ。守る奴も命懸けでやるのが当たり前だ」という御大の教えの有難さは、社会人となって後、しみじみと解ったものである。
翻って、大学野球の魅力とは何か。「諦めない」高校野球、「究極のプレーを見せる」プロ野球と比較し、大学野球が一般の観客、ファンに対し訴えかけるべきものは何か。六大学野球の顧問、「現役」OBとして、私は御大の言葉を噛み締めつつ、このことを考え続けている。