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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第8週(通算104号) 掲載
2016年05月25日発行

昭和三十八年早稲田大学に入学、新入生の練習は入部して一週間位の期間、毎日ランニングの練習でした。
三十八年春季リーグ戦前、海老茶色のネーム、クリーム色のユニフォームに腕を通すことができました。対東大戦に「八木澤投げてみなさい」と石井連藏監督から言われ一年生ながら登板の機会をいただきました。神宮球場は当時両翼九十九メートル五万人収容の大きな球場でした。内野スタンドの傾斜が急なため圧迫感があり緊張したことを覚えている。

三十九年春季リーグ戦において慶大渡辺泰輔投手が対立大戦で史上初の完全試合を見ることができて幸運でした。
当時他の大学には優秀な選手がおりました。明大高田繁、法大田渕幸一、山本浩二、立大槌田誠、慶大広野功、東大井手峻、実力伯仲戦国時代だった。三年秋季リーグ戦後石井藤吉郎監督より第五十六代主将を伝えられ、四十一年春天皇杯返還、秋天皇杯賜る。三度のリーグ優勝、アジア大会優勝、ベストナイン二度。私は早稲田大学に育てていただきました。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第7週(通算103号) 掲載
2016年05月18日発行

次週の5月28日慶大―早大1回戦の試合開始前に野球殿堂の表彰式が行われます。野球殿堂は、日本野球の発展に大きな貢献をした方々の功績を永遠に讃え、顕彰するために1959年に創設されました。
本年度は3名の元プロ野球選手と2名の学生野球関係者の5名が野球殿堂入りを果たし、合計192名となりました。東京六大学野球の関係者や出身者では110名の方々が殿堂入りをされています。

神宮球場での表彰式は一昨年の故相田暢一さんの殿堂入り表彰式以来2年振りの開催となります。
今回の表彰では、明治大学の先輩で戦後の野球復興に尽力された功績で殿堂入りとなった故松本瀧蔵さんと法政大学の先輩で東京六大学の最多勝記録となる48勝をあげ、指導者としてもバルセロナオリンピックの日本代表監督として銅メダルを獲得した山中正竹氏に野球殿堂博物館の熊﨑勝彦理事長(プロ野球コミッショナー)から表彰レリーフが授与されます。

表彰式は試合前の12時35分から。当日は明大、法大関係者の皆様、東京六大学野球ファンの皆様をはじめ大勢の観客の皆様とともに松本さん、山中さんの殿堂入りをお祝いいたしましょう。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第6週(通算102号) 掲載
2016年05月11日発行

明治大学を卒業して30年。当時の親の年齢になってわかったことがあります。
田舎に暮らす両親は、だいぶ老いが進んできたものの、ありがたいことに80歳を過ぎた現在も健全です。長男に家業を引き継いで隠居し、今では身体も悪く家からあまり出なくなった父が、母から聞くところによると、毎年春と秋の六大学リーグ戦の試合が行われた翌朝は、普段億劫な外出なのに起きてすぐに近所のコンビニまで歩いてスポーツ新聞を買いに行くそうです。

六大学野球の記事の中の審判員欄に、小さく載っている息子(私)の名前を見るのが楽しみなのだそうです。ただ苗字の「上野」の表記だけです。息子としては苦笑ものですけれど、それがいくつになっても変わらぬ「親」というものなのだと思います。六大学の審判員を務めさせて頂いているおかげで、思わぬ小さな親孝行ができているようです。

しかし30年前に思いを巡らせれば、そんな父は、神宮球場で六大学の選手として息子の私がプレーすることをどれだけ望み、期待し、楽しみにしていたことでしょうか。そのことを今になって考えると、後悔の念に苛まれます。なぜ学生のときに親の思いを感じ、それに応えようと最大の努力をしなかったのでしょう。たった4年間もっと必死に練習をしなかったのでしょう。一度でもMEIJIのユニフォームを着て神宮球場のバッターボックスに立てたなら、どんなに親孝行だったことでしょう。

現役の選手の皆さんには、誰よりも応援してくれているご両親やお祖父ちゃんお祖母ちゃん兄弟ご家族のために、元気で頑張ってくれていることが何よりですが、神宮球場でプレーすることを決して諦めず、努力し続けて欲しいと心より願います。ご家族の喜ぶ顔を見て欲しいと思います。怪我と闘っていたり、4年生になると大事な就職のこともあったり、色々な事情があるでしょうが、年をとって後悔しないように、親孝行のために、4年間できることをやり尽して欲しいです。

私はこれからも審判員として、OBとして、学生野球の聖地・神宮球場での六大学の後輩たちの成長や活躍を楽しみに見ていきたいと思います。
そして、選手の道を断ち、陰ひなたとなってチームや六大学野球連盟を支えてくれているマネージャー、学生コーチ、裏方の学生の皆さんに敬意を表すとともに感謝致します。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第5週(通算101号) 掲載
2016年05月04日発行

「人間万事塞翁が馬」この言葉をまさに体験した。
 私は3歳から野球を始め、小中高すべてで下級生時から主力選手であり、高校では副将を務め四番を任されていた。そんな私は東京六大学野球に強い憧れと自信を抱き立教大学の門を叩いた。

入部まもなくその自信は粉々に打ち砕かれた。「なんだコイツら。これが同い年なのか。。。」そう思う程周りの選手は上手かった。これまで「お山の大将」で過信していた自身の甘さを悔いた。
1年秋、更なる挫折を味わった。マネージャーへの転身である。マネージャーは後に主務となりチームを支える柱となる。その重要性は充分に理解していた。ただ、選手でいられないこと、神宮でプレーできないことへの未練が決心を鈍らせた。

ある日、私のプレーを誰よりも楽しみにしている母に、神宮でプレーする夢を叶えられない悔しさと申し訳なさで泣きながら電話で伝えた。しかし、母から返ってきた言葉は意外な言葉だった。
「あなたが選んだ道を応援します。」涙が止まらなかった。
マネージャーに転身すると、仕事量の多さや責任の重さに苦労し、辞めたいと思うこともあった。中間管理職のように選手と監督の間で色々ともがくことも多かった。

「ありがとう」この一言にやり甲斐を見出した。今までは自分にスポットライトが浴びることに喜びを感じていたが、マネージャー転身以来、人の役に立つことがこれほど嬉しいことなのかと気付いた。裏方の人の気持ちを知れたことは間違いなく自分の成長の糧になると確信している。 「一人ではヒーローは生まれない。支える人がいて生まれるもの。これまであなたは良い思いをしたのだから、今度はあなたがヒーローを支えなさい。」あのとき母はこう言いたかったのだろうと今になって思う。挫折とは自分を変える最大のチャンスである。 六大学野球の運営はマネージャーの存在なくして成り立たないといっても過言ではないと考える。グラウンドで華麗なプレーでファンを魅了する選手達には当然注目が注がれるだろうが、その裏で必死に奔走するマネージャー諸氏の活躍にも温かな眼差しと労いを送ってもらいたい。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第4週(通算100号) 掲載
2016年04月27日発行

私が入学した平成17年(2005年)の春と秋に先輩が勝って以来、東大は敗戦を重ねていました。3年春のシーズン終了時には、連敗数は40となっていました。そのようなチーム事情の中、当時の中西正樹監督(現東大助監督)からの打診もあり、私は選手を退いて学生コーチとなりました。主には外野守備と走塁の指導に携わらせて頂いたのですが、後輩たちに捕球や送球の技術を教えて試合を作れるようにしようと必死でノックを打ちました。

学生コーチを制度に敷いて迎えた秋のリーグ戦では、実は「勝てなかったら学生コーチを辞めさせてもらおう」などと迷いながら臨んでいたのですが、最終カードの立教戦で勝利し、連敗を48で止めることができました。この時が本当に「学生コーチになる」という決断に迷いがなくなった瞬間でした。連敗ストップに涙を流す上級生の姿は今でも忘れられません。

現在、長野県の高校で野球部の指導をしていますが、バッテリーを中心に守備が安定することで選手たちが勝つイメージを持つことが容易になるのだと強く思うようになりました。そのためには基本のプレーの正確さが大切です。そして接戦になれば一つのプレーが勝敗を分けることになります。また、選手の特徴を理解してうまく生かしてあげたいなといつも思っています。

今の東大はロースコアの展開に持ち込める試合がありますから、その土台の上でそれぞれの選手の長所を生かしながら勝利を掴んでほしいと願っています。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第3週(通算99号) 掲載
2016年04月20日発行

「神宮とともに」

神宮に育ててもらった人生である。選手としての日々のみでなく、福島敦彦元監督・故前田祐吉元監督下で17年(昭和52年-平成5年)という長い期間塾野球部の助監督を務めさせて頂き、言葉では言い尽くせないものがある。
両監督とその時代の選手達との日々から多くのことを得、導いて頂いた。
師であるお二人に対して大変僭越であるが、福島野球は守備重視で守り勝つ野球であり、前田野球は打力重視で打ち勝つ野球であったように思われる。
しかしながら、そのどちらも根底にある「エンジョイベースボール」の理念は変わらないものだった。

この17年の塾野球部の大きな転機は昭和58年2月に半世紀ぶりに再開されたアメリカ遠征であろう。
監督、助監督以下ほぼ全ての選手が何もかも初めての経験、何より本場のベースボールに直接触れ、野球というスポーツを原点から見つめ直す絶好の機会を得ることができた。
この成果は帰国後塾野球部の至るところに出始め、やがてその実を無敗優勝という形で結ぶ。昭和60年秋のことである。
開幕戦の立教大学1回戦を引き分けとし、2回戦以降勝利を積み重ねていく。それは遂に10連勝となる。
試合を最後まで諦めない選手達の執念は10勝のうち6勝が逆転勝ちという結果に表れていよう。

この優勝は塾野球部が13年26季ぶりという長い苦しい時代を乗り越えた、まさに待ち望んだ優勝であった。またこれは塾野球部の輝かしい記録である三連覇を成し遂げた昭和47年秋以来のものであったのである。
この三連覇を選手としてフィールドで味わえた私は、果報者に違いない。
その後、塾野球部はアメリカ遠征を続け、大久保監督もその成果を存分に生かし平成3年春秋連覇の偉業を主将として成し遂げた。

時が流れ21世紀となり、今季から先輩理事の役職を拝命した。神宮に育ててもらった私が、再びこの聖地で塾野球部の為に役立てる機会を頂いたことは、この上ない喜びである。
此度はフィールドではなくネット裏から東京六大学野球連盟の一員として微力ながら精一杯務めさせて頂く所存である。
大久保監督の目指すエンジョイベースボールの実現の為の一助になれればと思う。今季の塾野球部の健闘を心より祈願する。

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TOKYOROCKS!2016 特別号 春季リーグ第2週(通算98号) 掲載
2016年04月13日発行

私の東京六大学野球と神宮球場の思い出と言いますと,小学4年生に遡ります。

5年前に他界した兄春記(慶大野球部OB,昭和45年卒,元東京六大学野球連盟先輩理事)が大学4年生で活躍している姿を応援に行き,「自分も大学生になったらここでプレーしたい」と思って観ておりました。当時は各大学にスター選手がたくさんいて,後に自分が進むことになります法政大学には,山中正竹投手(現法友野球倶楽部会長)がリーグ最多の48勝に突き進んでいた時代でした。

小学生の時には慶應にも憧れましたが,自分が選んだのはオレンジ色の法政大学でした。法政二高から法政大学に進み,甲子園経験者やプロ注目の選手が多数入学して来ました。金光さんや江川さんの花の49年組と言われた先輩が卒業され,各大学の実力が伯仲し,優勝争いは混とんとしていました。

私は元気だけが取柄で,実力は大したことはありませんでしたが,強いチームの一員として4年間,ボールを捕り続けた“壁”であったことを誇りに思います。同期の川端(広島),池田(阪神他),和田(昭和59年卒)各投手たちが神宮球場のマウンドで活躍してくれることに,喜びを感じておりました。混戦リーグが続く中,3年秋と4年秋に優勝出来たこと,そのチームを支える一員であったことは,後に社会人野球に進んでから大きな自信と力になりました。

また,野球部の活躍には,スタンドで常に大きな声で声援を送ってくれる応援団の皆さんの力が,大きかったことは言うまでもありません。4年生の時,高校野球部の同期が応援団長になり,団員の皆さんが統制のとれた応援で学生応援席をリードする,グランドと学生応援席が一体となり,勝っても負けても最後はしっかり相手にエールを送る。この姿は今も神宮球場で受け継がれている東京六大学の素晴らしい歴史と伝統のひとつであると思います。

我が母校の校歌の一節にあります,“良き師良き友集い結べり”のとおり,卒業後,法政だけでなく六大学出身の多くの皆さんと友人,仲間となることが出来たのも,神宮球場の繋がりであり,今でも感謝しております。