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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第8週(通算160号) 掲載
2019年05月29日発行

父親が慶應大学野球部OBということもあり、幼い頃より野球に親しみ東京六大学野球・早慶戦・神宮球場は憧れの的であった。
小学校6年生の時に今や伝説となった早慶6連戦がありテレビの前で一生懸命に慶應を応援していたのを思い出す。
この時から「KEIO」のユニホームを着て神宮球場でプレーする事が夢であり目標となった。

昭和42年春慶應大学野球部に入部。第1の夢がかなった。
3年生春のリーグ戦よりベンチ入り、第2の夢がかなった。
とは言っても身長167cm体重60kgの非力な守備要員であった。それでも4年生の春のリーグ戦はスタメン出場を果たしていたが、秋はその年入部した山下大輔君の台頭により再び守備要員に逆戻り。

第3の夢は早慶戦で勝点を取る事。しかし1年生の秋から4年生の春まで6シーズン連続で勝点を奪われ最後の秋のシーズンを迎えた。
第1戦は延長15回2対2の引分け、第2戦は2対1の辛勝、第3戦も延長となり11回表にようやく1点を入れたものの、その裏1アウト1、3塁のピンチを迎えた。
次打者がショートゴロとなり山下大輔君から私にトス、必死に1塁に投げたところ間一髪のダブルプレーでゲームセット。
その時の喜びと安堵感は一生忘れないだろう。

第4、最後の夢はリーグ戦で優勝すること。
これは入学早々1年生の春にかなったが、残念ながら練習では球拾い、リーグ戦では用具運びや切符切りに追われて全く実感なし。
その後は3位と4位の繰り返しで大学生活を終えた。
しかしながら、頼もしい後輩たちが卒業した年の秋のリーグ戦より3連覇を達成してくれた。

大学での4年間は喜びより苦しみや悔しさの方が多かった気がするが大きな財産を得ることができた。その最大の財産は友である。
苦楽を共にした同級生との絆は年令を重ねる毎に深くなり、母校の先輩・後輩やライバル校の方々との親交を重ねるたびに実感している今日である。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第7週(通算159号) 掲載
2019年05月22日発行

東京六大学野球連盟ではこの春、第2週と第3週に各大学キャンパスの学食利用学生の応援席招待、第4週に子供の日企画イベント、5月4日のみどりの日にはスコアーボードをグリーンの文字に、第5週は「Tokyo Big6 Festival」で各大学のサークル等の協力を得て模擬店を出店、5月12日の母の日には昨年同様に「Big6 Happy Mother’s Day」を開催して先着500名の女性のみなさまにピンク色のリストバンドをプレゼントいたしました。
当日の試合では選手、審判員も同じリストバンド着用し、スコアーボードの文字もピンク色にするイベントを行いました。
今後のリーグ戦後半戦では、「地方創生×東京六大学野球 神宮朝市」などのイベントも予定されています。

プロ野球のようなファンサービスは出来ませんが、少しでも多くの観客の皆様の前で選手たちが学生らしいプレイを発揮してもらい、連盟結成100年に向けて今後も新しい取り組みをしていきたいと考えています。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第6週(通算158号) 掲載
2019年05月15日発行

平成3年から東京六大学野球の審判員となり、平成28年まで26年間、リーグ戦のグラウンドで選手たちと共に緊張感を共有してきました。
現在は、審判技術顧問として後輩審判へのアドバイスを行う役割を仰せつかり、現役審判とは異なる視点で試合を見ています。

学生時代から通いなれた神宮球場の雰囲気は変わらず、野球をする楽しみ、支える楽しみ、そして今は見る楽しみを感じながら選手や審判員の溌剌としたプレイを楽しんでいます。
審判員としてグラウンドに立っていた時は、選手たちのプレイを最高のグラウンドレベルで試合に参加していたので、緊張の連続でした。
しかし、グラウンドを離れて見ていると現役時代には気が付かなかったものが見えてきます。

六大学リーグ戦の試合は、対抗戦であり母校の名誉と威信にかけて、ライバル各校が戦いますが、審判を離れて見ていても選手たちのプレイは、さすが六大学の選手達だといつも思います。
それは、スポーツマンシップとは何かを選手たちが理解をしてプレイしてくれているからだと思っています。
六大学の先輩方が築いてきた「戦う相手を常に尊重し、ルールと審判を尊重して戦う。」ことを常に選手たちが守り続けているからだと感じています。

仲間や相手を尊重することができれば、フェアなプレイが行われ、見ていても清々しい気待ちになります。
今年の選抜高校野球では、マナー違反などで野球の品位が疑われるようなプレイが行われていたようですが、東京六大学は、野球界のお手本となるべく各校が常にお互いを尊重し合っているので、そのような品位のないプレイは存在しないのです。
「知識は学問から、人格は野球から学ぶ。」という六大学野球に受け継がれる、学生野球の精神は、常に日本の野球界をリードしていると思います。

今後も六大学野球、学生野球の精神が引き継がれ、全国の野球ファンが集う場所となっていくことを願っております。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第5週(通算157号) 掲載
2019年05月08日発行

私が小学生の頃、六大学野球はシーズンに3、4週テレビ放送があり、プロ野球、甲子園はもちろん、六大学野球も欠かさず見ていました。
当時の甲子園のアイドルと言えば「荒木大輔」。早実に進学して甲子園に、そして早稲田大学で神宮のマウンドに立つ、これが私の夢でした。

中学2年の事、東武東上線志木駅の北口は慶應志木高校、南口は立教高校。
学校見学と称して敵情視察に出かけました。そこで私は衝撃的な光景を前に返り討ちに会うのです。
立教高校には野球場が2つありそこでは高校生離れしたレベルの高い練習が行われていました。

“ここで野球がしたい”その瞬間から夢はピンストライプのユニフォームで甲子園を目指し、神宮のマウンドへ!と変わったのです。
小さな“立教愛”の始まりでした。野球にも勉強にも一層身が入るようになり、成績も射程圏に入った頃、2度目の見学に。

そして気づいてしまいました。ライトフェンス越しに見た光景は高校ではなく、大学の練習風景だったのです。
勘違いでした。それでも冷めることなく高校受験を迎えましたが、現実は厳しく、結局地元の県立高校に進学することに。
すると運命のいたずらなのか、2年の夏3回戦で立教高校と対戦。結果は延長の末惜敗、立教高校はそのまま埼玉県を制し、30年ぶりに甲子園出場を果たしました。
自分の事のように喜んだことを覚えています。

それから一浪を経て、6年越しに私の立教愛は成就しました。
縁というものは面白いもので、私の初登板の相手は、小学時代の憧れ早稲田大学。
しかもそのマウンドには小宮山現早大監督が立っていたのです。
優勝するには何をすれば良いのか?
この命題を日々考え、時にはぶつかり合いながら切磋琢磨していくことが小さな母校愛を育んでいく。
心技体の一致と勝負の世界では言いますが、高いレベルになるにつれ心の部分がより重要になってくる。
その中で母校愛の占める割合が少なくないはず。幸いにも私たちは現役時代に2度の優勝に恵まれました。
それは“立教愛”を大きく育んだ結果ではないか、と私は思っています。

さて今季はどの大学の母校愛が他校を上回るのでしょうか?

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第4週(通算156号) 掲載
2019年05月01日発行

私はリーグ戦では通算出場試合の半分が打席なしという、守備要員の内野手でした。どこの大学の運動部もOB会の幹部は選手時代に傑出した記録を残した人がつとめることは多いと思います。
私も卒業以来一度も役員に就任したことがなく、ラストシーズンに一度も打席に立てなかったこともあって、長年神宮球場に行くこともありませんでした。

ただしチームは傑出した成績を残しました。
経験豊富な先輩が満を持して最上級生となった昭和56年春に私は三年生として、一塁手で最初の3カードに先発させてもらいました。
今も本学史上唯一の記録として残る「早慶から勝ち点奪取」の勝ち試合はすべてフル出場でした。
その前後の年とは全く違う大観衆の中で試合をしたことで、エラーをしてもヒットを打っても突風が来るような歓声が当事者に襲ってくることを体感しました。
一試合終わると全身が疲労に包まれると知ったことと合わせてその後の人生の財産となりました。

5年前に、縁あって東京六大学野球活性化委員に選ばれました。
その翌年に私の出身校が82年ぶりに21世紀枠でセンバツに出場し、甲子園の観客席で「特別な瞬間」を味わいました。
入場行進では涙があふれ、試合では自分が出ているような緊張感をもち、十代の自分がグラウンドにいるような思いで観戦しました。
それ以後、神宮球場で戦う選手も自分の分身になりました。

また活性化委員になったことで、在学中他の大学の選手とは一度も言葉を交わしたことがなかった私でしたが、他のOBとの交流も始まりました。
高校の後輩も他の大学に入部し、この4年間は東大戦がない週でも神宮球場に足を運んでいます。
折しも本学が今年創部百周年で百年史の編集と記念事業の両委員を拝命し、連盟と東大に恩返しをする機会をいただいたと思っています。
すべての六大学の選手たちが、あの数週間の私のように、大観衆の中でプレーできるようにお手伝いしたいと心から思っています。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第3週(通算155号) 掲載
2019年04月24日発行

9月10日(月)、第43回全日本クラブ野球選手権大会(メットライフドーム)で、所沢グリーンベースボールクラブ(関東地区)とゴールデンリバース(東北地区)の1回戦が行われました。
両チームの監督は、早稲田実業出身の村上友一、今年の夏の甲子園を大いに盛り上げた金足農業高校出身の佐藤直人。ともに早稲田大学野球部平成12年卒業の同期が、約20年を経て、監督として対戦しました。
また、佐藤直人は、韮山高校(静岡)出身の私にとって、高校3年の夏、甲子園での最後の対戦相手で、最後の打席で打ち取られた相手投手でもあります。

私たちが3年生だった平成10(1998)年は、早稲田大学野球部にとって、非常に厳しい1年でした。
春季リーグ戦は2カード目から8連敗で5位、秋の初戦まで大学記録の9連敗を喫しました。
早慶2回戦で大量リードを許し敗色濃厚の中、遊撃手の松瀬大主将(宇和島東)が急遽マウンドに立った姿を、1塁側ベンチ横のマネージャ―控室から見て、悔し涙を堪えることができなかったのを覚えています。

野村徹監督が就任、佐藤清前監督への恩返しを誓って臨んだ4年の春は一転。
東大・遠藤良平、法政・安藤優也、立教・矢島崇、明治・木塚敦志の各校エースに、藤井秀悟(今治西)、鎌田祐哉(秋田経法大附)の2枚看板と梅澤健主将(前橋工)を中心にシーズン無失策の野手陣が挑み、開幕8連勝。
第6週に11季ぶりの優勝が決まり、実感の湧かないまま、マウンドに集まる選手たちの歓喜の輪を見ていました。
しかし、早慶戦では、山本省吾・中村泰広両左腕を軸とした慶應義塾に連敗。大学初(当時)の全勝優勝も完全優勝も阻止されました。

敗北の悔しさも、勝利の喜びも、そこに至るまでの数々の出来事も、全て東伏見、そして、明治神宮球場にあります。
また、「提灯行列」で、それまでの悔しさを分かち合った応援部のメンバーとともに、早稲田界隈を歩いた時間は一生記憶に残る思い出です。

今日も、そしてこれからも、1つ1つの勝ち負けの歴史が、この明治神宮球場で創り出されていきます。OBとして、野球ファンとして、それを見続けていきたいと思います。

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TOKYOROCKS!2019 特別号 春季リーグ第2週(通算154号) 掲載
2019年04月17日発行

昭和27年に監督に就任し、今の明大野球部を作り上げた島岡吉郎監督が亡くなって今年で30年を迎えた。
今年からユニホームの左袖に「イノシシ」が30年ぶりに復活、御大時代に戻ったようでOBにとっては懐かしくもありうれしい復活となった。

考えてみれば、東京六大学野球の監督に野球経験のない応援団長が就任したのだから、前代未聞だったろう。
当時の部員がこの人事に退部し、OB会の駿台倶楽部も反発した。野球部史などを読むと、当時の明治は退学して職業野球(プロ野球)に身を転じたり、授業を受けずにいたらしい。
大学側は、優勝から遠ざかり部の荒廃立て直しに明治高校の監督だった島岡を指名したのだ。

周囲の猛反発にも信念を曲げず、上級生に便所掃除をさせ授業にも行かせた。
監督就任当時入学した秋山登―土井淳(現駿台倶楽部会長)のバッテリーで初優勝した際には「総理大臣になるよりうれしい」と答えている。
伝統を受け継ぎ故・星野仙一先輩が「御大自ら手で便器を洗う姿を見せられたら″参りました″というしかなかった」とよく話していた。

今も御大の教え子である善波達也監督は寮での生活にはうるさい。
試合では口にこそ出さないが、ベンチから御大が叫んだ「死んでも塁に出ろ!」「なんとかせい!」と思っているに違いない。
もちろん理不尽なことは山ほどあったが、御大から面と向かって言われた「社会に出たら人が嫌がる仕事を進んでやれ。
誠の心を持て」の言葉は社会人になり、ずっと私の胸の奥にあった。

負ければ深夜までの練習は当たり前。「素質のあるヤツ(法政)には練習しかないんだ」私の3年春から法政が完全優勝の4連覇。
江川がいて今季監督代行を務める金光主将がいた。
最後に「金光さん、あなたたちのお陰でひどい目にあった部員がいたこともお忘れなく」