父親が慶應大学野球部OBということもあり、幼い頃より野球に親しみ東京六大学野球・早慶戦・神宮球場は憧れの的であった。
小学校6年生の時に今や伝説となった早慶6連戦がありテレビの前で一生懸命に慶應を応援していたのを思い出す。
この時から「KEIO」のユニホームを着て神宮球場でプレーする事が夢であり目標となった。
昭和42年春慶應大学野球部に入部。第1の夢がかなった。
3年生春のリーグ戦よりベンチ入り、第2の夢がかなった。
とは言っても身長167cm体重60kgの非力な守備要員であった。それでも4年生の春のリーグ戦はスタメン出場を果たしていたが、秋はその年入部した山下大輔君の台頭により再び守備要員に逆戻り。
第3の夢は早慶戦で勝点を取る事。しかし1年生の秋から4年生の春まで6シーズン連続で勝点を奪われ最後の秋のシーズンを迎えた。
第1戦は延長15回2対2の引分け、第2戦は2対1の辛勝、第3戦も延長となり11回表にようやく1点を入れたものの、その裏1アウト1、3塁のピンチを迎えた。
次打者がショートゴロとなり山下大輔君から私にトス、必死に1塁に投げたところ間一髪のダブルプレーでゲームセット。
その時の喜びと安堵感は一生忘れないだろう。
第4、最後の夢はリーグ戦で優勝すること。
これは入学早々1年生の春にかなったが、残念ながら練習では球拾い、リーグ戦では用具運びや切符切りに追われて全く実感なし。
その後は3位と4位の繰り返しで大学生活を終えた。
しかしながら、頼もしい後輩たちが卒業した年の秋のリーグ戦より3連覇を達成してくれた。
大学での4年間は喜びより苦しみや悔しさの方が多かった気がするが大きな財産を得ることができた。その最大の財産は友である。
苦楽を共にした同級生との絆は年令を重ねる毎に深くなり、母校の先輩・後輩やライバル校の方々との親交を重ねるたびに実感している今日である。