私は昭和46年、一浪して念願の早稲田大学に入学しました。
浪人中にプロ野球近鉄バッファローズ(現オリックス)からドラフト指名されましたが憧れの早稲田大学で「早慶戦に出たい」という夢に勝るものはありませんでした。
期待と不安を持ち岡山から上京しました。
同級生には矢野暢生君(日本生命)佐藤守君(日本鋼管)両左右のエース、後にミスター社会人と呼ばれた四番打者、前川善裕君(日本鋼管)を含めて17名。
そのうち故東門 明君は第1回日米大学野球で、米国チームショートからの送球を頭部に受け、帰らぬ人となったのが今でも残念でなりません。
最上級生となった1974年、私は第64代主将を拝命し、春のリーグ戦は石山建一新監督のもと、走る早稲田として盗塁リーグ新記録、個人でも二年生の松本匡史君がリーグ新記録。打力を盗塁で補い、10勝1敗で完全優勝。
大学選手権では決勝戦相手が東都の雄駒沢大学、中畑、二宮、平田(3人とも巨人)をはじめ森投手(現中日ドラゴンズ監督)等、ほとんどがプロに行くレベル相手でしたが3対2で勝利。早稲田大学2回目の日本一に輝きました。この好成績は考えてみますと同級生17人、レギュラー控え関係なく「早稲田が強くなる為に何をすべきか?」を各々が役割を理解し、後輩に示すという最上級生としての纏まりの賜物以外無かったと感じます。
早慶戦の思い出は、1974年秋の早慶戦、当時の話題は早慶戦50号ホームランを誰が打つのか?でしたが打ったのは前川君、そして早慶戦三回戦延長13回裏、私にとっては神宮最終打席、史上3人目のサヨナラホームランを打つことができました。
前川君も私も卒業記念ホームランでした。
二人とも早慶戦は特に気持ちは高揚し、なかなか寝付かれず、深夜に安部寮講堂(当時は畳部屋)へ素振りに行けば前川君が黙々と素振り、最後の最後まで悔いの残さないように努力する姿勢で、自分を落ち着かせていたと思います。
六大学野球選手の皆様、神宮球場にも必ず野球の神様はいます。
日頃の努力を惜しまず六大学野球を通じて、技術、人格の向上に努めて下さい、ご健闘をお祈り致します。