俺たちのラストシーズン──原尚矢(明治)
廊下でのスリッパの音、寮内に充満する靴下の匂い、トレルーで260kgのスクワット、全身に染み渡る低音ボイスで存在感を示してくれている島村からバトンが回ってきました。一瞬受け取ろうか悩みましたが、強引に受け取らされました。力負けです。
初めまして、中学から明治10年目の『明治ボーイ』原尚矢です。
慶應ボーイって言葉あると思うのですが、慶應幼稚舎から慶應の人のみに使うみたいですね。大学だけの人とかには使わないみたいです。
これまで多くの同期が見応えあるブログを書いてきて、すごいなと感じています。
面白い文章は書けませんが、自分が主役のブログはこの1回きりなので思ったこと全部書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。
夕陽が綺麗だったり少し肌寒い日も増えてきて、だいぶ秋を感じます。なんだか少し寂しい季節になってきました。
大学野球部に入部してから全力で生きてきました。当時はなんとも思わなかったですが、今振り返るとやはり後悔のようなものはたくさん出てきます。
私が、明治大学野球部に入部を決意したのは高3夏です。
最後の夏の大会、私のせいで負けてしまって生きた心地のしない日々が続いていましたが、高校時代に目標だった神宮球場で試合をやることや、ただ野球が好きという気持ちだけで大学野球部に入ると決め、高校の監督や善波前監督のおかげで無事、野球部に入部させていただけました。ありがとうございます。
大学の入学式、桜が咲くように私の心も踊っていました。野球をすごい環境で続けさせてもらえる。初めての寮生活や強豪校出身の怖そうなイメージの先輩方など不安要素もありましたが、楽しさが勝っていました。
実際始まると、野球がうまい人たちが周りにたくさんいて見ているだけでも楽しいし、野球ができる環境があることが嬉しかったです。しかし不安だった寮生活は的中し、トイレやお風呂に行くのも先輩とすれ違わないように時間帯を把握したり、ラインで情報を共有していたことを今でも覚えています。2年生になって廊下を歩いた時の開放感は最高でした。
大1夏には、子泣き爺に似ていることから鈴木文雄コーチに「こなき」と命名され首脳陣の方にも「こなき」と言われるようになりました。文雄さんとはこれを機に仲良くさせていただきました。楽しかったです。
他の首脳陣の方も、野球が下手くそな自分を面白くいじってくださりありがとうございました。楽しく4年間やってこれました。
こうして不安の中でも楽しい野球部生活が始まってきて少し経った時、異変に気付きました。
「あれ??俺やってる課題の量、おかしくね??」
明治高校出身というだけで、頭脳が過大評価されたせいなのかよくわかりませんが、なぜだか課題の量が多かったです。なぜでしょう。
大4春終了時で通知表では132単位とあるのですが、220単位くらい取った気がします。
大学関係者の方、もしこのブログを見ていらっしゃいましたら、スポーツ推薦用に「スポーツ学部」の設立を考えてくださるとありがたいです。
看板の商学部、地獄の法学部に並ぶ、いやそれ以上の「スポーツ学部」の設立をお願いします。
そんなこともあって大1はとにかくしんどくなりました。
4:30起床、準備
5:25練習
8:00出発
9:00授業
18:00帰寮、食事
19:15課題
20:45自主練
21:30ネット修理
22:00洗濯、風呂
23:00就寝
大学1年次の生活を思い出して書いてみました。(大和路さんとの食事当番も大変でした。)
よく生きていたなというのが正直な感想です。
こんな生活にも慣れてきた大1の冬、コロナがやってきました。最悪です。
大2春のフレッシュリーグが無くなり、目標の神宮出場がだいぶ遠のいてしまいました。
他にもトラップにかかり、6月頃には陸上部と勘違いするくらいの練習メニューをやっていました。コロナ最悪です。
大2秋のフレッシュトーナメントは開催できることになったのですが出場できず、神宮出場の夢はリーグ戦でしか達成できなくなりました。
かなり難しい目標ですが、頑張ろうと思っていた矢先
12月の練習中レフトから矢のような送球をしようとしたものの、手からボールが抜けると同時に肘も抜けました。
「あ。終わったわ。」
病院へ行くと、骨の遊離体が4つ、剥離骨折、疲労骨折、靭帯断裂と診断され、手術しないと野球はできないと言われました。
この時あまりにもショックすぎて、息ができなくなってそのまま倒れ込んでしまいました。しんどかったです。
野球を続けるには手術するしか道は無く、3週間後には手術しました。
ここから怒涛のリハビリです。
1ヶ月の運動禁止、握力0kg、ストレスで寝ている時に発狂(当時の同部屋の三木さん(R4年卒)、ごめんなさい。)、寮飯が高カロリーで体重10キロ増加(今も減量中です。)、織原トレーナーと仲良くなる、アナライザーになる、読書家になる、就職活動を始める。
リハビリ期間いろいろありました。
夏頃になるとボールが10m投げられるようになったり、肘に器具つけたままバットを振ることができたり、野球ができる喜びを再認識しました。
大3、10月末頃には医者の許可も出て、少しずつ野球の強度も上げられるようになってリーグ戦を目指せるようになった矢先
監督から学生コーチを打診されました。言い換えれば、選手引退勧告です。
選手を諦められなかった私は、選手兼任学生コーチでやらせていただくことになりました。
コロナ禍で授業がほとんどオンラインだったため、
朝練(5:25~8:00)は選手、午前練習(8:00~11:30)は学生コーチで両立することができました。この時だけはコロナに感謝しました。だけど相変わらず憎いです。
学生コーチになって思いましたが、本当に大変な役職です。
選手と首脳陣の板挟み、選手同士の板挟み。
選手から不平、不満、愚痴をぶつけられるも学生コーチはそれを受け止めて吐き出すことができない。
何かあったら学生コーチが怒られ、勝っても褒められることのない。
そんな役職です。
学生コーチの先輩方は本当にすごいなと思いました。
遠藤、残り3年あるけど頑張れ。
私は就職活動が12月に終わっていたため、冬、春の強化期間は他の学生コーチが就職活動で抜けた穴をカバーし、1日12時間くらい練習着でいました。
春のリーグ戦が始まると、選手兼任学生コーチ兼任アナライザー長として、対戦校の分析資料、選手の居残りノック、自分の練習は後回し。
一番大変な時には、分析資料を徹夜で作って練習に出るなんて時もありました。
死ぬかと思いました。
気づいたら、死んだ魚の目をして生活することが増えたのも仕方がなかったと思います。
今では、生きた目をするのは日向坂46のテレビを見る時と、リーグ戦を応援する時くらいしかないと思います。
春のリーグ戦優勝してくれてありがとう。報われた気がします。
秋のリーグ戦、自力優勝は無くなったけど優勝できると信じて最後までみんな頑張ろう。
神宮出場はもう叶わなさそうだけど、最後まで頑張りたいと思います。
中央
父ちゃん
父ちゃんがテレビで野球を見ていたのをきっかけに野球が好きになり、父ちゃんとキャッチボールをするのがとても楽しかった。野球と出会わせてくれてありがとう。
小3くらいの時に半月板を痛めてからはキャッチボールできなくなったけど、試合のたびに応援に来てくれてありがとう。
広島に単身赴任になってからもたまに神宮に来てくれたり、AbemaTV で応援してくれたり、表には出さないけど親バカな父ちゃんありがとう。
神宮でヒット打っている姿を見せたかったけれど、ボールボーイをやっている姿しか見せられなかった。ごめん。
自慢の息子になれるように頑張ります。
仕事もそろそろ落ち着く頃だと思うんで、ゆっくりしてください。
また、うまいもんでも食いにいきましょう。今度は俺が奢るんで。
母ちゃん
小、中、高と洗濯、弁当ありがとう。
寮生活して大変さわかりました。
仕事の休みをとって毎試合神宮に来てくれてありがとう。
観客席じゃなくて、グラウンドで母ちゃんのこと見つけたかったけれど、それも無理そうです。
小3で野球を始めて、その時に作ってくれたミサンガ今も大事にしてます。
ミサンガは切れた時に願いが叶うみたいだけど、切れるのが勿体無くて大事に持ってます。ミサンガ切れたら、神宮出場できたのかな。
リハビリ期間で自宅療養中に母ちゃんと散歩したけど、大学生にもなって一緒に散歩する親子ってどのくらいいるんだろうね。
母ちゃんが俺の母ちゃんでよかった。ありがとう。
久人
自慢の優秀な弟。酒豪な弟。古文、漢文嫌いな弟。理系科目だけ東大医学部並みの弟。
身長、体重以外全部の能力を持っていった弟。全国模試数学2位とる弟。全国模試数学の問題間違いを指摘し、その指摘があっていた弟。訳がわかりません。
お前に言う事は一つ。ノーベル賞とって、俺を養ってくれ。冗談。
来年からお前にお年玉あげないといけないね。早いね。
小学生の頃いつもいじめてたのに、今では思いは俺からの一方通行。
これからも一方通行でいきます。
最後になりますが、社会人になっての夢を考えました。
野球のない国で野球を広めて、プロリーグを創る。
野球を引退しても野球の夢を持つなんて、一生野球から離れられない予感がします。
だいぶ長くなりましたが、ブログ読んでいただきありがとうございました。
これからも明治大学野球部の応援よろしくお願いいたします。
続いては、仕事ができる??この男。
選手以上にトレーニング意識の高い男。
類は友を呼ぶ、変な俺と仲が良い変な男。
目指すは木村拓哉、SNSではちょっと人気な明治大学野球部を支えるこの男です!!!