『僕の野球人生』vol.8 中井 一心 アナリスト
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.8 中井 一心 アナリスト(4年/金沢大附)



セメスター中は毎日研究室で全体練習に参加できず、毎日1限前の打撃練習とトレに参加している岡林(4年/外野手/土佐)より紹介されました。状況証拠的には、彼は野球部ではなく草野球チームに所属している気がします。
長らく読む側だった「僕の野球人生」もついに自分が書く番になってしまいました。7年前の高1の冬に、学校から塾に向かうバスの中で見つけたこの企画で東大野球部を認識した自分のように、私の足跡を見て東大野球部を、あわよくば東大野球部アナリストを認識して、将来入部してくれる人がいれば、とても嬉しいです。
野球をすることに初めて触れたのは、小学5年の時です。
転校した先の学校での友達に野球が好きな人が多く、自然と自分も野球をするようになり、プロ野球を見るようになりました。
そのころは、遊びとして野球をやっているだけの小学生でした。
大学の附属小学校を卒業してからそのままほぼ全員が進む附属中学校に進学した私は、野球部には入りませんでした。野球部がなかったからです。中学生となり友達と集まって草野球をすることも無くなった当時の私にとって、野球とはテレビの中のスター達がするものでした。
どこにでもいる野球ファンの中学生だった私ですが、中学2年生の頃、それ以来今に至るまで10年ほどお付き合いすることになるセイバーメトリクスと出会いました。
ふと見かけたウェブサイトにある、FIP、DIPS、UZRといった聞いたことのないアルファベットと、長々とした数字の羅列が、野球選手の何百にも渡るプレーの結果を、数字に圧縮していることに面白みを感じました。これがアナリストとしての出発点です。そのサイトにはnoteを書くときに今でもお世話になっています。
中学校卒業後は、そのまま系列の高校に内部進学しました。私の母校は1学年120人の共学で、男子は1学年60人ほどの小さな学校でした。母校の野球部は単独出場を維持するために未経験者でも積極的に勧誘し、高校まで未経験だった先輩もレギュラーになっていました。
友達と行った体験入部では、ほとんど触ったことのない硬式球でのキャッチボールをしました。距離は全然投げられませんでしたし、今でも投げ続けると出てくる腕が引っ張られて肘が外れるんじゃないかと思うような痛みには苦しめられましたが、思い切り指で押してリリースするのは、味わったことのない新鮮な感覚でした。
その感覚が忘れられず野球部に入部することを決めました。「球歴3年(高校硬式のみ)」という、いつも驚かれる私の球歴の始まりです。
母校の野球部は入部当時の同期6人のうち、私含めて3人は野球未経験でした。そのような高校だと当然なかなか勝てず、3年間での公式戦勝利は、夏23年ぶりの勝利だった1年生の時と、どういうわけかその年の夏に県ベスト8になった私立と連合を組んで出場した1年生大会の2回のみでした。
しかし、そのような環境でなければ私は怖気付いて入部しておらず、恐らく野球部アナリストにはなっていなかったでしょう。
東大野球部を知ったのは、高一の冬くらいだったと記憶しています。いつも通り部活を終えて塾に向かうバスの中でふと見つけた「ぼくじん」がきっかけです。仮面含めて3浪で東大野球部に入った人を見て(おそらく井上慶秀さん(R4卒))、すごい世界もあるものだと思い、そのような世界にぼんやりと魅力を感じた記憶があります。
当時東大を目指せる成績ではありましたが、自分が東大野球部に入るとは考えていませんでした。あまり詳細には覚えていませんが、自分が選手として神宮でプレーするほど上手くなかったことが理由だと思います。当時の高校のマネージャーに感謝はあれど、自分がそちら側に回るという意味では関心がなかったため、マネージャーにも関心を持てませんでした。記録を辿るとアナリストはこの時期くらいから募集していたようですが見つけた記憶はなく、認識すらしていませんでした。
高校野球は楽しかったし満足はしていますが、努力したかと言われると言葉に詰まります。高2になってからは他にやりたい課外活動が多かったこと、コロナ禍で制限があったこと、部員が少なくて夏以降連合チームになったこと等々で、練習外に自主練もしないし、練習にも顔を出さない日もある部員になっていました。同期には申し訳ないことをしたと思っていますし、どう思っていたかは分かりませんが、少なくとも私の目に入るところでは、何も言わないでいてくれたことには今でも感謝しています。
そんな有様のチームが勝てるわけもなく、最後の夏は初戦で遊学館に5回コールド負けしました。自分も2打席立って両方三振しました。最後の打席は今でも覚えています。この回で終わると思って立った5回の打席で、インローから入って来る球に手が出ず、見逃し三振しました。
おそらく多くの高校球児がそうであるように野球は好きだし楽しかったので、終わることが寂しいと言う気持ちはありましたが、当然の結果だと思っていたので負けたこと自体さして悔しくもなく、記憶の限り全く泣くこと無く終わりました。
そしてもう一つ、高校時代のエピソードで自分を「アナリスト」たらしめる理由を書くにあたり、欠かすことのできない話があります。課外活動です。
母校がいろいろな課外活動に参加することを推奨している学校ということから、自分もいろいろなコンペなどに参加しました。その中で入賞したりしなかったりという過程で磨き上げられた自分の興味は、「数理の知見を実務に落とし込むこと」でした。
一緒に出た人にも助けられて、数理の知見の実装を競う大会で日本代表相当(コロナ禍により世界大会は中止)の成績を収めたなどのこともありこの分野に対して自信をつけました。
数理と実務の橋渡し、という関心領域に気がつけたこと、そして自信を持てたことはアナリストとしての今につながっています。
引退後はそれなりに勉強しました。受かるんじゃないかと思っていたのですが、東大以外受けずに臨んだ一度目の受験は不合格でした。
合格発表後に失意の中見ていたTwitterで、東大野球部がアナリストを募集している、という投稿をOBで現福岡ソフトバンクホークスアナリストの齋藤周さん(R4卒)がRTしていました。ふと、2年前に見た「僕の野球人生」を思い出しました。私にとって、データをつかってチームに貢献する、という場所は、セイバーメトリクスと、数理を落とし込むことに関心があり、曲がりなりにも野球をしていた私のためにある場所のようにすら思えました。
受験期から東大野球部への入部を決めていた、いわゆる「東大野球部志望」ではなかったですが、浪人している間に東大にこだわる理由の一つは間違いなく「東大野球部のアナリストになる可能性を残すため」でした。
1年後に晴れて東大に合格しました。
1つ上の代に高校の先輩の駒井さんがいたこともあり、いわゆる新歓期が始まったタイミングで部に連絡をとっていました。駒井さんはテント列にもいて、そのときに会ったのが1年ぶりだったので長居して雑談していました。
そのような経緯もあり開幕くらいの時期に見学に行きました。
早い方だと思っていましたがマネージャーはすでに2人いました。選手はもっといました。合格発表当日に入部意思を伝える人でさえ珍しくないと知ったのは後の話です。
新歓の一環で開幕戦を見に行きました。
六大学野球は、自分の知らない煌びやかな世界でした。
テレビでしか見たことのなかった神宮球場で、東大野球部は躍動し、甲子園常連校出身者を追い詰めていました。終盤に、相手のエラーに付け込んでリードさえ奪っていました。
実は他にも迷っていた団体はあったのですが、東大野球部が魅力的に見えてくるのに時間はかかりませんでした。
東大野球部で史上5人目の専任アナリストになりました。
入部した頃は全てが新鮮でした。
自分はセイバー指標には詳しいと思っていましたが、東大野球部では自分が全く知らない指標がたくさんありました。リーグ戦の毎試合後に配信されるトラックマンデータは見たことがないほど細かい数字が並んでいました。
先輩たちはこの長い私のぼくじんよりも長いコードを使ってそのデータを処理していました。
練習で使われたRapsodoは、高校の時には聞いたことも、想像したこともない機械でした。回転数、変化量、回転軸といった、今ではお友達ですが当時は名前を聞いたこともない子達がiPadには映っていました。
最初の1年間は、球場に行き、練習の補助をして、Pythonを勉強して、それを使ってコードを少しずつ書くという流れの中で終わりました。当時は生成AIがまだまだ未発達だったので、1年生にはコードを書くというタスクがありました。ちなみに今は生成AIに全て食われました。
チームは秋に1勝しました。特段何かに貢献できたわけではなかったですが、自分の目の前で自分のチームが、野球エリート等を倒す姿を見ることができたことはとても嬉しかったし、東大でも勝てないわけでもないということを感じました。
データ分析でチームを支えることは思っていたほどできませんでした。
理由を考えると「それは当然である」という結論に至りました。「データ分析でチームを支える」というのは美しい言葉ですが、行動を具体化すれば、監督なり学生コーチなり、場合によっては選手なりに行動変容を迫るということです。なんの実績もない1年生の話を聞く方がおかしい。学生コーチですら、起用なり戦術なりに関わっているのは4年生だけでした。
当時の私はそれをある種「上級生の仕事」と割り切りました。そして、自分が最上級生になる前にやることとして「アナリスト」という役割を外に広げる、アナリストのデータ整備システムをよりよくする、という2つの目標を立てたのはこの時期です。
秋に3つ上の代の先輩は引退しましたが、アナリストは4年生がおらず、体制はそのままでした。
新歓は何人入るかとても不安でしたが、新歓期の間に榎(3年/アナリスト/修猷館)、慶(西山慶/3年/アナリスト/市立南)、ひらしほ(平松/3年/アナリスト/洛南)と3人も入ってくれて胸を撫で下ろしました。(見学に来てくれた母校の野球部の後輩は他団体に行きました。私に人望がなかったのでしょう。)
この年も、自分としてやったことは勉強と多少なりのコーディングがメインでした。自分が最終的にやりたかった「数理と野球の融合」を目指すにあたって、機械学習や統計学といった内容をいろいろ勉強していました。
外部に見える活動としては、広報活動をしました。アナリストとして後輩が継続的に入ってきてくれるためには、知名度自体が必要だと思ったからです。加えて、今以上に知名度の低かった「アナリスト」を広めること自体の面白さもありました。
半ば更新が止まっていたアナリストTwitterを代替わりのタイミングで動かし始めて、フォロワーは1年で倍になりました。noteに力を入れたのもこの時期です。
チームは春に全敗して、夏の七大戦では初戦コールド負けをして大丈夫かと思っていましたが、秋に7年ぶりに2勝しました。個人としては去年と変わらず、データ分析という意味では何もできませんでした。ただ、自分が上級生になった時に頑張ろうと思っていたので、1年生の時と違い特段の思いはありませんでした。
ですが、1つ意外な点がありました。4年生になった佐藤さん(R7卒)は戦術面には特に関わっていませんでした。上が関わっていない以上、下の私が関わらないのはある種当然でした。佐藤さんがシステムを作ることにフルコミットすることを決めていた、と人伝てに聞いたのは後になってからです。
2年生の秋が終わり、2つ上の代の圧倒的なコーディング能力で神として崇められていた佐藤さんが引退しました。それを機に、部内のデータ整備システムの管理をするようになりました。
新歓では佐藤さんと入れ替わりで1年生の和希(西山和希/3年/アナリスト/筑波大駒場)と平井(3年/アナリスト/並木中等教育)が入って5人になったこともあり、最悪入部者が少なくともなんとかなる、と思い入部者0人に怯えなくなりました。蓋を開けてみるとなんと6人入ってきました。アナリスト全体で16人になりました。
また、主将の杉浦さん(R8卒)たちの意見もあり、アナリスト全体としては分析や作戦に関してしっかりと関わるようになりました。
ですが、結局は1つ上の代のうちこうさん(R8卒)がほぼ一人で話している、という状態でした。1年目でうまくいかない部分が多くあること自体は当然だと思いますが、結局個人として目指していた「数理と野球の融合」はできませんでした。
この年はもう一つ、自分の中で大きな出来事がありました。2年生の冬に野球学会に行ったことでした。
半年ほど前にDeNAの女子大生アナリストとしてTwitterを賑わせた滋賀大の谷本さんであったり、大学院生だったにも関わらず学会で最優秀賞をもらっていた、現在オリックスバファローズでアナリストをしている田原さんであったりという、本当に優秀な人たちに出会いました。(ちなみに谷本さんは大坂(4年/外野手/金沢泉丘)の高校野球部同期であり、かつ私の中学同期の高校でのクラスメイトです。世間って狭い。) 彼らに負けないアナリストになるために、特定の分野では自信を持って自分が一番優秀と言える分野を作りたいと思いました。その分野とは、野球自体や、身体機能に専門知識のない私にとっては、数理の知識だと改めて思いました。
下馬評も高く、勝ち点が取れると信じてやまなかったTeam杉浦は、2勝するも勝ち点0で1年を終えました。
そして恐ろしいことに、永遠にいると思っていた、1つ上の代の中島さん(R8卒)とうちこうさんが引退しました。我々は専任アナリスト3年目と言われますが、実は1年目の佐藤さんの入部は1月頃だったこともあり、2年目のうちこうさんと入部時期は3ヶ月ほどしかずれていません。その意味で実は我々は専任アナリストの2年目に近い立場でもありました。
これは、草創期を支えてきた先輩たちがついにいなくなる、ということを意味していました。
チームとしては、これまで以上にアナリストの意見を組み入れるという流れをべ(堀部(4年/主将/内野手/県立船橋))が出していて、アナリストに追い風が吹いていました。
個人としては、「日本一のアナリストになる」という目標を立てました。
実はこれはチームに入った時と変わっていません。しかし、入部してからの2年半でアナリストに関して少し詳しくなった私は、自分の中にもう少し具体的に「日本の学生野球で、一番数理分析の知見をもち、それを野球に活かす」という目標を立てました。
「データの活用」「数理を実務に落とし込むこと」「野球」という関心事をベン図にしたとき、真ん中にあった東大野球部アナリストになった自分にとって、これはある意味宿命とも言える目標でした。
そして、執行代になり少し経ってから加えて力を入れ始めたことがあります。
「自分の頭の中にあるデータの見方を伝える」ということです。
アナリスト内で、分析コンペという名前で全員が独力でアナリスト内に向けた分析レポートを書く機会がありました。元は榎が言い出したことで、個人的にはそこまでやる必要があるのか若干疑問でした。しかし、これは全員分を相互採点する流れの中で私に危機感を抱かせるには十分でした。
生成AIに振り回されたレポート、擬似相関にしか見えないレポートなど、本当に色々見ました。チームの中でアナリストの分析を聞く、という流れを作ってもらえたにも関わらず、活かせないと思いました。それっぽい間違った分析はどう転ぼうと悪です。周囲に指摘されればその人の発言は以後疑われますし、気が付かれなければ気が付かないうちにチームを勝利から遠ざけます。
分析の上での「当たり前のこと」をほんの一部分でもいいから徹底してもらう必要があると感じて、教材を作りました。少しずつではありますが、アナリストに定着しているようで安堵しています。
アナリストがリーグ戦分析に関わるようになっていく中で、分析コンペがあることにより分析のうち(定量的な)データに依拠した部分の質は上がっているように感じられて、すごく良い活動だったと思っています。
執行代になってから、開幕までの時期でもう一つ印象に残っていることがあります。筑波大のアナリストに見学に行った真冬の日です。部内で筑波大野球部の見学に行く機運が高まった際に、個人的に筑波大の院生アナリストの方と面識があり紹介していただくことができました。
他大学の内情を詳らかに話すことは避けますが、分析一つ一つのレベルで負けているとは全く思いませんでした。しかし、分析を実際の試合に落とし込む力で完敗していると思いました。アナリストの貢献が「分析の質」と「分析内容の活かし方」の積であるとして、後者の面で彼らに追いつくことが、自分の中での目標になりました。
4年生としてのリーグ戦が始まりました。チームの分析・作戦の中枢に近い立場になりました。
リーグ戦を準備していく、そして戦っていく中で、「アナリスト」という立場そのものの難しさを感じるようになりました。
アナリストは「面白い分析」をしていればそれが評価される、いわば野球分析サークルではありません。つまり、「分析のシステムを作る」「実際の分析を行う」「分析をまとめる」といった分析に関することを行うと言う意味で最も狭く「アナリスト」を定義すると、我々に存在意義があるためには、「選手のみによる分析より有意義な結果を産めそう」、と周囲に思われなくてはいけません。それのできない野球部アナリストとTwitterで野球を語っている人間の差分を考えてみると意外なほど小さく、球場でRapsodoを運んでいるか否か、などといった点になってしまいがちなように思えます。
このうち1つ目、3つ目でアナリストが活躍することはこれまでできていました。ですが、自分が取り組んでいること、そしてやりたいこと、そして恐らく多くの人が入部したときにやりたいと思っていることは2つ目です。
これまでの人生で自分より遥かに野球に時間を使っていて、「野球を見る目」には雲泥の差がある選手や学生コーチに対して、「話題は自分より相手が詳しいのに、相手が納得するものを出す」というのは相当に難しいことです。
同時に、「指標は現実に対して情報量が落ちた射影でしかない」ということを強く認識させられました。その一方で、私にはどうしても生の野球を見る目がありませんでした。私は野球をそれなりに見ているようで、実はその細部は見えておらず、ぼやけたものをたくさん見ていただけでした。
その一方で、細部の見える人にとっては野球の試合はあまりにも次数が多く、1試合フルで理解できるものではないのではないか、という疑念を抱き始めました。ここ10年でめっきり減った初回無死1塁のバントですら、野球が日本に入ってきてから100年以上の間有効な作戦と思い込み続けていたのですから。
その中で、私は自分の見えるぼやけた世界を自分なりに必死に細部まで描写することは諦めること、つまり「あえて映像のウェイトを下げた分析を提示する」ということを選びました。
指標なり数値分析なりが提示できるのは変数に溢れた現実のほんの一部でしかありませんが、細部を捨象して抑揚をつけた描写は、むしろ細部まで見られる人に提示することにこそ意義があると思ったからです。 同時に、「話題は自分より相手が詳しいのに、相手が納得するものを出す」というアナリストの難しさに対する、私の回答でした。
分析におけるアナリストの強みであり弱みは、自分は練習しなくて良いことです。弱みとしての面は六大学野球のレベルを身体的にはわからないことです。強みとしての面は自主練、体のケアに時間が取られないことです。
後者の強みとしての活かし方は2つあります。第1に野球にそれなりには詳しくなった上で、選手と同じことを倍の時間をかけて行うこと。第2に選手が使わない手法を勉強して持ち込むこと。自分の強みは2つ目ができることだと思っていたので、2つ目を選びました。
最後の春が始まりました。
最初の3試合が終わって、合計で2点しか取れませんでした。
勝てないまま引退するのかなと本気で思いました。
去年のチームは多くのOBやファンの皆さんが思っていたように、自分も勝ち点が取れると思っていたし、1つ下の代はスターが何人もいました。
自分の代が谷間の世代であること、周りにそう思われていることもなんとなくわかっていました。平たく言えば、「弱いと思われていて大方の予想通り負ける」というのはあまりにもつまらないですが、そうなりそうだと思いました。
入部してから3年間、全敗はしていなかったのに、今年は勝てないまま終わるのはあまりに情けなく、苦労しながら先輩が繋いでくれた勝利の火を後輩に繋げないのは申し訳ないという気持ちでした。
「明日負けたら明後日勝つ、明後日負けたら次の土曜に勝つ。私たちの目標は優勝ではない」と平然と言っていた去年のばたけさん(R8卒)は本当にすごい人だと思いました。
春の4カード目の初戦、開幕6連敗、昨年から続く8連敗の後、ようやく法政に勝ちました。20個ある残機が週末に2つずつ削られていくプレッシャーをもう感じなくて良いのだと思い安堵しました。
翌日も勝ちました。9年ぶりの、そして春では29年ぶりの勝ち点でした。
試合が終わった時は、突っ伏して泣いていました。この話を言いふらした石田(4年/マネージャー/札幌西)は許しません。
試合を見ることすら緊張するほどの終盤の緊張感を、試合後の「ただひとつ」を、何重に人が重なっているかもわからなかった神宮の出待ちを、私はきっと一生忘れないと思います。
ですが同時に、この勝利の中で湧いてきた疑問がありました。
それは、「自分の分析は本当にこの勝利に/シーズン成績に貢献したのか」という疑問です。
この疑問は、春リーグ後の反省の中で一層深まることになります。
「春リーグ期間中の個人目標」をアナリスト内で発表したときは「生き延びる」と答えるほどに、できる分析は全力でやりました。しかし分析は裏目に出ることもあるわけで、「全体として見たときにチームに貢献しているのか」という疑問が湧いてきます。
自分のいない並行世界は当然ないので、「中井のいない世界」における東大野球部の結果はわかりません。実は私の発言はチームの足を引っ張っていて、「中井のいない東大野球部」は春に勝ち点1ではなく2を取れていたのかもしれません。
この疑問に対する一応の答えは選手に対しては二重に用意されています。
第一に個人成績です。例えば「(ベストナインの)小村(4年/内野手/私立武蔵)がいない世界線での東大野球部の結果」はわかりませんが、少なくとも「小村が春にリーグで一番のプレーをしたと評価された」という事実はあります。そのため、「小村がいない世界線での東大野球部の結果」が実際よりもよくないであろう、という推論はある程度はもっともらしいでしょう。
第二に出場していること自体です。試合に出ているメンバーは、監督助監督や学生コーチという第三者から、チームの勝つ確率を最も高くすると評価されて起用されています。
ですがアナリストに対しては個人成績も、「レギュラー」「ベンチ」「ベンチ外」の概念もなく、答えが用意されていません。
少なくとも私のような、セイバーメトリクス経由のアナリストは、程度の差こそあれ、「数値分析で快刀乱麻を断つ」ことをしたくて部に入ってくるのだと思います。分析においてそれが仮にできたとしても、自分の主張の妥当性に対してそれができないことは往々にしてあります。
この矛盾は今でも完全には解消できていません。おそらく今後も解消できないし、解消せずに引き受けるしかないのでしょう。しかし、誰も知らない正解に近づくためには、とにかくやった内容に対して周囲から意見をもらい反省することには努めたつもりです。
春が終わってからの日々は、あっという間でした。
春リーグのまとめを終えてからは院試に追われ、部に戻ってきたときには7月でした。
自分としては2年ぶりに参加した遠征である盆の真っ盛りに行われた七大戦では、準決勝で2回負けを確信しましたが、最終的には優勝を見ることができました。
ミーティングは3試合とも勝ったのか負けたのかわからないほど暗い雰囲気でしたが、リーグ戦が終わってから久々にあった、勝ちだけを目指して勝てた試合を見て、勝つのっていいなと改めて思いました。春に勝つまであった、負け続けたら申し訳ないという気持ちではなく、「楽しいし気持ちいいから勝ちたい」という恐らくスポーツにおいてそうであるべき感情が湧いてきました。
七大戦を終えて東京に戻ってきてからはひたすらリーグ戦の準備をする毎日でした。
8月の終わりに「リーグ戦が始まったわ」という迷言がアナリスト各所から聞こえてきましたが、本当にリーグ戦の準備に追われました。
最後のシーズンが始まりました。
勝ち点3を目標に掲げた我々は、既に勝ち点を2つ落としています。
もちろん悔しいですが、春の勝てなかった時期とは違う気持ちです。
今は、単に「勝ちたいから」というだけの理由で勝ちたいと思っています。心のどこかで勝てると信じられていなかった高校野球とも、勝てなかったら申し訳ないという負の感情から解放されたいと思っていた春とも違う感情です。
ここまで純粋な気持ちでいられるのにあと3カードしかないのは非常に惜しいですが、引退からは逃げられません。
加えて、進路は体育系でないため、野球と関わるのは今季が最後になります。
自分が捨てたものほど惜しくなるもので、今更ながら社会人やプロ野球のアナリストに憧れが出てきてしまいました。しかし、別の道に行く以上、この場で燃え尽きるまでやるしかありません。
もうできることは限られていますが、最後の最後まで、「勝ちたい」という気持ちで、いつも通り良い準備をしたいと思います。
両親へ
急に高校で野球部入ると言い始めて、大学入っても突如野球部に入る自由気ままな息子でしたが、許してくれてありがとう。大学の間はなかなか帰省できてなくてごめんなさい。頑張って年に3回は帰ります。
アナリスト同期の2人へ
根底にある価値観があまりに三者三様な代だったような気がします。
それだけに「日本一のアナリスト組織」という目標はあってもなお、最後の1年間は意見の合わないことも多かった気がします。だからこそ「日本一」という高い目標の中でも、何かに偏ったことにならなかったような気がしています。
ビジネス不仲と言われがちですが、引退しても仲良くしてください。
佐藤さん、中島さん、うちこうさんへ
見学に行ったときには片手で数えられる人数しかいなかったアナリストは、今では20人に迫る大所帯になりました。今のアナリストがあるのは間違いなく先輩方のお陰です。
引退したらまたご飯連れて行ってください!
アナリストの後輩のみんなへ
ようやくアナリスト「チーム」らしくできたことが自分たちの代でみんなに残せたものだと思います。これからも少しずつアナリストの幅を広げて行ってください。
特に今の3年生は草創期にアナリストだった先輩方を知っている最後の代なので、「東大野球部アナリスト」の文化を確かなものにしてください。
最後に同期のみんなへ
信じてくれてありがとう
さて、次回はチームの頭脳、明石(4年/捕手/渋谷幕張)です。
我々の代で最も神宮の打席に立った男は4年間をどう回顧するのでしょうか。みなさんお楽しみに。
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次回は9/26(土)、明石健捕手を予定しております。
主将 

