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東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.23 石川 晃 内野手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.23 石川 晃 内野手(4年/灘)

大学一年のころ、初ゼミで一緒の班になり、見事に寄生させてもらった片山(4年/アナリスト/筑波大駒場)からバトンを受け取りました。
2週間くらい前に手を付けましたが、結局そのまま放置してました。直前になって色々なことを思い出しながら、頑張って書きましたが、多くても120字程度の文章しか書いてこなかった僕の手により、支離滅裂、支離斑駁、理路不整、錯乱顛倒な文章が生成された気がします。忍耐力のある方にしかおすすめできませんが、よろしくお願いします。

 
 

「僕の野球人生」の始まりははっきり覚えていない。父親とのキャッチボールか、幼稚園の友人とのキャッチボールか。甲子園球場から阪神の応援が聞こえ、春夏には甲子園出場校のバスが家の前を何台も通るような野球と縁のある環境で生まれ育った。当然野球が好きになり、小学校入学と共に野球部に入部した。

当時の記憶は大半が、監督に怒られたことばかりだ。幸運にも試合にはたくさん出させてもらい、毎試合怒られた。怒られることに怯えて頭が真っ白になり、キャッチャーをやっているときには、前進守備で誰もいないセカンドベースに送球をしたこともあった。その後、中学受験を理由に野球部を辞めることになったときは、「怖い野球」から逃げられると正直安堵した。

中学受験の結果、運よく灘中学校に合格し、野球部の体験に行ってみた。自由な校風よろしく、みんな自由に練習していた。「これなら野球が怖くないかも」と思い、入部を決めた。
中一の夏頃、地元の中学校の野球部では始業前に朝練をやっているという話を聞いた。負けず嫌いな僕は、その日から毎日朝練をするようになった。中学野球部には朝練の文化が無く、高校野球部にはあったので、高校生に混ざって朝練をするようになった。
昼休みには先に高校野球部に入部した亮太さん(R6卒)や、一個上の代の先輩たちと硬式球でキャッチボールをし、冬練期間は高校生と一緒に練習して古川さん(R4卒)や植村さん(R4卒)とノックを受けた。高校生は凄かった。亮太さんは中学から野球を始めたのに、ロングティーでものすごい打球を放つ。植村さんの守備とバッティングは美しかった。古川さんはよく三塁線を抜かれていた。高校生とする練習はきつかったが、目に見えて自分が上達していくのが分かり、とても楽しかった。この時点で高校野球をすることを心に決めていた。

結局公式戦で一勝もできずに中学野球部を引退し、すぐに高校野球部に入部した。驚くことに部員は10人ほどしかおらず、亮太さんの代は亮太さんただ一人だった。亮太さんとはたった一年しか一緒に野球ができなかったが、たった一人で野球部を引っ張ってくれた亮太さんには感謝しかなかった。「チーム亮太さん」の一員として、亮太さんには公式戦で一勝してほしかったし、それに貢献したかった。結果は一回戦敗退。申し訳なさで泣いていた。
その後、中三夏休み明けから入部していた中学野球からの同期たちと、宮崎先生、岡本先生、中網さんのノックを一緒にひたすら受け続けた。少人数で、放課後や土日の午前中の大半を費やし、フラフラになりながらノックを受け続けた。PPを100本走ったりもした。中学から野球を始めた同期たちは有り得ないくらい上手くなっていった。フライが捕れなかった同期が今やゲッツーを簡単に取れるようになっていた。自分もどんどん上達し、一緒に野球が上手くなる同期と、できるだけ長く野球をやりたいと思っていたし、灘校で野球を選び、努力している同期を誇りに思っていた。
ただ、周りからの見方は嫌なものだった。塁上で「灘の人は野球しないで勉強しといてください」と言われたり、他校の監督が「勉強で負けてるのに、野球でも負けたら終わりやぞ」と言っているのが聞こえてきたり。一緒に頑張ってきた同期と自分がバカにされているようで心底悔しかった。
1年の秋大では部として久しぶりの公式戦勝利、2年の秋大ではコールド勝ちを収めた。「最後の夏も絶対勝って、舐めてるやつらを見返してやる」と意気込んだものの、コロナで夏大はなくなった。代替大会は行われたが、不完全燃焼だった。

この頃、亮太さんは東大野球部にいた。 「亮太さんともう一度勝つチャンスがあるかもしれない」。 その想いと不完全燃焼の悔しさが重なり、これまで漠然と抱いていた「東大野球部に行きたい」という気持ちは、明確な覚悟へと変わった。
東大野球部に入って亮太さんと神宮で活躍する姿を見せ、野球を教えてくださった先生方、一緒に歯を食いしばってきた同期、そしてこれまで支えてくれた両親に恩返しをする。それが僕の目標になった。  

思ったより勉強が振るわず、二年の浪人の末、ようやく東大合格を掴んだ。
合格発表のすぐあとに亮太さんに連絡し、念願の東大野球部入部である。第一の目標は「フレッシュベンチ入り」、第二の目標は「亮太さんとリーグ戦出場」、最後の目標は「リーグ戦で活躍し、両親、高校同期、宮崎先生ら顧問の先生方にその姿を見せ、恩返しすること」だった。

出鼻をくじくコロナ感染により、一週間ほど遅れて練習に参加したが、正直驚いた。うますぎる守備を披露する小村(4年/内野手/私立武蔵)や、「シュッ」という声と共に次々柵越えを放つ門田(4年/副将/内野手/松山東)、山梨学院を蹴ったやらなんやらと豪語する春山(4年/内野手/昭和学院秀英)、東大野球部にはこんな選手がいるのかと思った。だが、自分には先生方に鍛えられた守備と、浪人期間中にフレッシュ出場を見越してトレーニングしてきた自信がある。自分なりのプレーをすれば見てもらえるだろうと思っていた。「二浪のやつにしては」という色眼鏡もあっただろうか、名畑さん(R6卒)に評価していただき、フレッシュの練習試合、そしてフレッシュ直前の投内連携のメンバーにも選ばれた。二浪期間に第一の目標としていたフレッシュベンチ入りに期待を膨らませる中、無事フレッシュのメンバーにも選ばれた。まずは第一関門クリアである。初戦の明治戦、守備固めとしてファーストにつき、初めて神宮に立ったあの瞬間の緊張感、「ここからリーグ戦に出て亮太さんと一緒に活躍するんだ」という高揚感を全身で感じていた。

春フレッシュ後、同じくメンバーだった小村や門田たちはAチームに上がり、遠軽へ行っていた。僕はBチームのままだった。理由は明確である。打てなかった。同期が次々ヒットを打つ中、結局B合宿直前の練習試合でようやく大学初ヒットが出た。ランナーコーチだった名畑さんに「ようやくだね」と言ってもらえた時は安堵したと同時に焦りも感じていた。岩手合宿では一日だけ猛打賞をした以外は全く打てずじまいだった。
合宿が終わると亮太さんが練習補助をしていた。選手を引退していた。亮太さんとは一年しか被らないが、そんな中でも「亮太さんと一緒にリーグ戦に出る、一緒に試合に出て、今度こそ勝つ」という目標は気づく間もなく崩れていた。第二、第三の目標が変わった。「亮太さんにも神宮で活躍する姿を見せて恩返しをする」と決心した。

その後、Bチームで練習を重ね、秋のフレッシュ、オータムフレッシュ、スプリングフレッシュ、2年春フレッシュと順調にメンバーに選ばれ続けた。
そして2年夏合宿、大坂(4年/外野手/金沢泉丘)と初めてAチームに呼ばれた。「やっと出番だ」と思ったのも束の間、結果が残せずすぐにBチームに逆戻りになった。その後の練習試合ではゆうご(鈴木/4年/外野手/浅野)と揃ってエラーをし、監督から二人して「論外」と言い放たれる始末だった。打てない、守れない。Aに上がる希望すら見出せず、Bチームで毎週のように行われる紅白戦でも全く打てず、しまいにはバットの振り方すら分からなくなっていた。冬には右ハムストリングスの肉離れを起こし、1ヶ月ほど野球から離れることになった。

転機が訪れたのは、外部指導に通い始めてからだった。
バッティングが改善され、3年春のリーグ戦裏で行われたシートBTで打席をもらい、長打を含め2本ヒットを放った。その時、川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)から「Aに推薦しようと思う」と言われ、ついに実力で上がれるチャンスが来たと胸が高鳴った。
その後、Aのオープン戦に呼ばれた。周りはAのメンバーばかりで、Bから呼ばれたのは僕一人、しかもスタメンだった。「ここで打てばA昇格、打てなければBのまま」という状況は明白だった。なんとか一本出すことができ、Aに上がった。
ついにリーグ戦に出られると期待したが、現実は甘くなかった。結局その春はベンチ入りすることなく終わった。夏も調子を維持し、秋のリーグ戦を迎えたが、秋もリーグ戦ベンチ外の日々だった。裏のシートBTで結果を出し、オープン戦もちょこちょこ打っていたが、声がかかることはなかった。 いつからか、メンバー発表のボードすら見なくなっていた。ベンチ入りを期待しながら見ても、裏切られるばかりだったからだ。結局、3年秋もベンチ入りすることなく終わった。 

あっという間に最高学年の4年生を迎えていた。
結局、第一の目標しか達成できていない。
新年の初夢で見たのは、「一度もベンチに入ることなく、ただスタンドから最終戦を見つめる自分の姿」だった。何とも不吉で嫌な夢だ。しかし、3年春秋に一度も神宮のベンチに入れなかった事実は、それほどまでに胸の中に抱いていたささやかな自信や希望を完全に粉々に砕き散らしていた。
それでも、両親、高校同期、宮崎先生ら顧問の先生方、亮太さんへの気持ちは忘れていなかった。「春からベンチ入りする。なんならスタメンを勝ち取って、最後の一年神宮で活躍する。そして恩返しをする」。そう意気込んで春合宿を目指した矢先の2月、自主練で腰を痛めた。野球に不可欠な回旋動作が一切できなくなった。もちろん春合宿メンバーを決めるシートBTでの打席には立てなかった。 
だが、まだ希望はある。合宿に行く行かないより大事なのは、春のオープン戦での結果だ。そう気持ちを切り替えてリハビリに取り組んだ。そのうちにサードの守備のコツをつかみ、オープン戦を迎える頃には、守備に絶対的な自信を持てるようになっていた。 その手応え通り、守備での貢献を評価され、すぐにAに上がれた。「リーグ戦では守備要員として想定されているんだろう」と、自信を持てた。 

積み上げてきた自信は一瞬にして崩れ去った。3月14日の桐蔭横浜大学とのオープン戦、9回裏に犯した連続失策。拮抗していたゲームを自らの手でぶち壊してしまい、「僕のプレーヤー生命は完全に断たれた」と絶望した。
試合後、川又と話した。悔しさ以上に、まだ希望があるという嬉しさで涙が止まらなかった。川又はまだ僕のことを信じてくれていたからだ。「また恩返ししなければならない人が増えたな」なんて思いながら、翌日からBで練習に取り組んだ。

あのエラーをしてからというもの、練習ではうまくいっても試合では打球が恐怖でしかなかった。足がすくんで、まともに打球が捕れない。 B戦でもスタメンで起用されることはなく、リーグ戦は自分には何の関係もないものになっていた。
エラーを怖がりながらプレーする野球は大嫌いになっていたし、正直辞めたかった。もう逃げたかった。 それでも、信じてくれている川又がいる限り、自分の弱さで野球を辞めるわけにはいかなかった。 

春のリーグ戦、チームは勝ち点を取った。「すごいな」と思いながらも、正直自分とは別のチームを見ているようだった。

春リーグのオフが明けた頃、川又に呼び出された。怖くてたまらなかった。「もう首脳陣は石川を使う気がないから、引退してくれ。」と告げられることは、あまりにも容易に想像できた。しかし、告げられたのはAチーム昇格の知らせだった。ただ、条件付きである。「一つエラーしたら落とされると思う。だからワンプレーを大事にしてくれ。」川又はまた僕に希望を持たせてくれた。首脳陣とも揉めただろうに、それでも川又は僕をAに引っ張り上げてくれた。「こんなにチャンスをくれるんだから、何としてでもこいつには恩返ししないとな」と改めて思った。
だが、常に「引退」の二文字が付きまとう試合に出るのは、尋常じゃなくきつかった。守備についているとき、足が震えまくっていた。「ここでミスしたら引退。もう誰にも恩返しできなくなる。」そんなことを思いながら試合に出続けた。
皮肉なことに、守備の恐怖が強すぎたせいか、打席では逆に落ち着いていた。なんならこれまでの4年間で一番打てていた。守備でのミスも起きず、リーグ戦メンバーが出るようなオープン戦にも呼ばれるようになり、小村が怪我をしている間はスタメンを任されることもあった。「遠軽合宿メンバーも当確だろう」と思っていた。

7月26日。いつも通り練習を終えて部室でダラダラしていたら、大坂が目を赤くして入ってきた。「どうしたん?」と話しかけると、そのまま大坂は泣き崩れた。一時間前には一緒にフリーBTをやって、豪栄(佐伯/4年/投手/渋谷幕張)とも対戦していた。少しの間をあけて気付いた。遠軽合宿メンバーから外れ、引退を告げられていた。どうしていいか分からず、僕はただ黙って大坂の横に座り、呼吸を落ち着かせるように背中をさすり続けることしかできなかった。引退を告げられた同期を言葉で励ますなんて、おこがましくてできなかった。自分で勝手に「引退だな」とか思って、それ以上自分を傷つけないように保身していた僕と違い、選手の道を断たれ、憧れだった神宮の夢を自分ではない誰かに終わらせられる苦しみは、実際に宣告された本人にしか分からない。
そんな苦しみの真っただ中にいる大坂が「頑張ってくれ」と声をふり絞って伝えてくれた。また野球を辞めたくても辞められない理由が出来た。リーグ戦への挑戦を絶たれ、引退を告げられた同期がいるという事実を強く胸に刻んだ。恐怖から逃げたいからといって簡単に野球をやめたら、試合に出られない同期たちに顔向けできない。運よくリーグ戦への挑戦権を残してもらった以上、最後まで決して諦めずにやり切ろうと心に決めた。

最後の遠軽では色々あった。
まずはゆうごの怪我である。ゆうごとは色んな愚痴を言い合った仲だった。僕が感じてきたチームへの不満はすべてゆうごに話していた。「自分たちが一人目の学生コーチに選ばれるんじゃないか」と戦々恐々し、二人で監督から論外宣告を受けもした。ゆうごは岩手合宿で結果を出していた。合宿が終わればAに上がり、リーグ戦を一緒に目指していくと思っていた。もうゆうごとは一緒にリーグ戦を目指せないのかと寂しくなったと同時に、大坂への気持ちと同じ気持ちを抱いた。
次に栗林(3年/投手/灘)に泣かされたことだ。バーベキューでビンゴに当選し、壇上に上がった栗林は突然「石川さんに言いたいことがある」と高らかに宣言した。何を言うかと思えば僕が二浪してまで東大野球部を目指していたから栗林も東大野球部に入ったとのこと。浪人の辛さが報われた気がした。
最後に腰の怪我である。これまで断続的に痛みを抱えていた腰がついに爆発し、また動けなくなった。日常生活すら辛い状態になり、好調だったバッティングも完全に崩れてしまった。

合宿が明けてからは結果も残せず、最終カードである法政戦を残すのみとなった現在も、神宮で活躍はおろか、ベンチ入りすらできていない。初夢が現実になりそうだ。入部したあの日、胸を高鳴らせて思い描いていた目標は、もう風前の灯火である。

正直、プレーする野球は大嫌いだ。もうやりたくないと何度も思っている。
それでも、僕はまだ野球を辞めない。 可能性を信じ続けてくれた川又がいる。部室で泣き崩れた大坂の姿が脳裏に焼き付いている。才能にあふれていたのに、怪我でリーグ戦を諦めざるを得なかったゆうごがいる。ずっとBで苦しみ続け、最後は引退を告げられた同期たちがいる。下に見られて歯を食いしばった灘の仲間たちと、育ててくださった先生方がいる。そして、「東大で野球をやる」という我儘を許し、信じて支え続けてくれた両親がいる。
何より、リーグ戦をまだ諦めきれずに、残っているかもわからない最後の打席を目指している自分がいる。
ふたを開けてみれば、実力の伴わない負けず嫌いが、偉そうにもでかい目標を持って、当たり前に挫折を味わった野球人生だった。
色んなものを背負いつつ、本気で野球ができるのもあと2週間。このくらいなら、最後まで足掻いてみようかな。




川又へ
今こうして4年の最後まで野球が出来ているのもお前の尽力があってのことだ。あのエラーをした日、ああやって言葉をかけてくれなかったら、夏にAに上げてくれていなかったらとっくの昔に野球辞めてたよ。最後までこの恩を返せるように足掻き続けるし、最後はお前の前で打ってみせるよ。


本岡(4年/学生コーチ/基町)へ
僕の野球に対する考えを遠慮なくぶつけられたのも、そこに自分の意見を持ちながら向き合ってくれたのも本岡くらいよ。朝からノックを打ってくれて、ミスの原因を一緒に洗い出し、夜はバッピをしてくれて、いい打球を打てば喜んでくれた。本岡のおかげで最後まで成長できた。本当は試合に出られない選手の代表にはなりたくなかったけど、託された目標を達成できるように最後までやりきるよ。


同期たちへ
年甲斐もなく、とっつきにくい性格の僕と仲良くしてくれてありがとう。結果が出なくて負のオーラを漂わせてたのは自覚してます。本当にすみませんでした。
ずっと最下位の東大野球部で、他の5大学を相手に勝利を目指すのは決して簡単なことじゃない。でも負けてばっかなのも何か違うよな。
勝ち点3という目標は達成できなかったけど、最後は勝って笑おうや。


康平(松本康平/3年/捕手/栄光学園)、堀端(3年/外野手/向陽)へ
こんだけしんどい言うてる僕が言うのもおかしいかもやけど、結局野球は楽しんだもん勝ちよ。お前らが沈んだら来年のチームの野球おもんないで。しんどいこと、辛いこと起こるかもしれんけど、なんだかんだで野球続けることになるんやから、踏ん張って、最後は楽しんでけよ。


少人数班の後輩たちへ
カッコ悪い班長でした。自分に精一杯で気が利くことは言ってやれませんでしたが、ご飯だけはおごらせてもらうので、許してください。


キムタツ、宮崎先生、岡本先生、北浦先生、谷先生、中網さん
僕の力では大学野球というステージで活躍することは叶いませんでした。ただ、栗林、小山(2年/投手/灘)、内藤(1年/内野手/灘)、落合(1年/内野手/灘)が続いて東大野球部の門を叩いてくれました。彼らなら、先生方に教わった野球を大学で体現できると信じています。僕自身、先生方のもとで野球をできたことは本当に幸せでした。下手くそだった僕に、たくさんのご指導をありがとうございました。


古川さんへ
なんだかんだでいっぱい話しましたね。まさか70回生の先輩とここまで親しくなれるとは思ってませんでした。僕が神宮に出るか出ないか、自分のことのように気にかけて下さっていたのは知りませんでした。正直めちゃくちゃ嬉しかったです。72回生の皆さんと神宮で集合してもらえるように、もう少し頑張ってみます。


亮太さんへ
高校野球部でたった一人頑張っていた亮太さんを勝たせたかったです。県西に負けたときは本当に悔しくて、一年のくせに泣いてました。大学で亮太さんと一緒にプレーする時間をもっと作りたかったのですが、僕が出遅れ過ぎました。すみません。生意気な後輩でしたが、もうちょい頑張るので見ていてください。


高校同期へ
僕と頑張ってきたみんなが、相手チームに舐められるのが悔しくて、勝手な目標を定めてしもた。最後は僕に付いてきてくれたみんなへの、僕なりの恩返しをしたかった。神宮で活躍する姿を見せられるかどうかは分からんけど、みんなへの気持ちは人一倍強いことだけ、知っておいてくれたら幸いです。


両親へ
ただの負けず嫌いで灘の受験のサポートまでしてくれてありがとう。その6年後には「野球がしたいから」って理由で東大を目指し、挙句の果てに二年も浪人してたくさん心配をかけました。そんなアホなわがままも最後にしたいです。あと二週間、神宮で活躍する姿を見せるために精一杯足掻いてきます。

 

 

 

次は大坂です。ちっちゃくてかわいい顔してますが、佐藤輝明をラインの背景画像にしており、てるさながらの豪快なスイングを披露していました。彼はどんなことを思い、野球をしてきたのか僕も気になっています。期待しましょう。

 

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次回は10/15(木)、大坂裕樹外野手を予定しております。