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東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.24 大坂 裕樹 外野手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.24 大坂 裕樹 外野手(4年/金沢泉丘)

石川(4年/内野手/灘)からバトンを受け取りました、大坂です。オープン戦前に早めにきて二輪マシンを一緒に打っていたのが懐かしいです。再来週の法政戦では、今まで出られなかった分もまとめて暴れ散らかしてくれるでしょう。猛虎魂を見せつけてやってください。

 

口下手のため、読みづらい文章になっているかもしれませんが、頑張って伝えようと書いたので読んでいただけると嬉しいです。

 

 


二人の兄が野球をしていたことがきっかけで野球と出会った。幼稚園を卒園するや否や兄が所属していた額レッドライオンズに入団し16年の野球人生がスタートした。

当時の額レッドの監督コーチの厳しさは私が16年間の野球人生で出会った指導者の中で群を抜いていた。練習中には常に監督コーチの怒号が飛んでいた。入りたての頃こそはミスをしても大して怒られることはなく伸び伸び野球ができていた。しかし、学年が上がるにつれ、指導は厳しくなり怒号は自分へと向けられるようになっていった。「監督の目を気にしてプレーしているようでは上手くならない」などと言われたが、気弱な私にとってそんなことは到底できなかったし、上手くなりたいとかそういうことより、なんとか怒られずに1日を乗り切りたいという思いで頭はいっぱいだった。6年生でキャプテンになってからは怒鳴られない日なんてなかった。野球がある日は毎朝、吐き気を催したし金曜日の夜は憂鬱で仕方なかった。正直もうやめたいと思っていたが臆病な私はやめたいとも言い出せなかったし、幸い野球自体を嫌いになることはなかった。ここで辞めていたら私の人生は大きく変わることになったと思うので過去の自分に感謝したい。

なかなか思い出したくないことも多いが、もちろん額レッドでの経験がすべて無駄だったわけではない。明らかに時代に逆行した指導ではあったが、捕る投げる打つの基礎的な技術はみっちりと叩き込んでいただいた。私のバッピが打ちやすいと言われるのは額レッドでの指導のおかげだろう(最近はストライクを入れるのにも一苦労で見る影もないが)。また挨拶や礼儀など野球人として以前にやるべきことも厳しく指導していただいた。今後の人生で大事にしていきたい。


厳しい厳しい学童野球を乗り越え中学生になった。幸い野球というスポーツを嫌いにはなってなかったし、指導も厳しくなさそうなので迷わず野球部に入部した。1年の夏頃から色々あって顧問が全く部活に来なくなった。生徒に丸投げする状態となり多くの部員が真面目に野球に取り組まなかった。額レッドとの落差が激しかった。厳しさから解放され、伸び伸び野球をしていた自分も楽な方へと流されていった。かつてはお盆以外は終日あった練習を全て半日にし、練習メニューも練習開始と同時にアップもなしに先輩たちのシートバッティングが始まり、その後フリーバッティングをして解散というのがほとんどだった。ノックなんてした記憶がない。何度も部停になったりして、はちゃめちゃな野球部だったけどいろんな思い出ができて楽しかった。しかし、真面目に野球に取り組むことはできなかった。最後の大会で負けても大して悔しくなかった。

兄が所属していたこともあって中学の時に何度か泉丘高校の試合を見にいった。秋の大会で日本航空石川に勝利した時はすごく興奮した。公立校が強豪私学に立ち向かっていく姿はあまりにかっこよかった。家では、野球以外はどうでもいいと言わんばかりに真摯に野球に取り組む兄の姿も見てきた。小学校では、真面目に頑張ってはいたが監督コーチに怯えて試合では勝ち負けどころではなかった。中学校では、そもそも練習を頑張っておらず真摯に野球に取り組めなかった。高校でこそは真摯に野球に取り組み、全力で勝負を楽しみたい。そう思った。

 

ハプニングがありながらも無事に金沢泉丘高校に合格することが出来た。当然何の迷いもなく野球部に入部した。硬球に浮かれ練習後にキャッチボールをしていたのを監督が見にきた。「明日からピッチャーの練習に入れ」と言われた。こうして私の高校野球は思いがけず外野手ではなく投手としてスタートした。しかし、監督の期待に応えることはできず、投げるたびに炎上し試合をぶち壊した。チームのみんなには本当に申し訳なかった。1年の秋ごろ、投手としての出番が減っていく一方で外野手としての出番が増えた。数が少ない外野手の中で守備が上手かったこと、センターのレギュラーがショートにコンバートされたことが理由だった。コロナ期間を経て、私の登板機会はめっきりなくなったが、直前の試合でアピールに成功し夏の代替大会は外野手としてスタメンで出場することができた。

3年生が引退し、いよいよ高校野球最後の一年が始まった。勉強なんてほったらかしにして野球に没頭した。同期たちと夜遅くまで残って自主練をした。深江トレーナーのもと体づくりに励み、冬を超えて体は一回り大きくなった。また、フライボール革命の理論を取り入れた佐々木バッティングコーチの指導のもと、額レッドで叩き込まれたダウンスイングは徐々に改善され、打球音、打球の飛び方が明らかに変わり出した。春になり練習試合が解禁され11打席連続ノーヒットという最悪のスタートを切ったものの徐々に練習の成果は出だし、面白いように打てるようになった。そして、絶好調で春の大会を迎えた。忘れもしない2回戦の遊学館戦。私学との対戦でワクワクしていた。風は左バッターにはもってこいの風だった。監督の作戦は「カチコメカチコメ」。1打席目、先頭打者として打席に入り2球目を振り抜くと打球はライトスタンドで大きく跳ねた。自分でも信じられなかった。3打席目にもツーベースを放った。この試合を機に次のステージでも野球をやりたい、どこまでやれるかやってみたいという思いが芽生え出した。それまでは、大学まで行ってしんどい思いをして野球なんてやりたくないと思っていた。

春の大会で確かな自信を得て、迎えた夏の大会。チームが勝ち進む中、自分は絶不調だった。3回戦の小松商業戦、秋の練習試合でボロ負けした相手に最後まで食らいついたが、あと少し及ばなかった。ネクストで試合が終わった。この試合から1番から2番に打順を落とされていた。悔しくてたまらなかった。ただ、寺口先生から最後に「高校野球どうだった」と聞かれたときに真っ先に出た言葉は「楽しかったです」だった。小中では経験できなかったものであった。

 

野球部引退と同時に受験勉強がスタートした。ほとんど勉強してこなかったため、当時の成績は学年で300番台で東大なんて目指せる成績ではなかった。多くの人が目指していた関西の大学を自分も志望校にしていた。受験勉強をしていく中であまり身が入らず、野球に対する不完全燃焼を感じているのを無視できなくなっていた。

 

野球をしっかりやり切って悔いなく終わりたい。ここでやらなかったら一生後悔することになるだろう。やるからにはレベルの高い環境に挑戦したい。こんな思いを抱いていた私は東大野球部に強く惹かれた。

ただ、現状の成績を見れば東大を目指そうと思うのは難しかった。誰かの後押しが欲しかった。同期たちと後輩の秋大を応援しにいったあと、「東大を目指そうと思っている」という思いを打ち明けた。馬鹿にされてもおかしくないと思っていた。結果は違った。みんな心から応援してくれた。東大を目指す決心が固まった。両親、担任の先生にも浪人を覚悟の上で東大を目指すことを伝え、承諾してくれた。本当に自分は幸せものだと思った。こんなにも素晴らしい環境にいられたことに感謝しかない。

ようやく本格的に受験勉強がスタートした。現実は甘くなかった。現役の時は足切りを食らった。そこから1年間の浪人生活での猛勉強の末、無事東大に合格することができた。この上ない達成感を感じられた。

 

こうして、晴れて1年越しに東大野球部への入部が実現した。リーグ戦で活躍して自分が東大を勝たせてやると意気込んでいた。初めて参加した午後練で門田(4年/副将/内野手/松山東)が柵越えを量産しているのを見て唖然としたが、同時に負けられないとも思った。

外野の守備に関して肩はともかく捕る方は評価していただいていたので秋フレにベンチ入りすることができた。ただ、全試合ベンチ入りしたにも関わらず一度も出番は回ってこなかった。早稲田戦で勝利したときもものすごい疎外感を感じた。秋フレ、オータムで伊藤(4年/外野手/県立千葉)と竹山(4年/外野手/修道)がブレイクしているにも関わらず、何もできていない自分が情けなかった。翌春の合宿メンバーにも入れず、合宿期間中、午後の静かな東大球場でひたすらバットを振ったが、なかなか結果はついてこなかった。スプリングフレッシュのメンバーから外れると同時に肉離れをした。同期たちがどんどんAチームに昇格していくのを見て焦りを感じずにはいられなかった。

6月、7月と打撃は好調で院試で参加しないメンバーもいたおかげか遠軽合宿のメンバーに選ばれた。待ちに待ったAチーム昇格に心が躍った。しかし、遠軽合宿では自分の実力不足を痛感させられた。初日のシートBTの守備での打球判断のミスから始まり、オープン戦でのバント失敗、フェンスよりはるか手前で止まるフリーバッティングの打球。フィジカルも技術も何もかも足りていなかった。結局、遠軽合宿後すぐにBチームに落とされリーグ戦の構想外が決まった。

悔しさを晴らすべく、リーグ戦は諦め秋フレに照準を合わせた。なんとか結果を残し、春に果たせなかった1戦目でのスタメン出場を勝ち取ることができた。しかし、個人としても結果は残せず、試合も大敗した。2戦目はスタメンを外されコールド負け。このまま3戦目も負け、谷間の世代と言われるのは嫌だった。この代の今後のためにも3戦目こそは絶対に勝ちたい。そう思い、早稲田戦に臨んだ。

2点を追いかける5回、無死一塁で打席が回ってきた。髙橋煌稀(早稲田大学/3年)の直球に差し込まれた打球はショートへのボテボテのゴロ、なんとかセーフになろうと一塁に向かって飛び込んだ。

 

 

右肩がぶっ飛んだ。

試合が終わる頃には右腕が全く上がらなくなった。

 

この秋フレとオータムでなんとか結果を残して来年こそはリーグ戦に絡んでやると意気込んでいたが長期間の離脱を余儀なくされた。

年明け、痛みこそは軽快したものの肩が抜けるような感覚が拭えず、別の病院を紹介され、手術が必要だと言われた。初めてのことで理解が追いつかなかった。残り2年しかないことも考え、まだなんの実績もない自分が手術をしてまで選手を続けるべきなのだろうか、一度はここで選手を引退しようかと考えた。

慰めの言葉でも欲しかったのだろうか、ふらっと球場に立ち寄ると選手達が黙々と自主練に励むいつもの光景を目にした。

 

こんなところで心が折れている場合ではない、なんのために東大に入ったのだ、応援してくれている人の期待に応えたい、自らを鼓舞し、手術をすることを決断した。そこから高木さんのサポートのもと、通常よりも早く4月の中頃にバッティングを再開することができた。春のリーグ戦はもう無理だが、秋こそはリーグ戦に絡んでやる、そう意気込んだ。

 

ただ、怪我をしたときと周りの状況はまるで違っていた。慶斗(荒井慶斗/3年/外野手/宇都宮)、成瀬(3年/外野手/筑波大駒場)、安田(3年/外野手/名古屋)といった下級生が続々と外野にコンバートされ、1年生には長谷川(2年/外野手/新潟明訓)を筆頭に優秀な外野手がたくさん入ってきた。このままでは3年秋どころか4年になってもリーグ戦に出られない。危機感を覚えた。

ありがたいことに6,7月はB戦でたくさん使っていただいた。しかし、半年のブランクで打撃は完全に狂っており、全くといっていいほど打てなかった。なかなか試合に出られない下級生もたくさんいるのに不甲斐なかった。当然、遠軽には呼ばれず、盛岡合宿に参加した。そこには、怪我明けだったのかなぜか伊藤もいた。たぶん伊藤は覚えていないだろうが盛岡で一緒に練習した時にふといってくれたアドバイスが復調のきっかけとなった。ありがとう。そこから徐々にヒットが出るようになり始めたが、それと同時に腰に違和感を感じ始めた。

結局、秋のリーグ戦にも全く絡めず、3年間リーグ戦のベンチに入ることすらできなかった。来年こそは必ず。もう時間はない。多少の無理をしてでもやるしかない。特に実践の機会は少しも無駄にできない。

 

12月ごろに腰椎分離症で2ヶ月の運動禁止を言い渡された。

 

完全にアクセルを踏むタイミングを間違えた。バカすぎた。大事な春合宿前のシートBTに参加することさえできなくなった。落ち込んでいる暇はなかった。川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)に言われたように3月のオープン戦で結果を残し、リーグ戦に出るしかなかった。

2月半ばに復帰してからは直近に迫ったオープン戦に向けて岡林(4年/外野手/土佐)や藤原(4年/外野手/県立福島)とともにたくさんバットを振った。また、東京合宿中は土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)のおかげで明るく頑張ることができた。ありがとう。

3月の後半くらいからようやく結果が出始め、4月の終わりくらいにようやくAチームにあげていただいた。そこからリーグ戦裏のシートBTなどでもチラホラ結果を出し、リーグ戦での出番を期待したが、結局メンバーに名前が上がることはなかった。春のリーグ戦でチームは勝ち点を獲得し、もちろん嬉しかったが、それも一瞬であの場にいられなかった悔しさでいっぱいだった。秋こそはリーグ戦で活躍する。そのために夏のオープン戦で圧倒的な結果を残し七大戦の頃にはスタメンを勝ち取る。リーグ戦オフ期間も毎日練習し、オフ明けには打撃は絶好調だった。

しかし、なかなか結果がついてこない。結局ヒットが出ないまま6月を終えた。

このままでは七大戦でスタメンを取ることはおろか、遠軽合宿にすら行けないかもしれない。それはすなわち引退を意味した。

オフ明けに良かった打撃の調子はいつのまにか急降下、もう打席でヒットを打てるイメージは全く湧かなかった。

 

そして迎えた合宿前最後のオープン戦。ここでヒットが出なければ引退。それは明白だった。

 

2打席ヒットが出ず迎えた第3打席。ここで打てなきゃ終わり。恐怖に怯えながら、自分ならやれると奮い立たせ打席に向かった。

 

 

結果は空振り三振。着払いのなんとも酷い三振だった。

翌日の練習後、引退を告げられた。

 

 

結局一度もリーグ戦に出られなかった悔しさ、応援してくれた人の期待に応えられなかった悔しさから涙が止まらなかった。

ひとしきり人目のつかないところで泣いて、誰にも会わずに帰ろうと思っていたとき、4年部屋でバッタリ石川と会ってしまった。すると無性に涙が込み上げてきて、4年部屋で泣き崩れてしまった。もうみんなとお互いに刺激しあって切磋琢磨して頑張ることも許されないのか。おそらくそんな思いだった。帰り際には、いつものように春山(4年/内野手/昭和学院秀英)が自主練に誘ってくれた。もう涙を堪えきれなくて逃げるように球場を後にした。

 

 

 

求めていた結果を残すことはできなかったけど、最後、東大野球部で悔いなく野球を終われたのは私の財産です。選手である以上、結果を追い求める責任はあるけれど、諦めずに追い続けたものであれば、たとえ結果に届かなくても、その過程も決して無駄なものではなかったと思うことができました。周りの環境に恵まれて、こんなにも素晴らしい野球人生を送ることができました。私の野球人生に関わってくれた全ての方々、ありがとうございました。

 

 

 

 

監督・助監督

何度も怪我をしてしまいすいませんでした。結果で応えたかったです。助監督に褒められるのが嬉しかったです。ありがとうございました。

 

高木さん

毎度リハビリの際はお世話になりました。あまりに復帰できるのが早すぎて心配な面もありましたが、全く問題なかったです。ありがとうございました。

 

川又

最後に引退を伝えてくれたとき、川又の表情を見て、最後まで考え抜いて考え抜いて決断してくれたんだなというのがひしひしと伝わってきました。同時に自分には到底計り知れないものを背負っているんだろうなということを感じました。チーフ学コとしてチームを支えてくれてありがとう。

 

本岡(4年/学生コーチ/基町)

本岡の献身性、選手に寄り添える力は唯一無二だと思います。本当に尊敬しています。本岡の声かけのおかげでいつもポジティブになれました。ありがとう。最後の練習の時もナイスバッチが聞けて嬉しかったです。

 

スタッフの方々

いつも選手が不自由なく活動できるように環境を整えてくださりありがとうございます。また練習のサポートありがとうございます。あなた方がいてこその野球部だというのは間違いありません。ありがとうございました。

 

同期のみんな

この代でみんなと野球ができて良かったです。また幹部・部門長の皆様、いつもありがとうございます。

 

伊藤・岡林・春山

君たちにはこれまで何球投げたことでしょう。法政戦で暴れてください。応援しています。

 

江口(4年/投手/海城)・伊藤

いつも助けてもらってばかりです。ありがとう。大学院でもよろしく。

 

後輩

なんか絡みにくい先輩でごめんなさい。赤門旋風巻き起こしてください!みんなのことを応援しています。

 


両親

男4人兄弟でみんな高校まで野球やって3人は大学まで野球やって、本当にたくさんの苦労をかけたと思いますが、文句も言わず支えていただきありがとうございました。これから恩返しできるように頑張ります。今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

 

次回は今季凄まじいピッチングを披露している鉄腕佐伯(4年/投手/渋谷幕張)です。快投の裏にはどんな物語があるのでしょうか?乞うご期待!

 

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次回は10/16(金)、佐伯豪栄投手を予定しております。