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東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.21 前田 理玖 投手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.21 前田 理玖 投手(4年/熊本)

文学部日本史学専修「3年」の花村(4年/学生コーチ/開成)からバトンをもらいました、文学部日本史学専修「4年」の前田理玖です。ボーッとしているようで頭の切れる彼ですが、単位計算ミスで留年したところを鑑みるに、ただボーッとしていただけかもしれません。石田(4年/マネージャー/札幌西)・花村・私の日本史トリオで一緒に卒業したかったです。

 

 

ある練習の日に、後輩の髙村(1年/投手/新潟)が、「犯罪を犯すことは『手を染める』というのに、なぜ更生したら『足を洗う』というのか」と不思議がっていました。その視点は面白いなと思ったので、私も1つ気になっていることをこの場を借りて共有しようと思います。

何かが上手くいかなかった時に「残念だった」と言う時があると思います。その「残念」という言葉は、「念が残る」と書きます。しかし、似たような意味の「無念」という言葉は、「念が無い」と書くのです。真逆の成り立ちなのに意味はそっくり、非常に奇妙な感じがします。

これが何故かというのは私にとってはさして重要ではありません。問題なのは、この場合の「念」の行く先です。ここでいう「念」は、何かの事象によって引き起こされるマイナスの記憶や情動、と私は解釈しています。残っていたら残念、無くそうとしたり忘れようとしたりしても、その先が無念であるならば、我々は遣る方ないこの思いをどう扱えば良いのでしょうか。

 

私の野球人生における種々の苦悩は、ほぼ全てこの問題に集約されます。私が如何にこのパラドックスに落とし所を見つけたのか、それがこの『僕の野球人生』の主題です。

 

 

 

6歳上の兄の影響で、物心ついた時にはすでにプラスチックバットとゴムボールを携え、庭で兄とタイマンを張っていました。ちなみに戦績は圧倒的に負け越しです。

5歳の誕生日に欲しがったのはプロ野球選手名鑑。一体何が面白かったのか、狂ったように各選手の寸評を読んでいました。寸評を読みすぎて小学生になる前に一通りの漢字は読めるようになっていたらしいです。

 

後に早稲田大学の準硬式野球部で全国制覇を果たすことになる兄という、強烈な太陽の日差しを一心に受けた私が、津奈木クラブに入団するのは必定でした。当時はファーストがメインで投手がサブ。守備範囲50センチの貧相な守備と、ビヨンドを最大限活用した強力な打撃が持ち味で、チーム最多エラーと最多安打を記録していました。

同期は実力者揃いで、野球人生の中で最も勝利の味を楽しめたチームでした。私たちが最上級生となったチームは県大会で快進撃を続けて、決勝まで辿り着きます。途中の準々決勝では延長でも試合が終わらず、最後はスタメン9人のジャンケン対決で5対4で勝ちました。あの試合は私の中で最も謎な試合として印象に残っています。決勝戦では自分が投手として先発したものの、2桁失点を喫して準優勝。それでも、悔しさよりは達成感や充実感の方が大きかったです。

 

一方、中学時代は、私の中ではどちらかというと苦しいものでした。

地元に一つずつしか小中学校がなかったため、野球部の面子もほぼ変わらずそのまま持ち上がりました。しかし、地区では無類の強さを誇った小学生時代と比べて、中学ではなかなか勝ちきれないことが多くなりました。昔は楽に勝てていた相手に苦戦することが続き、個人としてもチームの雰囲気的にも、思春期特有のもやもやしたような感じがあったように思います。

さらに私を苦しめていたのは、部の朝練として行っていた長距離走です。朝7時から4〜6キロを平日は毎日走るという、長距離走が大嫌いな僕にとって苦痛でしかないイベントでした。小学生の頃と違い、この頃はあまり野球が楽しくありませんでした。

最後の大会は県大会出場の懸かった試合で敗戦、ファーストから相手の決勝ホームランを眺めることしかできませんでした。

このように、中学時代に野球で完全燃焼できなかった「念」もあり、高校でも野球を続けようと心の中でいつの間にか決まっていました。

 

ありがたいことに勉強は割と得意だったので、中学を卒業後、兄と同じ熊本高校に進学しました。この頃は東大に進学する気は微塵もありません。高校は実家から100キロほど離れており、下宿生活を送る自信がなかったので新幹線で通学しました。たまに鹿児島中央駅まで乗り過ごすこともありましたが、割と楽しい通学路でした。

高校最初の練習では、周りに知り合いが居ないのをいいことに、メインが投手でサブがファーストと自己紹介をしました。これは、ファーストの守備が苦手で嫌いだったことが半分、中学最後の試合から、投手の方が試合結果に直接関われると思ったことが半分です。この時に投手メインとなって良かったと、今となってはそう思います。

下級生の頃は試合に出たり出なかったりを繰り返していました。高一・高二の夏の大会はどちらも一回戦負けで、僕たちの代になり、私はエースとなります。最初は練習試合でボロ負けを繰り返し、津田先生に私たちの代は「最弱の世代」とまで言われる始末でした。下手くそながらも一丁前にエースの自覚はあったため、兄にアドバイスをもらいつつ、自分なりに練習やフォームの知識を取り入れ実践することで、少しずつ投手として成長することができました。とはいえ、元から大した実力もないので、おおかた大会の2回戦くらいで当たる強豪私立には、相変わらずボコボコにされていました。

さらに、高三になると不調に陥り、抑えられるはずの相手に打ち込まれることが多くなりました。結果が出ず、弱気の虫が顔を覗かせ、さらに結果が出ないという負の螺旋階段を駆け下っていきました。結果的に私は、最後の大会を背番号10で迎えることとなり、チームとしては県ベスト16という好成績を収める一方で、私個人としては最後の試合で出場することができず、後悔の残る結果となりました。怪我の松浦と不調の私を庇い、2年生ながら投手として孤軍奮闘してくれた大森には感謝しかありません。

小中高と、1番結果を出したい試合で思うようにいかない事が続いていました。徒労感というか無力感というか、言葉で表現し難いような行き場の無い感情を抱いていました。

 

そんな気持ちを抱えていた私は、高校までで野球を終えるかどうか内心迷っていました。東大野球部に入ろうと決めたのは、その後の夏休みに東大を見学したことがきっかけです。

家族の北海道旅行の帰りに東京に寄って本郷キャンパスに行った時のことです。高1の時の二者面談で東大を勧められて以来、ぼんやり東大志望だった私は、硬式野球部のグラウンドが近くにあると聞き、興味本位で東大球場に向かいました。

その日はよく晴れた暑い日でした。けたたましく響く蝉の音。夏の太陽に煌々と照らされた人工芝。今まで土のグラウンドでしか野球をやっていなかったからでしょうか、キャンパスの奥にひっそりと佇む東大球場は、当時の私には何故か輝いて見えました。

その衝動のまま私は東大野球部への入部を決意します。ここで初めて、私は兄の敷いたレールから外れることとなるのです。運にも恵まれ、何とか1点差で東大に滑り込めました。

 

東大野球部についてほとんど知らぬまま、私の大学野球はスタートしました。春季リーグ戦を初めて観戦した時、雷に打たれた様な衝撃を受けたことを覚えています。応援、プレーの質、スタンドから見える景色、どれを取っても私にとって未知との遭遇でした。そこにある全てが私の心に訴えかけてくるようで、神宮の魔力に取り憑かれるのにそう時間はかかりませんでした。

神宮熱に浮かされた私は、遮二無二に練習と試合の出場を繰り返していたら、春のフレッシュにベンチ入りし、夏合宿前にはAチームに昇格していました。嬉しい反面、入部してからトントン拍子に行きすぎて、どこか自分の実力が過大評価されているんじゃないかという感じがしていました。球速は出て120キロちょっと、老獪な投球と言えば聞こえが良いですが、東大投手陣の中ですら圧倒的に見劣りするカタログスペックでなんとか抑えていたので、こう思うのも無理はありません。この宙ぶらりんな不安感が厄介であることを、当時の僕は知る由もありませんでした。

その後もAチームに帯同し続け、1秋のリーグ戦ではベンチ入りする機会がありませんでしたが、秋のフレッシュで神宮のマウンドに初めて立ちます。直前にグラブが壊れ、数馬さん(R8卒)からお借りしたグラブで投げ切りました。数馬さん、あの節はありがとうございました。

翌年のOP戦でもアピールを続け、2春のリーグ戦で初登板を果たします。同期投手では佐伯(4年/投手/渋谷幕張)の1試合後で2番目だったと記憶しています。その後も登板機会を与えていただき、最終的には好成績(自己評価では)で春を終えました。その後のフレッシュでも法政相手に好投し、試合後の取材も経験させていただきました。

 

こうして出来事を羅列してみると、私の大学野球第1章とでもいうべき1年〜2年春の期間は、とんでもなく順風満帆のように思われます。実際、春の一連の試合を終えて、今までの人生ではなかったほどの達成感を得ることができました。一方で、自分の実力への不信感は拭えていません。むしろリーグ戦を経験したからこそ、周りとの実力差をはっきりと認識していました。

また、1年生の頃に府川さん(R7卒)から言われた、「球速から逃げるな」という言葉が脳裏に焼き付いていました。技巧に優れているからといってそればかりに頼るのではなく、苦手なこと、つまり球速にも目を向けなければ成長は無い。そのことを理解はしていたのですが、どんな練習が私にとって最適解なのか思考することが欠けていました。春の活躍を受けて皆が期待している、ボロが出てしまう前に早く実力をつけなければという、杞憂とも言うべき様々な心の声が私に思索の暇を与えず、練習へと駆り立てました。身体の歯車が少しずつ狂い始めてたというのに。

 

2年夏のOP戦期間、少しずつ肘に違和感を感じ始めました。最初はキャッチボールの投げ始めだけだった痛みが、徐々に投げている間はずっと体の中で響くようになりました。投球過多からの怪我であることは疑いようもなく、投球から一旦離れるという選択肢が頭によぎります。しかし、「神宮で1試合でも多く投げたい」「ここで休めばBに落ちて、実力の至らない自分では2度と神宮に戻れないのではないか」という気持ちが先走り、そのまま投げ続けました。神宮という夢の舞台は、時には人を熱狂させ、時には人をおかしくするようでした。

持ち前の投球術とやらでなんとか騙し騙しやっていたものの、本調子からは程遠く、さらに肩まで痛めてしまい、秋のリーグ戦は出場機会を減らしてしまいました。「雪に耐えて梅花麗し」とは西郷隆盛の格言ですが、当時の私が雪だの痛みだのに耐えたところで花開くことはありませんでした。

 

リーグ戦で結果を残せなかったことが、私の不安感に拍車をかけます。怪我が完全には治らぬまま練習を続け、腱板損傷という治らない怪我を増やすことになりました。3春・3秋のリーグ戦でも、ベンチに入ることはあったものの、出場は限られ、出たとしても思うような投球はできませんでした。恐怖心と痛みから、逃げ腰の投球を繰り返し、四球と痛打を重ねていました。少人数班の直属の先輩でもあり、ラストシーズンずっと苦しんでいた渡辺さん(R8卒)を投手として支えられなかったことが、今でも心残りです。

自分が投げなかった試合でチームは2勝を挙げました。ベンチワーク・ブルペンワークで多少貢献した実感はあったものの、一選手としては役立たずもいいところです。怪我もあり、満足な投球ができない私がベンチに入ることに引け目すら感じていました。ベンチに入れなかった選手(特に4年生の方々)や、自分に期待して起用してくれる首脳陣に対して、許されざる感情だと思います。ベンチに入らなかった時は、それはそれで悔しいので、メンバーがストーリーにあげるリーグ戦告知を一切開かないという、ささやかな抵抗をスマホ上で繰り広げていました。

春も秋も、自分が待機するブルペンから多くの投手が戦地に旅立っていきます。勝利の使者である中継ぎエースや、ラストシーズンに懸ける4年生たちがブルペンを巣立っていく度に、応援席から熱い声援が響きます。いざ私が登板する時、その声は心なしか小さく感じられました。私はもはや期待されてないんだな、必要では無いんだなと心の中で勝手に思っていました。全ての色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような感情に、あの頃の私はずっと苛まれていたのです。

リーグ戦後、痛みに耐えかねた私はようやく投球から一旦離れる道を選びました。私の大学野球人生第2章は、陰鬱で惨憺たる思い出ばかりが記憶に残っています。様々な「念」が心身に重くのしかかっていました。

 

ノースロー期間中、技術的なことをあれこれやってみたものの、光明は見えません。ならばと思い切って、野球とは全く関係ない本を読んだり、新たな趣味(温泉や東京観光など)を作ったりすることで、自己のアイデンティティと野球を一旦切り離してみました。半ば現実逃避のきらいがある試みですが、ここで2つのことに思い至ります。

1つは、自分の心理的傾向についてです。あるテレビ番組をぼーっと観ていた時のことでした。先述した、自分の実力を信じられない不安感には、「インポスター症候群」という名前が付いていることを知りました。症候群とあるものの、考え方のクセみたいなもので誰にでも起こりうるようなものだそうです。自分の恐怖心をラベリングすることで、自分の悩みは普遍的なものだと思い至りました。

「弱い人間のまま強くなる」、これもこの時期にある作品の中で出会った言葉でした。例えば漫画などで主人公が挫折を経験し、そこから這い上がるという場面は往々にしてあると思います。その時恐怖心や苦悩が一気に消え去ったような表現がされることがほとんどではないでしょうか。ただ少なくとも私はそういうタイプの人間ではなく、不安が精神を棲家として永住してしまっています。今でも登板する時は状況に関わらず足が震えてしまいます。そうした負の心理を消そうとする、あるいはそれに目を向けないようにするのではなく、不安を抱えながらも勇気を持ってボールを投げ込む、抑えるための工夫をすることを大事にしようと、この言葉のおかげでそう思えるようになりました。

 

もう一つは、自分が見失っていたものについてです。ノースロー期間中、野球から離れて自分を見つめ直してみました。2春以降、リーグ戦という舞台に囚われすぎて、視野狭窄に陥っていました。結果や評価を気にして、制球ばかりに頼り、痛みを恐れて縮こまったフォームで投げて痛打と四球を繰り返していました。それで何を見失っていたのか。

それは、神宮で華やかな応援の中、実力者揃いの五大学と対等に勝負できる六大学野球の素晴らしさです。リーグ戦に出始めてから今まで、母はよく「神宮でプレーできるだけですごい」と私に言い続けています。勝ち点獲得を目指す東大野球部の一員として、そこで満足してはいけないことはもちろんですが、高校までの私の実力からすれば、リーグ戦に出られていること自体神様からのプレゼントとしか思えません。結果や評価への執着は、その価値観を消し去っていました。

こうして試合・投球から一旦離れたことで、かえって野球の楽しさや今置かれている環境のありがたみを感じるようになりました。今思うと、3年生からノースロー期間にかけては、野球人生において必要不可欠な時期でした。

 

そして今年になりました。1月から投球を再開したものの、球速が20キロ落ちていました。キャッチボールでは2回に1回宇宙開発をしていました。痛みもむしろ悪化しました。それでも心に新しい火が灯ったような感じがしました。チーム2026の物語は勝ち点0から1、そして3を目指す物語ですが、ここから始まった僕の大学野球人生第3章は、マイナスからゼロへと向かう物語でした。怪我から復活してリーグ戦に舞い戻る、そんな物語です。

 

冬から春にかけて、リーグ戦に間に合うように急ピッチで調整を行い、フォームの意識も大きく変えました。それでも調子は戻りきらず、リーグ戦の出場はありませんでした。かろうじてベンチ入りした法政戦で、チームは念願の勝ち点を挙げます。自分たちは谷間の世代として見られているだろうという意識があったので、その前評判を覆したチームメイトを本当に誇らしく思いました。同時に、自分がいなくてもチームは十分戦えると思い知らされたようで、また疎外感を感じてもいました。それでも、一度灯った心の火はその感情すらも焚べて燃やしていました。試合でなかなか結果が出ない中でも、自分の力を着実に取り戻している実感がありました。

春のリーグ戦が幕を閉じ、大学野球の終わりをより意識する時期となって、より覚悟が定まったように思います。練習のルーティンを大幅に見直し、初動負荷を始めたり、ある本の著者の方に直接連絡して色々とアドバイスを受けたりもしました。色々な施設に治療のために通い、周りに苦笑されながら、自分が抑えられるためにマウンドで出来ることは姑息なことでも何でもやりました。

ここまでやってダメならもう仕方が無いと言えるぐらいやろうと取り組んだ約3ヶ月間。一つ一つの試合の結果ではなく、自分は正しい道を歩んでいるのだという確信が、私を奮い立たせていました。東大野球部では、4年の秋に覚醒する選手が毎年のようにいるのですが、何故そのようなことが起こるのかこの時少し分かったような気がします。

 

色々な取り組みがどれほど功を奏したのかはよく分かりませんが、夏のOP戦は好調で(七大戦を除く)、今までにない手応えを感じていました。そして秋リーグの開幕戦、約1年ぶりに登板を果たすことなります。緊張や不安はありました。足も今まで通り震えていました。それでも久しぶりにあの場所に立てるという高揚感と、マウンドに向かおうとした時に聞こえた、応援席からの一際大きな熱い声援が、マウンドへの一歩を踏み出させてくれました。試合自体は負けてしまいましたが、あの時やっと今まで私を支えてくださった方々の恩に報いることができたように思います。

 

 

冒頭の問いに戻りましょう。不安や後悔といった、あまり好ましくない感情をどうするべきか。思うに、大事なのはそれらの「解釈」ではないでしょうか。私は最後の1年でそれに気づくことができました。

マイナスの記憶や感情を消し去ることは容易ではありません(少なくとも私はそうでした)。それをそのままにしておくのも良くないでしょう。ただ、それらの解釈は如何様にもできます。怪我は自分の課題や新しい視点に気づける好機でした。「怪我から戻ってきたらカムバック賞ものだな」と最後の一年は前向きに思うことができました。自分の実力への不安は無くなってはいないですが、それを抱えてもなお日々努力し、試合に出続けられる自分は強い人間だと思えるようになりました。事実や己の心理的傾向は不変ですが、それをどう捉えて行動に移すのか、そして行動の結果よりも、その行動そのものに幸福を見出すことが、何よりも重要なのだと思います。

 

勝ち点3を獲得することは叶いませんでした。しかし、まだ試合は残っています。怪我をしてから、もうダメかもしれないと思う時もあった中で、多くの方々のサポートを受けて生き永らえたこの右腕を、私はチーム2026が有終の美を飾るために捧げたいと思っています。小中高と、毎回最後の最後にうまくいかないことが多かった私ですが、チームとしても個人としても、最後に一花咲かせて、この素晴らしい大学野球への手向けの花としようと思います。

 

 

 

ここからはお世話になった人達へ感謝の気持ちを述べさせて頂きます。この人に書こう、あの人にも書きたいな、と思ったらかなり多くなってしまったので、興味がない人は飛ばしてください。

 

父・母へ

野球を始めてからずっとお世話になりっぱなしでした。例えば高校時代、新水俣駅まで毎朝早起きして送ってくれたり、遠征の時は車で毎回のように送迎してくれました。大学に入ってからも、遠いのにほぼ毎回リーグ戦を観に来てくれて、すごく心強かったです。勝っても負けても試合のレビューを家の中でずっとしていて、特に負けた時とかたまにイラっとくることもあったけど、外の視点からの発言はたまに気づきを与えてくれました。この他にもここでは書ききれない色々な所で支えてくれたと思います。本当にありがとう。あともう少し力を貸してください。

 

兄へ

毎試合動画を見て、的確なアドバイスをしてくれてありがとう。私が16番をつけている理由の半分は、16番が貴方の大学野球での背番号だったからです。貴方が野球をやっていなかったら、熊本高校に進学していなかったら、そして早稲田に進学していなかったら、間違いなく東大野球部の前田理玖は存在し得ません。本当にありがとう。夏輝が野球するかどうかは分からないけど、ありちゃんと一緒に温かく見守ってあげてください。弟の私に対してやや過干渉気味だったので、夏輝に対してどうなることかと少し心配です。

 

祖父母達へ

幼い頃、両親が共働きで忙しかった時に、いつも面倒を見てくれてありがとう。たくさん食べさせてくれたおかげで大きくなれました。たまに電話で声を聞くと安心します。今後も体に気をつけて。

 

 

林監督やその他津奈木クラブの指導者の方々へ

チームの勝利と野球の楽しさの両方をいいとこ取りした最高のチームでした。津奈木クラブでの経験が私の野球人生の礎となっています。本当にありがとうございました。津奈木の名を背負って、あと少し頑張ります。

 

 

中村先生・山下先生へ

きつい経験が多かったですが、そのおかげで大学まで野球を続けることができました。間違いなく人生で1番走った中学時代でした。生意気だった私たちを、厳しくも温かく見守ってくださりありがとうございました。

 

小中同期へ

小3から7年間、いつもバカ騒ぎしていたように思います。皆とやる野球は楽しいことばかりでした。大学に入ってからも、たまにしか会えない中で飯を奢ってくれたり、ドライブに連れて行ってくれてありがとう。働き始めたら今度は私が奢ります。これからも一緒にバカ騒ぎしよう。引退したら同窓会にもできる限り顔出します。田口と林は今度合トレしましょう。多分重量は合わないけど精一杯頑張ります。

 

 

津田先生・兼田先生(早稲田大学/H27卒)へ

津田先生の独創的な作戦や野球観が面白かったです。「金峰」や「東阿蘇」などのサインプレーは今でも覚えています。「熱中症の時は急所を冷やすと良い」という教えのおかげで、大学4年間熱中症でぶっ倒れることはありませんでした。

兼田先生からは、早稲田の硬式野球部で培った色々な知識を教えていただきました。六大学野球という舞台をほんのちょっと意識するきっかけとなり、今の私に間違いなく繋がっていると思います。

お二人とも、本当にありがとうございました。

 

高校同期へ

最初は地元を離れてとても不安だったけど、個性溢れる皆のおかげですぐに馴染めました。ありがとう。あんなに弱かった自分達の代が、最後の大会でベスト16まで勝ち進めるとは正直思っていませんでした。西田がいつも発狂してたり、雀魂メンツがずっと部室で麻雀してたり、変な奴らばっかりだったけど、みんな根は真面目だからこそあそこまで行けたのだと思います。またよろしく。

そして幸恵海翔。あの渾名をつけたことは一生許しません。詫びとしてこれからずっと私にご飯を奢るように。

 

深堀さん(慶應義塾大学/R8卒)へ

深堀さんが慶應の野球部で頑張っていることを知り、自分も頑張ろう、リーグ戦で深堀さんと勝負したいなという気持ちになっていました。リーグ戦で相見えることは叶いませんでしたが、オータムフレッシュなどで顔を合わせた時は嬉しかったです。ありがとうございました。

 

熊高OBの方々へ

田中さん(H29卒)・太田さんには特に色々と良くして頂きました。また、東京江球会に参加した時は毎回、皆様からたくさんの激励を頂き、それが大学野球を頑張る励みになりました。今後もよろしくお願いいたします。木下さん(慶應義塾大学/H10卒)には連盟行事や、その他様々な面でお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

大久保監督・石井助監督へ

試合でたくさん使ってくださり、ありがとうございました。特に怪我明けは不安定な投球をすることも少なくなかったですが、それでも根気強く起用してくださったおかげで悔い無く大学野球を終えられそうです。最後に勝利を届けられるように頑張ります。

 

菊地さん・可知先生・町田さん・鳥居さんへ

コンディショニングや怪我からのリハビリで大変お世話になりました。特にラストシーズンは心身への負担が大きい中、数少ないリラックスできる時間となっていました。ありがとうございました。

 

野村さんへ

結果が出ている時もそうでない時も、目をかけてくださりありがとうございました。ラストシーズンにキャリアハイの活躍を見せられるように頑張ります。

 

4年投手陣へ

癖の強いメンツでそれぞれの世界を持っているのに、結束力のある奇跡の集団だったと思います。また読売ランドに皆で行きましょう。

また、江口(4年/投手/海城)・佐伯とは最初期のA昇格組として、ずっと一緒に練習していたように思います。周平(山口周平/4年/投手/三重)・武田(4年/投手/岡山白陵)も加えた5人で、最後にリーグ戦でどでかい花火をぶち上げてやりましょう。

 

前田・永島班へ

永島(4年/投手/開成)

少人数班の日程決めの相談や会の企画など、実務的な所は頼り切りでした。新入生の班員決めも永島に全振りしちゃってごめんなさい。色々いじられてるけど、永島がいなければ色々な所で支障をきたしていたと思います。ありがとう。今度ラーメン食べる時は誘ってね。

岩佐(3年/学生コーチ/浅野)

班長として岩佐の類稀なユーモアセンスをうまく扱いきれなかったことがまず反省です。肘の怪我から選手生命をかけて復帰しようとしていた岩佐に、正しい声掛けができていたのか今も分かりません。野球に関しては真面目に取り組める人だと思っているので、来年岩佐が作る最強投手陣をスタンドから観れるのを楽しみにしています。

栗林(3年/投手/灘)

来年もっと飛躍できる投手だと思っています。振り返りも基本完璧であまりアドバイスもしなかったし、逆にこっちが色々なことを教わっていました。リーグ戦でまだ納得できる結果を出せていないのかもしれないけど、栗林ならきっと大成する時が来ます。自分の取り組みを信じてこれからも頑張ってください。

中根(2年/投手/筑波大駒場)

1年の頃からリーグ戦で投げていて純粋に凄いと思っていたし、自分も下級生に負けていられないとやる気になったきっかけでもあります。小山(2年/投手/灘)や池田(2年/投手/江戸川学園取手)、富田(2年/投手/麻布)らも加えてのドラマトークが日々の楽しみでした。これからさらに投手陣の中心になっていくと思うので、慎之介(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)を押し退けて第1先発を勝ち取るくらい貪欲になって励んでほしいと思います。

杉山(2年/投手/西大和学園)

課題が山のようにある中で、そこから逃げずに真っ向から立ち向かっている所が尊敬できます。技術的なアドバイスがあまりできずに申し訳なかったです。今がある意味1番大事な時期だと思うけど、こういう修羅場を経験できることをプラスに捉えて頑張って欲しいです。投げのアングルは下からだけど、マウンドでは下手に行かず、強気でいきましょう。

内部(1年/投手/開成)

1年の時から投球のみならず、Pフィルや牽制なども考えて練習をするのはなかなかできないことだと思います。少なくとも自分は全くできませんでした。色々な側面で考えられるということはストロングポイントですが、考えすぎて頭でっかちにならないようにだけ気をつけて欲しいなと思います。いじられすぎて困った時はいつでも相談に乗ります。

髙村(1年/投手/新潟)

変な奴で面白かったです。少人数班のたびにメンタルについての相談をしていたように思います。自分ではメンタルが弱いと感じているかもしれないけど、多分君は強い方だと思うよ。試合に沢山出て結果も残せていると思うので、身体操作とフィジカルを極めて早速来春のリーグ戦で活躍して欲しいです。

福留(1年/投手/高知追手前)

春リーグ後に颯爽と現れた、班の清涼剤でした。福留の存在が、うちの班の風通しを良くしてくれたと思います。野球部随一のポテンシャルを活かして、東大最強の本格派投手を是非目指してください。ただし、少人数班中に内部とイチャイチャしすぎるのはやめてください。

 

由機さん(R6卒)・Dさん(R7卒)・渡辺さんへ

3人とも少人数班でお世話になりました。由機さんは私が16を着ける理由のもう半分でもありました。由機さんのような投球はなかなかできませんが、16に見合う投手だと少しでも思っていただけたら幸いです。

Dさんは私の投球スタイルと重なる部分も多く、色々な所を参考にさせて頂きました。唯一少人数班会ができなかったのが心残りでした。それも先日増田さん(R8卒)や佐伯も含めて一緒にご飯に行けたことで晴れたと思います。Dイズムを広められるようあと少し頑張ります。

渡辺さんには昔も今もお世話になっています。どれだけご飯を奢ってもらったか覚えきれません。色々な相談に乗って頂きました。エースとして様々な葛藤や苦労があったかと思います。それでも、そこに真摯に向き合い、結果を残すところが最高にかっこよかったです。またよろしくお願いします。

 

早瀨(3年/投手/藤島)へ

道端で会うと公衆の面前で毎回、「ン前田さんじゃないっすかー!」と声を掛けてくるのが恥ずかしかったけど、内心嬉しかったです。選手としても成長曲線には目を見張るものがありました。早くリーグ戦に出て「早瀨さんじゃないっすかー!!!」と私にスタンドから言わせてください。

高橋(3年/投手/日比谷)へ

冬の間リハビリを共有していたのが懐かしいです。なかなか結果には結びついていないけど、実力的にはそろそろリーグ戦で無双しても良い頃合いじゃないかなと思います。高橋の150キロが早く見たいな。

有水(3年/投手/鶴丸)へ

私があげたアイマスクは今も使っていますか?心身を整えさえすればきっとリーグ戦で活躍できます。気負わず、卑屈になりすぎず、だけど謙虚に今後も頑張れ。

小山へ

いつもコンプレフロス巻いてくれてありがとう。小山のコンプレで練習を終えるのがルーティンでした。手術した来年は完全体がみれると信じて、神宮で応援しようと思います。

 

明石(4年/捕手/渋谷幕張)へ

捕手として非常に頼りになる存在でした。怪我を抱えながらも、秋に捕手として戻ってきてくれたことが嬉しかったです。引退したら、寮食を食べに行って明石にいじられることも無いのかと思うと、すごく寂しい気がします。いつかサシでご飯を食べに行きたいです。

大山(3年/捕手/ラ・サール)・深見(3年/捕手/サレジオ学院)へ

ブルペンやOP戦で、2人とはバッテリーを組むことがかなり多かったように思います。受ける回数が増えるにつれて、自分と2人の配球が一致することが多くなり、とても投げやすかったです。大山とはまたホークス戦を観に行きたいです。今度はいわくなしの試合を見に行こう。深見とは引退した後も、たまに温泉に行けたらなと思います。また深い話をしましょう。

 

石川さん(4年/内野手/灘)へ

石川さんとご飯に行くと、いつも喋り倒してくれるので居心地がよかったです。石川さんと佐伯と私で行くなりたけが、どんなラーメンよりも美味しかったです。何があっても腐らずに努力を続ける姿は、同期として尊敬できます。苦しんで苦しみ抜いた果てにはリーグ戦の舞台がきっとあると信じています。最後に一緒に神宮で戦おう。

小村(4年/内野手/私立武蔵)へ

七大戦で酷すぎる投球をしてしまい申し訳ございませんでした。あの時の小村が今まで会った人の中で1番怖かったです。あと、歌が下手なのをネタにしすぎてしまい申し訳ございませんでした。小村に謝れてないことをこの場を借りて清算させて頂きます。これからも仲良くしてくれると嬉しいです。

 

修吾(片山/4年/アナリスト/筑波大駒場)へ

春リーグ後のピッチデザイン相談会で修吾に、「このままでいいから後はしっかり投げきれれば大丈夫」と言われたおかげで自信が持てました。スライダーをなんとかしようって言って、一緒に試行錯誤していたのがすごく昔のことのように思われます。

修吾を含めた日本一のアナリスト達のおかげで、凡庸な私でもここまで神宮の舞台で勝負できています。本当にありがとう。SNSとかコンペとか、色々チャレンジしている向上心を私も見習いたいです。

石田(4年/マネージャー/札幌西)へ

学科も一緒、授業も一緒、バイト先も一緒と、野球以外のところで1番関わりのあった同期でした。いつもリアクションに困る話をしてしまい申し訳ないです。色々なことがあった当時、バイト後にこくわで一緒にがくれいを食べてる時に、「やっぱ辛えわ」とネタみたいに連呼していた石田。いくら鈍感な私でも、精神的に参ってるんだろうなと察していました。友人として、チームメイトとして、あの時うまくコミュニケーションが取れていたのか自信はありませんが、最後まで石田がマネージャーをやってくれてすごく嬉しかったです。あと少し、一緒に野球頑張ろう、そして卒論を乗り越えて一緒に卒業しよう。…もしかしたら後者の方が難しいかも?

堂埜(4年/主務/湘南)へ

何人かでの飲みの時に、色々と饒舌に語る私に言った「前田は人生の幸福度が高そう」という言葉、皮肉で言ったのかもしれませんが、私にとっては前向きになれる言葉でした。主務として様々な苦労があったかと思いますが、常にキビキビ明るく振る舞っているところはすごいなと思います。あと、長崎合宿でまだ太陽も出ていない朝早くに、空港まで送ってくれたことにはマジで感謝しています。またハブ酒を飲みましょう。

その他マネージャー陣へ

私のことを、写真や動画を撮っていたら、隙あらば写り込もうとする厄介な選手だと思っていたかもしれません。申し訳ございません。あと試合は少しですが、かっこいい写真をいっぱい撮ってくれたら嬉しいです。私達が野球をできているのも、貴方達がその環境を整えてくれているからだと思います。選手からの要求にも真摯に対応してくれて非常にありがたいです。我儘な選手達をこれからも支えてあげてください。

 

堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)へ

入部した時から絶対こいつがキャプテンやるだろうなと思っていました。みんなに気を配って、圧倒的な声でチームを盛り上げてくれる堀部がキャプテンだったから、最後の1年明るく野球をやることができました。堀部のチームが最後尻すぼみで終わっていいわけがありません。テンションも成績も右肩上がりでフィニッシュしよう。

 

南(1年/内野手/熊本)へ

最後の最後に、熊高から南が入ってきてくれて本当に嬉しかったです。同期も多いし、まだ試合に出る機会は少ないかもしれないけど、チャンスは必ずどこかでやってきます。そして、そのチャンスを掴めるかは、日々の準備に全て懸かっています。リーグ戦で私以上の結果を残して、熊本高校の名を全国に轟かせてください。これからは1人のOBとして応援したいと思います。

 

応援部の皆様へ

リーグ戦を初めて観た時から、あの大応援の中で投げるということが大学野球を続ける大きなモチベーションでした。怪我や不調でベンチを外れて気落ちしている時も、応援部が全力で盛り上げる姿を見ると、ここからまた頑張るぞという気持ちになれました。投手ながら、2年春に打席で「不死鳥の如く」を聴けた私はこの上ない果報者だと思います。グラウンドから応援を受けられるのもあと僅かですが、皆様が応援して良かったと思えるような試合ができるよう、微力ながら全力を尽くします。

 

 

結果的に本文と同じぐらい書いてしまいました。まだまだお世話になった方はいますが、これぐらいにしておきましょう。

 

最後に野球というスポーツへ一言。

「ありがとう」、それしか言う言葉が見つかりません。

 

明日は先ほどのメッセージに登場した、片山修吾の野球人生です。4年アナリストの良心・常識人枠ながら、後輩アナリストにはどうやら激詰めして怖がられているとの噂。明日の物語には、どちらの顔の修吾が現れるのか、お楽しみに!

 

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次回は10/13(火)、片山修吾アナリストを予定しております。