フリーパス付きアプリ 2026年度版 販売中!
BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.29 堂埜 智咲紀 主務

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『僕の野球人生』vol.29 堂埜 智咲紀 主務(4年/湘南)

頑なに「堂埜さん」とさん付けでしか呼んでくれなかった永島(4年/投手/開成)からバトンを受け取りました。マネージャーの堂埜です。呼び捨てしてくれない理由は「なんか怖い」からだそうですが、断じてそのような性格ではないことを、この場を借りてお伝えします。

 

引退が近づき、最近「4年間長かった?短かった?」といった話をよくします。

あっという間に過ぎていった気もする一方で、節目節目で、先の見えない長いトンネルにいるような感覚になったこともありました。そんな、短いようで長かった4年間と、そこに至るまでの道のりを自分なりに振り返ってみようと思います。

 

普段はあまり過去を振り返らないタイプの人間ですが、記憶を手繰り寄せながら、野球人生を辿っていきます。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

野球好きの両親の影響で、気がついたら野球が大好きになっていました。

父親からクイズ形式で野球のルールを教わり(ベースに当たったボールはファウル?フェア?など)、YouTubeで昔の甲子園の名場面を見せられて、休日は家族で横浜スタジアムに行き、家族旅行の行き先は2月の沖縄キャンプ…その全てにものの見事にハマりました。

3つ下の弟に野球をさせたいという気持ちが両親にあったのでは、と推察しますが、弟と同じか幼少期は弟以上に私の方が野球好きだったと思います。

 

そんな私が”マネージャー”という役割に興味を持ったきっかけも、また父の影響でした。

小学校3年生くらいのことだったと思います。ある日、堂埜家に父の実家から大量の野球漫画がやってきました。まず父に勧められた『タッチ』を全巻読み、漫画を読むのが得意でないと悟った私は、他のタイトルに手を出すことなく、何度もタッチだけを読み返していました。
読むごとに甲子園そして高校野球のマネージャーへの憧れは強くなり、私の夢は「マネージャーとして甲子園のベンチに入ること」になりました。
よく勘違いをされるので先に訂正しておきますが、南ちゃんになりたかった訳でも、タッちゃん(カッちゃん)と出会いたかった訳でもありません(笑)。

 

父に買ってもらった「野球スコアのつけ方」という本を参考に、テレビに齧り付いて高校野球やプロ野球のスコアを書きました。弟が少年野球を始めてからは週末がもっと楽しみになりました。早朝に家を出て、車に乗って遠くのグラウンドへ行き、試合を見てたまにスコアを書いたり、カメラで写真を撮ってみたり、帰りの車内で繰り広げられる父と弟の反省会を聞いて「野球をする側の人は大変だろうな」と思っていたりしました。

いつの頃からか、「マネージャーとして甲子園のベンチに入ること」という私の夢はより具体的に、「湘南高校のマネージャーとして甲子園のベンチに入ること」に変わっていきます。

小学生の頃、勉強が好きで得意だった私に、両親が「湘南高校は勉強も頑張ってて野球も強いよ(超意訳)」と教えてくれたのがきっかけです。両親は私に勉強に対するモチベーションを与えるつもりだったのかもしれませんし、ただ何の気なしに言ったのかもしれません。ただ、自宅から比較的近い進学校で、春の大会で準々決勝に進むなどしていた湘南は、私にとってあまりにキラキラして見えました。野球も勉強も頑張って、強豪私学を倒して甲子園に行く、その一員に自分がなることを想像するとワクワクしました。
小学校を卒業する頃には、周りの友達に「将来は湘南高校で野球部のマネージャーをするんだ」と豪語していました。

 

とはいえ、すぐに高校生になれるわけでもありません。地元の大磯中学校に進学した私は、中学での部活動という壁にぶつかります。

特にやりたいスポーツも得意なこともなかった私は、野球に似ているという理由でソフトボール部に入りましたが、部活に対して前向きな目的意識を持てずにいた一方で、人間関係や人数の少なさといった苦労は絶えず付きまとう、しんどい期間でした。何より、実際にプレーしてみる中で「自分はプレイヤーには向いていないな」と痛感させられる日々でもありました。
何かを得られたと言えるような格好の良い3年間ではなく、ただただ目の前の日々をやり過ごし、漠然と過ごしてしまった感覚しか残っていません。

 

そんな中学生活で特筆すべきことがあるとすれば、1つは中学1年生の夏、湘南高校が神奈川県大会で2年連続16強入りをしたことです。これを機に(?)、湘南野球部がいくつかの本で取り上げられ、私はそれらを読み漁り、湘南高校野球部には野球日誌が存在すること、練習前にはみんなで歌を歌っていること、その中から東大野球部で活躍する選手がいること…色々なことを知りました。

2つ目は、当時のチームメイトのお兄さんが湘南高校を卒業したのち東大野球部でマネージャーをしていると知ったことです(柳田さん(R2卒)です)。
ただ、中学時代には、湘南高校に行けば頭のいい人は東大にも行けるんだなあとしか思わなかったような気がします。

 

高校野球でマネージャーをできた2年半は、それまでの人生で一番楽しく一番しんどく一番やりがいのある日々でした。
通っていた塾の高校合格実績を示す折込チラシに「野球部のマネージャーをやりたいです」と顔写真付きで掲載されたため数名の先輩方が私の存在を既に認知している、というマネージャーにしてはあまりにも前のめりな状況で入部した私は、前もって湘南野球部がどんなところかある程度知っているつもりでいましたが、入部早々に「どうやらすごいところに来たようだ」と思い知らされました。

朝から晩まで日が沈んでも続く練習と部活以外の時間も気を抜けない野球部員としての学校生活。毎日必死に練習(と川村先生)に喰らいついては、制服を着たままリビングのソファに倒れ込んで朝を迎える、そんな生活が最初のうちは、いや、2年夏頃のコロナ禍を除いて引退まで続きました。
体力的に限界まで追い込まれたと言っても過言ではない日々でしたが、練習する選手を間近で支えること、何より大好きな野球を四六時中見ていられることはこの上ない幸せでした。尊敬できる大人や先輩、個性あふれる同期に恵まれ、毎日充実していました。

公式戦はもちろん毎週末の練習試合においても、勝てば嬉しいし、負けたら悔しくて家に帰っても引きずる、チームの勝敗は私の感情に直結していました。
チームの勝ちに貢献できるマネージャーになりたくて、試行錯誤した日々は宝物です。

けれども、甲子園に出場することも、”強豪私学”に勝つことも、高校野球で叶うことはありませんでした。心の底から悔しかった。
なぜ東大野球部に入ったのかという質問に対する、自分の(本当の)回答はこれです。

 

 

ここで、そもそも私が東大野球部を目指すようになった理由についてお話しします。

先ほど書いたように毎日部活で体力の99.99%を使い果たしていた私は、勉強をどんどん後回しにしていました。湘南に入学してから、「本当に頭の良い人」や「自分を律して努力を重ねられる人」たちと出会い、勉強というフィールドには自分の手が届きそうにもない人が世の中にたくさんいることを知ったことも、勉強を後回しにした理由の1つでした。実際、同期の杉浦(R8卒)は1年生の時から東大に行くと言っていて学年で1ケタの模試成績を取っていたし、東大は私にとって「すごい人たちが行くところ」でした。
一方で、湘南から東大野球部へ進んだ偉大な先輩たちの存在があったので、東大野球部に密かに憧れを抱いていたのも事実でした。

高校1年生の6月、練習試合に訪れた東大球場で、初めて画面上・紙面上ではない生の東大野球部を目にしました。部全体で、当時現役部員だった大久保(英貴)さん(R4卒)にキャンパスを案内していただき、”すごい人たち”という漠然としすぎていた東大野球部へのイメージが一気に現実味を帯びて私の中に入り込んできました。この時はまだ高校に入学したばかりで甲子園しか私の頭にはありませんでしたが、大学野球でも強豪私学に立ち向かおうと本気で努力を重ねているチームがあるのだと知ることができました。
この頃から、大学野球のマネージャーって何をしているんだろう?と空いた時間で東大野球部のHPやブログを眺めるようになります。とりわけ「マネージャー」カテゴリに分類されているブログは、受験期を含め繰り返し読むようになりました。

もう一つの印象的な出来事は、野球部で行った東京六大学野球のリーグ戦見学です。公式戦でのアナウンス(所謂ウグイス嬢)を経験し、どうやら自分はアナウンスが好きらしいと感じていた私は、神宮球場でアナウンスを担当する六大学のマネージャーに強い憧れを感じました。
余談ですが、普段「なぜ東大野球部に入ったの」と聞かれた時はこの経験を話しています。先ほど強豪私学に勝つことを「本当の回答」と含みを持った表現にしたのは、大学野球のマネージャーをしているうちに、「勝つのは自分ではなく選手だ」という気持ちが大きくなったからです。詳しくはまた後ほど。

このような経験から、心の奥底に東大野球部に入りたいという気持ちが芽生えました。それでもなかなか言葉には出せませんでした。当時の私は、テストの順位で言えば東大を目指せる順位ではなく、目指すとしても浪人は必至、浪人しても受かるか怪しいなと思っていたからです。
そんな高すぎる目標を口に出すのは憚られました。

転機は高校2年生の冬でした。大久保監督(当時は東大助監督)が、湘南の練習に顔を出してくださり、「東京大学」と印字された硬式球を贈ってくださいました。練習も終わりかけの頃、川村先生から「東大行きたい奴集まれ、本気で目指すならボールもらっていいぞ」と呼びかけられ、勇気を出して硬式球を頂きました。自分が東大野球部に行きたいという気持ちをはっきり人前に出したのはそれが初めてだったのではないかと思います。

東大を目指すと決めたとき、既に学校では進路希望調査が行われていたような気がします。勢いでボールを受け取ったけど何をすればいいんだ…予備校にも通わず定期テスト前に付け焼き刃の勉強しかしたことがなかった私は、藁にもすがる気持ちで進路担当の先生に「野球部のマネージャーをしたいので東大を目指そうと思います」と伝えました。先生からは「浪人覚悟になると思うけどいいね?」とはっきり伝えられました。今思い返せば随分ストレートすぎるお言葉ですが、おかげで覚悟は固まりました。
ちなみに、両親にはどのタイミングで伝えたのか、全く覚えていません。それでも私がもし親だったら、「野球部のマネージャーをやりたいから浪人して東大を目指す」と娘がある日突然言い出したら不安で居た堪れなくなるだろうという想像はできます。記憶に残らないくらいあっさりと受け入れてくれた両親には感謝してもしきれません。

 

 

東大を目指し始めて、授業こそ一睡もせず受けられるようになったものの、授業以外の時間に勉強する体力が無いのは変わらないままでした。
予定通りと言ってはなんですが、3,40点差で不合格となり、浪人生活が始まりました。杉浦はひと足先に東大野球部の世界に足を踏み入れていました。

浪人の1年間は、高校時代に勉強していなかった分伸び代が大きかったこともあり、それほど大変ではありませんでした。
浪人中、杉浦と話した回数は多くありませんでしたが、二次試験が終わった2月26日に、ちょうど東大野球部が沖縄合宿中のオフ前だったこともあり、ちょうど沖縄にいた高校の1つ上の先輩と3人で朝まで電話をしたのは良い思い出です。試験の出来は五分五分かなと思っていたのに、あまりにも受かった前提で話題が進んでいたので、合格したのかと錯覚しそうになりました。その日は高校の思い出も含め色々な話をしましたが、東大野球部がどうやら湘南野球部とは全くと言っていいほど違うチームであるということを断片的に知りました。

 

無事東大に合格することができ、午前練後の杉浦と電話で話し、谷村さん(R7卒)に「よろしくお願いします」とメッセージを送って、晴れて入部…と思いましたがチームに合流したのは春季リーグ戦の開幕後でした。どうやら女子マネージャー希望者が多く、面接をするかもしれないとのことでした。高校時代、同期はおろか1学年上のマネージャーの先輩もいなかった私にとって、”マネージャーの同期”というのは新鮮な概念でした。まだ見ぬ同期にワクワクしました。

蓋を開けてみると、当初同期に女子マネージャーはおろか女子スタッフすら1人もいませんでした。石田(4年/マネージャー/札幌西)が唯一の同期マネージャーでしたが、2人しかいないとシフトは被らないもので(それぞれ先輩に仕事を教わる必要があるため当然です)、先輩にひたすら業務を教わる日々が始まりました。

毎日が新鮮で楽しかった一方で、驚きや戸惑いもたくさんありました。(これは1年生の何も知らない私から見た感想で、今も思っているわけではないですが、)高校までの部活とは異なり、大学野球はチームの規模が大きい分、個人主義だなと感じました。
マネージャーもシフト制で動いていました。チームの誰かが活動しているのに自分はオフ、その感覚に慣れるのには時間がかかりました。また、一人では到底こなせない仕事量ゆえに役割分担がされていたのですが、これにもまた慣れるのには時間がかかりました。正確に言えば、「この組織の全体像は、一体誰に見えているのだろう??」という漠然とした疑問が浮かぶようになったのです。
今思えばこの疑問こそが、私が主務を志すようになった理由を一番うまく言語化したものだったのかもしれません。時期もきっかけも正確には覚えていませんが、主務になりたいと思うようになりました。

細かく書くつもりはありませんが、当時「大変だから主務はやめておいた方がいい」という趣旨の意見をいただいたこともあります。それが性差に基づく意見だったのか、単に私という人間の適性についての意見だったのか、真意はわかりません。どちらの理由にせよ、性別や前例といった理由で保守的になっていては、組織の改革も改善も進むはずがないのではないかという疑問を抱くようになったきっかけでした。

なんだか暗い文章になりかけていますが、この頃は楽しいこともたくさんありました。

1年生の時は平日シフトがSセメAセメともに角能さん(R7卒)と一緒だったのですが、忙しい実習の隙間を縫って昼休みに現れる舞穂子さん(R6卒)と3人で過ごすマネ部屋が大好きでした。スタッフの人数も今とは比べ物にならないくらい少なかったので、マネ部屋には今よりずっとゆったりとした空気が流れていました。

 

フレッシュが終わる頃には同期マネージャーが4人になっていました。高校時代ほとんどの期間を1人もしくは後輩と2人というマネージャー体制で過ごしてきた私は、同期が4人もいれば何でもできるような気がしたし、マネージャー組織はもっと良くなると思っていました。

 

1年生の夏、七大戦が東大主管で開催されました。私は合宿には帯同しなかったので、夏の一大イベントでしたが、台風が直撃し全く日程通りに進まず、日々想定外の連続でした。普段のマネ部屋でのデスクワークから飛び出し、大会運営に関わらせてもらった経験によって、やりたいことの幅が広がりました。1年生なので力になれることは限られていましたが、東大球場と弥生キャンパスをバス対応のために走り回ったのも良い思い出です。

七大戦の経験を経てやりたいと思ったことの1つ目は些細な業務のマニュアル化です。それまで大きな仕事にはマニュアルないし引き継ぎが存在していたものの、毎月特定の人がやる仕事や下級生が担当する些細な仕事にはマニュアルがなく、口頭で教えられることがほとんどでした。
人が増えればその人数分一から口頭で説明する必要があり、また口頭での説明には伝え忘れるリスクもあります。そこから、最低限の質の担保という意味を込め、業務の書き起こしを始めました。
現在の下級生の中では更に色々なことがマニュアルになっているようで、流れを作る一助ができたのではないかと嬉しくなります。一方でマニュアルがあれば誰でも質の高い仕事ができるかと言われるとそうではありません。引き継ぎを読み込むタイプの人もいればサラッとしか読まない人もいますし、言葉のニュアンスが伝わっているとも限りません。
後輩たちはどうか対面でのコミュニケーションを大切に。

七大戦の経験を経てやりたいと思ったこと2つ目は、大会・試合の運営です。これは今やっている仕事で言うところの、連盟でのリーグ戦運営とオープン戦の調整です。色々と考えもありこれらの仕事をやりたいと積極的に言ってきたことはなかったですが、例えオープン戦であっても、1つの野球の試合を作り出すことに自分が関われているというのは、何とも幸せな感覚でした。何より、七大戦でテキパキと働く先輩たちがとても格好良く、その姿に憧れたのも理由の1つです。

 

夏が終わると秋季リーグ戦が開幕しました。春のリーグ戦は入部こそしていたものの、右も左もわからない状態だったので、これが初めて関わるリーグ戦と言っても良いでしょう。

神宮での色々な仕事を学んで、チームが負けたら悔しくて、ファンの方の生の声援を目の当たりにして、そして入部して初めて東大野球部が勝利しました。
勝利の瞬間は舞穂子さんと一緒にカメラ席にいたと思います。自分の代のリーグ戦で勝てたら、自分は一体どんな感情になるのだろうと胸を高鳴らせました。

 

ちょうどこの頃、自分には一つ心配事ができていました。それは自分が「近隣住民」ではないことです。文字にするとなんだかとてもアホらしい悩みのように見えますが、当時の私にとってこれは徐々に深刻な問題となっていました。実家から東大球場までは2時間弱の道のりでした。
決して通学時間の長さが苦痛だったのではありません。
遠征で朝が早い時、些細なことだけれど本当は球場に行った方が良い仕事、小さい話し合い…周囲の人は私を気遣って「遠いから無理して来なくていいよ」と声をかけてくれていました。

ありがたいと思う一方で、ある種の疎外感というか、上級生になって重大なことが起きた時自分はなんの力にもなれないのではないか、といった焦燥感が生まれました。というか単刀直入に言うと、主務になりたいなら近隣住民になるしかないと思いました。
女子部員は寮に入ることができないため、球場の近くに住むには一人暮らししかありません。

大学1年生の12月、両親に一人暮らしをさせてほしいと相談しました。
もし私の心配が杞憂だったら、もし私が主務になりたいと思っていなかったら、両親にとって必要のない出費であることは明白でした(もちろん主務になれたとしても両親にとって必要な出費ではない)。そもそも私も、大学に入った頃はまさか自分がその年の暮れに一人暮らしを希望するなんて全く想像していませんでした。
それでも両親は許してくれました。どこまで行っても頭の上がらないエピソードしか出てきません。

トントン拍子に話は進み、2月の中旬から一人暮らしを始めました。

チームは新入生を迎える準備を始め、自分がもう先輩になってしまうのかと思うと同時に、近くに住むようになったことでこれからはもっと部活にコミットできる、とワクワクしていたことを思い出します。

 

新歓担当は絶対に向いていないと思ったので同期にお任せしました。

 

3月末に初の遠征経験であるスプリングフレッシュリーグin茨城に考えるさん(R8卒)と一緒に帯同しました。創設されたばかりの大会で色々と大変なこともありましたが、運営サイドとのやりとりという渉外的な仕事を(ほぼ)初めて担当したこと、それまで何を話したらいいか分からなかった考えるさんと普通の雑談ができたこと、女子スタッフ(私と桜子(寺嶋/4年/アナリスト/お茶の水女子大附))は男性陣と宿舎が別だったので、二人で夜の水戸駅周辺を散歩したことなど、思い出に溢れた初遠征でした。

 

初めての後輩ができました。横田(3年/マネージャー/湘南)も入ってきてくれたし、女子マネージャーは3人も入ってきてくれました。ここで一つ謝っておきたいことがあります。私自身、後輩が嫌いという訳では全くないのですが、私は仕事を教えつつ(きっちりした先輩の顔をしつつ)後輩と仲良くなるのが著しく苦手で、打ち解けようにも方法が分からずに最初の頃はそっけない先輩をしていたのではないかと反省しています。そんな風に感じていた後輩がいたらごめんなさい。

 

後輩との接し方に少し悩んでいた頃、私は先の見えない長いトンネルに首を突っ込み始めていました。

 

春季リーグ戦もフレッシュトーナメントも1勝もできずに終えました。
フレッシュトーナメントでは神宮初アナウンスを経験し、やっぱりアナウンスは楽しいなと思いました。

このころから、チームの勝敗(主に負け)と私の感情は徐々に連動しなくなっていきました。
理由は単純明快、多くの先輩方がそう書き残してきたのと同様、私の仕事はチームの勝利に直結することはないという事実を受け入れたのです。
いつしか”強豪私学(=他の5大学)”に勝ちたいという強い思いはあれど口に出すことは無くなりました。

 

夏には初めて合宿に帯同させていただきました。
考えるさんと当時学生コーチだった数馬さん(R8卒)と3人でバンを走らせ、暑すぎる盛岡と雨すぎる洋野、天気に振り回されながら何とか終えることができました。史帆ちゃん(平松/3年/アナリスト/洛南)と2年連続クリスマスデートをするくらい仲良くなることができたのも、この合宿のおかげです。

 

合宿から帰るとあっという間に秋が始まりました。

色々とあったという他ありませんが、私は1ヶ月ほど部を離れていました。
慶應戦の勝利は、実家で中継で見ました。法政戦の勝利、門田(4年/副将/内野手/松山東)のサヨナラ打は、こっそり見に行った神宮球場の2階席から見ていました。
先述したように、この春、自分の仕事はチームの勝利に直結することはないという事実を受け入れていたのは不幸中の幸いでした。もしそれが受け入れられていなかったら、自分が全く関わっていない状態で勝利を挙げたチームに戻りたいとは思えていなかったかもしれません。

 

この期間、色々なことを考えました。4人いれば何でもできると思っていたけれど何もできませんでした。2年生の途中ごろからは、すべての歯車が空転しているような感覚を感じるようになりました。

 

チームに戻ったのは秋のフレッシュトーナメント、その後間もなく新体制が始まりました。
気がついたら上級生と言われるようになっていました。
そしてこの頃、自分の代では私が主務を務めることを学年内で承認してもらいました。
望んでいたことではありましたが、この時嬉しいとは思えませんでした。

 

3月に行った2年目のスプリングフレッシュでは、びっくりするぐらいの大量得点を挙げて3勝しました。この大会は、私にとって最初で最後のフレッシュ戦のベンチ入り機会でした。
私はなぜか3連勝で迎えた最後の筑波大学戦で負けたことが一番印象に残っています。ベンチに入っていたら感情がジェットコースターのように動かされるものだなあと妙に冷静に感じた記憶があります。

 

正直に言うと、ここから先、新体制が始まるころまでをあまりよく覚えていません。
覚えているのは断片的な情景ばかりで、あの時何を思って仕事をしていたのか、それとも漠然と日々を過ごしていたのか、上手く繋がらないのです。

 

夏はB合宿の主担当として2度目の岩手合宿に行きました。振り返ってみれば、主担当としての自己採点は30点くらいの合宿だったと思います。それは別に合宿中に何かトラブルが起きたということではありません。
簡単に言うと、自分は下級生みたいに上級生の仕事をしているということに気がつきました。
主担当になって仕事の内容も昨年とは代わり、量も増えていたにも関わらず、自分ができる範囲のことはすべて自分でやろうとしていました。横田と優里奈ちゃん(大沼優里奈/3年/マネージャー/渋谷教育学園渋谷)に仕事をたくさん振ってもっとサポートしてもらえば良かった、そうすれば自分はもっとこの合宿のために他のことができたのかもしれない、そう思いました。

今思い返せば、3年生の時にそれに気づくことができたのは本当に良かったと思います。主務になってから気づいていたら、仕事量に潰されていたかもしれません。

 

気がついたら秋季リーグ戦が始まっていました。
1年前ほどではないにせよ、このシーズンもまた私にとっては重く暗いシーズンでした。秋という季節が嫌いになりそうなくらい、私は落ち込んでいました。

 

自分たちの代が1ヶ月後には始まろうとしているのに、マネージャーの体制は定まらぬままでした。自分が一生懸命向き合ってきたと思っていたものは、他人から見たらそうではありませんでした。頼ってねという言葉を信じていたら、砂のように全てが崩れ落ちていきました。

 

それでもTEAM杉浦が勝ち点を獲得するところが見たくて、そして何より3年生の仕事という歯車を動かすために、働くしかありませんでした。杉浦が開幕戦でHRを打ったこと、その後受けた死球で実は骨折していたこと、骨折が分かった日の夜、白山のマックで閉店まで話し込んだこと。チームは2年連続のシーズン2勝を達成したけれど勝ち点には届かなかったこと。

そうして先輩たちは引退していきました。

0次会の日、漠然と抱えていた不安とずっと心に影を落としていたモヤモヤを杉浦(と増田さん(R8卒)、周平(山口周平/4年/投手/三重))に話していたら朝になっていました。美味しいお酒を一緒に飲ませていただく予定だっただけなのに、あの時長々と暗い話につき合わせてしまった増田さんと周平、本当にごめんなさい。

 

 

新体制が始まりました。変わったことは主務になったことと同期が石田だけになったこと。
ありえないくらいの不安に襲われました。準備していなかった突然の2人体制、放っておいたらキャパオーバーになることは目に見えていました。
湘南会が開かれたあの日、秋葉原から歩いて帰る道中、私は横田の隣で「どうしよう、どうしたらいいかな?」という言葉しか出てこなくなっていました。(つくづく頼りない先輩で本当にごめんなさい。)

 

一方でこの頃、私の心情に変化がありました。追い込まれすぎて開き直って仕事に打ち込むしか選択肢がなくなっていたのかもしれません。悩むことをやめたのではなく悩む暇がなかったのかもしれません。私が何らかの理由で仕事を止めることは部の活動が止まることを意味していました。
東大野球部の主務としてやるべきことをやるだけ、それが私のモットーになりました。

幸いにも仕事は沢山ありました。春季オープン戦の調整や冬の間の行事の連絡など例年主務が行っている仕事に加え、グッズ企画やEngate運営など、下級生の頃から関わっていた仕事の統括を行うようになりました。さらに、春のA合宿に帯同できることになりました。

オープン戦の調整やチームのスケジュール管理は分からないことの連続でした。
幹部や学生コーチに空っぽのカレンダーを押し付けては、どんなスケジュールが良い?と意見を集めました。私には高い能力はないけれど、ひたすらに意見を求めてそれを調整する根性だけはあると思っていました。細かいことばかり聞いて幹部や学コの仕事を増やしたことに申し訳なさもありますが、私のできる精一杯をしたつもりです。

 

後輩、特に現3年生には、今まで4年生が担当していた仕事のいくつかを担ってもらうことになりました。
「この組織の全体像は、一体誰に見えているのだろう??」
入部したばかりの頃の疑問を思い出しました。
上級生全体で責任ある仕事を広く分担している今、全体像を俯瞰するのが自分の役目だと思いました。
私が目指すべき主務としての在り方が明確になった気がしました。

 

新チームになってからは、六大学の横の繋がりにも助けられました。
同じような悩みや不安を抱えている他大学の主務と話すと、心強く感じました。

気がついたら年が明けていました。

 

最初で最後のA合宿帯同をさせてもらった長崎合宿は、横田と聡子(藤井/2年/マネージャー/桜蔭)のお陰で本当に楽しかったです。2人ともありがとう。日程が進むにつれて聡子と怖いくらいシンクロしていったのも良い思い出です。
長崎合宿中にぼーっと練習を見ていたとき、「このチームは勝ち点を取りそうだな」と思いました。

 

東京に戻ってOP戦をしていたらあっという間に社会人対抗戦を迎えました。

初めて神宮球場のベンチに入りました。主務のくせして石田や横田に「これってどうするの?」「他にやることあるっけ?」と聞きまくり、なんとも格好のつかない1日でしたが、ベンチから見る神宮球場は、いつにも増してキラキラして見えました。

 

リーグ戦が開幕しました。

 

完封負けを喫する石田とは対照的に、ベンチ入りはずっと惜しい試合が続いていました。土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)からは”ナイスゲーム長(=ナイスゲームはできるけど勝てない)”という何とも不名誉なあだ名を頂きました。
自分がベンチに入ってもちろん勝ちたかったけれど、いつしか石田がベンチの日に勝てますようにと願うようになっていました。

チームは早稲田大学との2回戦で引き分けました。悔しさで眠れませんでした。それは高校時代のような勝利に貢献できなかった自分への悔しさではなく、みんなの努力が実を結びそうで結ばれないもどかしさからの悔しさでした。次々と舞い込む仕事に忙殺されそうになっていてもなお、勝ちきれなくて悔しくて眠れなくなるくらい、チームへの想いは消えていないんだと安堵したような気もします。
思い返せば入部したばかりの2023春、立教大学との1回戦で引き分けた時、東大野球部が他大学と互角の戦いをする姿を見て私は喜んでいたと思います。
それから3年経ち、引き分けでは喜ばなくなった自分がいました。引き分けで喜べないくらい力があって”勝てそう”なチームを作り上げた同期を誇らしく思いました。

 

翌週の法政大学との1回戦で、チームは初勝利を挙げました。
ベンチには石田がいました。本当によかったと心の底から思いました。
私が自分のことでいっぱいいっぱいになっている間、石田もしんどい思いをしていたに決まっていました。私のせいで本来石田がしなくて良かった苦労をさせてしまっているという自覚もありました。
どうにかして石田が報われることは、私にとっての願いであり救いでした。

その日、私はというと、連盟室での仕事である入場料精算が長引き、試合終了まで連盟室を離れられませんでした。本当は試合が終わったらベンチ裏に行きたかったけれど、明石(4年/捕手/渋谷幕張)にホームランボールを渡したかったけれど、西岡(1年/マネージャー/海城)にやることを一通り説明して託しました。

バスに乗り込む前のみんなの晴れやかな表情を私は一生忘れないと思います。

 

翌日は自分がベンチに入りました。
現実??もしかして夢??と思うくらい、東大打線はスルスルと得点を重ねていきました。
ふわふわとした気持ちでスコアをつけているうちに試合が進み、気がついたら最後のバッターがレフトフライを打ち上げていました。試合が終わった瞬間、後から指摘されるくらいボロ泣きしていました。勝ち点を獲得したことが嬉しかったのか、安堵したのか、逃げ出さなくてよかったと思ったのか、何の涙か言語化するのは難しい、おそらくその全てが混じった涙でした。
整列をした時、大久保監督、石井助監督、そして鈴木部長と握手をしました。スタンドからは溢れんばかりの歓声と拍手が聞こえました。

まだまだこの景色を見たいと思いました。

 

リーグ戦が終わり、夏を迎えました。

実は9月のリーグ戦開幕前日に大学院入試を控えていました。
私は夏季合宿には帯同しないことになっていたので、8月前半の合宿裏で勉強を進めようと思っていました。
しかし、部活と勉強の両立ができないのは高校生の時から変わっていませんでした。
勉強を始めようと図書館に行っても、部活で抱えているタスクが頭を過り全く集中できませんでした。業務を疎かにしてミスが出るということは、リーグ戦前の大事な時期にチームに1番の迷惑をかけることを意味していました。何も来ていないのにPCを開き、メールを見てLINEを見て…と意味のない作業を繰り返さないと落ち着かなくなりました。

結局大して勉強もできないままに、七大戦の会場である福岡へ向かうこととなりました。

七大戦は常に頭の中に「院試やばい」の5文字が居座り続ける中での遠征、ホテルが1人部屋で病みかけましたが(女子が1人だったので仕方ない)、総じて楽しい遠征でした。結果的に3年ぶりの優勝をすることもできました。遠軽合宿からぶっ続けの石田が主管校との連絡やスケジュール調整をしてくれていました。私の勘違いかもしれませんが、石田と2人で乗るバンの居心地が春より格段によくなった気がしました。

 

七大戦が終わって東京に戻ると、最後のリーグ戦開幕まで1ヶ月を切っていました。
院試には落ちました。
リーグ戦が開幕し、あっという間に最終カードです。

色々なことがあった4年間でした。一つ一つを振り返れば長い4年間ですが、全体を通して振り返るとあっという間でした。辛いことや苦しいことの方が多かったけれど、いつかそれも全て思い出として自分の胸に仕舞える日が来ると良いなと思っています。

 

 

大学野球の素晴らしいところの1つは、たとえ大会で優勝できなくたって、最後の試合に勝利して引退することができることだと思っています。

 

みんなの野球人生が勝ち点獲得で幕を下ろせますように。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

大久保監督へ
高校生の時にあのボールを頂いていなければ、「東大なんて私には無理だ」とはなから諦め、ここにいることもなかったと思います。ありがとうございました。
石井助監督も含め、お二人にはたくさんご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。
あと少し、よろしくお願いします。

 

湘南高校野球部の関係者の方へ
湘南野球部という存在に出会えていなかったら、小さい頃に勉強を頑張っていないかもしれないし、ましてや東大に入ることなんてなかったと思います。
少々のことでへこたれない身体になったのは、間違いなく湘南での3年間のお陰です。あの3年間でくだばらなかったのだから大抵のことは何の問題もないと思って過ごせています。
とにかくやる、とにかく行動を起こすという川村先生から学んだ精神は、今となっては自分の行動指針です。ありがとうございました。
97回生へ、杉浦がいなくなって試合の見応えは減ってしまったかもしれないけれど(笑)、よかったら最終カード見にきてね。

 

湘南から東大へと道を作ってくださった沢山の先輩方へ
直接お会いしたことのない方ももちろんいらっしゃいますが、皆さんの存在があったから、私は今ここにいます。
皆さんが私を東大野球部へ導いてくれたように、いつの日か、マネージャーの後輩が東大野球部に入ってくれることを願っています。

 

横田へ
色々迷いはあったかもしれないけれど、マネージャーとして入部してくれてありがとう。頼りない先輩で申し訳なかったです。全日本の運営に一緒に行けたことはとても嬉しかったです。気づけば1年ほどご飯に行けていないので美味しいもの食べにいきましょう。手紙も渡すからこの辺で(笑)。

 

寺村(1年/投手/湘南)へ
選手のバトンを繋いでくれてありがとう。神宮で投げている姿を見るのが今からとても楽しみです。頑張ってね。

 

R6~R8卒のマネージャーの先輩方へ
自分が人生で出会ってきた中で圧倒的に個性に溢れる方々でした。
先輩方一人一人との出会いそのものが、私にとっては学びでした。
そして、最上級生として1年間を過ごした今、皆さんの偉大さを身に染みて感じています。
お世話になりました。

 

アナリスト陣へ
みんなと話す全く仕事に関係ない雑談が、私にとって大切な息抜きでした。
マネ部屋は今の人数には狭すぎるし、お菓子の競合相手が増えるけど、マネージャーとアナリストが同じ部屋にいることのメリットって確かに色々あるよなと最近気づくことが多いです。
頭脳や体力を駆使してチームを勝利に近づけようとするアナリスト陣からは執念を感じて刺激を受けた時期もありました。
たくさん話してくれてありがとう。

 

他大マネへ
まずは主務陣、4年生になって分からないことだらけで不安な時、みんなも同じ気持ちなんだと知って安心しました。どんなゲームをしても試合後は連盟室で普通に話せる、みんなの人当たりの良さは世界一だと思います。居心地の良い連盟室にしてくれてありがとう。明治神宮大会頑張って美味しいご飯行きましょう。
他にも、沢山の素敵な同期や後輩に恵まれています。くだらないお喋りに付き合ってくれた人たちありがとう。自分から誘うのは苦手ですが、誘われたら喜んで飛んでいくので、ここまで読んでくれた物好きがいれば、声かけてくれると嬉しいです。

 

応援部のみなさんへ
いつも応援ありがとうございます。
ベンチで応援が聞こえてくると思わず口ずさんじゃうくらい楽しいです。
どんな時も前を向いて応援を届けてくださる皆さんは私たちにとって最強の味方です。
同期のみんな、また祝勝会したいね。
最終カードもよろしくお願いします。

 

ファンのみなさんへ
マネージャーは、みなさんの温かさを誰よりも直接感じられる”役得”な立場でもあります。
遠方から駆けつけてくださる方、素敵な写真をSNSにアップしてくださる方、熱いメッセージを送ってくださる方、応援席で一生懸命声を出してくださる方、その多くはグラウンドで戦う選手たちに向けられたエールかもしれませんが、私も元気を頂いています。
これからも東大野球部をよろしくお願いいたします。

 

石田へ
ここで色々と書こうと思っていたのですが、本文中に伝えたいことを結構書いてしまいました(笑)。
私たちは決して性格もタイプも相性がいいとは言えないと思うけれど、だからこそ足りない部分をたくさん補ってもらいました。
最後は勝ち点スコア・勝ち点アナウンスで終わりたいね。
いつもありがとう。

 

両親へ
まずは何より、私を野球大好き人間に育ててくれてありがとう。2人はもしかしたらやりすぎたって思ってるかもしれませんが(笑)。
急に東大に行きたいと言い始めるし、急に一人暮らしをしたいと言い始めるし、挙げ句の果てには留年するし。高校生の時からとんでもない量の世話をかけてきたと思います。いつも私の決断をそっと見守ってくれてありがとうございました。ここに色々書くのも違う気がするのでここら辺にしておきますが、結果的に1年早く社会に出ることになったので、少しでも多く恩返しできるように頑張ります。
快太へ
いつも自由奔放な姉でごめんなさい。快太が野球を始めてくれたおかげで、私の人生は何十倍も豊かになったと思っています。頭の良さと字の綺麗さ以外の才能は全部快太に取られていると思うので、自信を持ってね。

3人の支えがあったから無事に大学野球を終えられそうです。本当にありがとう。これからもよろしく。

 

マネージャーの後輩たちにはお手紙を渡します。もしもセレモニーの日に間に合わなかったらごめんなさい。待っててくれると嬉しいです。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

ここからは、いよいよ副将主将の3人です。
先頭に立ってTEAM2026を引っ張ってきた3人が今、何を考えているのか?
残すところあと3日間、「僕の野球人生」をお楽しみください。

 

明日は門田です。個人的には下級生の頃から活躍してきた彼のヒットをもう一回神宮で見ないと引退できないなと思っています。
難しい話し合いは苦手、でも深い話が好き、そんな門田が綴るぼくじんにご期待ください。

 

お付き合いいただきありがとうございました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次回は10/21(水)、門田涼平副将を予定しております。