『僕の野球人生』vol.17 石田 遥人 マネージャー
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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『僕の野球人生』vol.17 石田 遥人 マネージャー(4年/札幌西)



マネ部屋仲間の寺嶋(4年/アナリスト/お茶の水女子大附)からバトンを受け取りました、マネージャーの石田です。
寺嶋とは1年の夏に一緒にZOZOマリン(ZOZOマリンスタジアム)に行った覚えがあります。
初めてのZOZOマリンで、ロッテの応援かっこいいなーとか思っていました。
試合は北海道日本ハムファイターズが勝利しました。寺嶋、連れていってくれてありがとう。
さて、自分の人生を野球という軸で文章にするのは非常に大変な作業でした。
思い出したことをひたすらに書き起こしてみると、2万字近い文章が出来上がってしまいました。
全部一気に読むのは大変だと思うので、少しずつ読むことをおすすめします。
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野球との出会いはいつだったのでしょうか。
野球自体は毎朝テレビで流れるファイターズ特集で知ってはいましたが、両親ともに野球に無関心という家庭で育ったこともあり、小学校の低学年のときは野球と「出会う」ことはなく、周りがこぞってやっていたサッカーに夢中になっていました。
当時はイナズマイレブン全盛期で、「そよかぜステップ」を習得したくて、近くにある新光公園で日が暮れるまでボールを蹴り、帰ってきたらゲームをして、必殺技を勉強する。
そんな日々を過ごしていたと記憶しています。
転機になったのは、小学校3年生の冬、札幌市東区への引っ越しでした。
引っ越し前は周りに野球をやっている子は一人もいなかったのですが、引っ越し後は逆の状況になっていました。
サッカーをやっている子が1人しかおらず、野球をやっている子が10人ほどいたため、「野球>サッカー」の構図が出来上がっていました。
友達とサッカーをしに、近くの日の丸公園や北40条公園に行くと、少年野球チームがグラウンドを使って練習や試合を行っており、隅っこでサッカーをやるしかありませんでした。
今まで広いグラウンドで自由にやっていたサッカーでしたが、そんな状況では楽しむことはできず、自分は外に出ずゲームばかりをするようになりました。
ただ、そんな状況もあってか、自分の中で野球が存在感を出すようになってきたのも事実でした。
小学校5年生のときには、イナズマイレブンのアニメが終わったことも影響したのか、「パワプロ」という野球ゲームに手を出し始めました。
これが野球と「出会う」きっかけになりました。
当時は全くプロ野球を見ておらず、自分は「オオタニは160キロを投げる」、「ナカタショウが4番」程度の知識しかありませんでしたが、パワプロで徐々に選手名を覚えていき、少しずつクラスで繰り広げられる野球話にもついていけるようになっていました。
そして、石田の野球熱を完全に目覚めさせたのは、2016年。小学校6年生のときでした。
その年から本格的にプロ野球を見るようになりました。
両親が野球に関心がないため、札幌ドームに行くことはなかったですが、テレビでファイターズの試合が中継されていれば、必ずチャンネルを変更していたと思います。(多分)
その年のファイターズは、福岡ソフトバンクホークスと最大11.5ゲーム差をつけられていましたが、6月から怒涛の15連勝を記録し、リーグ優勝、クライマックスシリーズも勝ち上がり、日本シリーズへと駒を進めました。
日本シリーズでは、敵地で広島東洋カープに2勝を許すも、札幌ドームの3連戦で2試合のサヨナラ勝利を含む3連勝。
そこから移動日を挟んでもなお勢いは止まらず、4連勝で日本一を達成しました。
自分が今もこうして野球に関わっているのは、この日本一があったからと言っても過言ではありません。
日本一になったあの日、あの瞬間の映像が今でもフラッシュバックしてくるくらいには心に刻まれていますし、自分を野球の虜にさせた出来事でした。
そこから「野球をする」ことに少しずつ憧れを抱きながらも、それを表に出さない日々が続きました。
そして、その憧れが頂点に達したのが2017年3月に行われたWBCでした。
ファイターズからは宮西選手、中田選手、大野選手が選出されていましたが、自分が一番衝撃を受けたのは、千賀選手の投球でした。
準決勝のアメリカ戦、負け投手にはなりましたが、フォークボールを武器に強打者たちから三振を奪っていく様を見て、「自分もこんな投手になりたい!」と強く思ったことを覚えています。
(野球もやったことなかったくせに…)
「野球をしたい」という憧れを持ったのが卒業式間近のそんな時期でしたから、結局地域の少年野球チームには入ることもなく、小学校を卒業しました。
と、野球との出会いをつらつらと書いていたら、1500字も書いていました。
正直、「つまらない文章になってしまったな」とは思っていますが、頑張って書いた過去の石田をリスペクトして、そのままにしておきます。
ここからは、わずか2年半しかないプレーヤーとしての野球人生の話になります。
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地元の栄町中学校に進学した石田少年は、野球への憧れを形にします。
最初は小学校のクラブ活動でもやっていた卓球部と野球部のどちらかに入部しようとしていました。
野球部の見学に行く前に卓球部の体験に行ったところ、スポーツメガネをかけた安在君がネットどころか壁にぶち当てるスマッシュを披露していました。
そんな安在君はおもむろに自分に近づくと、「野球部入ろうよ!」と言ってきました。卓球部の体験で野球部に勧誘されるとは思いませんでしたが、初心者の状態で野球部の見学に行くことにビビっていた自分にとっては、安在君の存在が安心材料になりました。
野球部の見学に行くと、同じ栄西小学校から進学したりゅうのすけ達がいました。
野球どころかスポーツも一切やっていなかったゲーム好きの男が突如野球部に入ろうとしていることを知って、彼らは驚いていましたが、意外とすんなりと受け入れてくれました。
両親も最初は驚いていた様子でしたが、「やりたいことはやらせる」という家庭の方針もあり、思っていた以上にスムーズに野球部に入部できました。
また、たまたま同期に自分と同じ野球初心者が3人おり、かなり安心したことも覚えています。
監督の稲田先生は駒大岩見沢高校でセンバツにも出場された方で、野球の基礎基本を非常に大切にされる方でした。
野球初心者だった最初はノックに入れてもらえず、キャッチボール後はベンチの上に集球ネットを立ててひたすらスナップスローを練習し続けていました。
バッティングについては、素振りから始まりました。
3年生の影山先輩に直々にバットの振り方を教えてもらい、目線をぶらさないようにとノーステップ打法を伝授されました。
3年間で打撃フォームをコロコロ変えましたが、いつも結局はノーステップに戻っていたので、自分の基礎はここにあるんだと思います。
と言うように、基礎の反復ばかりの日々でしたが、少しずつできないことができるようになっていく感覚が楽しくて、どんどんと野球にのめり込んでいきました。
ですが、入部初期は練習についていくのに必死で、自主練は一切していませんでした。
そんな石田少年は最初の大きな壁にぶつかります。
そうです。ランメニューです。
「2200」という、ただ2200mを10分ほどで走り切るだけのランメニューでしたが、これまでの人生で長距離走をしたことのないゲーマーの石田少年にとっては、とてもしんどいメニューでした。
初めての2200で石田少年は10分どころか15分以上かかって、結局ゴールできずに稲田先生からストップがかかりました。
詳細は覚えていませんが、2200の後にりゅうのすけから厳しい言葉をかけられたことは覚えています。
なんだかとても悔しかったことだけが頭にこびりついています。
今も変わりませんが、当時も負けず嫌いだった自分は、二度とこんな悔しい思いをしたくないと思って、練習後のランニングを始めました。
夜の道は怖かったので、家の近くにある電柱と電柱の間の30mをひたすら往復し続けました。
走るだけじゃつまらなかったので、ついでに素振りもし始めました。
そうすると、いつの間にか自主練の習慣がついていました。
ただ、中身があったかというと微妙で、走る体力と振る体力だけがついていって、能力はあんまり伸びていなかったと思います。(もっと頭使っておけばよかった…)
いつの間にか初めての夏大会を迎えていました。
野球初心者の石田少年はもちろんベンチ外、それどころか公式戦用ユニフォームすら届いていませんでした。白い練習着を着てひたすらに応援していました。
当時の先輩方は、中3で135キロを投げていたエースのしゅんた先輩をはじめとして、初心者の目でもめちゃくちゃ上手い人が揃っていました。
そんなチームはいつの間にか地区優勝、全市大会でも1勝を果たし、全道大会に進みました。
全市大会終了後から全道大会までのある日、いつものように応援練習をしていると、退部してしまった先輩がつけていた背番号10番を1年生に渡すというイベントが発生しました。
「背番号10番は石田に渡す。」
まさかでした。
野球初心者の自分が、地区大会中は公式戦用のユニフォームも持っていなかった自分が、まさか背番号をもらえるとは夢にも思っていませんでした。
「はい!」と大きな返事をして、背番号を受け取りました。
選ばれた理由は地区大会の決勝の日、時間を間違えて試合前のメンバー練習に来てしまい、やることがないからマシンの球入れなどの補助をしていたことが、稲田先生の目に入ったからでした。
なんて幸運なんでしょうか。
そんな訳で、全道大会でベンチ入りすることになりましたが、出場するわけもないのに緊張しまくっていました。
初めての円山球場。練習したはずの入場行進で手足が一緒に出てしまって「やらかした!」って思っていたら、いつの間にか試合は終わっていて、3年生は大粒の涙を流していました。
3,4ヶ月しか一緒にいないはずなのに、石田少年も涙が止まりませんでした。
涙がおさまった頃には、すぐに次の代のキャプテン決めが始まりました。
キャプテンになったのはりゅうのすけでした。
そこから秋の大会に向けての練習が始まりましたが、自分はまだ試合に出ることができていませんでした。
稲田先生の方針で、野球初心者の4人は全員セカンドに配置されていましたが、4人とも試合で出せるようなレベルではなかったと思います。
なので、試合に出るとしても代打か代走かなーとか思っていました。
秋の大会が終わった後、初めて練習試合に出場しました。
札苗北中学校との試合です。
練習では基本的にマシンの球を打っていましたし、シートバッティングにも入れてもらえるはずもなかったので、投手の生きている球を見るのも、球審がついているのも、自分の打席で守備がちゃんとついているのも初めてでした。
いろんな初めてに囲まれる中、持ち前のダウンスイングで無我夢中に振り抜くと、たまたま芯に当たって、強く鋭い打球が投手の足元を抜けていきました。
ヒットだ!
そう思ったのも束の間、相手セカンドがダイビングキャッチ、ショートにグラブトスして、ゲッツーになりました。
初打席初ヒットこそ叶わなかったものの、生きている球を芯で捉えた感触が手にじんわりと残っていました。
悔しいけれど、気持ち良い。
石田少年はさらに野球にのめり込んでいきます。
中学2年生の春の大会の背番号は、冬期間の体重増加量順に選べる形式でした。
やや身長が伸びていたことも影響して、初めて一桁の番号となる背番号4を手にしました。
背番号は一桁でしたが、野球の実力はメンバー外だったので、背番号4をつけてベンチで声援を送るだけの春でした。
そこから夏まではあまり覚えていません。
りゅうのすけから五十嵐先輩にキャプテンが代わったこと、いつの間にか野球初心者セカンド4人衆のうち、自分以外の3人が外野に行ってしまったこと、シートバッティングでさとりょう先輩から唯一ヒットを放ったこと、集合時間15分前集合がルールの中1時間以上前からグラウンドに来て、整備をするようになったこと、それのせいで時間を守って15分前に来た同期が稲田先生に怒られてしまったこと。
部分部分はなんとなく脳内に残っています。
そうこうしていたら夏を迎えました。
これまた130キロ超の球を投げていたさとりょう先輩をエースとして、地区大会優勝。全市大会に出場しました。
自分は背番号14番をもらいましたが、1試合も出ることはなく、バット引きをしていました。
ですが、初めて円山球場で受けたノックは感動モノでした。1年生のときはノックの補助しかさせてもらえなかったので、自分の成長を噛み締めながらノックを受けていました。
全市大会は初戦で柏丘中学校に負けました。
今度は涙が出ませんでした。
色々とお世話になった先輩方のために「プレーで」何もできなかった無力感が勝っていました。
自分たちの代のキャプテンはりゅうのすけになりました。
秋になると、稲田先生は退任され、新たに竹山先生が監督として就くことになりました。
竹山先生は新卒の先生で自分たちと年齢が近く、フレンドリーな様子でした。
そこそこ肩も強かった石田少年は竹山先生の提案を受け、ショートとサードにも挑戦し始めました。
セカンドと比べると、投げる距離が伸びて、ノックの時点でエラーを連発していましたが、試合で使ってくれた竹山先生には感謝しています。
秋の練習試合では、ついに初ヒットが生まれました。
持ち前のダウンスイングでサードに打球を叩きつけ、ちょっぴり速かった足で掴んだ内野安打でした。
初ヒットが出てからは、得意だったセーフティバントと叩きつけで内野安打を多数製造し、秋大会前の練習試合ではアウトハイをライト線に運ぶツーベースヒットを放ち、ついでに送りバントも決めました。
秋大会のスタメンに自分の名前はありませんでした。
当たり前です。打撃はマシになりましたが、依然として守備は下手くそなままで、正面の打球の捕球率は半分以下。軟式であることを活かしてひたすらボディストップするようなセカンドをスタメンで使えるはずもありません。
秋大会後、全国にはつながらない札幌管内の大会がありました。
その大会は秋大会でスタメンではなかった選手を起用するというものでした。
初戦、札苗北中学校との試合でした。
石田少年は初めてスタメンで出場します。
1番セカンド 石田
ワクワクしながら試合に臨みました。
が、2打席連続三振、守備ではエラー、試合はコールド負け。
自分とレギュラーの間にある力量の差を痛感しました。
もっと努力しなくては、3年間補欠で終わると思いました。
色々なことを試し始めました。
YouTubeで色々な選手の打撃フォームを見て、真似をしたり、父親に頼んで羽打ちをしたり、ゼビオで買った守備練習用のアイテムで夜の公園で守備練をしたり…
たくさんのことに手を伸ばした結果、自分の軸を見失っていきました。
そうして迎えた冬。
石田少年は二度目の壁を迎えます。
ある日の体育館練習で、ボール回しをしていました。
れいなに向かって投げた球は自分の中でも好感触のGood Ballでしたが、後ろにいた同期から「もっと優しく投げろよ!」と怒られました。
なんで怒られなきゃいけないんだろうって思いましたが、野球経験のある彼のいうことは正しいと思って、優しく投げてみました。
大暴投でした。
その次に投げても暴投、逆回りになってショートスローになると、もっと制御が効かなくなりました。
暴投するたびプレーが止まってしまう、あの凍った雰囲気が怖くなって、ショートスローすらもワンバンで投げてみると、竹山先生からストップがかかりました。
「石田、ボール回しから外れよう」
石田少年はただ一人ボール回しから外され、体育館のステージの上に設置された集球ネットにネットスローをしていました。
悔しさと虚無感と孤独感が石田少年を包み込みました。
涙が自然と出ていました。
そこからボールを投げるのが怖くなりました。
雪が溶けた後も、ノックでは暴投を連発。
対策として編み出したのは、青柳選手のフィールディングの真似でした。
セカンドからワンバンで送球したり、できる限りトスでファーストにボールを届けていました。
春が終わると、稲田先生がまた指揮を取りましたが、そこから夏までの記憶はないです。
その頃には野球の楽しさはほとんどなくなっていて、どうやってミスしないか、練習の見栄えが良くなるかしか考えていませんでした。
そんな石田少年がスタメンを取れるわけもなく、最後の夏もベンチウォーマーでした。
なぜかはわからないですが、いつからか試合のブルペンキャッチャーを務めるようになっていました。
(返球はかなり怪しかったですが、鷲見以外は文句を言わなかったです。)
最後の夏大会の初戦、守備固めで使っていただきました。
イニング間のボール回しで、これまた暴投して、味方ベンチにレーザービームをぶち込んでしまいました。頭が真っ白になりました。
結局、守備機会はなかったですが、心の中でずっと「打球くるな!」って叫んでいました。
そんな後ろ向きな石田少年はその後の試合で使われることはありませんでした。
それでも、チームは大エース鶴田を中心に、地区大会の決勝まで進みました。
決勝の栄中学校戦では、鶴田が投球数制限により、試合途中で投げられなくなり、最後は延長9回サヨナラ負けでした。
涙が止まりませんでした。
何の涙なのでしょうか。
最後までレギュラーになれなかった悔しさからなのか、稲田先生の4年連続全市大会出場を終わらせてしまったからなのか、自分たちの代が終わってしまった悲しさからなのか。
その全部なのか。そのどれでもないのか。
当時の自分に問いたいです。
泣きすぎて、最後のミーティングでみんながやや引いていたことは覚えています。
時は、少し戻ります。
「高校野球は続けないでほしい」
中学3年生の夏大会前、母親から言われました。
理由は、家庭の経済事情でした。
野球というスポーツはバットやらグローブやらスパイクやらソックスやら色々なものを揃える必要があります。
さらにその上、遠征や合宿などがあれば親の負担が増えるのは当然のことでした。
ただでさえ裕福ではない家庭で、高校で野球を続けて、大学も行って、と自分の好きなように7年間を過ごすことは難しい状況であることに気づいていないわけではなかったですが、目を逸らし続けていました。
当時は奨学金というものも知らず、いや知ろうとする努力もしていなかったので、「野球を続けて大学進学を諦める」か「野球を辞めて大学に進学する」の2択しか頭になかったです。
「プロ野球選手になるわけでもないし、これ以上自分の好きなことで親に負担はかけられないな」と思い、高校野球を続けないことを決めました。
この決断が今の自分を形作っています。
この決断があったからこそ、札幌西高校に進むことになりましたし、この決断があったからこそ、東大野球部に出会えました。
高校野球を続けていたら、どんな人生を歩んでいたのでしょうか。
長々と書きましたが、ここで石田少年のプレーヤーとしての野球人生は終了です。
ここの時点で計7,700字書いています。
下手なレポートよりも書いています。
文章を書くのが苦手な自分でもここまで書けるのかと感動しています。
さて、ここからは高校時代の話に移っていきます。
野球を辞めた石田少年はどのように東大野球部に出会うのでしょうか。
野球から離れた野球人生にはなりますが、もう少し我慢してお読みいただけますと幸いです。
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高校野球をやらない決断をした石田少年はもともと行きたかった札幌国際情報高校から、担任の犀川先生の提案を受け、札幌西高校を受験することにしました。
最初の模試では合格率2%と最低値を叩き出しましたが、高校野球をやらない代わりに塾に通わせてもらい、なんとか合格することができました。
入学後はコロナ禍で、学校に通うことすらできず、オンラインで授業を受け、空いた時間に親友の田子内や安在と公園でキャッチボールやバレーボールをしていました。
当時流行っていた?ハイキューの影響もあってか、2人とも高校に入ったら新たにバレーボール部に入るとのことでした。
7月にコロナ禍が落ち着き、部活の勧誘が始まりました。
野球という選択肢を失った石田は野球の代わりになるものを探したいと思い、親に相談してお金が掛からなそうで、かつ周りがこぞって始めていたバレーボール部に入部します。
結論、野球の代わりにはなりませんでした。
野球ほど心が燃えるような感覚がなく、まだ小さかった弟の世話を親に押し付けてまでバレー部を続けて意味があるんだろうかと考えるようになり、結局1ヶ月で退部することにしました。
退部することを顧問の佐藤先生に伝えると、「退部するんだったら、その分勉強頑張って東大でもなんでも目指してみなさい」と言われたことを今でも覚えています。
この言葉が石田の転機になりました。
北大に行ければ十分だと思っていた自分に東大という選択肢を与えてくれたこと。
そして、佐藤先生は意図していなかったかもしれませんが、バレーボールで埋めようとしていた心の穴に「勉強」という新たなパテを教えてくれたこと。
佐藤先生には感謝してもしきれないです。
退部後はひたすらに勉強しました。
幸いなことに勉強は野球と違って伸び悩むことはなく、どんどん成績が伸びていって、それが楽しくて、勉強にのめり込んでいきました。
高校2年生の東大合格が現実味を帯び始めたころに、母親から「何のために東大に行くの?」と尋ねられました。
当時の自分は、はっきりとした回答を持っていませんでした。
「東京大学」という名前だけを追って勉強していた自分は、なぜ東大を受けたいのかを考えるようになりましたが、結局、高校2年生のうちは明確な答えを持てず、春を迎えました。
2022年4月9日、当時ロサンゼルス・エンゼルスに所属していた大谷翔平選手の活躍を見ようとスポーツブルを開くと、東京六大学野球春季リーグ戦の中継がされていました。
東大と慶大の開幕戦でした。
最初は「自分が志望している大学の野球部の試合だし、見ておこうかな」くらいの軽い気持ちで見始めると、自分と同じ札幌出身の井澤投手(R5卒)が神宮のマウンドで投げていました。
しかも、東大が先制し、同点に追いつかれたものの、井澤投手のホームランで勝ち越しているではありませんか。
結局、慶大に後半に捲られ、大差で負けましたが、石田の目には東大野球部の選手たちが光り輝いて見えました。(特に井澤さん)
当時は東京六大学野球のレベルも知らなかったし、どの大学があるかも知らなかったですが、めちゃくちゃ弱いと思ってた東大の野球部が、意外と強いのかもしれないと思い、そこから、その年の東大の試合は全て見ました。
そんな単純接触効果もあってか東大野球部が大好きになり、夏が始まるころには、東大野球部に入ることが東大を目指す理由になっていました。
最初は選手として入ってみたいなと思っていましたが、中学の3年間しか野球をやっていなかったこと、しかもレギュラーではなかったこと、高校3年間のブランクがあったこと、軟式から硬式に変わること、そしてなんと言っても家庭の経済的負担が増えることが懸念点としてあり、選手としての入部は受験前に断念しました。
何かスタッフとして関われればいいかなと思ってはいましたが、特に調べることはなく、受験勉強に集中する期間に入っていました。
2023年3月10日、運にも恵まれて、現役で東大に合格することができました。
合格後から上京するまでの間は、東大野球部のスタッフについて調べたり、新歓アカウントに質問したりしていました。
そうすると、どうやら東大野球部のスタッフにはマネージャーとアナリスト、学生コーチという3つの役職があるということが分かりました。
自分はノックも打てないし、投げについてはお察しの通りだし、サポートの役職なのに部費を取られるしで、学生コーチという選択肢は早めに消去しました。
残るはマネージャーとアナリストな訳ですが、最初は4:6くらいでアナリストになりたいなと思っていました。
データで見る野球は楽しそうだなと思っていましたし、齋藤周さん(R5卒)がソフトバンクのアナリストになっていたことも知っていたので、プロ野球に関わるという将来の夢に近づくなら、アナリストだなーっとぼんやり考えていました。
という感じで、石田の高校時代部分はおしまいです。
野球部に入っていなかったので、野球人生としてはあっさりとした内容ですが、今の野球人生に繋がる重要な3年間でした。
ここまでで約1万字とかなりの大編になりつつありますが、石田の自分語りにもう少しお付き合いください。
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アナリストかマネージャーで迷っていた自分は、テント列で実際の話を聞いてみようと思いました。
テント列では中島さん(R8卒)が対応してくださった気がします。(全く覚えてないですが…)
話を聞いてみると、そのときのアナリストは黎明期で、4人しかおらず、やっている仕事内容も思っているものとかなり違っていました。
そんなギャップからか、アナリストになりたいという気持ちはどんどんと薄れていき、マネージャーとして入部することを決めました。
マネージャーの方が社会人の方と関わる機会も増えるし、社会に出たときに必要な能力も身につくだろうという、なんとも打算的な理由でした。
公式LINEで入部の旨を伝え、東大球場に見学に行くと、ひかりさん(R8卒)が案内してくれました。
グラウンドに出てみると、ヒゲを蓄えた人がキャッチボールをしていました。おそらく多浪か再受験の方だろうなと思って、いろんな人がいるなーと感心していました。
(後で調べたら大友さん(R7卒)でした。)
マネージャーとして本格的に部に合流したのは、第2週の対早稲田大学戦が終わった後でした。
当初の同期スタッフは、マネージャーの堂埜(4年/主務/湘南)とアナリストの中井(4年/アナリスト/金沢大附)の2人で、先輩のスタッフもマネージャー8名、アナリスト4名と今では考えられないくらい少なかったです。
入学直後でやる気に満ちていた自分はSセメスターでたくさん授業を入れてしまい、平日はシフトに入らず、土日だけ神宮や東大球場に現れる人間でした。
しかも、受験直前の学校のない期間は10時おきの生活を繰り返していたので、8時から始まる午前シフトに対応できず、何度も寝坊するトンデモ新人です。(こう思うと、今の後輩たちはよくできているなーって思います。)
それでも、先輩方は頭ごなしに叱ることはなく、優しく接してくれました。(特にまほこさん(R6卒)は優しすぎました。)
8月、遠軽合宿に帯同しました。
入部して3ヶ月半ほどでAチームの合宿に連れて行かれたのは、めちゃくちゃ緊張しましたが、とても良い経験になりました。
大久保監督と岩瀬さん(R7卒)が序盤で帰ってしまい、石井さん(R6卒)と自分だけで合宿を見ることになったこと、休養日にエスコンに行こうとしたら、大雨で電車が止まってしまい遠軽に帰れなくなったこと、結局上川からタクシーで遠軽に戻ることになり、2万5千円失ったこと、BBQで永田さん(R6卒)が号泣していたこと。
今となっては良い思い出たちですが、先輩方(特に石井さん)にはたくさんご迷惑をおかけしました。
9月になると、秋季リーグ戦が始まりました。
遠軽合宿で4年生の練習を間近で見たこともあり、春と比べてかなり感情移入していました。
対早稲田大学2回戦で先制したときには、思わず涙してしまったことを覚えています。
全敗で迎えた対法政大学2回戦で、松岡さん(R6卒)が完投し、初めてリーグ戦の勝利をこの目で見届けました。
感動しました。涙は出なかったけれど、心と体が高揚感に包まれていきました。
この感覚を自分は今も追い続けています。
最終戦となった対立教大学2回戦では、カメラを担当していました。
接戦の末、立教に負けた試合です。
試合終了後の整列で、応援席へ挨拶をした後、目を赤らめている梅林さんの隣で石井さんが泣いていました。
普段の様子からだと、泣くとも思えなかった石井さんがこんなにも泣くとは。
そんなことを思ってシャッターを切っていた自分の目にも、涙が溢れていました。
「あそこから見る景色は一体どんななんだろうか。」
この問いが自分を4年間マネージャーというポジションに留めることになります。
秋が終わると三鷹寮から一誠寮に引っ越し、東大野球部一色の生活が始まりました。
一つ上の代はマネージャーが入寮していなかったので、岩瀬さんと自分の二人で寮の管理をするようになります。
岩瀬さんは適当なようで、意外とちゃんとしていて、でもやっぱり適当な人でした。仕事の内容を岩瀬さんの方から教えてくれることはほとんどなかったので、この頃は岩瀬さんにたくさん質問していたような気がします。
年が明けて、新歓活動が始まりました。
ありがたいことに武田(4年/投手/岡山白陵)と藤尾(4年/内野手/岡山白陵)を含めて、おそらく当時としては史上最多となる42名が入部してくれました。
テント列で会ったときはアナリストになるか選手になるか迷っていた塗師(3年/内野手/時習館)、部員写真の帽子が小さすぎる巨漢・横井(3年/内野手/市立向陽)、開智さん(R7卒)から扱いをどうすれば良いか相談された玉置(3年/投手/昭和学院秀英)、ピアスを開けて練習見学にやってきた当時唯一の外野手・堀端(3年/外野手/向陽)。
新歓期間は色々な思い出があって、ここには書ききれないです。
そして間も無く2度目の春季リーグ戦が始まりました。
新しく任せていただいた荷物車の仕事や新歓対応などで忙しい春でしたが、新しいことが好きな自分もいて、楽しみながらやり切ることができました。
結局、春季リーグ戦は全敗で終了しました。
リーグ戦後に自分たちの代のフレッシュが始まり、初戦の法政大学戦では2-4で破れはしたものの、接戦を演じることができました。
(自分はその裏で、奨学金維持のためのスポ身をしていました…)
初戦でこんなに競った試合ができたなら、自分がベンチ入りする試合も面白い試合になるはず!
と思って、ベンチ入りした慶應義塾戦。
結果は0-11のコールド負け。ここから石田の神宮ベンチ入り連続完封負け記録が始まります。
それでも初めてのベンチ入りは楽しくて、たくさん声を出して、秋元(3年/内野手/市川)や岡林(4年/外野手/土佐)のヒットに大はしゃぎして、横山(4年/副将/内野手/新潟)の4回途中100球近くの熱投を「どんだけ投げさせるんだ…」とか思いながら見届けました。
夏になりました。
遠軽合宿では、顔面に門田(4年/副将/内野手/松山東)のライナーが直撃しましたが、持ち前のツラの厚さでことなきを得ました。
ソウル大学との交流戦では、武さん(R7卒)の好プレーと間島さん(R7卒)の落球を現地で見ることができました。
いつの間にか秋になっていました。
この秋は、太陽さん(R7卒)の完投勝利と門田のサヨナラヒットで2勝を挙げました。
嬉しかったは嬉しかったのですが、この頃は自分の周りで色々とあり、手放しで勝利を喜べる状況ではありませんでした。
最終戦後の0次会では、2年間お世話になり、頼りにしていた先輩方が卒部するという事実に、思わず涙してしまいました。
2年連続2度目の涙です。泣きすぎですね。
リーグ戦の喜ばしい結果から一転、秋のフレッシュは苦しい3試合が続きました。
自分は初戦の法政大学戦と続く慶應義塾大学戦にベンチ入りしました。
結果はどちらも大差で完封負け。特に慶應義塾大学戦のベンチ内は相当にピリピリしていました。(宥悟(鈴木/4年/外野手/浅野)いつもイジってごめん。)
順位決定戦も早稲田相手に完封コールド負けを喫し、自分たちの代のフレッシュは1勝もできないまま幕を閉じました。
自分はプレーしている人間ではないので、選手の前では言わないようにしていましたが、当時は自分たちの代になって勝てるビジョンが見えませんでした。
そして、リーグ戦で2年連続勝利を見れている自分は恵まれているなと思うようになりました。
ただ、オータムフレッシュではなんとか1勝することができ、曇っていた同期の顔がやや緩んだように見えました。
年が明けて、2025年になりました。
3月のスプリングフレッシュでは、慶斗(荒井慶斗/3年/外野手/宇都宮)の大暴れもあり、3連勝することができました。
スプリングの思い出は、宿舎で本岡(4年/学生コーチ/基町)の部屋に行って、二段ベットで一緒に寝たこと、ネット裏で修吾(片山/4年/アナリスト)が和希(西山和希/3年/アナリスト/筑波大駒場)にパワハラ(笑)をしていたこと、くらいでしょうか。
当然のことですが、やっぱり勝つとチームの雰囲気が良くなるなーって思いました。
春季リーグ戦が始まりました。
荷物車担当を引退して、3年生の頃は連盟室にいることが多くなりました。
連盟室では、他大学のマネージャーもいるので、選手のプレーに対してリアクションができないですし、球場の熱気も全くありません。
そんな空間にいると、なべさん(R8卒)が良いピッチングをしても、中山さん(R8卒)が打ちまくっても、感情が動かなくなりました。
同じ神宮球場にいるのに、どこかチームの勢いに乗り切れていないような、蚊帳の外というか、そんな感じでした。
そんな感じで過ごしていたら、いつの間にかリーグ戦が終わっていました。
結果は全敗でしたが、秋には勝てるだろうなと思っていました。
夏になって、3年目の遠軽合宿に行きました。
この年から自分が遠軽合宿の主担当になりました。
また、この年は七大戦が札幌開催ということもあり、七大戦も自分が担当しました。
ひかりさんの温かいご指導もあり、遠軽合宿は滞りなく終えましたが、七大戦では監督、そして選手の皆さんにいろいろとご不便、ご迷惑をおかけしました。
すぐるさんからは「駒岡」というありがたいあだ名も頂戴しました。
先輩の引退が近付くにつれて、自分も一緒に引退してしまいたいなーって思うようになりましたし、マネ部屋でもよくその旨を言ってしまっていたと思います。後輩のみんな、ごめんなさい。
理由はいろいろとあります。
自分が見た中で一番タレント揃いだった先輩方が引退されること、フレッシュで1勝もできなかった自分たちが2021年から続く連続勝利に終止符を打ってしまうのではないかということ、自分たちの代のマネージャー事情が不安定だったこと。自分の中でいろいろな不安がゴチャゴチャと絡まって、どこかで吐き出さないと本当に辞めたくなると思ったからでした。
夏が終わると、すぐに秋季リーグ戦が始まりました。
春と同じように心ここにあらずという感じで過ごしていましたし、横田(3年/マネージャー/湘南)にも「来年はこうなってるよ」と言っていたような気がします。
チームは2勝しましたが、自分自身の中に喜びという感情が爆発することはありませんでした。とにかく無でした。
なんだか心の中の炎が消えかかってるような感じを察してはいましたが、見ないふりしていました。
新体制では堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)がキャプテンになりました。
自分は副務という肩書きと、会計担当という仕事が追加されました。
考える(R8卒)は当てにならないので、卒部後のゆめさん(R8卒)にたくさん質問したり、部のクラウドを漁って会計の資料を読み込んだりして、部に迷惑をかけないよう、できるだけ早く仕事を覚えようとしていました。
やっぱり新しい仕事を覚えていくのは好きで、心の中の炎に可燃剤が投入されていく気分でした。
2026年になり、堂埜と、新たに会計担当になってくれたおのゆみ(小野/3年/マネージャー/西大和学園)とりなこ(山口莉奈子/3年/マネージャー/桜蔭)の二人の新戦力の力も借りて、予算作成という大仕事を終えました。
3月から4月にかけては就活が忙しくなってきました。札幌に面接を受けに行って、次の日には東京でOP戦のスコアを書いたりしていましたが、休む時間があまりなく、常に体調が悪かった気がします。
選手だったらこんなに就活に時間割けないと思うので、野球に集中したいなら就活留年はしょうがないと思いました。
春季リーグ戦が始まりました。
スコアは堂埜とかわりばんこで入りましたが、自分がスコアラーとして入った明治大学戦、早稲田大学戦、慶應義塾大学戦は3試合連続で完封負けでした。
フレッシュから数えて、実に6試合連続の完封負けです。
ここまで完封負けが続くと、流石に何も感じなくなりました。ただ、チームのために声を出し続けるだけでした。
一方チームとして見ると、明治大学との開幕戦でめちゃくちゃ競っていましたし、早稲田大学戦では引き分け、対慶應義塾大学1回戦では秋元がホームランを打ったり、自分がスコアラーとして入っていない試合では良い試合が続いていました。
その頃にはフレッシュの時に抱いていた不安感はなくなっていました。
「いつかは勝てる」
突然その機会は巡ってきました。
2026年5月9日、対法政大学1回戦。就活後に急いで神宮に向かって、ベンチに入りました。
試合前、まつしん(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)がベンチ裏で「めっちゃ調子いいっす」と言っていましたが、その通りの調子の良さでスコアボードに0を並べていきました。
6回に不運な形で1点を失いましたが、その裏に明石(4年/捕手/渋谷幕張)がソロホームランで同点に追いつきました。
このとき、自分のベンチ入り連続無得点記録が終了しました。明石ありがとう。
樋口(3年/内野手/海城)のヒットで、小村(4年/内野手/私立武蔵)がヘッドスライディングでホームに突入し、一時はアウトになりましたが、ビデオ検証でセーフに判定が覆り、これが決勝点になりました。
あの判定が覆った瞬間は、心の底から雄叫びが出ました。
2年前、勝てるビジョンが見えていなかった自分に、「選手はお前が思っているよりも弱くないぞ」って言ってやりたくなりました。
次の日の2回戦も、法政に勝ちました。
2017年秋以来9年ぶりの勝ち点獲得でした。
この日は連盟室にいました。
連盟室にいると、やっぱり無になります。
連盟室のテレビで、得点を積み重ねる東大を見ながら「よく打つなー」とか思っていました。
なんだか自分よりも他大学のマネージャーの方が「滅多に見れないから」とソワソワしていました。
9回表になって、取材対応のためにベンチ裏に向かいました。
池田(2年/投手/江戸川学園取手)が法政打線を3人で抑えました。試合終了時の整列のときにボールボーイだった花村(4年/学生コーチ/開成)が選手よりも先に戻ってきました。
普段泣くようなキャラじゃない花村でも、その目には涙がありました。
間も無くして、選手がベンチ裏に入ってきました。
みんな充実感、達成感のある表情をしていました。
「でも、自分は何もしていない」
そんな言葉がすぐに自分の脳内を埋め尽くし、みんなが喜んでいる中、心が苦しくなりました。
BADモード突入です。
リーグ戦後の6,7月はずっと苦しかったです。
自分がマネージャーをやっている意味をずっと考えていました。
辞めたくてしょうがない時期もありましたが、高校時代に一度バレーボール部を辞めていたこともあり、ここで辞めて「辞めグセ」をつけたくない、という思いが強くあり、なんとか持ち堪えました。
そうこうしていると、大学最後の夏が始まりました。
同期は次々と選手を引退していきました。マネージャーは航空券手配の都合上、合宿メンバーを事前に知らされるので、引退が確定しているメンバーに「試合頑張れよ」と声をかけるのはとても複雑な感情でした。
最後の遠軽合宿は、少しでもチームの助けになりたくてノックを練習して臨みました。
門田、俺の下手なノックを沢山受けてくれてありがとう。
最後の七大戦は、準決勝の九州大学戦でほぼ負けかけましたが、なんとか優勝することができました。「駒岡」の反省を活かして、宿舎選びに力を入れたおかげでしょうか。
春山(4年/内野手/昭和学院秀英)、初戦のカメラやってくれてありがとう。
七大戦から帰ってくると、夏はあっという間に過ぎ去り、9月。
秋季リーグ戦が始まりました。
慶應義塾大学との開幕戦に勝つことをターゲットとしてやってきましたが、結果は逆転負け。
そこから3カード連続で勝ち点を落とし、目標としていた「勝ち点3」は手の届かないものになってしまいました。
なんだかみんな浮かない表情をしています。
春の勢いはどこに行ったのか、どこか自信がなさげな表情です。
みんなには対早稲田大学2回戦の春山と岡林の写真を見て欲しいです。
とてもいい顔してます。野球が楽しくて仕方がない表情。
春はみんなこんな表情をしていました。
あと2カード、最少で4試合。
勝ち点を2つ取って終わりたいけれど、そんな簡単ではないことは分かっています。
でも、自分は勝利を信じることしかできないので、ベンチで声を出し続けます。
勝って終わりましょう。
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中学のときに一度ピリオドを打った野球人生も、今月末にはもう一度終わりを迎えます。
自分はなんのために東大野球部に居続け、マネージャーをし続けているのでしょうか。
その答えは「自分のため」でしかないです。
1年生の秋に感じたあの高揚感を感じたいから、石井さんが見た景色を自分も見てみたいから、一度バレー部を辞めてしまった中で、「辞めグセ」をつけたくないから、同期のみんなと勝利の喜びを味わいたいから、などなど。
色々な理由はありますが、結局は「自分のため」です。
この1年間で、自分という人間は「誰かのため」に自分の体を動かし続けるのは不可能だと学びました。
「誰かのため」に何かをするという心の動き方だと、その結果として得られるものがなんであれ、無限に「誰かのため」を思い続けて、心が疲弊してしまう。
春の勝ち点獲得のときはまさしくその状態に陥りました。
「チームのため」、「選手のため」を考え続けていると、キリがない。
夏が終わったあたりから全て「自分のため」と考えるようになって、心が安定し始めた気がします。
この1年間は自分自身色々と不安定で、堂埜や後輩のマネージャーたちには色々とご迷惑をおかけしました。
厄介な先輩だと思いますが、もう3週間ほどお付き合いください。
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ここからはお世話になった人へ、ささやかながらメッセージを送ります。
両親へ
ここまで育ててくれてありがとう。
なかなか実家に帰ることができていなくて申し訳ないです。
引退したら札幌に帰るつもりなので、それまでもう少しお待ちください。
弟へ
かなたは自分の生きる意味です。
このぼくじんの意味がわかるようになったら、感想ください。
お兄ちゃんが東大だからといって、自分を卑下しないで。
まだ色々な可能性があるんだから、自分の可能性を信じて。
やりたいことをやって、自分の未来を切り拓いて行って欲しいです。
かなたがやりたいことを不自由なくできるように、卒業後は沢山働くので。
稲田先生へ
野球初心者だった自分に野球の基礎を教えてくださりありがとうございました。
野球だけではなく精神面も大事にされている方で、今の自分の考え方の基礎になっています。
竹山先生へ
短い期間ではありましたが、ご指導ありがとうございました。フレンドリーでとても接しやすかったです。
冬練習のメニューが多すぎて、「詰め込みまさし」と同期内で陰で呼んでいたことを思い出します。
栄町中学校野球部の同期へ
あの3年間は自分にとって、とても楽しい3年間でした。
成人式のときはみんなと会えて嬉しかったです。
つい最近、鶴田と一緒にゴルフの打ちっぱなしに行きました。打ち終わりが中学の頃と変わっていなかったです。
鷲見は今でも誕生日にLINEをくれます。鷲見の指輪をまだ持っているので、いつか返します。
しんのは就活で札幌に帰ってるときにたまたま会いました。あのときはご馳走してくれてありがとう。今度は俺に奢らせてください。
応援部のみなさんへ
いつも応援ありがとうございます。
リーグ戦期間中は応援部の応援を聞くのを楽しみにしています。
マネージャーの先輩方はベンチの中からだと、応援は聞こえないとおっしゃっていましたが、今年の応援はベンチの中でもバリバリ聴こえています。
今年のリーグ戦も残り2カードとなってしまいました。
応援部のみなさん、応援席のみなさんともう一度勝利の喜びを分かち合いたいです。
引き続き応援よろしくお願いします。
東大野球部の先輩方へ
自分は遠軽合宿に帯同していたり、一誠寮に入っていたこともあり、先輩方と仲良くさせていただきました。
特に一誠寮はイベントの宝庫でした。
開智さんの風呂場での絶叫とそれを見てケタケタ笑う藤田さん(R7卒)。
2024年の秋に三振しすぎて、ガン萎えしていた大原さん(R8卒)にどうすれば良いか相談されたこと。
失恋して泣いていたところにタオルを渡してくれた琉さん(R8卒)。
榎本さん(R8卒)のリハビリをお手伝いさせていただいこと。
納豆を腐らせてしまい、琉さんにバイオテロリスト扱いされたこと。
本当に色々な思い出があります。
ありがとうございました。
石井さん、まほこさんへ
4月から10月までの約半年間の短い間でしたが、お世話になりました。
初めて球場見学をしたとき、初対面の石井さんに「石田くんは彼女おるん?」と聞かれたことは今でも覚えています。
石井さんとはいまだに近くのラーメン屋でばったり遭遇するので懐かしい感じはしませんが、まほこさんはなかなか会う機会がないです。多分元気にやっているのでしょう。
お二方以来の最上級生マネージャー二人体制となり、二人体制の大変さを身にしみて感じました。
岩瀬さん、角能さん(R7卒)、ちゃむるさん(R7卒)へ
岩瀬さんは一誠寮でもお世話になりました。またご飯連れていってください。
角能さんは文学部人文学科日本史学専修課程の大先輩です。なんとか卒業します。男だけのシフトのときに表す男子校っぽさが好きでした。
ちゃむるさんは、卒部プレゼントに『明治維新の研究』を送らせていただきましたが、読んでいただけたでしょうか。多分読んでいないと思っています。
色々とご迷惑をおかけしましたが、お三方と過ごした1年半は楽しかったです。
数馬さん(R8卒)、ひかりさん、ゆめさん、考えるへ
一番長いことお世話になった先輩方です。
数馬さんはいきなりマネージャーになってびっくりしましたが、雑用からのスタートでも腐らずにやってくださって、とても助かりました。
色々とアウトな話が多かったですが、数馬さんと考えるとのシフトが一番好きな時間でした。
アナウンサー頑張ってください。
ひかりさんはやかましいですが、親身になってくれるし、とても優しい先輩でした。東大野球部愛がここまで飛び抜けている人はいないと思います。
ひかりさんのようになりたいと思ったけれど、全然無理でした。尊敬してます。
遠軽合宿〜七大戦の行き帰りのドライブはめっちゃ楽しかったです。
また仙台の牛タン食べに行きましょう。
ゆめさんは今も会計の面でお世話になっています。
学生生活を満喫したいところに、真面目な相談をぶっ込んで申し訳ないと思っていますが、ガンガン頼らせていただきました。
自分もゆめさんを見習って、引退後も後輩の相談をガンガン受けたいと思います。
考えるは先輩というより友達です。引き継ぎを一切作っていないせいで、ただひとつ作成のときはとても困りました。
あと、太り過ぎなので、もう少し痩せてください。
考えるの言った「どうせ給料もらっていないんだから」の話は、疲れたときに心に沁みます。お金に余裕があれば、ご飯行きましょう。
東大野球部の同期へ
みんなと過ごした4年間はとても楽しかったです。
みんなと話したくて、この1年間は4年部屋に入り浸ってしまいました。
こうしてみんなに会って、おしゃべりする時間がなくなるのは少し寂しさを感じます。(特に門田くんとは仲良くさせていただきました。)
来年以降もご飯行ったりしましょう。
修吾、寺嶋、中井へ
役職は違うけれど、同期スタッフが3人でよかったと思っています。
変な3人だけど、この3人だからこそ、今の規模が大きくなったアナリスト組織を支えることができていると思っています。
もう少し一緒に頑張りましょう。
堂埜へ
まずは4年間ありがとう。
勝ち点をとった試合での涙は、ただ単に試合に勝ったことだけへの涙ではないことは分かっているつもりです。
この1年間相当やりづらかったと思うし、たくさん迷惑をかけて申し訳無かったです。
でも、なんだかんだ4年間一緒に戦ってきた友です。
あと3週間一緒に頑張りましょう。
そして笑って終わりましょう。
改めてありがとう。
東大野球部の後輩へ
この春の勝ち点獲得は、間違いなくみんなの力が大きいです。
来年以降は勝ち点をとったくらいで騒がれない強いチームを作っていってほしいです。
今年はあと2カード、もう少しその力を貸してください。
野球部唯一の同郷です。春の立教大学戦のツーベースめっちゃ痺れました。
実力もやる気も兼ね備えている村尾なら、どこまででもいけると思っています。
村尾の活躍で北海道の高校球児たちをどんどん東大野球部に引き込んでいってください。
引退後も絶対応援しに行きます。
後輩のマネージャーたちにメッセージを送るのは、最終戦が終わったらにします。
楽しみにしといてください。
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次は本岡です。石田と同じ大石昌良(オーイシマサヨシ)が好きな無邪気な少年です。
今年の1月には一緒にSound Scheduleのライブにも行きました。また一緒に行きたいね。
今年のぼくじんに大量発生している「本岡」はどんな『僕の野球人生』を記しているのでしょうか。
お楽しみに。
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次回は10/7(水)、本岡貢大学生コーチを予定しております。
主将 

