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東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.3 近藤 克哉 投手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.3 近藤 克哉 投手(4年/筑波大附)

 

「近藤克哉の野球人生」を偶然、あるいは一手間かけて発見し、このページにたどり着いた希少な皆様にまず問いたい。

 

あなたは、私の野球人生について、何を、どうして知りたいのだろうか。

 

私だったら、顔も名前もろくに知らない、会ったことも話したこともない無名のアマチュア選手の競技人生になんて絶対に興味がわかないし、それに関する記事があったとして読もうとなんて毛の先ほども思わない。「栗山巧の野球人生」だったら話は別だ。高校時代、栗山選手の安打集を幾度となく拝見し、泰然自若とした構えと芸術的な広角打法のイメージを脳内に刷り込んだ私としては、「獅子の骨」が、いつ、どこで野球に出会い、どんな意識で打撃に取り組み、近鉄の本拠地ラストゲームに9番レフトとしてデビューしたあの日に何を思い、25年にわたるプロ野球人生でどんなルーティンを継続し、どの試合のどの打席でどんな感情を抱き、何がきっかけで引退を決断したのか等、いくら知っても知りすぎることはない。

 

こうしてみると、他人Aの人生に関心を抱くとき、2つのパターンがあると思う。1つ目は、自分とAの人生がどこかで交差している場合。交差する前、したとき、その後にAが何を行い、何を考えていたのかを知りたいという感情は納得できる。2つ目は、自分がAを一方的に認知しており、Aから少なからず影響を受けた場合。私が「栗山巧の野球人生」を知りたいのは、もちろんこちらの場合だ。

 

今、この文章を読んでいるあなたの大多数は、前者の場合に違いない。この21年間、幸いにも多くの一期一会に恵まれ、あなたとの出会いの中で成長することができた。家族や親戚、指導者の皆様、仲宿ファイターズ、板三、筑波、東大の仲間をはじめ、あなたへの深い感謝を真っ先に伝えたい。本当にありがとうございました。また、今後ともかかわりがある際は、よろしくお願いいたします。

 

ところで、あなたは私をどのような人間だと捉え、どのように評価しているだろうか。おふざけ者だろうか?真面目くんだろうか?変人だろうか?小心者だろうか?人それぞれ私に対する評価は異なるだろうし、あなたからの評価と私自身の評価が食い違っていることも十分にありうるはずだ。私は、今日に至るまで本心を言葉にして整理したり、誰かと話したりすることから極力避けてきた。本心をある程度隠して、その場に合わせた対応をとる方が生きやすいからだ。しかし、今回せっかく文章を書く機会をいただいたので、人生100年時代を1/5終えた総括として、野球を始めてからの15年間の軌跡を振り返り、私の行動の底流にあった考えを整理してみたい。ただ、いつ、どこで、誰と、何をしたのかを時系列で事細かに振り返ろうとしたところで、そもそも記憶力が良い方ではないためあまり覚えていないし、冗長で退屈になるだけだ。そのため、小学生、中学生、高校生、大学生という区切りにあまりとらわれず、より横断的に、自由に書くことができればと思う。所詮は弱冠21歳の若造が頭でっかちに語ることだ。大目に見ていただけるとありがたい。

 

まず、私は野球というスポーツをこよなく愛している。これは、野球と出会ったときから今に至るまで、そして今後もずっと変わらない。野球を続けてきて感じるのは、野球部には、する野球にしか興味がない人と、する野球も見る野球も両方好きな人の2種類が混在するということだ。

 

私は、もちろん後者だ。特に、見る野球への愛は突き抜けている。阪神甲子園球場のお膝元、西宮市で、真弓監督率いる2010年阪神タイガースのダイナマイト打線に虜になった私は、小学生の当時、選手名鑑の寸評まで暗唱できる、狂気じみたプロ野球ファンだった。小学校2年生で東京に越してきてからも、袋の表面をなでることでレアカードの有無を判断できるという、とてつもなく詐欺師めいた仲間たちとプロ野球チップスに付属するカードを収集していた。近所のスーパーマーケットで、陳列されているプロ野球チップスをべたべたと触り、レアカードがないと判断すると、裏から新たにもう一箱持ってこさせて、床に座り込み、慣れた手つきでレアカードを探し回っていたものだ。さらに、プロ野球の応援歌をこよなく愛し、YouTubeを開くと、「〇〇(チーム名) △△△△年 応援歌1-9」と検索するのが癖のようになっていた。お気に入りは、近鉄ー2001、中日ー2006、阪神ー2010、楽天ー2017である。今ではKBOの応援歌にまで手を出しているのだから、見る野球への愛は本物であろう。

 

する野球を振り返った時、思い出のほとんどの場面で、私は小高いマウンドの上にいる。人間の脳は、概して無意識に都合のいいように記憶を書き換える習性がある。それは100も承知で述べるが、中学3年生までのピッチングは、私にとって自己表現の場であった。

 

平らかな校庭にこんもりと盛り上がったマウンドは、全身を大きく使って自分の感情や解釈を表現する舞台だった。自分だったらどうするか、自分はこうする、こうしたい、こんなこともできる、こうしてもよいんだという純粋な思い。投球の正しさなんて考えず、自分の中に自由に投球を構築していた。村上頌樹や大竹耕太郎に先んじて、舐めたスローボールを投げたり、能見篤史ばりのスーパークイックをいれたりもした。ノーワインドアップでそっと右足を引くことから始まり、バックの選手が打球を華麗にさばくことで一つの演技が完成する。N個の演技(N=任されたイニング×3)をどのようにアレンジするのか、バックと会話しながら投げていたような感覚だった。

 

しかし、正解が一つに定まる受験勉強を極め、常識が行動を支配し始めた高校以降、投球においても、「自分はどうしたいか」ではなく、「どうするのが正しいか」を考え始めるようになった。速球を投げるための正しい身体の使い方、制球を向上させるための正しいフォーム、投手に必要な正しいトレーニング…。正しさの先にもっと成長できるのではないかという期待とともに、フォームを大胆に変更するなど試行錯誤してみたが、それによって、私の演技を特徴づけていたリズムが崩れてしまった。人間には、1人1人異なった、固有のリズムがあると思う。それは、話すリズム、咀嚼するリズム、歩くリズムなど様々な場面で表出する。自身特有のリズムから逸脱してしまう動作は、エラーとして認識され、動きの正確性や滑らかさが失われる。そして、エラー動作を続けることで、固有のリズムを見失い、泥沼にはまっていく。ミラーメイズから永遠に抜け出せないような感覚だ。

 

ここで、正しさを追求することが間違っていると言いたいわけではない。大きな勘違いをしていたということを言いたいのだ。私は、結局、大学野球の引退に至るまで「正解の究極体」という、具体的に操作化することが難しい幻影を追い続けてしまった。どこかに存在するはずの、最も効率的で、最も合理的で、最も速い球を投げることのできる完成形。そして、「正解の究極体」に近づくために、インターネット等に転がる「正しさ」を丸ごと自分に移植することで、ドラスティックに成長できるのだろうという希望的観測を持っていた。あまたある投球理論をすべて学び、すべて吸収することこそ「考える野球」だと思っていた。

 

しかし、数々の失敗を踏まえた上で思うのは、「考える野球」の本質とは、正しさを構成する要素を学び、取捨選択して自分に合うように形を変えていく作業であるということだ。通奏低音として流れる固有のリズムは変えずに、正しいと言われている身体の動きやトレーニングを学び、自分の言葉で解釈し、必要だと思う要素のみ取り入れたり、捨てたりとマイナーチェンジに試行錯誤する。口で言うのは簡単だが、実際には本当に困難なこの取り組みに、根気強く、一貫して取り組める投手こそが大成するのだと思う。私は、この原理・原則を頭では理解していたつもりだが、実際には、目先に転がる「正しい」メソッドに狂わされ、正解を学ぶことと自分を捨てることを混同してしまっていただけだった。固有のリズムを失った私は、マイナーチェンジを施して上手くいかなかったときに戻ってこられるフォームを失い、ミラーメイズの中をさまよい続けた。

 

また、投球が自己表現の場ではなく、「正解の究極体」に近づくための作業に変わってからは、次第にマウンドというステージに立つことが怖くなっていった。理想とする「正解の究極体」から遠く離れたピッチングを露呈することへの不安が頭を支配するようになった。遠慮した弱気な演技に終始し、さらにその演技のベクトルは、打者でも、バックでも、試合でもなく、自分にしか向かなくなっていた。

 

負のループから抜け出すためには、そこから一度距離を置くか、自力で抜け出さなければならない。

 

その点、高校2年生の冬に、怪我により一度投手を離れたことは不幸中の幸いだった。「1番遊撃手田崎(2年/内野手/筑波大附)、2番右翼手近藤、3番中堅手高野、4番捕手ヤン・ウィジ」時代(2021冬から2022夏)はよく打った。栗山選手を初めとした、いぶし銀広角打法のイメージを脳内に幾度となく刷り込んで余計な動きをそぎおとし、テイクバックをとらず、最短距離でグリップをボールに当てにいくように打つという、高反発金属バットの恩恵にあやかった自称パンチング打法がはまった。自分はこうする、こうしたいという純粋な気持ちの大切さを再発見できた期間だった。

 

その後、東大に入学してからは、自然な流れで東大野球部に入部した。受験期間に野球への愛を再認識していたことに加え、筑附野球部の英雄的存在である遠藤さん(H12卒)、筑附野球部で本当にお世話になった和気さん(R3卒)や澁谷さん(R3卒)、田村さんらの存在が大きかった。

 

しかし、投手として挑戦した大学野球でも、「考える野球」をはき違えていた私は、フォームや練習内容をころころと変え続けた。「正解の究極体」には一向に近づけないままだった。がむしゃらに練習はした。特に下級生の頃は多くの練習を積んだし、写真フォルダに残る無数の投球動画がそれを裏付けている。しかし、努力の方向性が間違っていたのだろう。このフォームにし、この練習をすることで、「正解の究極体」に一気に近づけるのではないかという甘えが心を支配し続けていた。野球がそんなに簡単なスポーツではないことは十分に承知している。成功者は、「自分で選んだ道を正解にできるようにしなさい。」とよく言うが、私はその道を正解にできるほど、地に足をつけて、根気強く取り組みを続けることができていなかった。成功者は、「何かが上達するのは階段状であり、ゆるやかに坂を上るようには上達しない。ある日突然次の段階に上がる日がやってくる。」とよく言うが、その「ある日」が来るまで取り組みを信じて続けることができず、別のフォームや練習に目移りしてしまった。結局、大学野球でも負のループから自力で抜け出すことはできなかった。

 

いろいろと私の悲観的な内面を書き出してみたが、4年間を通して、幸いにも多くの登板機会をいただき、目標だった神宮球場での登板も達成できたこともまた事実だ。1年生秋のフレッシュリーグで先発し、早稲田大学に勝利したこと。2年生春のフレッシュリーグで先発し、慶應義塾大学に初回でノックアウトされたこと。2年生秋のフレッシュリーグで2度リリーフとして登板したこと。3年生春のリーグ戦で早稲田大学相手に登板したこと。憧れだった神宮球場のマウンドで投げられたことは本当に良い思い出だ。

 

しかし、神宮球場でプレーをする、またはスタンドで観戦することは、自分よりはるか先を行き、共感しようのない高みにいるチームメイトや他大学の選手がいることを実感させられ、「正解の究極体」になることの非現実性を否応なく認識させられる機会でもあった。

 

そして、大学2年生の夏休みのとある日、夕方帰宅する道中で、毎日野球に打ち込む自分自身に対してある問いが生まれた。「将来、野球を生業にする実力も意思もない。4年間を野球に捧げて勝利をもぎとっても、その喜びはいつか雲散霧消し、最後にはかすかな記憶だけが残る。では、私は何のために大学生に与えられた自由な時間を投げうってまで毎日早起きし、練習し、増量し、野球のことを考え続けるのか。」と。同時に、高校時代に遠藤さんが開いてくださった講演会の言葉が脳裏によみがえってきた。「君たちは野球を今すぐやめてもいい。それでも、高校3年間という貴重な時間を割いてまで野球をやっている。」高校時代の私は、何を言っているのかさっぱりわからなかったが、大学野球というステージにうつってはじめてその問いが胸に刺さった。自分は「正解の究極体」になんてなれやしない。東大野球部の救世主になんてなれやしない。マウンドでみじめな投球をするのが怖い。OP戦で抑えただけで十分満足である。そんな負の状態で「何のために」と考え始めた私は、もう以前のように野球を上達させることに一途な自分には戻れなくなっていた。

 

熱心に野球を続ける意味を見出せなかった私は、野球を辞めてしまおうかと思った。さっぱり辞めて、留学にでも行ってしまおうかと。しかし、私はいまだに東大野球部に所属し、こうして拙文をだらだらと書き連ねている。要するに、私には野球部を辞める勇気がなかった。目立った成績も残さないまま辞めてしまうのは、活躍を期待してくれる人への裏切り行為ではないか。かけがえのない同期や仲良くしていただいている先輩、可愛がっている後輩にはどのように説明すればよいか。これまで積み上げてきた野球と勉強の両立生活をこんな風に終わらせて良いのだろうか。いろいろと考えた。野球から少し距離を置くために、勉強や趣味に逃げてみたりもした。3年生の春に最初で最後のリーグ戦登板を果たしたときも、心の底には野球を続けていることへの迷いがあった。

 

それでも東大野球部に残り続けたのは、結局なんだかんだ居心地の良い場所だったからである。球場に行けば誰かしらがいて、「チュース!」というふざけた挨拶からばか話で盛り上がる。野球のことも、プライベートのことも、各人の良いところも醜いところも正直に話して受け入れ合う。アイデンティティの拠り所としては最適な場所だった。特に、同期投手陣は個性あふれる面々で、とても密度の濃い時間を過ごすことができた。直(江口/4年/投手/海城)垣田(4年/投手/高卒認定試験)佐伯(4年/投手/渋谷幕張)ティケ田(武田/4年/投手/岡山白陵)永島(4年/投手/開成)花村(4年/学生コーチ/投手)平泉(4年/投手/戸山)前田(4年/投手/熊本)しゅうぺい(山口周平/4年/投手/三重)景一(横山/4年/内野手/新潟)、本当にありがとう。そして、これからもよろしく。

 

一方で、中途半端な気持ちでチームに残り続けるのは、やっぱり苦しかった。野球に一途になれるほど熱くもなく、かといって完全に野球部を離れる勇気もなく、言ってしまえば惰性で野球を続けてきた面もある。その中で、本当に野球だけを見て、かっこ悪くても、それでもあがいている人たちがいる。その姿は、自分にはできない、しかし本来あるべき姿を突きつけてきた。だから怖かった。私は、理性で自分を眺めることで、傷つかずに済んできたのではないか。失敗したとき、「本気じゃなかったから」と言える余地を残してきたのではないか。本気であがいて、負けて、かっこ悪くなることから逃げてきたのではないか。彼らの姿は、私にそんな問いを投げかけているようだった。

 

チーム2026になって、大江(宣知/4年/学生コーチ/仙台二)とともにトレーニング長に就任してからは、野球部に残る意味を自分でつくっていたように感じる。部門長の一角を担うことで、選手としてだけではなく、幹部の一員として野球に関わるという、東大野球部との新しい接点ができた。選手としての弱さを抱えながらも、トレーニング長の仕事に精を出すことでその弱さをごまかしてきた。

 

前任のトレーナーである高木さん、学生トレーナーの半谷(2年/学生コーチ/学生トレーナー)とともに崇高なビジョンとミッションを掲げ、それを本気で達成しようと新たな施策を次々に打った。土台の面で他大学の選手に劣っていては勝ち目がないよねという、言われてみれば当たり前、しかしこれまで直視することから逃げてきた重要な事実と正面から向き合い、トレーニング、フィジカル強者をチーム文化にしていけるように、選手の身体づくりに奔走した。

 

そして迎えた2026年春季リーグ戦で、法政大学から勝ち点をもぎ取ったたくましい選手たちをスタンドから眺め、このタイミングで初めて、「自分が野球をする」ことではなく、「自分の仕事によって誰かが野球をする」という感覚が生まれた。これでよいのだと思った。リーグ戦で堂々とプレーする選手を通して、自分の意思を体現させている。フィジカル強者という文化は引き継がれていく。その文化が希釈され、拡散し、元の姿をとどめなくなり、誰が創始者だったかわからなくなっても、どこかにその香り、エッセンスが残っていく。

 

選手としての弱さがあったこと、誰かを通じて自分が野球をする感覚が生まれたこと、2026年春季リーグ戦に向けてベストを尽くし、調子も良かった中でリーグ戦に出場できなかったこと、春季リーグ戦後の練習一発目で中程度の肉離れをしてしまったこと…。右大腿四頭筋のMRIをとる間の20分で、それまで別々に存在していた流れがすべて合流し、「選手引退」の窓が開いた。後悔のない決断だった。

 

ただし、選手は辞めても、フィジカル強者の文化づくりは引き継いでいく責任があった。トレーナー体制の変更など途中ぐらつくこともあったが、一貫した取り組みをともに担ってくれた早瀨(3年/投手/藤島)矢田貝(3年/学生トレーナー/日比谷)、半谷、修吾(片山/4年/アナリスト/筑波大駒場)、本当にありがとう。早瀨、矢田貝、半谷については、新たな体制のもと、選手のみんながより勝利に近づけるような取り組みを、フィジカルにとどまらず牽引してくれることを期待している。

 

余計なお世話かもしれないが、トレ長の仕事を通して、チームを動かしていくために必要だと痛感したことをこの場を借りて共有したい。東大野球部、ひいては学生主体の組織すべてに言えることだと思うが、それは、「適切なタイミングで適切な大人を巻き込み、ゆくゆくは、大人たちが組織の骨格となってチームを動かす体制を志向するべき」ということだ。東大野球部は学生主導を突き詰めに突き詰めた、合理的かつ効率的な組織だと思う。各スタッフが矜持を持って仕事を全うしていることも理解している。しかし、学生主導には限界があることもまた確かだ。何かの取り組みを起こす際、その道に秀でた大人を巻き込むことで、取り組みの実行スピードと質は格段に上がり、その取り組みに説得力が生まれる。

 

大人を巻き込む資金がないのなら、資金集めに秀でたOBを巻き込み、クラウドファンディングを企画したり、OB組織を通してスポンサーをつけたり、グッズやSNSなどのマーケティングをより活性化したりしてみればよい。資金を集め、それを元手に球場やトレーニング設備などハード面、スキルコーチやメディカルチームなどのソフト面を充実させる。選手たちはより優れた環境下で技量の向上に努め、組織体制に目を向ければ、監督、助監督のもとに各スキルコーチがいて、各スキルコーチとチームドクター、AT、PT、S&Cコーチなどのスポーツ・メディカルチームが綿密に連携をとって練習を主導する。さらに整備された東大球場が地域交流の核となり、おらが町の東大野球部という空気が醸成される。それが、さらなる資金を生む。夢を見過ぎだ、恵まれた現状に感謝しろと言う人がいるかもしれない。しかし、本気で強豪と渡り合いたいならば、六大学野球を制したいならば、まずは選手を育成する環境、組織体制をNPBレベルにしなければならないはずだ。フィジカルと全く同じだ。選手のポテンシャルに差がある中で、育成環境も劣っているという現実から目を背けている限り、なかなか先には進めないのではないか。

 

とまあ、頭でっかちに述べてみて、また近藤が変なこと言ってるよとマネージャーには白い目で見られそうだが、チーム2026で運営に携わるようになって本当に実感したことだ。東大野球部がアマチュアスポーツ界で、最も充実した資金、育成環境を持ち、他の五大学と対等に渡り合えるチームになることを期待しているし、適切なタイミングで自分もOBとして関わり続けられたらうれしい。

 

以上、私の底流にあった率直な感情を赤裸々に綴ってみた。悲観的なこともたくさん述べたが、振り返ってみて、人間味あふれる充実した15年間だったなと素直に思う。私は、あと半年もすれば、大学生という肩書きを失い、社会の荒波に放り出される。これまで、小学生、中学生、高校生、受験生、大学生、就活生と時間が経つにつれて自動的に区切ってくれていた肩書きとも、もうお別れだ。自分で動かなければ、今の自分のまま何も変わらない世界に足を踏み入れる。東大にいたことが、東大野球部でプレーしたことが人生のピークにならないように、これからも必死に前へと走り続ける。

 

最後に、これまで特にお世話になった方々に感謝の言葉を記して締めくくりたい。

 

両親、兄へ

今まで健康に育ててくれてありがとう。応援し続けてくれてありがとう。引退して時間ができたら、久しぶりに家族みんなで旅行にでも行きましょう。

 

斎藤先生、花園先生、片岡先生、曽我先生

板三での野球は、辛いこともたくさんありましたが、強く心に刻まれている良い思い出です。特に花園先生には、腐った性根を叩き直されました。自分の原点を築いてくださり、ありがとうございました。改めて挨拶にうかがいます。

 

遠藤さん、和気さん、澁谷さん、田村さん

高校時代は本当にお世話になりました。東大野球部という選択肢が身近に感じられ、入部を決意し、今の自分があるのは皆様のおかげです。思うように期待に応えられず、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、人として強くなることができた大学4年間だったと思います。改めて挨拶にうかがいます。

 

高木さん

困ったときにいろいろと相談に乗ってくださり、また、フィジカルの文化づくりの指揮をとってくださり、本当にありがとうございました。高木さんには弱さを完全に見抜かれていました。直接お話できずに終わってしまったので、また改めて挨拶させていただきたいです。

 

板三野球部のみんな

かけがえのない仲間だなと日々感じます。草野球で暴れましょう。

 

筑附野球部のみんな

いっけいとしか定期的に会えていないので、年末年始どっかでみんなで集まりましょう。

 

東大野球部の同期へ

最高の仲間たちでした。個性が強くて、でも結束力があって。頼もしい同期が1人でも多くこの秋季リーグ戦で報われたらと心から願っています。残り1か月、勝撃おこすぞ。卒業旅行で暴れましょう。

 

東大野球部の後輩たちへ

ひたむきに努力し続ける姿勢は本当にかっこいいです。苦しくなったらいつでも連絡ください。飯行きましょう。特に、Yokondo班(YK Group)の直人(高橋直人/3年/投手/日比谷)北翔(大森/3年/投手/一宮)田中(2年/投手/日比谷)克徳(福井/2年/投手/開成)森本(1年/投手/小石川中等教育)には、定期的に差し入れできればと思っています。

 

次回は、遠山・葛西スペシャルならぬ、近藤・山口リレーとしてお馴染み、見た目は大人、頭脳はイカ東、その名は山口周平くんです。数式を多用した、理論的な人生談。期待が高まるばかりです。


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次回は9/21(月)、山口周平投手を予定しております。

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