フリーパス付きアプリ 2026年度版 販売中!
BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.15 春山 雄一郎 内野手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『僕の野球人生』vol.15 春山 雄一郎 内野手(4年/昭和学院秀英)

Bonjour, je m’appelle Yuichiro Haruyama.
仏語の天才、垣田君(4年/投手/高卒認定試験)に対し僕が覚えている仏語はこれだけなのでいつまで経っても会話は成立しません。僕の仏語能力と同じくらい駄文となってしまった僕の野球人生ですが、読んでいただけると幸いです。

 

「人生何とかなる」
この座右の銘を心で唱え続けながら残り1ヶ月を切った野球人生をいい形で終わろうともがいている。

 

野球人生の始まりは週に一度両親の代わりに保育園に迎えにきてくれた祖父とのキャッチボールとバッティングだった。力いっぱいボールを投げて打つ。単純だったがとても楽しく、野球はお気に入りの遊びになった。

 

小学校入学直後に地元の稲丘ベアーズに入った。大学野球部のみんなには驚かれるかもしれないが、チームに入った当初は打撃ではなく守備が好きだった。理由はシンプルで打撃が苦手だったからである。テニスボールを使ったノックやキャッチボールで守備はどんどん上達したが、打撃は一向に向上せず、振り逃げか相手のエラーか四球でしか塁に出ることはなかった。一方、同時期に入った同期2人は小四から普通にヒットを打っており、それが打撃嫌いを助長させた。みかねた父の主導で小二から打撃改造が始まった。当時では珍しいパームアップのレベルスイングを取り入れ左打→右打へスイッチした打撃はバッティングセンターに毎週通うことで上達し、四年生のころにはランニングホームランを量産できるようになった。打撃の苦手意識は無くなり、チームメイトとの練習後の時間含め遊びとして野球全体が好きになっていた。

 

小学校5年生になるタイミングでベアーズを辞め、千葉市リトルに入団した。入団当初明らかに自分とはレベルが違う同期が何人もいて心躍った。はじめての硬球は体に当たると想像以上に痛く、詰まると異常に手が痺れた。冬のサーキットや筋トレは今思えば小学生には異常なほどの量で毎回吐く人が出るほどだった。チームメイトとの競争も感じるようになった。一個上の代が始まるときに背番号をもらった。背番号で嬉し泣きをしたのは初めてだった。その大会でミスをした。次の大会はメンバーから外れた。先輩たちの代はそれほど勝てず、すぐに自分たちの代になった。全日本選手権予選の大事な試合で全打席三振し、戦犯となった。野球の結果で母に怒られたのはあれが最初で最後だった気がする。もう一つの大会である全国選抜予選の決勝で勝ち越しホームランを放って優勝した。初めてにして野球人生唯一の全国の舞台だった。あっけなく2回戦で散ったが満足だった。この頃から勝つ野球が好きになった。

 

中一の夏からリトルの総監督が監督を務めるシニアのチームに入った。当然そこにも自分より上手い選手が何人もいた。田んぼと杉の木とゴルフ場に囲まれた球場で花粉と戦いながら練習した。10点取られても11点取ればいい。1日の練習の7,8割を打撃練習にふっていたような脳筋野球スタイルだったが、小四以来打撃が好きになった自分にはとても合っていた。目標としていた全国大会には届かなかったがひたすら勝利を目指す野球は確かにとても楽しく、個人的にもまずまず満足のいく結果で終わった。しかし、同期や先輩が骨折したり40度の熱を出しながらも試合に強行出場している姿をみて、ただ単に野球が好きでやっている自分と野球で人生を進めようとしている同期との野球に対する情熱の温度差を感じた。

 

高校に入学した当初、野球部に入部するモチベーションは高くなかった。先に入部していたクラスメイトに誘われて練習に参加した。気がついたら入部していた。昭和秀英はいわゆる弱小校だったが、そこでののびのびとした野球は楽しかった。高校一年生の夏予選でZOZO(ZOZOマリンスタジアム)で試合をするなど貴重な経験を沢山した。先輩たちもクセがあるが優しく、雨で練習がなくなった日に部室でキャップ野球をするのは楽しかった。2年生になり今も生意気でかわいい後輩である玉置(3年/投手/昭和学院秀英)が入ってきた。自分たちの代になると玉置とバッテリーを組んだ。自分のことではほぼ怒られたことがないのに玉置関連で川本先生には何回怒られたかわかりません。最後の大会で高校野球で初の公式戦一勝を果たした。大した結果ではないのはわかっているが、個人的にもチーム的にも満足のいく結果だったと思う。玉置あの時は投げ続けてくれてありがとう。とても感謝しています。

 

一年の浪人を経て東大野球部に入った。
下級生の頃からベンチ入りして上級生からスタメンにもなり最上級生では主力になる、そんなことをふわっと思い浮かべながら入部した。

 

大学野球部に入部した直後、2つのギャップに直面した。一つ目は同期のレベルの高さだった。12分間走では堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)、門田(4年/副将/内野手/松山東)、伊藤(4年/外野手/県立千葉)が意味わからないペースで走っていた。フリーバッティングでは変化マシンで門田が初日から3球連続でホームランを打っていた。二つ目のギャップは自分の体の動かなさだった。浪人期に一切の運動をせず、暴食で勉強のストレスを発散させていたため、体は怠けまくってるうえ自分史上最重量になっており、内野守備で一歩動くのも苦労するほどだった。この二つのギャップに打ちのめされた自分は同期が3限後自主練をしに球場へ向かうなかクラスの友人と遊んだり、東京を散策したりして気を紛らわした。差はより広がっていった。同期が春フレッシュからメンバーに入り、夏の遠軽合宿に選ばれ、秋のフレッシュに出るなかBの2枚目で出れるか出れないかといった状況だった。流石にこのままでは野球部に入った意味もなく終わってしまうと思い、冬から球場近くで一人暮らしを始め、夜にいつでも自主練に行けるようになった。

 

二年生の思い出は春のフレッシュ出場と夏の盛岡合宿だ。春のフレッシュは現時点で私が唯一神宮で試合をした機会であり、二打席凡退で試合結果も散々なものだったが、また立ちたいと強く思えるものだった。夏の盛岡合宿は直前から好調だったこともあり初戦から5番DHとしてホビーズの偉大な先輩方と試合に出場したが、数馬さん(R8卒)のバントのサインを結果として無視してしまい、出場機会を減らしてしまった。秋になるタイミングで川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)に次ぐ二人目の学生コーチを決めることになった。自分の他に本岡(4年/学生コーチ/基町)と平泉(4年/投手/戸山)が候補になったが、学年でのミーティングや川又含めた4人の話し合いでどうやら自分か本岡かといった状況になり、最終的に投票で本岡になった。正確な日付は忘れたが、オフの日に球場に行くと本岡が楽しそうな顔を作りながら新しく取り入れた打撃理論を解説してきた。リーグ戦出場の可能性が当時自分より高く誰よりも練習し、4人の話し合いの時に社会人まで野球を続けたいとまで言っていた本岡が学生コーチになり自分が選手を続けていいのかわからなくなった。そんな事思うような奴ではないことはわかっているが、やっぱり春山より自分が選手だった方が良かったのではないかと思われないように頑張ろうと思った。

 

三年生の春リーグの立教大学戦で小学校の同級生だった永名(立教大学/R8卒)が登板した。秋リーグでメンバーに入り彼と対戦することが目標になり、かつてないほどの高いモチベーションはそのまま結果となって合宿前のオープン戦に出た。工藤さん(R8卒)や他の先輩、同期の一部からも遠軽で頑張ろうと言葉をかけられ、自分の中でも正直行けるものだと思っていた。遠軽に行ったあとどう七大戦や秋リーグに絡もうかと先のことを考えていた。しかし、LINEでメンバーが発表されたときに自分の名前はなかった。当日本岡に呼ばれ経緯を説明されたが、あまりちゃんと聞けていなかったと思う。盛岡合宿やその後のオープン戦では結果をのこせず、秋リーグは遠いものとなった。秋リーグの応援で自分に割り振られた番号だった38をつけて中根(2年/投手/筑波大駒場)が投げている姿や玉置が自分よりも先にリーグ戦に出ている姿をスタンドから見るのは辛いものがあった。伊藤や明石(4年/捕手/渋谷幕張)など同期が活躍しているのをみて嬉しい反面、素直に喜べない部分もあった。より試合が見やすいなど言い訳をしてファール番や警笛を担当し、応援席から離れた場所で試合をを観戦していた。

 

四年目が始まった。あと少し気持ちが揺らいでいたら間違いなく選手を辞めていた。冬の合宿の選考には漏れた。3,4月には入部してから一番と言ってもいいほどのスランプに陥った。あるオープン戦で大山(3年/捕手/ラ・サール)や堀端(3年/外野手/向陽)が「俺たちもいよいよだな」と言っていた。四年生の4月にB戦で結果を出せずにいた。いよいよどころではなかった。毎試合終わるごとに座右の銘を心の中で唱えることでなんとか平常心を保っていた。一緒にBで足掻く同期、練習の合間で他愛無い話をする康平(松本康平/3年/捕手/栄光学園)や矢田貝(3年/学生トレーナー/日比谷)、つちがはた(3年/学生コーチ/城北)をはじめとした後輩たちの存在も大きかった。4月終わりの空き週、臼井さん(R8卒)に焼肉を奢っていただいた。春に選手を諦めたことを秋になって後悔した、結果はどうであれできる限り選手は続けた方がいいと伝えられた。5月の初めには工藤さんや黒武者さん(R8卒)にもう少しで野球人生は終わるんだから1打席1打席大事にしながら楽しめという言葉をいただいた。毎試合1打席終わるごとに引退へのカウントダウンがされていっているように感じた時期、欲しかった言葉をもらった。取り憑いていた悪いものが一気に浄化されたような気がした。気がついたら結果はどんどん上向きになっていった。5,6,7月と打ちまくりA戦にも呼ばれるようになった。7/19の桐蔭横浜戦は間違いなく大学野球で一番の勝負の日だった。一打席目は凡退した。あとはなかった。二打席目に放った飛球は外野手のグローブをギリギリ掻い潜り、二塁打となった。あの時のベンチやスタンドからの声、塁上での高揚感は今でも忘れない。1週間後遠軽のメンバーが発表された。やっと先に行っていた同期と同じステージに立てると浮かれていた。球場から帰ろうとしている大坂(4年/外野手/金沢泉丘)にいつも通り自主練しようと少し遠くから誘った。返事が聞こえないから軽口を叩きながら近づいた。顔が見えるほどの距離になった瞬間浮かれた気持ちはなくなった。同期の数人が引退した。中には直前までAにいたメンバーも含まれていた。余計気を引き締めた状態で遠軽合宿が始まった。シートBTや遠軽高校戦でヒットを重ねた結果七大戦まで参加できた。東京に戻ったあとも試合やリーグ戦裏の実戦で打ったり大事な試合で打たなかったりして日々はあっという間に過ぎ、気づいたらもう1ヶ月を切っていた。

 

プロ野球選手と弁護士。小一の時に書いた大層な将来の夢である。プロ野球選手になる夢はリトルの頃には諦めたし弁護士も中学の頃そんなにできた人間ではないと悟り諦めてしまった。小一の自分が今の自分を見たらそのスケールの小ささにがっかりするだろうが、せめて今応援してくれている人たち、今の自分が引退する瞬間にがっかりしないように、多少なりとも喜んでくれるようにもう少しだけ自分を信じ続けてみる。

 

 

両親へ
全て書くと長すぎるのでここでは最低限にしようと思います。送迎、洗濯、道具の手入れとなにかと手のかかる息子だったと思います。それでも常に応援してくれてありがとう。高校までほぼ毎試合応援に来てくれていたのに大学では今までリーグ戦に出れず応援してくれる機会を作れなかったこと、本当に申し訳ないと思っています。残りカードは少ないですが、少しでも多くの試合に応援に来てもらえるように頑張ります。

 

歌津先生、川本先生
卒業してから数回しか挨拶に伺っていませんが常に温かく迎えてくれてありがとうございました。東大受験を決めた高2の秋、成績優秀な生徒でなかった私は模試の志望校にひっそりと東京大学を書きました。歌津先生に呼び出され本気か確認されたことを今でも思い出します。あそこが今までの人生最大の分岐点でした。あの時迷っていた自分の背中を押していただき本当にありがとうございました。

 

同期へ
楽しかったです。自主練の室内や学年部屋で固まって駄弁っていたシーンばかり思い出してしまいます。残り3カード、目標を達成するためには1カードも落とせないというギリギリの状況ですが、勝ち点3をとって歴史を作ろう。

 

本岡、大坂
本岡は自ら進んで、大坂はぐだぐだ言いながらなんやかんや自主練のバッティングに付き合ってくれて本当にありがとう。あともう少しだけお願いします。

 

後輩へ
部内の競争が年々激しくなるなかでどんなに努力してもみんなが満足して引退することは難しいと思います。それでも少しでも納得した形で大学野球を終われるように自分を信じ続けてください。とりあえず学生である来年までは神宮に行きます。 

 

次回は寺嶋アナリスト(4年/お茶の水女子大附)です!彼女とは中学校3年間同じクラスだったこともありますが、ミステリアスな印象です。そんな彼女の心情がありありと見えるような僕の野球人生にご期待ください!

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次回は10/5(月)、寺嶋桜子アナリストを予定しております。