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BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.22 片山 修吾 アナリスト

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.22 片山 修吾 アナリスト(4年/筑波大駒場)

東大野球部の父・前田(4年/投手/熊本)から紹介していただきました、アナリスト4年の片山修吾です。1年の遠軽やオータムフレッシュで開催された「前田カラオケ」にまた参加したいです。最終カードでは、彼の老獪な投球術、マウンドさばき(特にアウトカウント!)にも注目です。

 

アナリストをしていて、初対面の人に必ずされる質問がある。
「なぜアナリストをやっているんですか?」
「自分でプレーしたくならないんですか?」
アナリストという職に興味を持ってこのような質問をしてくださることは本当にありがたいことだ。
いつもは「自分で野球するの下手なので!」とかなんとか適当な理由を言っているが、実際のところ深く考えたことはなかった。
せっかくの機会なので、自分の野球人生を振り返りつつ、考えてみたいと思う。

野球を始めた時期やきっかけは、よく覚えていない。最も古い記憶は、小学校低学年か幼稚園児のときに野球教室の体験に行って、グローブをもらったことだ。なぜ野球に興味を持ったかもわからないが、おそらく地上波で放送されていた巨人戦を見たのだろう。
それから週に1回程度、野球教室に通った。普通の学童野球とは違い、試合やチームという概念はなく、ただのびのびと野球をする場だった。競技人生を始める時期こそ早かった自分だが、野球をプレーすることに熱心なわけではなく、運動神経の悪さも相まって、上達はしなかった。
小学3年生の頃、友人の紹介で地元の学童野球チームに入った。人がいないからすぐに試合に出れるよ、という謳い文句に誘われて入ったのだった。
そんなチームの中でも技術は最低レベルだった。投げる球は遅く、バットにボールが当たらなかった。とりわけフライ捕球は深刻だった。ノックや試合でバンザイをし続けた。単に落下地点の予測ができないだけでなく、そもそも上から落ちてくる飛翔体に恐怖心を抱いていたように思う。
ポジションは、最初は外野だったがフライが捕れず、ファーストに転向した。同ポジションのお兄さんが優しく教えてくださった。当初は人数不足で入ったチームだが、お母様方の勧誘の甲斐あってメンバーは増えていた。高学年に上がっても、試合に出て活躍することはできなかった。
野球大好き少年ではなかったので、自分から好んで自主練をすることはなかったが、コーチに言われた素振りには取り組んでいた。ヘタクソながら継続すれば成果は出るもので、5年生になってようやく試合でヒットを打った。同級生の中では1番遅かったと思う。
この時期の野球は、成功よりも失敗が圧倒的に多く、やっていて楽しいものではなかった。チームの勝ち負けという点でも、勝ったことがないから勝ちの喜びなんてものはわからなかった。
転機となったのは、最上級生に上がった頃のヒデコーチ、石田コーチとの出会いだった。「野球は楽しくやろうぜ」というお2人の指導のもと、技術の上達と野球の楽しさを経験した。守備は相変わらずだったが、打撃は一時4番を打つほどに好調だった。
夏の大会でチームは区3位になった。チームの勝ちの嬉しさを感じたのは初めてだった。
最後の大会は1回戦負けしたが、友人たちと大泣きしていた記憶がある。昔は負けるのが当たり前だったが、このときは本当に悔しかったのだと思う。

進学した中学には野球部はなかった。同級生はシニアやボーイズに入って野球を続けていたが、僕にそこまでの熱量はなかった。
ただ、小学生の頃から甲子園や高校野球への憧れがあり、幼馴染の佳広とは「高校に入ったら野球部に入ろうな」という話をしていた。
ちなみに彼とは学童野球の頃、彼がショートから投げたワンバウンド送球を僕が捕れなかったときに、どちらが悪いかという議論を延々としていた記憶がある。
幼小中高一貫の学校であったため、佳広とは幼稚園から高校まで同級生になるはずだった。ところが、色々な偶然が重なって、僕が外部の高校を受験することになった。
高校入学の直後は野球どころではなかった。新型コロナウイルスが流行し始めた時期だった。1学期は学校に行くことすらできなかった。
高かったはずの野球への熱量は、受験勉強を通して落ち気味だった。しかし、コロナによる外出制限で運動不足を感じていた僕は、何らかの運動部に入ることを決めた。
コロナによる登校制限が解除された2学期、野球部の練習に体験参加した。中学時代の競技歴のなさや、コロナによる運動不足もあり、入部は躊躇していた。あくまで「様子見」であった。ところが練習後、長身の真っ黒な人(キャプテン)に満面の笑みで「もう入るってことでいいんだよね?」と言われた。いいえとは言えず、僕の球児としての生活が始まった。ちなみにこの真っ黒な人が酒井太幹さん(R8卒)である。
技術的にも体力的にも最底辺からのスタートだった。高校では再び外野を守ることになったが、打撃、守備、走塁どれをとっても散々だった。試合に出てもヒットは打てず、フライは捕れなかった。練習試合で自分のミスも絡んで44点を取られて大敗したときには、さすがに堪えた。
野球自体は辛いことの方が多かったが、優しい先輩方や同期に恵まれ、野球部を辞めようと思ったことはなかった。

70期(1学年上)の先輩方との1年はあっという間に過ぎてしまった。最後の夏の大会の時期は僕は怪我をして記録員をしていた。
ここで一つ気がついたのは、僕は野球を見ることにも楽しさを見出せる、ということだった。コンカツ(近藤/4年/投手/筑波大附)が指摘するように、世の中には自分でする野球に楽しさを感じる人と、見る側としても楽しさを感じられる人がいる。僕は後者だった。チームメイトの練習試合についていって、スコアをつけることに何の苦痛も感じなかった。夏の大会では、簡単に相手の分析のようなこともしていた。今考えれば、アナリストになる素地はあったのかもしれない。

先輩方が引退し、自分たちの代になった。僕は部長という、事務職を務めることになった。先生や監督との連絡、グラウンドの確保が主な職務だった。なぜ自分がこの職に就いたのか覚えていないが、この経験も、現在のアナリストの活動に活きているはずだ。

僕の野球下手エピソードは数多くあるが、特筆すべきこととして、僕はスライディングができなかった。学童野球のころはどうしていたのかという話だが、消極走塁とクロスプレーでは転がる(決して滑るではない)ことによってスライディングを回避していた。入部から1年間、打ったヒットは0本、したエラーは数多く。さすがにこのままでは公式戦に出ることなく引退するのは明らかだった。
自主練でみんながバッティングや守備練習をしている中、自分だけが端っこの砂場でスライディングの練習をしていた。
夏に集中的に練習した甲斐もあり、スライディングはおてのものとなった。夏の終わりの練習試合ではヒットも打てるようになっていた。学童野球同様、かなり遅咲きだった。
守備は相変わらずだったが、弱い肩はショート・成瀬(3年/外野手/筑波大駒場)に中継で投げてもらい(自分が30mに対して、成瀬が70mくらい投げていた)、フライを落球して出塁したランナーはキャッチャー・西山和希(3年/アナリスト/筑波大駒場)が刺してくれた。

秋は素振りで1.3kgのマスコットバットを振り回し、腰椎分離症を発症した。冬は治療に専念した。

翌年の春の大会では数年ぶりに公式戦勝利を挙げたが、僕はそれをベンチから見届けるばかりだった。

春の大会後、同期の引退などもあり、自分がスタメンになることが多くなった。
この頃の練習試合の相手には、筑波大附属の2番ライト・近藤、浅野の2番ショート・鈴木(4年/外野手/浅野)、渋谷教育学園渋谷の4番キャッチャー・川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)など、今では見知った名前が並ぶ。
6月の東大との練習試合では、青木さん(R6卒)との対戦にワクワクしていた。青木さんは、僕たちの中では伝説だった。朝木監督(S60卒)がミーティングでよくする話はいくつかあるが、青木さんが高校のときに偉大なピッチャーであったという話は何度も刷り込まれてきた。もっとも、僕自身は熱中症で3回に交代したのだが。
当時の僕にとって、東大野球部は青木さんや酒井太幹さんが野球をしていて、勝った時にニュースになるチーム、くらいの認識だった。大学でも野球を続ける気はなかったので、さほど興味を示すことはなかった。

高校最後の夏の大会は初戦で負けた。ありえないくらい緊張して、ど真ん中のボールを打ってもファウルにしかならなかった。1死12塁から完璧なゲッツーコースのショートゴロを打った。全力疾走がチームモットーだったため、無我夢中で走った。ゲッツーだけは避けなければならないと思った。なぜか1塁に到達した。1塁ランコーに「お前、運良いな」と言われた。どうやらショートがファンブルしたらしく、オールセーフだった。この後、成瀬の犠牲フライでホームを踏んだ。
一時はそれで逆転するも、最後は力尽きた。
「俺を神宮に連れて行ってくれ」
試合前に朝木監督に言われていた。西東京大会で神宮で試合をするには、3回以上勝つ必要があった。僕は監督の期待を背負ってグラウンドに立っていた。
監督の期待には、応えられなかった。監督は、公式戦で負けたときには決まって自分の責任だ、と言う。単に高校野球が終わったというだけでなく、自分の無力感を感じた。
負けた瞬間、泣くつもりはなかったが、試合後のミーティングでありえないくらい泣いた。いつもヘラヘラしていた友人も涙を流していた。
最後の夏に登板できなかった友人は、大学野球での活躍を誓っていた。すでに彼らは次のステップを見据えていた。
振り返れば、「する野球」の難しさを感じ続けた学童・高校野球だった。自分に才能がないことも嫌なほど理解した。ただ、地道な練習を重ねて、亀のような遅さながら自分の技量を向上できたことには、達成感を感じた。
高校野球を終えた段階で、僕の野球人生はこれで終わりだと思っていた。

受験勉強の間、大学に入ってから何をするかは全く考えていなかった。合格発表後、最初は趣味の将棋でも突き詰めてみようかと思い、将棋部に入ることも考えていた。
しかし、野球から離れていた半年間で熱量は復活したのか、気づけばサーオリで野球の団体が集まるブースにいた。硬式野球部で選手としてプレーすることは毛頭考えておらず、野球サークルの話を聞くためにこの場所に来たのだった。一通り野球サークルで話を聞いた後に、「一応」運動会の部活の話も聞くことにした。どうやら硬式野球部には「アナリスト」という職があるということを知った。その場で週末の開幕戦の観戦が決まった。
開幕の明治戦。この日は奇遇にも母校の筑駒野球部も観戦に来ており、朝木監督と話を交えつつ観戦した。
僕は大学野球を舐めていた。高校野球が学生野球の花形だと思っていたので、150キロを平気で投げる明治のピッチャー、明治の野手の光のような速さのボール回し、打球処理の安定性、外野手のレーザービームとどれをとってもハイレベルだった。それにくらいつく東大の打者も印象的だった。毎回のイニング間に放られる小島大河(明治大学/R8卒)の矢のような送球には、朝木監督の「俺も現役のときはこのくらい投げられたんだよ」という解説が添えられた。
1点ビハインドの5回2死満塁、東大の代打が鋭い打球を放った。越えれば逆転、という当たりだったが、明治のセンターが鮮やかな背走で捕球してしまった。見たことのないプレーだった。
「これが明治なんだよ」
朝木監督の悔しさと感嘆が混じった声が聞こえた。
東大はこの後負けてしまったが、最後まで互角に戦っていた。監督から、東大がこのような好ゲームをできるのは分析によるところが大きいと教えられた。
この時点で、僕の入部はほとんど決まっていた。
監督からは、「日本一のアナリストになれ」と言われた。自分自身も東大の好ゲームを目の当たりにし、合格後の開放感もあって気持ちが大きくなり、自分の分析でこのチームを勝たせるんだ、と意気込んでいた。
プレイヤーとしての他団体の新歓に参加し、プレーへの未練を断ち切って5月に入部した。半年間野球から離れていたことで膨らんでいた自分への期待は、あっさりと砕け散り、自分の下手さを再認識して選手の道を諦めた。
入部後は、優秀な先輩とユニークな同期に恵まれた。先に入部した中井アナリスト(4年/金沢大附)は「爆音アナリスト」として文字通り、部内に名を轟かせていた。
先輩方はとても優しく、そして優秀だった。独自の打ち込みシステムを開発する想真さん(R7卒)、MLBやアマチュア野球の異常な知識量を誇る中島さん(R8卒)、学生の作ったものとは思えないクオリティの資料を出すうちこうさん(R8卒)。
最初は先輩方のもとについて色々なことを学んだ。入部時の意気込みはたいそうだった僕だが、データ野球の知識はほぼ皆無だった。知っていた指標は高校野球のときに監督が好んで起用に使っていたOPSくらいだった。野球のプレーにも大して詳しくなかった。唯一の武器は、高校のときに多少触れた程度のプログラミング能力であった。
試合の打ち込みソフトを動かしたり、簡単なプログラミングをしたり、リーグ戦を観戦したり、合宿に行ったりと、次々と新しい経験をして、自分のできることが広がっていく感覚が楽しかった。中島さんらとマネ部屋でくだらない話で盛り上がる時間は最高だった。
一方で、「自分の分析でチームを勝たせる」という当初の目標は、いつの間にか頭の中から消え去っていた。2回目のリーグ戦が終わり、4年生が引退した。振り返ってみれば、自分がチームにした貢献はゼロだった。
1年生が作戦やチーム全体のことに裁量を持てないのは当然だが、自分が上級生になったときのビジョンを掲げ、それを目指す努力を怠った。もっと能動的に、野球やデータ・統計に関する知識を蓄えるべきであった。中井アナリストは早くからこの点に気づいていたのだと思う。
2年生になってからは、授業が比較的少ないことを活かして、平日の神宮球場のビデオ番を担当した。試合を多く見ていると、いくつか気づくことがあった。後から動画を何度も見返し、確認・検証した。これが入部してからの初めての「分析」だった。
こうして得られた知見は、選手や学生コーチに提案する必要があった。
寮に行き、少し機嫌の悪い杉浦さん(R8卒)におそるおそる説明したのが懐かしい。ありがたいことに、提案を採用していただいた。
実際の試合でもこの分析は活きた。自分がチームへ貢献したと初めて実感できた機会だった。こんなに楽しい仕事はないと思った。
秋の法政2回戦では門田(4年/副将/内野手/松山東)がサヨナラヒットを打ったとき、同期の活躍と達成感で、涙が溢れそうになった。
4回目のリーグ戦が終わり、想真さんが引退した。アナリストの大黒柱がいなくなり、システムの引き継ぎがとにかく大変だった記憶がある。
一方で、新しい風も到来した。4月にひらしほ(平松/3年/アナリスト/洛南)、慶(西山慶/3年/アナリスト/市立南)、榎(3年/アナリスト/修猷館)が、11月に平井(3年/アナリスト/並木中等教育)、和希が入部した。特に、西山和希は確落ち(高校同期談)と言われていた状況から合格を果たし、それを聞いたときからアナリストの勧誘をしていた。アナリストに野球のプレーに明るい人材がいなかったことから、プレーと分析のギャップを埋めるような人が必要だったこと、そして彼自身がマネジメントや分析に秀でていること(朝木監督評で「彼はそこらへんの高校野球の監督はできる」と言われている)から、これ以上の適任はいなかった。
彼含め、5人の後輩は全員がとにかく優秀で、それぞれが主体的に活躍していた。自分の引退後にも心配はない。
3年になり、1年生が6人も入部した。自分自身が入部したときには両手で十分数えられるほどだったアナリストも、気づけば16人になっていた。
この辺りからチームでの分析の機会が増えた。平井、和希、そして1年生の辻井(2年/アナリスト/東大寺学園)と結成した小隊での活動が印象に残っている。なぜかある競技名を冠した奇妙なチーム名だった。ありえない時間にミーティングをしたり、作業量が多かったりとなかなか大変ではあったが、とにかくみんなでああでもない、こうでもないと言いながら作業・分析するのが楽しかった。
ちなみにこの隊の最大の功労者は平井である。秋の法政戦の前にある提案のわずかな修正を報告する必要があった。彼はそれを朝イチで学生コーチに報告するために球場に寝泊まりした。自分が4年生に上がるときに、責任者を平井に引き継いだ。ここで言うのが正しいかわからないが、和希ではなく平井に引き継いだのは、ひとえに平井が適任だと思ったからである(決して和希君が無能なわけではない)。
6回目のリーグ戦が終わり、おんぶにだっこで頼っていたうちこうさんと中島さんが引退した。
自分たちが最上級生になった。
入部時の朝木監督の言葉を思い出した。
「日本一のアナリストになれ」
3年間の活動で、僕個人が日本一のアナリストではないこと、そしてなれそうもないことは火を見るより明らかだった。そもそも、先輩や同期、後輩に自分よりもアナリストとして優秀な人がたくさんいた。下級生の間、地力を蓄えていた中井アナリストと違い、ここで初めて自分が漫然と過ごしていたことを後悔した。
一方で、これほど優秀な人材が揃っているのだから、彼らがうまく活動できる組織を作れば、日本一のアナリスト組織になれるのではないかと思った。当時のアナリストは、個人としての技術力こそ高かったが、それが必ずしも組織全体に還元されているわけではなかった。人数が増えてきたこともあり、各々が個人として分析する従来のスタイルでは非効率な部分が多くなっていた。
自分がさらに分析能力を高めることももちろん大事だが、それよりも、優秀な仲間たちが力を発揮できる環境を作った方が、チームへの貢献は大きいのではないか。
そこで、東大野球部アナリストという組織として、日本一を目指すことにした。
アナリストのもつ大体の業務をプロジェクト化し、それぞれに責任者を置いて進捗を管理させた。個人の分析能力向上のために内部で分析コンペを開催したり、新入生が効率的に技能や知識を習得できるよう、教育資料の拡充を図ったりした。
自分たちが引退した後も、継続的に分析のできる人材が育つ、強い組織の基盤を作りたかった。
代替わりして最初の頃は新しい試みを重ねるのが楽しかった。しかし、すぐに壁にぶち当たった。自分はこれまでろくに組織のトップに立って、リーダーシップを発揮したことがなかった。問題が発生したとき、判断を間違え続けた。組織の中で分かれる意見をまとめることが、途轍もなく難しかった。自分のせいで、アナリストの空気が悪くなったこともあった。自分が拙いリーダーである中で、いつも助けになったのは、同期や後輩である。この助けがあったからこそ、物事はなんとか前進した。
選手や学生コーチとの連携も強化した。堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)や川又、各部門長、分析長らと連携しながら、アナリストがより幅広い場面で活躍できることを目指した。
ピッチャーとマンツーマンでピッチングの方針を話す班や、作戦を提案する判断など、様々なプロジェクトが生まれた。
最上級生になって、色々なことに手を出すようになった。これは好奇心というよりは、「このままだと勝ち点が取れないのではないか」という焦燥感からくるものだった。色々な試みをしては、失敗を繰り返した。完全に空回りしていた。それでも、他のアナリストの頑張りがあって、分析自体は今までになく充実していた。
引退が迫ってきて、自分の失敗を後輩に伝える必要があると思った。アナリストは、いなくても良い存在である。プレーをする選手や試合の段取りをするマネージャー、練習をマネジメントする学生コーチは、いなければ東大野球部の活動は成立しない。一方で、練習や試合の成立に、アナリストは必要ない。アナリストの分析も、選手や学コに求められてやっているものよりは、自らやっていることが多い。最低限のシフトをこなしていれば、アナリストに対して文句を言う人はいない。選手と違って、ベンチ入りやスタメン入りできるかどうかという競争もない。それに甘えて、下級生の頃を無為に過ごしたのが、自分であった。後輩たちには、自分のようにならないでほしい。思い描いたアナリストになれているか、そのための努力をしているか、再度自分に問いなおしてほしかった。
今考えれば自分の心配とは裏腹に、後輩たちは自ら考え、行動し、新しい分析を切り拓いている。当時は自分の中で焦りがあって、厳しく接してしまった(この態度が、「ガン詰め」と揶揄されることになった)。

こうして例年より綿密に準備して臨んだ春のリーグ戦は、序盤はなかなか勝てなかった。
そして、法政戦で9年ぶりとなる勝ち点を獲得した。勝った瞬間は現実味がなかった。思いの外2連勝であっさりと勝ってしまったからである。
時間が経って、メディアに取り上げられたり、知人からのお祝いの言葉をもらったりするうちに、ようやく勝ち点を獲得した喜びが湧いてきた。何より、チーム堀部が掲げてきた勝ち点1という目標が達成されたのが嬉しかった。

しかし、ひとつの疑問が僕の中に残った。

「この勝ち点は自分がいなくても取れたのではないか」

自分としては、相当な準備をして試合に臨んだ。ただ、それらが実際にどれだけ勝利につながったのかはわからなかった。
2年の頃の勝ちでは、自分は勝ちに貢献したと、胸を張って言えた。別に取り組みを変えたわけではないが、勝ち点を取った2試合では、明示的に成果の出た分析はなかった。そもそも、アナリストの仕事の多くは、わかりやすく成果が現れるわけではない。例えば、相手打者の分析がどれほど役に立ったのかを考えてみる。分析に基づく配球によって打者を抑えたとしても、それが分析の成果なのか、投手の能力によるものなのか、相手打者の能力によるものなのかを区別することは難しい。
去年からの継続的な目標・アナリストWAR1.0は、評価できないというバグを抱えていた。
自分がどれだけ貢献したかは、結局わからないままだった。どうやら中井アナリストも同じことを考えていたようである。彼とは基本的に考え方が正反対だが、時折同じことを考えているときがあると、なんだか嬉しくなる。

しかし、今思えば、自分の貢献なんてどうでも良くなっていた。とにかく勝ち点を取るという至上命題が達成された充足感が大きかった。
もちろん、自分の分析が活きれば嬉しい。自分の関わった選手が活躍すればもっと嬉しい。しかし、最上級生になって、チームに対する責任感を感じることが多くなって、チームの勝利自体が真に求めるものになっていた。
勝ち点を獲得した後、その日のうちに次戦の分析を始めた。我々にできるのは、次の勝ち点を目指すことだった。
続く立教戦では勝ち点を落とし、最下位脱出とはならなかった。

7回目のリーグ戦が終わってからは、春の振り返りをして夏に大学院入試の勉強をしていたら最後のリーグ戦が開幕していた。

勝ち点3を掲げたチームは、未だ1勝もできていない。
思えば、4年間で何度も心が折れそうになった。
どうしようもない大差で負けることもある。アナリスト的な見方をすれば、「効率の良い負け方だな」とか思って、次戦の分析に励むのみである。それでもさすがに負けが込むと、心理的にはきつくなる。自分の分析ではどうにもならないという無力感と、勝利の糸口が掴めない絶望感に襲われる。最上級生になって、チームの勝利が至上命題となってからは、これはいっそう深刻になった。

ここで、冒頭の質問に戻りたい。

「なぜアナリストをやっているんですか?」

野球を見る側でも楽しめるという素質と、色々な偶然、人の縁があって、僕はアナリストになった。側から見れば、給料も払われないのに(むしろ部費を払って)週に数十時間を、自分がするわけでもない競技の分析に充てるなんて、狂気の沙汰だろう。僕はアナリストという仕事を、誰かのためにやっているのではなく、紛れもなく自分のためにやっている。もちろん、自分の分析やサポートによって選手が活躍したら、これほど嬉しいことはない。一方で、自分の核にあるのは、分析をすること自体の楽しさや好奇心、神宮という大舞台でプロ予備軍のような他大学と「戦う」そして勝利を追求する感覚である。

「自分でプレーしたくならないんですか?」

もちろん、フィールドでプレーする選手を見て、こんなに野球が上手かったらなあと思うことは何度もある。
できるなら、自分でプロ注目の投手と対戦して、あわよくばホームランを打ちたい。しかし、残念ながら僕にはそのような能力はなかった。
自分にとって、分析は手段である。自分でプレーすることはできなくても、相手を研究し、どうすれば勝てるのかを考えることで、一流の選手たちとの勝負に参加できる。もちろん、分析というプロセス自体に面白さを感じていることも大きい。
もっとも、ここまで自分も神宮で「戦っている」などと大げさに書いてきたが、選手とアナリストを同列に語るつもりは毛頭ない。どれだけ分析を重ねても、実際にグラウンドでプレーし、勝敗を左右する重圧を背負うのは選手たちである。
だからこそ、実際にフィールドで戦う選手たちには、心から敬意を表したい。
それでも、分析を通して勝負に関わり、勝利を目指すことができたのは、アナリストならではの魅力である。

残るは最後の1カード。

 

ここまで僕がアナリストになった経緯や、アナリストとして考えてきたことについて色々と書いてきたが、今の自分が考えは至って単純である。
自分の分析が活きようが活きまいが、何がなんでも勝ち点を獲りたい。

 

 

—

お世話になった方への感謝の言葉を綴り、結びとしたい。

 

礫川でお世話になったコーチの方
吉田監督、慎太郎コーチ、上原コーチ、ヒデコーチ、石田コーチ、ゼットン

自分が野球をここまで続けられたのは礫川での野球があったからです。ご指導いただきありがとうございました。
ヒデコーチには引退後もお世話になっています。またご飯に連れていってくださると嬉しいです。

 

朝木監督

朝木監督との出会いがなければ、東大野球部の門を叩くことはありませんでした。
野球の技術だけではなく、社会人としての基本を叩き込んでいただきました。
校長や神奈川県高野連会長など多方面でご活躍されており、我々学生の刺激にもなっています。また筑駒東大野球部会を開催したいです。

 

ワンさん(中井アナリスト)、桜子(寺嶋/4年/アナリスト/お茶の水女子大附)へ

ぼくじんの内容が三者三様すぎて笑いました。また3人でドライブに行こう。

ワンさん

考え方が正反対だったけれど、なんやかんやそれでうまくバランスを保てていたのかなと勝手に思っています。思ったことを正直にぶつけてくれる、そしてぶつけられる存在でした。ありがとう。

桜子

色々と大変だったと思うけど、3人で卒部できてよかった。会計やシフト作成など、ありがとう。常に明るくしてくれる存在が、とてもありがたかったです。

 

先輩方(想真さん、うちこうさん、中島さん)へ

本当にお世話になりました。マネ部屋での会話は本当にかけがえのないものでした。また先輩方とご飯に行きたいです。

想真さん

AIがまだ未発達の時代にプログラミングの問題を出題していただいたり、Opensenを改修したり、一緒に偵察に行ったり、巨人戦を見に行ったりしたのが懐かしいです。ダイエット中なので機会があれば一緒にランニングしたいです。

うちこうさん

優しすぎる先輩でした。1年のオータムフレッシュで、僕が1人で試合の担当をする前日に、ガンやビデオの設定を教えていただいたのがなぜだかとても印象に残っています。先日の運動会のシンポジウムでもお世話になり、改めてうちこうさんのVRや、デザインのすごさを感じました。ノーベル賞取ってください。

中島さん

マネ部屋でのジョークや、聞いたことのないアマチュア野球の蘊蓄を垂れていた時間は最高でした。引退後にも相談に乗っていただき、本当に助かりました。中島さんと始めたWebサイトは、榎らと改修を重ね、理想に近い形になってきました。
ホンコマを世界有数のスタートアップにしてください。

 

後輩へ

 

まずは、全員にありがとうと言いたい。みんな本当に優秀で、自分が頑張らないといけないところで何度も助けられました。急に思いつきで変なことを言い始める変な先輩たちだったと思います。来年以降のことは心配していないけど、中島さんや僕の反省を頭の隅においておいてくれると嬉しいです。

3年生

仲良い世代の5人は、それぞれに強みがあるし、誰が欠けてもアナリストの業務は成立しないと思います。最上級生で組織をまとめ上げるのは大変だと思うけど、力を合わせて頑張ってほしい。

榎

webやピッチデザインで関わってきて、「自分は頭は良くない」と言っているけれど(謙遜?)めちゃくちゃ頭が切れると思います。人を巻き込む力もあるので、選手をどんどん巻き込んで、良い分析をしてほしいです。まつしん(松本慎之介/3年/投手/國學院久我山)と一緒に六大学のエースになってください。あと同期の危機のときにとても助かりました。ありがとう。

慶

慶が1年生のときに、まだ会ったこともない中でダイナマイト野球をやったのが懐かしいです。学科・コース(通称・ファ工)の後輩になってくれたのも嬉しかった。ラプソードが届いたときの少年のような眼差しは忘れられません。マニュアルまで作ってしまうような行動力・実直さがアナリストを支えていると思います。研振りもアナリスト業も頑張れ。

ひらしほ

前期で少人数班同じだったから、色々苦悩があるのを感じます。それでもこの1年は、Opensen改修やlivestream、うどんなど、ひらしほのやりたいこと(ひらしほにしかできないこと)をどんどん見つけて取り組んでいたように思います。1年後、悔いが残らないように、なにかやり切れるものを見つけられるといいと思います。

和希

まず野球の分析という点で、視野が恐ろしく広い。作戦系の分析は、和希がいなければ成り立っていなかったとさえ思います。野球以外でも他の人が気づきにくいところに気づくので、遠慮せずにもっと意見を言ってもいいのではないかと思います。最上級生として、自分を律することと、後輩に野球の分析を伝授することを頑張ってほしい。

平井

この1年間、平井がいなかったらアナリストは回っていなかった。平井自身が思っている以上に、アナリストに必要な存在です。獲得単位数からは考えられないくらい、部門責任者としてしっかりしているなと思います。平井に部門責任者を引き継いだからこそ、リーグ戦の分析を余裕を持って進められました。
ちょっかいを出してくる後輩も平井くらいしかいなかったので、多少嬉しかったです。

2年生

ビジネス不仲とかガチ不仲とか言われているけど、6人で力を合わせたら、とても良いチームになると思います。それぞれが尖っているだけに、お互いの長所を活かしつつ、短所をカバーして頑張ってほしい。

辻井

まず一緒に働いていて体力とメンタリティがすごい。自分から主体的に分析をして、人を巻き込んでいけると良いのかなと思います。後輩にもご飯を奢りましょう。

高橋(2年/アナリスト/浅野)

同期にネタにされがちだけど、自分の意見をはっきり言うところ、仕事の速さがすごい。周りを見る力がもう少しつくと、より良いのかなと思う。勉強大変だと思うけど頑張って。

鏡(2年/アナリスト/日比谷)

まず勉強熱心だし1番成長を感じる。少人数班で後輩にちゃんとアドバイスできていたし、良い先輩になれると思う。6人をまとめあげるのは大変だと思うけど頑張れ。

金澤(2年/アナリスト/大宮)

うまく人に取り入っていく能力があると思う。アナリストとして必要な能力なので自信を持ってほしい。仕事も卒なくこなす印象。体調管理だけ気をつけて頑張れ。

米林(2年/アナリスト/渋谷幕張)

ぐう有の米林君には特に言うことはありません。システム系も安心して任せられるし、佐藤さんの穴も埋められていると思う。自分が責任者になったときに、ちゃんとマネジメントできるよう頑張れ。

樫野(2年/アナリスト/並木中等教育)

2年アナリストの良心だと思う。仕事が丁寧だなと感じます。やらかしたときも誠実に謝る姿が印象的。同期にやんちゃな奴が多いだけに樫野の良心が大事だと思います。司法試験も忙しいと思うけど頑張って。

1年生

少人数班や分析で同じだった渋沢(1年/アナリスト/聖光学院)と藤生(1年/アナリスト/新宿)以外とはあんまり関わりが持てなかったけど、みんな目が輝いていて、自分が入部したときのことを思い出しました。下級生の頃は勉強やインプットが中心になると思うけど、それが上級生になったときの自分を支えるので、頑張ってほしい。

 

 

マネージャーへ

主務として頼りになりすぎる智咲紀(堂埜/4年/主務/湘南)、連盟や試合について色々と教えてくれてありがとう。ダイエット頑張ろう。ぼくじんのチェックも本当にありがとう(遅れてごめんなさい)。
マネ部屋の友達、石田(4年/マネージャー/札幌西)、キャッチボールをしたりしょうもない話をしたりと、まさに友達でした。いつもありがとう。納会野球頑張ろう。
いつもアナリストを助けてくれる後輩のマネージャー、ありがとう。
同じく04のよこりん(横田/3年/マネージャー/湘南)、合宿や日々の業務でお世話になりました。来年は大変なこともあると思うけど、頑張ってほしい。応援しています。

 

トレ班へ

トレ長のコンカツ、学生トレーナーの半谷(2年/学生トレーナー/桜台)がこの1年、本当に頑張っていたのを見てきました。あまり2人を助けられなかったけど、うちのトレ班ならきっと「野球界のフィジカルスタンダードをつくる」ことができると思う。
もしメディアの人がこれを見ていたら、ぜひとも東大野球部のトレーニング班に注目していただきたいです。

 

 

選手・学生コーチへ

ピッチデザインをしてきたえぐちょく(江口/4年/投手/海城)、前田、役に立てたかはわからないけど、神宮のマウンドに立ち続けている姿は本当に尊敬しています。えぐちょくは秋はうまくいかないことも多いけど、最後はたぶんなんとかなる。前田はあの生き生きとしたアウトカウントのジェスチャーをまた神宮で見せてほしいです。2人とも、最後に神宮で花を咲かせよう。
分析やチーム全体のこと、そしてバッティングのミーティングを重ねてきた堀部。チームがどん底にあっても、常にポジティブ、声を出し続ける堀部の姿は自分の目指すリーダー像そのものでした。アナリストを積極的に活用してくれてありがとう。堀部がヒットを打つと自分ごとのように嬉しいです。最後のカードで大暴れしてほしい。
川又、本岡(4年/学生コーチ/基町)、忙しい中毎週ミーティングやってくれてありがとう。同期じゃないけど香川(3年/学生コーチ/開成)も。学コがいたからこそ、我々も色々な分析や提案ができたと思います。
打撃長の竹山(4年/外野手/修道)、トレ長のコンカツを始めとして、お世話になった人、仲良くしてくれた人、ありがとう。最後に勝ち点1をなんとしてでも取ろう。

 

応援部の方へ

内部の人間でも、試合で大差になると、心が折れそうになることは何度もあります。そんなときに、「東大勝つぞ〜!」の声を聞くと、自分も頑張らなければ、と身が引き締まります。どんな苦境にあっても声を出し続ける応援部の方々には本当に感謝しています。

 

両親、家族へ

弁当や送り迎えなど、大学生の息子にはありえないくらい手厚くしてもらいました。感謝しています。まだスネはかじり続けるけど、普段の話くらいはちゃんと聞くようにします。

 

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明日は頼れる兄貴・石川さん(4年/内野手/灘)の登場です。守備キャラである彼ですが、そろそろ打撃開眼しそうな雰囲気を感じます。
人生経験豊富な彼がどのような野球人生を送ってきたのか、乞うご期待。

 

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次回は10/14(水)、石川晃内野手を予定しております。