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東京大学
野球部ブログ

主将 堀部 康平

『僕の野球人生』vol.13 竹山 直太朗 外野手

この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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『僕の野球人生』vol.13 竹山 直太朗 外野手(4年/修道)

江口(4年/投手/海城)から紹介を受けました、竹山直太朗です。江口といえば虫が大好きでよくカマキリを捕まえていますが、蛇を捕まえてきたときは衝撃的でした。

拙い文章ですが、ご了承ください。

 

小学校1年生の時、広島に引っ越してきて、すぐにカープファンになった。テレビで野球中継を見ているうちに、どんどん野球にはまっていった。放課後は毎日のように公園で野球をしていた。しかし、なかなか少年野球チームに入る勇気は出なかった。そんな中、野球チームに入っている友達と野球をする機会があり、ボコボコにされた。これがあまりに悔しく、家に帰ってすぐに母親に少年野球を始めることを伝えた。この出来事は僕の人生を大きく変えた転換点であり、14年前のことなのにはっきりと覚えている。

 

 

野球を始めてすぐはエラーばっかりであまり楽しくなかったが、なぜかやめることなく続けていた。5年生、6年生になるとかなり上達し、野球が楽しくてしょうがなかった。この時期が僕の野球人生で一番純粋に野球を楽しめていたと思う。勝って喜び、負けて悔しがる生粋の野球少年だった。これが中学生になると激変した。

 

 

中学では部活ではなくボーイズのチームを選択した。当時はまだプロ野球選手になりたかったので、成長できそうな環境を選んだ。監督の指導がいいという評判で選んだが、地獄のような環境だった。監督やコーチは信じられないくらい怖くて、広島の仁侠映画に出てきそうな人たちだった。「お前、ほんまぶちまわしたるけーのー」と毎日のように言われ、ノックでミスをすれば、監督の「やれ」の合図で隣の選手にビンタをされた。こんな環境での野球は嫌で嫌で仕方なかったが、めちゃくちゃ上達したし、メンタルも強くなった。今思えば、自分の人生の中で不可欠な三年間だったと思っている。ここでの野球の成長がなければ、大学まで野球を続けられていないだろうし、メンタルの成長がなければ浪人に耐えられなかったと思うので監督、コーチには本当に感謝している。(僕たちが引退したすぐ後に昭和的指導をやめ、現代的な指導に変えたと聞いたときはもっと早くそうしてくれよとは思ったが)

 

そして、中学の途中でまた人生の大きな転換点が訪れた。中学野球で本当に上手いやつとの才能の差を知り、プロ野球選手の夢を諦めた。それとほぼ同時期に東大野球部の存在を知った。東大が勝ち点を取ったとニュースになっていて、ここで野球がしたいと思った。当時は広島の進学校である修道中学でそこそこの成績をとっていたので、東大進学は不可能ではないし、勉強でトップの大学に行くのはかっこいいとも思った。そのうえ東大野球部は東京六大学というアマチュア最高峰の舞台で野球ができるので、自分の野球がどこまで行けるのか確かめることができる。そして最も惹かれたのは一勝しただけでニュースになるというところだ。もし最下位を脱出したら、もし優勝したら、まさに歴史的快挙として騒がれるだろう。そして自分の力で東大野球部の歴史を変えたいと思った。一般人が歴史を変える挑戦ができる環境なんて他にそうそうないだろう。

 

そんな思いを持ち始めたときにタイミングよく、東大野球部OBの白砂先生(H28卒)が修道に赴任してきた。白砂先生の話を聞くとやっぱり東大野球部は魅力的な環境だと思えたし、東大野球部を身近に感じながら、目指し続けることができた。これもまた自分の人生を大きく変えた出会いだったと思う。

 

 

修道高校野球部に入部した。ここではのびのびと野球ができた。ただ、練習環境としてはかなり厳しいものがあり、グラウンドが狭く、他部活との共有のためバッティング練習はティーバッティングだけ、外野ノックは定位置と前のフライだけだった。近くのグラウンドで野球部だけで練習することもあったが、そのグラウンドも右翼45m、中堅70m、左翼150mの特殊な三角形のグラウンドだったため、バッティング練習はできなかった。
そんな環境もあって、修道高校はほぼ毎年初戦敗退を繰り返していた。しかし、自分たちが三年生になるタイミングはかなりいい選手がそろっていた。188㎝、100㎏、最速138㎞/hエース和田、Cスロー2.0切りの宮地、20代の顧問の先生に戦後一番上手いショートと評された清水、守備とバントだけを極めた檜垣、ポジショニングの天才空本、身長が高ければプロ野球選手だった林、無限に全力疾走することができる天才サイドバック尚樹など修道高校ではありえないくらいの逸材がそろっていた。しかし、これだけの逸材をそろえていながら、県大会では一勝もできなかった。くじ運が悪かったのはあるが(夏の初戦で対戦した投手は今ではドラ1候補筆頭になっているし)、それでももっとやれることがあったのではないかという後悔が今でもある。自分は副キャプテンだったのに自分のことしか考えてなかった。もっとチームが強くなるためにはどうするかを考えるべきだったし、その辺をキャプテンの宮地に任せすぎてしまった。本当に申し訳なく思っている。

 

こうして高校野球を終え、現役での東大受験は不合格となり、浪人した。浪人中も東大野球部への憧れは消えず、BIG6TVでの試合配信を見て、ますます強くなっていった。東大に入って背番号1をつけて、3割打って、ベストナインとって、同期にはスーパーピッチャー、スーパーキャッチャーがいて、優勝する。そんな夢物語を描きながら毎日過ごしていた。

 

東大に合格し、入学後すぐに野球部に入部した。1年生からリーグ戦に出場してやろうと意気込んでいたが、そう上手くはいかなかった。同期がオープン戦で続々とヒットを打っていく中、自分は全く打てなかった。最終的に大学でヒットを一本も打ってない唯一の選手になってしまった。この期間は、野球部を辞めようかとも思ったが、やっぱりリーグ戦には出たいし、こんな状況でも俺ならできると信じている自分がいて、あきらめきれなかった。そして、8月か9月の一橋大学戦で大学初ヒットを打った。オープン戦初ヒットを覚えているのは僕くらいしかいないだろう。
それ以降はそこそこヒットを打っていった。しかし、Aチームには程遠かった。
どうやったらAチームに上がれるのかわからなかったが、伊藤(4年/外野手/県立千葉)がフレッシュでのブレイクでAチームに上がったのを見て、このくらいのインパクトを残せばいいのかと分かった。
 
その後、オータムフレッシュにケガの臼井さん(R8卒)の代替選手として連れて行ってもらえることになった。絶対ここでブレイクしてやるんだと意気込んで臨んだ。試合前日の宿舎の前で伊藤と「明日絶対ブレイクしよう」と言い合いながら、素振りしたのを覚えている。(伊藤はそのときすでにブレイクしていたのに)
素振りの甲斐あってか、翌日の試合で走者一掃タイムリースリーベースを打つことができた。このヒットが監督にインパクトを残したらしく、その後すぐにAチームに昇格できた。

二年生になった。春先から調子は良かったが、特に夏は絶好調で、ヒットを打ち続け、秋のリーグ戦でベンチ入りすることができた。代打で出場しヒットを打つこともできた。法政戦ではスタメンに抜擢された。その試合で東大はサヨナラ勝ちした。僕はノーヒットでバントしかできなかったが、それでも自分が長年憧れてきた東大野球部の勝利の貢献できたことはとてもうれしかった。
続く第三戦もスタメンだった。しかし特に何もできず、途中で代えられてしまった。ずっと目指してきた勝ち点獲得のチャンスなのに、何もできないことが悔しくてしょうがなかった。この悔しさは二度と味わいたくないと思った。

 

苦しいことや辛いこともあったが、ここまではだいぶ順調な大学野球人生だった。この勢いのまま三年になったらスタメン定着しようと考えていた。ただ、1年から4年までずっと順風満帆な野球人生を送れる選手は少ないということを過去のぼくじんを読んできて知っていたので、このままうまくいくとは限らないかもという不安はあった。

 

杉浦さん(R8卒)の代になった。この世代は最強世代と言われていたし、自分もそう思っていた。だから、この代で野球ができるのが楽しみでしょうがなかった。スーパーピッチャーの渡辺さん(R8卒)がいて、スーパーキャッチャーの杉浦さんがいて、ベストナイントリオがいる。東大野球部の歴史を変えられる世代だと思った。そして、なんとしても自分がその力になりたいと思い、今年で引退するくらいの覚悟で必死に練習した。
 
しかしそれが報われることはなかった。
 
春のリーグ戦も結局代打での出場しかなく、無安打に終わった。秋こそはと思い、さらに練習をするが、8月の七大戦くらいから全くヒットが打てなくなってしまった。このままじゃまずいと焦って練習しても不調を抜け出せる気配もなかった。
そのまま秋のリーグ戦を迎え、僕はスタンドで応援していた。結局、最終戦もスタンドにいた。最終戦に敗れ、校歌を歌っているときに悔しさと申し訳なさで涙が止まらなかった。お世話になった先輩たちの何の力にもなれなかったこと。その先輩たちが引退するのをただスタンドで見ることしかできなかったこと。これまで感じたことのない感情に押しつぶされていた。その日の夜に寮の屋上ですぐるさん(R8卒)と榎本さん(R8卒)と話した。二人の話は4年間きつかったという内容が多かったが、どこか清々しい表情だった。そこで「お前はとにかく来年頑張ってくれ」と言われ少し前を向けた気がする。

 

僕たちの代になった。背番号1を希望した。昔からずっとつけたいと思っていたが、三年までに成績を残せなかったのであきらめるつもりだった。しかし、背番号1に強い希望を持っていたのは僕ぐらいで、伊藤も明石(4年/捕手/渋谷幕張)もつけたいとは思っていなかった。強い思いのない選手がつけるくらいなら僕がつけたい、自分がすぐるさんの背番号を受け継ぎたい、そう考えた。背番号1に見合うような成績を残していないことはわかっていたが、結果はつけてから出せばいい、自分ならそれができる。そう考えていた。
 
しかし、結局何も変わらなかった。
 
4年春のリーグ戦もスタンドで迎えていた。
ただ、3年秋とは違うところが一つだけあった。一試合スタメンで出たことだ。シートBTでホームランを打ったことを評価され、スタンドから一気にスタメンへと昇格した。何が何でもこのチャンスをつかむ、絶対ブレイクしてやると尋常じゃない気合の入り方で試合に臨んだが、野球人生最悪の二打席だった。二打席目の三球見逃し三振は野球人生の終わりを感じる打席だった。この打席で交代となり、翌日からスタンドへと帰っていった。ベンチを経由せず、スタンドからスタメン、スタメンからスタンドになるのは僕くらいしかいないだろうと思う。
 
結局一度チャンスをつかみ損ねた男にもう一度チャンスが来るはずもなく、スタンドで法政戦を見ていた。勝ち点を取った瞬間はやっぱりうれしかった。ただ、悔しさを感じる自分もいた。
東大野球部の歴史を塗り替えたいという夢を追いかけて入部し、今、目の前で歴史を塗り替えようとしている。でもそこに自分の姿はない。
「またこれか」
三年の時もそうだ、自分の夢を叶えるチャンスが目の前にあるのにあと一歩届かない。東大野球部でこれだけの戦力がそろっている世代に入学できるという幸運をつかんだのに実力が足りない。情けない。

 

 

春リーグが終わり、僕はBチームへの降格が決まった。そこでも苦しんだ。全く打てなかった。合宿前に守備走塁での起用が中心になることが告げられた。そこから足を速くするために、高速スキップをしたり、根津の坂を走ったりしたが、野球をしている気がしなかった。ただチームの力になるには走るしかなかったので走り続けた。
 
最後のリーグ戦が始まった。
 
リーグ戦前の朝のシートBTでも打席をもらえなくなり、もうバッターとしては完全に構想外なんだなと思っていた。しょうがないなと思ったし、もう自分に期待することもなくなっていた。ただフリーBTは入れてもらえるので、フルスイングでホームランを狙ってみたりした。練習で監督にインパクトを残そうという最後の健気な悪あがきだった。
 
このアピールが功を奏したのか、空き週のオープン戦で代走の予定だったのになぜか突然代打での出場になった。野球人生最後の打席になる可能性が十二分にあったのでフルスイングすることだけ決めていたら、完璧な当たりのホームランになった。ホームに帰ってみんなが祝福してくれた。試合中だったから我慢したけど、サヨナラホームランだったら号泣してたと思う。
 
野球の神様と大久保監督がくれた最後のチャンスだと思って、最後にもう一度自分に期待してみようと思う。

 

 

 

 

監督、助監督
毎回毎回、期待に沿えなくて申し訳ありません。大久保監督は僕を見出してくれた人だと思っているので、何とか恩返しできるようにあと少し頑張ります。

 

すぐるさんへ
すぐるさんには一番お世話になりました。一年の時から同じ少人数班で数えきれないくらいアドバイスをいただき、僕の目指すべき指針になっていました。結果が出ても出なくても必死に努力し続け、プレーする姿は憧れでした。すぐるさんの背番号をもらい、憧れを追いかけましたが、なかなか届きそうもないです。ごめんなさい。
また馬刺し行きましょう。

 

榎本さん、工藤さん(R8卒)へ
お二人とは門田(4年/副将/内野手/松山東)とともに生活した真駒内での思い出が特に記憶に残っています。チーム真駒内の暮らしは非常に楽しく、愉快でした。北海道でいろんなものをごちそうしてくれて、ありがたかったです。
ただ真駒内以降ずっと不調です。真駒内で原因となる何かがあったのかもしれません。
嘘です。今度チーム真駒内でご飯行きましょう。

 

堀部(4年/主将/内野手/県立船橋)へ
キャプテンしてくれてありがとう。このチームは堀部がキャプテンじゃなかったら勝てなかったと思います。それくらい堀部の求心力とマネジメント力はずば抜けています。めちゃくちゃ大変だと思うけど、あと少し一緒に戦おう。

 

川又(4年/学生コーチ/渋谷教育学園渋谷)へ
いつもありがとう。部門長で関わる機会も多いので川又の大変さも少しはわかっているつもりです。何か無理してるのも伝わってきます。背負いすぎず、川又らしく頑張って。川又がチーフ学コでよかったです。ありがとう。

 

本岡(4年/学生コーチ/基町)へ
本岡とは同郷だったし、野球への思いの強さを知っていたので、学コになると聞いたときは僕もショックだったし、選手であってほしいと思っていました。ただ本岡の学コとしての働きを見て、本岡学生コーチはチームに必要不可欠だったと思います。本岡の働きはチームの勝利に直結しています。たぶん誰よりもWAR高いです。4年生はみんな本岡の頑張りに応えるために戦っています。本当にありがとう。

 

土ヶ端(3年/学生コーチ/城北)へ
Bチームの時はお世話になりました。いつ見ても、てぃーけさーんとハイテンションで呼んでくれるか、バクと言って捕食してくるので元気が出ました。ありがとう。

 

大山(3年/捕手/ラ・サール)へ
風呂で会ったとき、いつも励ましてくれてありがとう。大山なら来年さらに強いチームを作れると思います。頑張れ。逆に励ましてほしいことがあったら、いつでも相談してね。あんまり得意じゃないけど励まします。

 

少人数班員へ

慶斗(荒井慶斗/3年/外野手/宇都宮)へ
本当にケガだけ気を付けて。ケガさえなければ5本塁打5盗塁のファイブファイブ達成できるはず。来年慶斗がどんな選手になっているのか今から楽しみです。あとは来年の打撃長よろしく。大変だと思うけど、相談があったらいつでも連絡してね。

 

小島(2年/外野手/宇都宮)へ
課題は守備だけだから、それだけ頑張ろう。俺も守備は苦手だったけど4年間である程度改善したし、絶対上達するから粘り強く頑張ろう。バッティングは天才的だから問題ないはず。

 

加藤(2年/外野手/早稲田)へ
たくさん努力しているのをみんな知っています。結果が出なかったり、なかなか首脳陣に認めてもらえなかったりするかもしれないけど、負けないで。心が折れなければ加藤はきっと大丈夫。

 

大石(1年/外野手/ラ・サール)へ
一年生は人数が多いから今はチャンスが少ないかもしれないけど、絶対いつか来るから。そのチャンスをものにする準備を今のうちにしておこう。

 

少人数班員全員がリーグ戦で活躍するのが楽しみです。

 

両親へ
なんでも不自由なくやらせてくれてありがとう。二人の支えがなかったら、東大に入れてないし、ここまで野球を続けることもできなかったと思います。もっと神宮で活躍するところを見せたかったけど、なかなかできないまま、ここまで来てしまいました。最後にちょっとでも活躍するところを見せられるように頑張ります。

 

チームのみんなへ
絶対勝ち点3取ろう!!

 

次回は垣田(4年/投手/高卒認定試験)です。高等学校卒業程度認定試験卒の彼の人生を知れるのが楽しみで仕方ありません。皆さんもお楽しみに。

 

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次回は10/1(木)、垣田聖弥投手を予定しております。