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『僕の野球人生』第2回 平山皓太投手

『僕の野球人生』第2回

平山 皓太 投手 (4年/栄光学園)

平山(加工済)

僕の野球人生は父との週末のキャッチボールから始まりました。小学校入学前後だったと思います。父は必ずキャッチボールの後、バッティングセンターにも連れて行ってくれました。しかし、父の視力悪化とバッティングセンターの移転により、僕は気付けば野球をやめて水泳に熱中していました。

栄光学園中学に入り、水泳部がないので迷わず野球部に入りました。中学時代は同期が30人いて、皆野球に熱い仲間でした。休日もどこかに集まり野球していました。

そして栄光学園高校野球部に進み、辻居さん(R2卒)や伊津野さん(外野手/4年)、小林さん(瑶平/R2卒)、などと混ざり野球をしました。当時の栄光学園軟式野球部は本気で全国制覇を目標としていました。練習量や、質は中学の頃と比べ物になりませんでした。そこで自分はやる気が空回りし、何度か怪我に悩まされました。特に高1の秋に肩のインピンジメントで投げられなくなって、辻居さんの代で迷惑をたくさんかけてしまったのは苦い思い出です。またこの怪我の影響でサードからの送球が不安定になり、高校3年時に外野に転向しました。3年時は吉田(マネージャー/3年)がキャプテン、自分が副キャプテンでした。それまで以上に気合を入れて迎えた秋の大会、関東大会目前で敗退。悔しい思いから、何度もチームメイトとぶつかりました。そんなチームもなんとかまとまりながら迎えた夏の大会でしたが、春大会でも敗れた横浜隼人にサヨナラ負け、最後は自分の守るセンター前にボールが落ちて試合が終わりました。自分の高校野球はこうしてあっけなく終わりを迎えてしまいました。

悔しさがまだ残る8月下旬、辻居さんから自分と吉田にご飯のお誘いをいただきました。「お前らなら東大野球部で勝負できるかもしれない」辻居さんの言葉に鼓舞され、僕は東大野球部を目指すこととなりました。

なんとか入試を突破し、入部した東大野球部は自分の想像を超えるレベルの高さでした。当初、外野には岡(外野手/4年)、武隈(外野手/4年)、笠原(内野手/4年)、梅山(外野手/4年)、宇佐美(外野手/4年)、土井(外野手/4年)、須川(学生コーチ/4年)、などの実力ある同期がいました。なんとか練習に食らいつき、練習試合にも度々出してもらいましたが結果は全く出せませんでした。そんな中、僕と野村(投手/4年)が浜田前監督に呼ばれたのは1年秋のリーグ戦中でした。

「ピッチャーをやってみないか。」

驚きで頭が真っ白になりましたが、無意識に、やります、と返事していました。無論自分は投手など今までしたことがなく、神宮で他大を相手に抑えることなど全く想像できませんでしたが、自分が生き残るためには投手をやるしかありませんでした。

そこからはとにかく必死でした。色々な野球本を読んでは試行錯誤する日々が続きました。しかし、結果はなかなか出ず焦りました。

そんな中あっという間に後輩が入部してきました。その中に自分と共に高校野球部で切磋琢磨した吉田洸の姿もありました。「いつか一緒に神宮でプレーしよう」吉田と僕は高校の頃の雪辱を果たすべく約束しました。

そんな吉田がマネージャーになることを聞いたのはその年の10月の終わり頃でした。野球部ではマネージャーのいない代は選手からマネージャーを出すことになっています。吉田の代はマネージャーがいなかったため、誰かが選手をやめてマネージャーをやらなければならなかったのです。そして責任感が人一番強い吉田が立候補する旨を僕に伝えたのでした。彼の決意を固めた表情に僕は心を打たれました。吉田のような裏方のおかげでチームは成り立っている、一選手であるからにはプレーでチームに貢献する義務があるのだと改めて肝に命じました。

しかし2年の秋リーグもベンチ入りできないまま終わってしまいました。

このままじゃダメだ、と本気で思いました。フレッシュリーグに出ても結果を出せず、球速も遅く、それでいて肘肩をよく痛める自分は東大野球部の部員としてなんの役割が果たせるのだろうか、自分は中途半端にプレーヤーを続けていいのか、考えてもなかなか答えが出ず、葛藤しました。

そんな中、辻居さんと、宮村さん(H31卒)、有坂さん(H31卒)に相談する機会があり、悩みを相談しました。そこで先輩方に「必ずもう一度はチャンスが来るから、それまで頑張ってそこで決めればいい。お前が頑張ってるのは知ってるから。」と言われ、様々な感情が交錯し気づいたら涙が止まらなくなっていました。忘れられない夜です。

“3年春までに選手として貢献できる見込みがなければ選手をやめる“と決めると悩んでいた心も軽くなりました。

春までは全ての登板でミスが許されない状況でしたが、なんとかオープン戦で結果を残し、3年春はベンチ入りすることができました。

しかし試合ではかなり打ち込まれてしまい、勝利には全く貢献できませんでした。悔しさで練習量も日に日に増えました。そしてついに疲労がピークを迎えたのか、春季リーグ戦対慶大戦第2戦、下山(慶應義塾大学/2年)にボールを放った瞬間、「パキ」という音とともに膝に激痛が走りました。その後病院で受けた診断は右足の半月板損傷でした。

やっと掴み取ったチャンスがまた遠くへ行ってしまった絶望感が自分を襲いました。ただ、この悔しさは必ず神宮で返す、という強い気持ちも同時に芽生えていました。

秋まで痛みが改善されず思うようにプレーできなかったために、手術することを選択しました。手術すると復帰まで半年かかることが知られているため、4年春のリーグ戦までギリギリというタイミングでした。

手術は無事成功し、長いリハビリ生活が始まりました。わかってはいても全体練習に混ざれない焦りを常に感じていましたが、自分にできることは、今やれることを淡々とやるだけでした。こうしてちょっとずつ、ちょっとずつ地道にトレーニングの強度を上げていき、福岡合宿で自分の最高球速を更新して抑えた時はとてつもない達成感を感じました。こうして春季リーグ戦前には確かな手応えを感じていました。

この後コロナの影響で少し期間が空いて、たくさんの人の支えがあって春のリーグ戦が実現しました。迎えた開幕戦。チームは終盤に逆転し9回表の時点で、4-3で勝っていました。「ここを抑えれば勝てる」自分の出せるものを全部出すつもりで9回裏のマウンドに行きました。しかし、腕が全く振れず、気付いたら自分のミスが原因でサヨナラ負けしていました。

屈辱でした。勝利を目指して毎日全員暑い中練習してきて、マネージャーも様々な仕事をして支えてくれて、学生コーチは練習の補助をしてくれている。自分はそんな中、本当に何しているんだ、と自責の念が募りました。

東大野球部の4年間を振り返って嬉しかったことはほとんどありません。ほとんどが悔しくて不甲斐なくて自分が情けない、挫折ばかりでした。何度も自分の実力不足を突きつけられて無力な自分が虚しく、また試合を壊すのではないか、と怯える自分が常にどこかにいました。

それでも、「お前ならもっと抑えられるはずだ」「下向くな」と言ってくれるチームメイトがいました。自分はこれらの言葉に幾度となく救われてきました。そして実力では申し分のない他大から勝利する事を目標とする東大野球部において、くよくよしている時間が一番無駄で、勿体無いこと、仲間が身を以て実感させてくれました。

今までのような屈辱的な思いは2度と味わいたくない、という強い思いを持って臨んだ秋のリーグ戦ですが、チームとしては4連敗、個人としても全く貢献できず悔しい思いでいます。

思えば自分は本当に沢山の人に支えられて今まで野球を続けることができました。

まず自分を指導してくださった監督、助監督、外部コーチの皆様。どんなに劣勢でも声を枯らして応援してくれた応援部、ファンの方々。自分の体を治してくださったトレーナー、整形外科の先生方。丁寧に体のことを指導してくださったジムの方々。最高の仲間である中学高校同期。特に吉田、本当に今まで有難う。

弱い自分を何度も鼓舞してくださった辻居さん、小林さん、伊津野さん、栄光学園、東大野球部の先輩方。そして4年間ずっと一緒に勝ちを目指している同期、後輩、練習メニューを考えサポートしてくれた学生コーチ、自分たちが野球に集中できるよう、マネジメントに徹してくれたマネージャー。最後に自分を野球に導き、思う存分やらせてくれた両親。

ここには書ききれないほどの人にお世話になりました。

野球を通して自分がいかに恵まれていたか実感することができました。本当に有難うございました。感謝の気持ちで一杯です。

 

ただこのままでは悔しさが残って野球人生を終えてしまいます。

最後くらいこの最高のチームの力になりたい。

とにかく勝ちたい。

 

残り3カード、絶対勝とう。

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次回は10/7(水)、松田投手を予定しております。

お楽しみに!