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『僕の野球人生』第10回 梅山遼太外野手

『僕の野球人生』第10回

梅山 遼太 外野手(4年/四日市)

済

小学生編
小学3年生の7月に野球を始めました。それまで野球というものはあまり知らなくて、当時仲の良かった友達に誘われて小学校の野球チームの見学に行って、なんだか楽しそうと思ったから始めることにしました。僕が野球を始めたいと言い出した時、両親はなんで野球?と驚いたそうです。それまで周りに野球をしていた人は特にいなくて、父親も祖父も巨人ファンでしたが、野球はやるものじゃなく見るものだと言っていたそうです。笑 しかしやりたいと言ったらやらせてくれました。

そうして始まった僕の野球人生でしたが、確か秋くらいにはもうやめたいと思っていました。率直に言ってあまり楽しくなかったような気がします。野球やめたいと父親に漏らしたとき、一度始めたのだからもう少し頑張ってみなと励まされ、続けてみることにしました。

些細な話だけれど自分がよく記憶しているエピソードが2つあって、1つ目は監督とのやり取りです。確か3年生の冬頃に、足が速いので面白いと言われて右打ちから左打ちに転向しました。しかし僕は一向に素振りをしないので、左打ちが全然上達しませんでした(当然です)。それで4年生の春ごろになって、監督の目の前で素振りを100回だかやらされたら、手にマメができました。ちゃんとしたマメができたのが初めてだったので、手を見つめていたら、監督に「今さらマメができたくらいで驚くなよ」と言われました。それで僕はカーっと恥ずかしくなりました。周りが当たり前のようにしていたことをしていなかったこと、それが人にバレてしまったことが恥ずかしくて仕方がなかったです。それでというわけでもありませんが、時々さぼりながらも素振りをするようになり、6年生になる頃には毎日300回とかノルマを決めてちゃんとするようになりました。

2つ目は何年生の時だったか、僕には2つ下の弟がいて僕と同じタイミングで一緒に始めたのですが、家族で旅行に行ったとき、ちょうど甲子園をやっていたので、帰りに寄り道して見て行こうということになったんですね。というか、確か父が見たいか?と僕と弟に聞いて、うんと言ったので連れて行ってもらったんです。それで外野席に行ったのですが、本当に暑くてしょうがなくて、僕と弟は暑い暑いと言ってほとんど試合を見ていませんでした。かち割り氷ばかりに集中していました。それで父は見かねて、「もう帰るか」と言ってさっさと車の方へ行ってしまいました。少し怒っていました。自分たちが見たいと言ったのに試合には全然興味がなさそうなのだから、当然です。僕はやってしまったと思うと同時に、少しショックでした。甲子園なんて野球少年にとっては最高の舞台なのに、自分はあんまり興味が沸かなかったのか、と思いました。

ほかの同期の野球人生を読んでいて、小学生の頃は野球が楽しくて仕方がなかった、ということを書いている人がほとんどだったのですが、自分はそうではなかったのかなーと思います。何となく始めた野球で、仲間ができて、教えてくれるチームメイトの親御さんや大人の方々にも大いに面倒を見て頂いて、ようやく野球部というものが楽しいと思えたので、何とか続けてこられました。まさかこんな自分が大学生まで野球をやるとは思ってもいませんでしたが、それは本当に周囲に恵まれてきたのでしょう。

話を戻しますと、そうしてぬるりと始まった僕の野球人生でしたが、チームメイトと仲良くなるにつれ、仲間に認められたいという気持ちやこのチームで活躍したいという思いが芽生えてきました。父親やチームメイトや親御さん方がめちゃくちゃ練習に付き合ってくれたおかげで、小学校6年生の最後には市の選抜に行かせてもらいました。そうして少し上のステージを経験させていただいたことは自分にとって大きな経験となり、自信となりました。選抜では多くの同世代と知り合い、中学ではライバルとして戦ったり、高校では同期になったり、また選抜の監督にはその後もお世話になりました。その監督の「出会いに感謝」という言葉、野球を通じて得た多くの出会いは、今でも僕が野球を続けてきてよかったと思える大きな理由です。

中学生編
小学校だけでかなりのボリュームになってしまいましたが、中学はサラッと行きます。中学校に上がって、同じく学校の軟式野球部に入部しました。小学校の時に真面目だった反動で、中学校ではかなり適当になりました。今思うと完全に中二病です。小学校の時に飛びぬけて上手かった同期が硬式のクラブチームに行った以外は全員が入部してプラス数人という感じだったので、非常に仲の良いチームでした。仲の良いチームだったのですが、かえって行き過ぎて馴れ合いになってしまうことも多々ありました。練習は顧問の先生がいる時だけ真面目でしたし、練習帰りに寄り道して遊ぶ時間の方が圧倒的に長かったと思います。しかし野球が好きな人が多くてなんだかんだ強かったので、大会では市で優勝等も経験しました。

部活動以外にも、夜に地元の野球塾に通ったり、バッティングセンターに行ったり、引退後には硬式に慣れるための野球塾に通ったりしましたが、この時も送り迎え等両親には散々付き合ってもらったことをよく覚えています。

高校生編
小中の7年間を経て、野球はもはや自分のアイデンティティの一部になっていました。それから、これも自分だけが強く覚えているエピソードだと思うのですが、小学校の時に卒業証書を取りに行くときに将来の夢を言うみたいなものがあって、他の同期は全員プロ野球選手になると言ったところを僕だけは甲子園に行く、と言いました。少し斜に構えたところのある小学生だったので、現実的に無理だろうと思ってプロになるとは言いたくなかったのです。本当に可愛げがないですね。しかしそのイベントは大勢の友達や大人の前で宣言したみたいなものだったので、その時にそう言ったことは自分の中に強く残っていて、高校では本当に甲子園に行きたいと思っていました。そうして高校は県で一番の進学校で、文武両道を掲げて野球部も熱心に活動している四日市高校に進学しました。

野球に勉強に忙しい日々はあっという間に過ぎていき、なんやかんやあって迎えた3年生の春、階段を踏み外したというしょうもない理由で足首の靭帯を痛め、全治3か月と言われました。ちょうど引退までの期間です。その時の感情はよく覚えていませんが、悔しい、情けない、申し訳ない、色々あってとにかく泣けてきました。しかし切り替えは早い性格だったので、悔やんでいても仕方ないし今できることをやろうと次の日からはリハビリに専念しました。ここでも両親や同期には本当にお世話になったし、周りには感謝しかないです。そうして迎えた大会当日、僕は背番号8をつけて先発で出場することが叶い、試合に勝って整列して見上げたスタンドの景色には、言葉で表すことができないくらい感動しました。

ここで4割とか打っていればもうそのまま僕の野球人生は終わったと思うのですが、こうまでしてもらったのに最後の大会で僕は11打数1安打でした(記録はヒットだけど実質エラー)。自分の人生に悔いは残したくなかったので、せっかく東大を目指すならと六大学野球の世界に足を踏み入れる決心をしました。

大学編
さてようやく大学編ですが、みんなが書いているように大学4年間を時系列順に上手く書くことができる自信がないです。まとまりが無くなってしまうと思うのですが、4年間を振り返って思うことなど箇条書きっぽく語らせてください。

まず、スポーツとしての野球の面白さを知りました。小学生編でも書きましたが、僕はこれまで野球自体を面白いと思っているようで、その実自分が好きなものがあまりわかっていませんでした。野球部の人間や、部活動を通して得られる達成感、そういったものが好きで野球を続けていたのかなーと思います。そしてそれは、野球というスポーツのゲーム性を理解していないということに他なりませんでした。これまで僕がやってきた野球は全てフィーリングの世界での出来事でした。東大野球部に入部して、周囲の人間や中西前助監督の話を聞いて、少しずつ野球のゲーム性を理解しました。それまでの僕は、例えばノーアウト1塁ではヒットなどが絡まなければ点が入らないということを知りませんでした。今でもまだまだですが、少なくとも次に甲子園に行った時には、一球一球の勝負に熱くなれるくらいには野球がわかってきました。野球は面白いスポーツです。

また、自分は未熟だなと感じます。上で述べたような野球についての理解や、野球そのものの技術に関してもそうですが、色々な考え方や行動においてもまだまだ子供です。東大野球部に入部して、様々なすごい人間に出会いました。普通の人にはできないような努力を重ねながらそれを努力とも思っていないような人、自分の才能を惜しむことなく他人のために使う人、自然と周囲の人間が見えている人、この野球部で出会った方々は本当に尊敬できる方々ばかりです。周囲と比較してほんの少しばかり能力があったために、高校までの自分は少し思い上がっていたところがありました。しかし一歩引いて見れば、そうした能力だって周囲の環境のおかげなのです。この野球部にはそのことをわかっていて、謙虚に真摯に振る舞う人がたくさんいます。本当に良い仲間に巡り合えたなと思います。

はじめ入部して、大学野球は自分にとってはボーナスステージだと思いました。神宮球場は素晴らしい舞台です。僕が中学生の時、僕のいた小学校の野球チームが全国大会に出場し、キャプテンだった弟を応援するために神宮球場へ来たことがあります。その時はロッカールームの裏までしか入ることができませんでした。グラウンドに立つ弟や後輩たちを見て、さすがに羨ましいと思わずにはいられませんでした。そんな舞台で野球をやらせてもらえるなんて、自分にとってはそれだけで感無量でした。しかし出場機会に恵まれるにつれ、それだけでは無くなっていきました。六大学野球のレベルは本当に高い。それでも勝てないのはやっぱり悔しい。3年秋の最終節に接戦で法政大学に敗れたあの試合は、帰りのロッカールームでは全員が目頭を赤くしていたし、あの時のことを思い出すと今でも泣きそうになるくらい悔しい試合でした。なんでこんなにも勝てないのか意味わかんないと悔しい通り越してちょっと腹が立ちました。4年生になって、最後、今はとにかく勝ちたいという思いしかありません。

・・・・

長くなってしまいましたが、僕の野球人生の振り返りはここまでです。駄文にお付き合いくださりありがとうございました。最後に感謝の言葉を書かせてください。

まずは両親へ。これまでずっとお世話になりました。僕の野球を誰よりも近くで見守り続け、誰よりも応援してくれました。僕のやりたいことは大体何でもやらせてくれて、そして全力でサポートしてくれました。2人のことは本当に尊敬していますし、いつか子供ができたら同じように接してあげたいと思います。とにかく頭が上がらないです。本当にありがとうございました。

小中の同期、それから高校の同期へ。とても濃密な時間でした。もらった言葉はたくさん覚えています。一緒に野球ができて良かった。ありがとうございました。

応援部の皆さんへ。いつもお世話になっています。神宮で苦しくて下を向いてしまいそうなとき、皆さんの声には本当に助けられます。ありがとうございます。

その他これまでの野球人生で、本当にたくさんの方々にお世話になりました。おかげさまで13年も野球をやってこられました。ありがとうございました。

最後に大学のチームメイトへ。最初は雰囲気が合わなすぎてやめたろうかとか思ったりもしましたが、今ではみんな尊敬していますし大好きです。どちらかというと迷惑かけっぱなしでこの野球部に寄与できていることの方が少ないと思うのですが、本当に色々お世話になりました。ありがとうございます。あと2カード勝って笑って終わりましょう。

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次回は10/19(月)、武隈外野手を予定しております。

お楽しみに!